「う……くぅ」

「…………」

「な、なあ……北原……」

「なんだ」

「もう勘弁してくれよ……」

「だめだ」

「あれから何時間やってるかわかってるのか?」

「まだいけるだろ」

「もう寝かせてくれよ……」

「だめって言ってるだろ」

「……北原ぁ」

「……」

「あたし……あたし……こんなの初めてだよ……」

「年相応らしくていいじゃないか」

「こんなに勉強したの、生まれて初めてだよ……」

 いつもの第二音楽室の一郭で、机にぐったりと倒れる冬馬。しかしピアノを弾いているときの楽しそうな顔は陰をひそめ、ただただ陰鬱で鬱屈な日常に参っているようだ。

 十二月に、なった。

 街はいよいよ街路樹の葉を落とし、その代わり、駅前には特定の日のための大樹が突然生え、全体で冬という季節を主張するようになった。

 学園生活最後の煌めきだった学園祭も終わり、俺たち三年は、残る灰色だけの四ヶ月に、思いを馳せざるを得なくなる。

 とはいえ、上に大学のある付属校の強みか弱みか、すでにかなりの学生の進路は決まっているから、本物の灰色は半分以下。

 その中でも、他の大学に推薦の決まった強者や負け組、就職を決めた社会人組を除くと、残るは三桁を切る。

 これは、そのマイノリティに選ばれてしまった人間の、熱く、そして絶望的な戦いの日々……。

「すぅ……」

「そのまま寝るな。まだ一問も解いてないぞ」

 蚊も潰せないほど軽く冬馬の頭をノートで叩く。

「ったぁ……女の頭を殴るなんて、どこまで時代に乗り遅れた団塊世代だ」

「せめて考えるふりくらいしてくれ」

「この陽気が悪いんだ。窓越しに伝わる暖かい太陽の光が、頭から人の思考を根こそぎ奪っていく」

「じゃあ、また最初からおさらいするぞ。……お前が今勉強しようとしている教科は何だ?」

 文字通り、絶望的な戦いの日々。

……主に教える方にとって。

…………

 改めて……十二月に、なった。

 かねてからの予告通り、三日後から期末試験を控え、学園最後の日々は、微妙に嫌な方向で慌ただしさを増していく。

「地理ってつまらないな」

 形のいい唇を尖らせて冬馬が言う。

「ならどうして選択した?」

「歴史関係と比べて、覚えること少なそうだったから。……結局、何も覚えてないから関係なかったけど」

「……言いたくないが、その選択は正解だった。いいか、追試に使うエネルギーを少しでも他に回すため、意地でもこいつは本試験で取りに行くぞ」

「試験前から追試前提なのか……」

「全教科やってる時間なんてあるわけないだろ。もちろん居眠りしてる時間があるなんて思うな」

「……やっぱ学校やめようかなぁ」

「確かにお前ん家の財力ならニートの一人くらい余裕だろうけど、俺はそんな、事情もない社会弱者を生み出すつもりはないぞ」

「なんて言い草だ。あたしの恋人ならもっとあたしのことを考えてくれよ。恋人らしいことしてくれよ」

「っ……。恋人だから言いたいこと言ってるわけ。ほら、問一」

「うぅ……」

 しつこいけど……十二月に、なった。

 冬馬と俺がつきあい始めて、二週間が、経っていた。

「お前は粘着だ。屑だ。女の苦しむ顔を見て悦ぶ真性の××野郎だ」

 一矢報いるとばかりに放つ冬馬の罵詈雑言もどこか覇気がない。これじゃあ矢どころか竹串がいいところだ。

「言っておくが、俺が『もう勝手にしろ』って放り出すかと思ったら大間違いだぞ。逆に、怒ってノルマを増やす可能性が高い」

「それが脅し文句じゃないのが本当にタチ悪い」


…………


「少し休憩しようか」

「それは俺が言う台詞であってお前が言う台詞じゃない」

 十分に一回はやってる変わらないやり取り。さすがの俺ももう飽き飽きしてきた。

 しかし冬馬の方はとっくに飽き飽きしているようで、

