雪菜の、通夜の時。
「俺の分まで、お前が泣いてくれるから」自分は泣かないで済む、と春希は言った。
 この偽善者め! とかずさは憤ったものだが、まったくの嘘というわけではないことはわかっていた。
 自分にとっても、雪菜と春希の子どもたち、小さな春華と雪音が、かなりの程度代わりに泣いてくれた、という感覚が、正直あった。
 世界が丸ごと崩れたかのように泣き叫ぶ雪音と、姉として懸命になだめようとしながら、自分でも到底涙をこらえきれない春華を、まるごとがっと抱きしめてやって、二人の大好きなおかあさんの歌、「時の魔法」を繰り返し繰り返し歌ってやる。しっかりと歌ってやるためには、泣くわけにはいかない。大きな声でなくてもよい。ただ音程とリズムをしっかりととって、身体の中から歌を伝えてやるためには、しっかりと自分をコントロールする必要があった。歌と一緒にぬくもりを伝えてやるためには、二人の身体の震えをしっかり受け止めて、落ち着かせる必要があった。ならば、少なくとも二人が泣いているうちは、自分が涙に身を任せてしまうわけにはいかない。
 そういう思考は、たしかにはたらいていた。
 だがそれ以上に。
 二人をあっためてやるために抱きしめていると、当然、自分の身も、とてもあたたかくなった。泣きじゃくる二人は、ちょうど春希のように、そして雪菜のようにあたたかった。
 このぬくみは、ちょっと手放せそうになかった。

