まえがき

春希が合同企画を通すため、浜田に話す前日に麻理へ電話したときの会話を想像して書いてみました。
日時は2012年2月19日の日曜日の夜。ニューヨークとの時差は14時間なので麻理にとっては日曜日の朝。

『きっ、北原か?』
 憂鬱な月曜日を迎える間近にして、覚悟を決めてかけた国際電話の声は懐かしく、そして俺と同じかそれ以上に緊張した声色だった。
「お久しぶりです、麻理さん。朝早くにすみません。日本を発って以来ですね」
『ああ。年末年始も帰国しないで悪かったな。今年は佐和子がこっちに来たがっててアメリカで飲み明かしていたんだ』
 佐和子というのは麻理さんの親友の女性で、高校以来の関係だと前にバーで紹介されたことがあった。
 麻理さんに負けるとも劣らない美人で、加えて服装も派手目の趣味だったので最初は気圧されたが、気さくで話しやすい素敵な女性だった。
……まあ、そんな第一印象はオーダーを重ねる毎に見事に破壊され尽くしてしまったけれど。
「相変わらず色気のない飲み会をしていたんですか?」
『うるさいな。でもそうだよっ! お陰さまで男っ気のない居酒屋みたいな飲み会だったわよ』
「お陰さまって、それ俺は全く関係ないですよね?」
『いいだろそんな細かいことは! 言葉の綾とか自虐にいちいち突っ込むんじゃない。全く、お前こそ社会人になっても相変わらずだな』
「すみません」
『それでどうした? 北原が電話なんて珍しいな。鈴木からはしょっちゅう泣きごとだの愚痴だのって内容の電話をかけてくるけど。仕事関係か?』
「いえ……どちらかというと俺も愚痴の方になると思います。お世話になった麻理さんに事前に報告しておきたいことがあって」
『え……いや、ちょっと待て。お前なにするつもりなんだ。まさか退職でもするつもりか?』
「場合によっては。俺からするつもりは全然ありませんが、クビを切られるくらいのことを今からやらかすと思います」
『なによなによ、どうしてそんな面白いことになってるの? 詳しく聞かせなさいよ』

