まえがき

 新連載です。
 一応codaアフターです。
 ちなみにまた長編です。


『そういえば北原さん、姉ちゃんに婚約指輪ってあげないの?』
『え……?』
『そんなオモチャみたいな安っぽいのと全然違うやつ』
『……すいません、安っぽくて』
『……これも春希くんに貰ったものなんだけど』

 別に、用意してない訳じゃない。
 色々あって、渡すタイミングを逸してしまっただけ、のはず。
 去年のヨーロッパ出張の際にパリの宝飾店で見付けて購入した指輪。
 それは今でも北原春希の手元にある。
 小木曽雪菜へのプロポーズは、もう済ませているのに、だ。
 プロポーズの際は、衝撃的なことが続いて、指輪をあげるという行為に意味を見出せなかった。
 後にして思えば『お前何トチ狂ったこと言ってんだ!』と自分に突っ込みたくなるくらいだったけど。

「気にしないでね春希くん。孝宏が余計なこと聞いちゃったから」
「いや、孝宏君の言うとおりだよな。雪菜にまだ指輪をあげてないのは事実だし」
「でも無理しなくてもいいんだよ。わたしたちはもう婚約したんだから」

 今日の小木曽家での夕飯の席で、孝宏の発言が空気を一撃で凍りつかせてしまった。
 あの後母は期待に満ちたまなざしを春希に注ぎっぱなしだったし、父は何ともいえない苦い表情を最後まで崩すことはなかった。

「ああ、でも結局婚約のことすらちゃんと話せなかったからな」
「ホント孝宏ってば、余計なことしかしないんだから」
「まあ、時間はたっぷりあるんだからさ。気を取り直して」
「うん。そうだね」

 そして今、夕食後に雪菜の部屋で今後の段取りを相談しているのである。

「でも、でも。本当にわたしたち、結婚するんだね」
「ああ、そうだよ。俺たち、結婚するんだ」
「夢じゃないよね、春希くん?」
「ああ、そうだよ。夢じゃないよ、雪菜」

 出会ってから紆余曲折を経て早や五年、一度は離れ、擦れ違い続けて三年。もう一度向き合うと決めて結ばれて二年。
 そしてまた再び訪れた危機を乗り越えて、ようやく二人は一つのゴールを迎えようとしていた。

「俺たちも社会人二年目に入って色々忙しいと思うけど、これからもこうして二人でやっていこう」
「うん。もう大丈夫だよね、わたしたち」
「ああ、もちろんだ」

 その指輪は、今も春希の手元にある。
 会社帰りの鞄の中に、ケースの中に、しっかりと。
 後は、そのタイミングだけ。
 受け取った時、雪菜はどんな顔をするだろう……?
 きっと泣き笑いの顔かな?最初の指輪を渡した時もそうだったしな。
 それとも、感極まって号泣するかな?あいつが日本に残るって言った時みたいに。

「雪菜……」

 そう言って鞄をまさぐろうとした春希の携帯電話がいきなり鳴り始めた。
 ……本当に、タイミング悪いな俺。
 そんな考えがどうしても頭をよぎる。

「はい、北原です」

 渋々といった表情で、春希は通話を始める。

『おう北原。すまんな』
「……何ですか浜田さん」

 どうやら仕事の話のようだ。それなら無下にできない、と雪菜はじっと我慢をした。

「……え?それでしたら松岡さんに頼んでおきましたけど」
『だからその松岡がお前に聞いてくれって言うんだよ』
「そんな。今日俺どうしても定時に上がりたいからって言ったはずなのに」
『分かってるって。でもあいつに押し付けること自体間違ってると思うがな』
「……まあ、否定できませんね」
『だからさ、悪いけど一回戻ってきてくれないか?お前じゃなきゃ分からないって』
「え?そんな」
『頼むよ。木崎は例によって外出たままだし、鈴木も締切抱えてるやつあるから』
「……分かりまし……っとおっ!」

 立ち上がりながら部屋の戸口へ行き始めた春希は、足元に置いてあった自分の鞄をすっかり忘れていた。
 案の定、そのまま鞄に躓き、大きな音を立てて転んでしまう。

「春希くんっ!」
「痛てててて……」

 勢いで鞄の中身が散らばり、書類や筆記用具が部屋に散乱してしまった。

『どうした?何があった?』
「いえ、何でもありません。分かりました。すぐに戻りますから」
『悪い。後で皆で埋め合わせはするから』

 電話はそこで切れ、春希は慌てて散らばったものを掻き集めた。

「春希くん、大丈夫?」
「ああ、何とか、な」
「仕事?」
「ああ。ごめんな、急にこんなことに」
「いいのいいの。春希くん、それだけ期待を背負ってるってことだもんね」
「本当にごめんな?」
「いいからいいから。明日は土曜日だけど、わたしも明日は早いんだ」
「そうなのか?じゃあ今日はこれでお開きだな」
「でもその分帰りは早いから、帰ってきたら、ね」
「ああ、じゃあまた明日」
「うん。また明日」

 目を閉じた雪菜にチュッと口づけ、春希はお暇をした。





「……これでいいですか?」
「本当にすまんな北原。出張近いのに」
「いえ、それはいいんですけど」

 開桜社、開桜グラフ。
 春希が浜田に呼び出された要件は、割とあっさり片付いた。

「そうだ、ついでにもう一つ片づけたいことがあるんだが」
「え?何ですか」
「実は、今度のアンサンブルで、冬馬かずさの全国ツアーの特集やることになってな」
「冬馬かずさの?」
「ああ。前回の特集の流れでな。いやぁ、あん時は即日完売だったし、今真っ盛りの美人ピアニストが相手だと世間の反応もひとしおだからな」
「で、今回もやる、と」
「ああ。冬馬曜子オフィスの了承もすでに取ってある。またお前に頼みたいんだが、大丈夫か?」
「ええ。今度の出張が終わったら、でいいなら」
「そうか、じゃあ頼むな。こっちでもフォローはするから」

 そうか。かずさ、いよいよ国内でも本格的に活動するのか。
 春希の胸には、かつて付属の頃にピアノを再開すると言った時のかずさを見ているかのような高揚感が蘇っていた。

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