 というわけで今現在、冬馬かずさは北原家の二人のちび、春華と雪音のあたたかさを存分に――とは言わないまでも、相当程度満喫している。ただしそれは、無償というわけにはいかなかった。
 健康な子どもというものは、日々笑い、泣き、駆けずり回り、ものを壊し、時に自分の身体も壊す。真面目に取り合っていたら、ひと時たりとも心が休まる暇がない。かといって無視して適当に放置していたら、しばしばとんでもない結果が待っている(ことまで含めて、心が休まる暇がないわけだ)。
 よくもまあ雪菜は、勤めを続け、歌も歌いながら、この爆弾たちの世話をできたもんだ……つくづくかずさは感心する。
「そんな大したことないよう。っていうか、私なんか駄目ママでどうしようもないよ。もしこの子たちがいい子なんだとしたら、それはまず第一に保育園の先生たちのおかげ、第二に、手伝ってくれるお母さんや、かずさのおかげ、それから三番目に、保育園のママ友たちのおかげだよ!」
 昔、二人きりの時に、雪菜がそんな風に言ったことがある。
「――あれ? 春希はどこにいるんだ? 何にもしない――ってことはないよな? それとも、「別格」か?」
 かずさの問いに雪菜は笑って答えた。
「これは、感謝しなきゃいけない順番の話。私と春希君は親なんだから、子どもたちに責任があるの。だから感謝される筋合いはないの。
 それはともかく、うーん、春希くんはとってもよく頑張ってくれてるよ。保育園の送り迎えだって、ご飯作るんだって、その他の子どもたちのお世話も、半分――とは言わないまでも、会社でのポジション考えれば、最大限の努力をしてくれてる。でも……。」
 そういえば春希は、二人目の雪音が生まれた後は、雪菜が早く職場に復帰できるようにと育児休暇をとっていたはずである――それでもこっそり家に仕事を持ち帰っていて、雪菜とかずさの白い眼を浴びていたが……。それでも、几帳面で料理を除けば家事万能の(そして弱点の料理についても、結婚後は雪菜の指導で顕著な改善を遂げた)春希のおかげで、雪菜の負担は相当軽減されていたはずである。
「――なんていうかな、春希君は、時々子どもたちに「遠慮」しちゃうんだよ――。」
「遠慮?」
 ちょっと意外な一言にかずさは当惑して聞き返した。
「そう、遠慮。春希君は子どもたちを、冷たく突き放したりなんかしないし、もちろん、過度に甘やかしたりもしない。ちゃんと、バランスよくやろうと頑張ってる。ただなんかねえ、子どもたちに全身でぶつかってる感じがしないんだなー。どこか、半身を残してる感じがする。――あとねえ、私にも遠慮してる。手を動かす、身体を動かすことには物惜しみしないんだけど、判断については最終的には、責任を私に投げ出してる――っていうと言葉は悪いけど、自分より私の判断を信用し、優先してるんだよねえ。そういう意味じゃお母さんや、それこそかずさの方が、子どもたちに対する姿勢では、安心感あるっていうか……。」
 春希に関して、かなり冷徹な――ほとんど辛辣といってよい意見を開陳する雪菜は、かずさにあのホテルでの取っ組み合いを思い起こさせ、ちょっとばかり懐かしい気持ちにさせた。
「ふーん。自分のお母さんとの間のことが、なんかひっかかりになってんのかな? でも、あたしだってなんていうか、母さんとまともな親子関係築いてこなかったことについては、自信があるぞ。そもそも、親戚でもないのにただ遊びに来て無責任にやってるだけじゃないか。」
「そこはこっちの方でも遠慮――っていうか割引? お母さんだってそういう意味じゃ別に「責任」なんかないんだよ? そんな立場なのに、よくやってくれてる、っていう感謝の気持ちが入ってるかな? 逆に言うとその分、春希君に対しては点が辛くなってるかな……もっとしっかりしてほしい、って。でも、お母さんもかずさも、子どもたちに結構全力でぶつかってくれてると思うんだ。」
「――買いかぶりだよ……雪菜のお母さんはともかく。「全力」だとしたらそれは余裕がないからだ。子どもってやつにどう向かい合えばいいのか、全然わかんないから。下手すれば同じレベルで、自分も子どもになってぶつかりかねない、怖さがあるよ。」
「それでいいんだよ。園長先生はそう言ってたよ。怖くて当たり前だって。若いママパパは、子どもなんて、わけわかんないまま無我夢中で泣きながら育てるもんなんだって。ほんと、ママ友たちとはいつもそんな話ばっかりしてるよ――それに比べると、春希くんもそうだけど、パパたちは弱みを見せまいとしすぎるから、よくないよ。
 ――ああ、そう考えれば、もうじき依緒ともママ友になるんだなあ、楽しみだよ。」
 そう満面の笑みを浮かべた雪菜はしかし、無念にも飯塚夫妻――武也と依緒の赤ちゃんにまみえることはなかった。