…………

「――というわけで今、開桜社とナイツレコードと冬馬曜子オフィスを巻き込んだ合同企画を水面下で進めています」
 気付けば、昨年ストラスブールでかずさと邂逅したことに始まり、かずさの来日からずっと密着インタビューをしていたこと、先月のコンサートの失敗から現在の状況まで詳細に語っていた。
 常人とは密度の違う彼女の貴重な時間を取らせまいとかいつまんで話すつもりだったのに、普段部下の面倒を見ているだけあって麻理さんは聞き上手で、必要のない描写まで事細かにしゃべっていた。
……さすがに同居同然の暮らしをしていたことまでは話さなかったけれど。
『なるほどね。確かに会社としても実現すれば美味しい話だけど、でもそれって北原の私情が半分以上入ってる企画よね』
 全てを聞き終えた麻理さんは、かつて彼女の下で働いていたときの緊張感を俺の身体に走らせるには十分な厳然とした態度だった。
「……そうですね。本音を言えば仰るとおりです」
『社会人一年目のペーペーがそんな自己中心的で大掛かりな合同企画を立ち上げるなんて、世間知らずというか命知らずというか。……まあ、私の方が酷いことやってたかもしれないけど』
「すみません。さすがに麻理さんも俺の上司だったら怒りますよね。三社を股に掛けたこんな友達仕事を」
 だけど俺は、恩を仇で返すようなことと理解していながらも……例え麻理さんや開桜社に勘当されてでもこの企画を全力でやり通したかった。
 今度こそかずさのために。
 かずさに安心して日本にいてもらうために。
 お前は孤独じゃないんだと知ってもらうために。
『怒るわけがないだろ、こんな面白そうなこと』
 でも彼女は――俺が尊敬し憧憬を抱いていた麻理さんは、やっぱり俺の予想していた通り賛同してくれた。
『ああ、もう。なんで私は今アメリカにいるんだろう。今から日本に行って一枚噛ませてほしいくらいだ』
「いや麻理さんはもうウチの編集部の人間じゃないんですから。そんなことしたら浜田さんが黙っていませんよ」
『黙っていないなら黙らせれば解決するじゃないか。私にとっては何の障害にもならないよ』
「…………」
 浜田さん……俺はあなたの部下で社会人として尊敬もしていますが、部外者の麻理さんに跳ね退けられている姿が容易に想像できてしまって申し訳が立たないです。
『まあ冗談だ。ここは浜田に任せるとするよ。あんな奴でも家族のために必死で働いているのは私も認めているからな』
「はい、俺もです。俺の身勝手な企画で浜田さんに責任を負わせたくはないです」
『でも企画を中止するつもりはない。北原は自分のクビをかけてでも全責任を取って強行するつもりだから私に事前報告しに来たと』
「そうです」
『あのな北原。そういう前向きな失敗の責任は普通上司が全部被るものだ。最悪その合同企画が頓挫したとしても会社が社員のクビを切るなんてこともないから安心しろ』
「そう……ですかね」
『お前が入社した会社は、散々無茶したこの私がいる会社なんだぞ。そんな安っぽい所じゃない』
「……ありがとうございます、麻理さん」
 本当に。いつも。挫けそうな俺に元気と勇気を与えてくれて。彼女のこの言葉をもらえただけで覚悟して電話をかけてよかったと思えた。
『まあでも、北原でもこんなあからさまな援護射撃を求めてくるくらい参っちゃうときもあるんだな。ちょっと予想外だった』
 そして聡明で人情深い彼女は、俺が心の裏側に秘めていた下心をも簡単に見透かしていた。
……気付いてくれた。
「俺は、そんなに強くないですよ。全然これっぽっちも」
『……そうだったな』
 きっと麻理さんも俺と同じことを考えている。
 三年前、旅行へ行く直前の彼女に聞いてもらった、俺の懺悔を。
 どん底にいた俺を救ってくれて、前を向くきっかけになった、蜘蛛の糸のような通話を。
『全く。お前だけだぞ、この私を顎で使おうとする部下は』
「全然これっぽっちも俺にそんな気はないんですけど」
『お前にはなくても私にはあるんだ。それとも鈍感な振りをしているジゴロのつもりか? 今時流行らないぞ』
 そんな逆切れ気味に捲し立てなくても……。
『まあ滅多にない北原の泣き事だ。私に任せておけ。平気だとは思うけど、万が一にも最悪なことにはならないように私からも言っておく』
「俺から電話しておいてなんですけど、本当にいいんですか? 頭ではクビ切られても仕方ないことをやっているのを自覚しているだけに、麻理さんですら呆れられちゃうかなって少しは思っていたんですけど」
『ふふっ。私がお前に呆れるわけがないだろ。もしそんなことがあるとしたら、お前が悪魔とでも契約して血迷ったときくらいだな』
 プライベートの彼女の側面を知ってから少し思っていたけれど、麻理さんって漫画を愛読している女子高生みたいな乙女で可愛らしいところもある気がする。
『お前から会社を辞めるならまだしも、私の北原を――じゃなかった、この私が目をかけた北原を逃がしてやるものか。お前はいつか私が日本に帰ったときの右腕になる存在だぞ』
「はい。そのときまでに俺は麻理さんに見合う部下になれるように全力で頑張ります。だからまた俺のことをこき使ってください」
『……当然だ、馬鹿者』
 言ってから青臭いことを口走ってしまったと恥ずかしくなったが、しかし不思議なことにそうなる未来が自然と想像できた。
 編集長の椅子に座りながら忙しそうに指示を飛ばしている麻理さんと、馬車馬のように東奔西走している俺の姿が。
『今は返答を待つだけの辛い時期かもしれないけど、きっとこれからろくに寝食も出来なくなるくらい忙しくなるよ』
「そう言っていただけると励みになります。本当に」
『だからお前はいつでも走り出せるように準備と心構えと日程を練っておけ。そういう細かいことや手回しは得意分野だろ?』
「はい。それが俺の誇れる数少ないことですから」
『ん。わかっているならよろしい』
「麻理さん。ありがとうございました。実を言うと電話をかけようか迷っていたんですけど、かけてよかったです」
『…………今のお前、きっとあの文化祭の頃よりも輝いてるぞ。その姿をこの目で見てみたかった。それだけが残念だ』
「え」
『いや、今のは忘れてくれ。二日酔いの起き抜けで頭が変になっているだけだ。それじゃ』

…………

「全く。自分の執念深さが嫌になるくらい安い女だ。……キンキンに冷えたビールでも飲むか」


END
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