「すぐ近くにピアノがあるってのに弾けないなんて、ニンジンを目の前にぶら下げられて走る馬の気分だ」

「冬馬だけにか」

「……お前のギャグセンスは本当に団塊世代のおっさん並だな。だからギターも上手くならないんだ」

「関係ないだろ、それ」

「いいや関係あるね。だからお前は人よりもっと練習しなくちゃいけないんだ。今度はあたしが教えてやるからさ。今までしごかれた分きっちり返してやるよ」

「下校時刻十分前からって約束だろ」

「……けち」

「さすがに峰城大を目指せなんて菅原道真が大笑いするようなことは言わない。だけどせめて卒業はしようぜ。冬馬は『仰げば尊し』歌いたくないのか?」

「別に歌には興味ないし、そんな遠い未来の話されてもピンとこない」

「三ヶ月後はそう遠くもないだろ」

「そう……そうだよ。だからモチベーションが上がらないんだ」

 冬馬がこの世の真理を悟ったかのように顔をあげる。

「あたしは好きなことなら全力で頑張れるんだ。楽しみながらやりたいんだ。明確な何かがないと気力がわかないんだ。今から頑張ったって峰城大に行けるわけでもないし。だから今みたいに、ただ惰性でだらだら非効率に作業するだけになってしまうんだ」

「お前、自分で言ってて悲しくならないか?」

 自分でダメ人間だって言ってるようなものじゃないか……。

 でもまあ、冬馬が言わんとしていることは理解した。

「要するに、お前は頑張った先に何かご褒美が欲しいわけだな。勉強は逆立ちしても好きになれそうもないし」

「あたしを犬みたいに言うな!」

「でもこのままじゃ追試の嵐だし、終業式までに決まるかどうか……あ」

 ケータイのカレンダー機能を呼び出して日程を確認する途中で思いついた。

 目に付いたのは、とある人の誕生日……の前日。

「……クリスマスイブ、か」

 十二月二十四日。クリスマス前夜。日本においては恋人同士で過ごす日と一般的に定められているイベントデー。……まあ、バレンタインデーと大差ない陰謀によって定められてしまったと言った方が適切か。

 と文句を垂れる俺も、今年ばかりは便乗しよう。記念日があるってのはやっぱり便利だな、と心で理解した瞬間だった。

「クリスマスイブに、パーティしよう」

「え」

「とびっきりのプレゼントを用意しておくから」

「ほ、本当か?」

 あれ、今冬馬の後ろで左右にぱたぱた揺れる尻尾が見えたような……。

 幻覚かな。

「追試が無事に全部通ったら、だけどな」

「とびっきりと言ったからには、ちゃんと対価に見合うものなんだろうな。前みたいに参考書とかだったら肉塊になるまで蹴るぞ」

「でもわかりやすかっただろ、あの参考書」

「…………」

 あれ、今度は蛇に睨まれてるような錯覚が……。

「……わかった。考えておく。今から二十四日まで、必死で考えておくから」

「他のこと考えたらダメだからな。今から考えていいのは、あたしのプレゼントのことだけだからな。人に何か頼まれたからってほいほい引き受けるなよ」

「それとこれとは話が――」

「…………」

「……わかった。冬馬の言う通りにする。だからお前も落とすなよ? ひとつでも通らなかったら開催しないからな」

「何度も言わなくたってわかってる」

 親の仇敵に挑むかのように冬馬が机に向かう。動機は不純だが、集中力が散漫していた今までよりかは数倍マシだ。冬馬と一緒に卒業できるなら悪魔とだって契約しよう。

 だから俺は冬馬に言われるがままの『冬馬のことしか考えない北原』であろうと心に誓った。

……あれ、ちょっと待てよ。

 それって試験の問題も考えちゃダメってことじゃないか?

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