「――無我夢中で、泣きながら、か。」
 今となればお気楽そうな落第ママであった自分の母、曜子もそうだったのかもしれぬ、と得心がいく。
 たとえば、未だに自分は、自分の生物学的父親が誰であるのかを知らない。母はその父に「振られた」と称している。いつもの韜晦だと思ってまじめに受け止めたことはないが、案外それは本当のことなのかもしれない。
 想像――というより妄想をたくましくすれば、いくらでも思い浮かぶ。
 ――あるいは自分は「子は鎹(かすがい)」とばかりに、その男をつなぎ止めるために孕まれたのかもしれぬ。
 ――あるいは母が未だに自分にその男――父の名を教えてくれないのは、未だにその男を引きずっているからかもしれぬ。見境のない男遍歴も、そのただひとりの男のことを忘れられないからかもしれぬ。
 ――そう考えれば、その男の忘れ形見である自分は、母にとって実に複雑な、愛憎半ばするアンビバレントな存在なのかもしれぬ。とすれば、女手ひとり、金はあってもノウハウはなく、頼るべき身内もいないともすれば、そのたったひとりの娘を育てるにあたって、多少の不如意があったとて仕方がないではないか……。
 ――冬馬曜子は、あくまでお気楽に、無責任にひとり娘を放任していたというべきなのか。それとも、その責任の重荷にあえぎ、娘との距離を測りかねたがゆえに、乱行に逃避していたのか。
「――なーーんて、な。」
 週末の午後、公園で近所の子供らと駆けずり回るちびたちを遠目に見つつ、日陰のベンチでかずさは背伸びとともにひとりごちた。向こう側の砂場の横では、2、3人の若い母親たちが、子どもたちを見守りつつおしゃべりに興じている。人見知りな上に「母親」ではないかずさは、さすがに談笑の輪に加わる勇気は持てなかった。もちろん季節は初冬、木陰のベンチは寒いから、本当は自分も日なたに行きたいのだが、あいにくそこは問題の井戸端会議場に他ならない。
「母さんが考えなしだったんだろうと、考えすぎだったんだろうと、今となっては、結果的には同じことなんだけど、さ。」
 かずさにしてみれば、父親のことを真剣に気に病んだことなど、一度もないのだ。生物学上の父親に会いたいとも思わないし、あるいはまた、母にまともにひとりの男と添い遂げてもらって、その男を「父さん」と呼びたい、などと思ったことも全くない。結局のところ自分が愛し、求め、憎んで、反発したのは母ひとりなのであり、他の人間はいなかったし、必要もなかった。
 そして冬馬曜子は、子どもの愛し方の下手なダメ母ではあったかもしれないが、愛し方を知らなかったわけではない。彼女はピアノを通じて、かずさに惜しみなく愛を注いだ。そして幸運にも、その愛し方はかずさにとって充分に受け入れ可能なものであった――少なくとも幼い内は。
 幼い頃は、母曜子はかずさにとってピアノの師であるのみならず、唯一の観客でもあった。あるいは、よくできた子どもにありがちなことだったのかもしれないが、幼いかずさには「師」と「客」の区別などはついていなかった。その上「親」までが重なっていたのだから、事態は実は潜在的には相当深刻だったのだ。
 ところがプロの音楽家たる曜子は、この事態の深刻さに無自覚なままに、プロの音楽家としてはある意味まっとうな選択をしてしまった。あるところまで成長したかずさに対して、「師」のためではなく「客」のために演奏しろ、と伝えようとしたのである。ところが「師」たる彼女の落ち度か、あるいは弟子たる娘の幼さのせいか、その秘儀伝授は失敗した。結局のところかずさには、「師」も「客」もなくただ母がいるのみだったのであり、「師」ではなく「客」をみよという母の教えは、自分が抱いていた母の理想像の分裂、母による自分の拒絶として映ってしまったのである。そしてこの失敗を受けて曜子は、一度は「師」であることさえ放棄してしまった。そのことがかずさにとっては、彼女がただ単に「師」であることのみならず、「客」であること、更に「母」であることさえ放棄してしまった、と映ってしまう、ということをろくに理解せずに。

 そしてかずさは、ピアニストとしてはおろか、人間としても成長することをやめてしまったわけだ。

 かずさが立ち直るきっかけを得たのは、結局は春希、そして雪菜という「客」そして共演者を得たからであり、そして幾分かは、彼らに対して「師」として振る舞ったからである。孤独な動物となっていた彼女はここで再び「人間」となった。しかしながら厄介なことに、彼女にとって、春希は「客」そして「弟子」であると同時に、いやそれ以上に「男」であった。そしてかずさのピアノは、かつての母曜子に対してと同様に、春希に対しても愛を伝える道となってしまった。「師」に褒めてもらうためではなく、「男」に愛を伝えるためのピアノ。それは結果的には、幼い頃の「師」たる母に向けたピアノとは異なり、無関係な他者に、不特定多数の「客」に、世界に届くものになり得ていた。しかしそれはあくまでも結果的、客観的にそうなっていたに過ぎない。
 かずさのピアノが主観的、自覚的に世界に開かれていったのは、結局は雪菜がいたからこそである。雪菜がかずさから春希を奪ったからこそ、そして「師」としての母が死んでしまったからこそ、かずさのピアノは愛する人である母曜子や春希に向けたものではなく、世界に対して開かれたものにならざるを得なくなった。
 もちろん、そうならない可能性もあった。「師」であることをあきらめた母曜子は、かずさに対して、ただ無限に受け入れる以上のことが、際限なく甘やかす以上のことができなくなっていた。そして雪菜が奪ったはずの春希、彼女を拒絶したはずの春希でさえ、「男」として彼女を拒絶したにもかかわらず、いやその引け目ゆえにか、かずさを残酷に甘やかすことしかできなかった。雪菜が、ただ春希をかずさから奪うだけでなく、その上でなおかずさの「友」であろうとし続けたからこそ、かずさはピアノにしがみつくことができたのである。

 結果的に見れば、愛しつつ突き放し、突き放しつつ愛する、という絶妙なバランスを保ってかずさを救ってくれたのが雪菜であり、そのバランスをとるのに失敗したのが母、曜子であった。そしてそもそも春希は、バランスをとろうとさえしていなかった。最初はコンサートから逃げるという最悪の形でかずさを拒絶し、それで壊れてしまったかずさを、今度は際限なく甘やかした。
「――なるほど、な。」
 そういう風に考えれば「春希が子どもたちに対して一歩引いている」という雪菜の不満も合点がいくような気がした。春希は、子どもたちに踏み込んでしまうと、際限なく甘やかして壊してしまうかもしれない、と恐れているんだろうか。
 ――雪菜は、怖くないんだろうか? そんなはずはない。「怖くて当たり前だ」と雪菜は言っていた。
 ――怖いから踏みとどまる、んじゃなくて、怖いからこそ飛び込むんだよ。
 ふと脳裏に雪菜の声が響いたような気がした。

 怖いから踏みとどまる、のではなく、怖いからこそ飛び込む、という決断を、あの時、自分は春希の前で行ったつもりだった。とはいえ今から思えば「あたしを選んでくれ」ではなく、「今だけでもあたしを愛してくれ」という、腰が引けたものだったわけだが……。
「――もしあの時、春希があたしを選んでくれていたら――?」
 ――詮無い問いである。それに、何より恐ろしいことに、仮にそうなっていたとしたら、あそこで元気に遊んでいるちびたちが、この世に生まれてこなかったことになる。その代わりに、春希とかずさの子どもたちが、今頃は生まれていたのかもしれない。しかしそんなものはただの可能性だ。今ある現実と引き替えにできるはずもない。
 ああ、それでも、あたしはかつて、春希の子どもがほしい、と思ったことがたしかにある。そのことを、なかったことにはできない。
 ――人を愛するということは、怖ろしいことだったのだ。そして、その怖ろしさに怯えていては、結局は、誰も愛することができず、何をなすこともできないのだ。だからこそ、飛び込んでいくしかない。
「でも、さ。結局あたしは臆病だったから。だからあの子たちは雪菜――お前の子どもなんであって、あたしの子どもじゃないんだ。」
 ――そんなこといちいち考えてたら、あの子たちを抱っこすることもできないよ?

と、雪音の泣き声が向こうから聞こえてきた。見ると、地面に突っ伏して泣く雪音を春華が懸命になだめており、周りに他の子どもたちが群がっている。井戸端会議のママたちも駆け寄ってきた。
「ケンカか? すべり台から落っこちでもしたか?」
 考えるまもなくかずさはすっ飛んでいった。

 ――そんな風に、まずは「見る前に跳べ」でいいんだよ。





作者から転載依頼
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このページへのコメント

やっぱ、この噛み砕き方、、、すげーわ。
二次創作を越えてる。

0
Posted by のむら。 2017年08月31日(木) 06:48:20 返信

この作者さんが、子育ての経験があるのだけは、解る。

0
Posted by のむら。 2017年05月20日(土) 22:32:13 返信

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