８ 大聖堂にて ／ 2015年３月８日
最終更新：
ushigara_neko 2015年06月22日(月) 13:58:48履歴
「わたしから、二人に言いたいことは、もう、全部、言ったかな。
できるだけ早めに、回答を下さい。
それと、有能なマネージャーさん。曜子さんに、電話してくれないかな。
曜子さん、今日の夕食、ごちそうしてくれるって。
わたし、とっても期待してるんだよね。何時から、何処に行くか、決めておいてもらえると嬉しいな」
「……分かった」
「それと、ちょっと、かずさを借りても良いかな」
えっ、と、二人は同時に言う。
「別に、とって喰おう、というわけじゃ、ないんだけどなあ」
「何……」かずさは、構える。
「もう一度、大聖堂に行きたいんだけど、付き合ってくれないかな？」
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「やっぱり、凄い迫力だよね。かずさは、大聖堂、良く来るの？」
祭壇を見上げながら、雪菜は、独り言のように、かずさに質問する。
「来ないね。ハプスブルグ家の富と権力を誇示する豪華絢爛なゴシック建築、実質的にハプスブルグ家の墓……。日本で言ったら、日光東照宮みたいなものだから」
「……そういわれると、ロマンの欠片も無いね」
「あたしは、物に幻想を抱かないタイプの人間らしい」
「かずさ、らしい」雪菜は微笑む。
「でも、一昨年と、去年は、クリスマス・ミサに来た」
「春希くんと一緒に？」
「……うん」
「ごめん。当然か……。やっぱり、羨ましい、な」
そして、祭壇を見上げる。
「雪菜……」
「二年二か月前のクリスマス・イヴ。ストラスブール大聖堂で、わたしと春希くんは、二人でミサに参加するはずだった」
「…………」
「クレベール広場なんかで、待ち合わせしなきゃよかった。そもそも、二泊三日を過ごすためだけに、無理して、ストラスブールに行くべきじゃなかった。
わたしは、何度、自分の軽率さを呪ったか分からない。あなた達が、お互いのこと、ずっと、想い会っていること、分かっていたはずなのに。
わたしがしなくてはならなかったのは、あなた達を会わせないこと、だったのに。何としてでも、邪魔することだったのに」
「雪、菜……」
「そう、思って、深く後悔した。口では、春希くんをあなたに返す、なんて言いながら、わたしの全てが、後悔に支配された。
……でも、後から分かったの。全部、遅かれ早かれ、だったんだ、って」
「卒業式の夜や、空港での別れ際に、二人して謝って、認めてほしいと言われたら。『アンサンブル』誌の冬馬かずさ特集の後や、曜子さんの御宿での年越し公演の時、かずさが春希くんに連絡していたら。
わたし達が、約束通り結婚した後だって、あなたと春希くんが一度でも会ってしまったら、どうなっていたか分からない……」
「ごめん……」
そのことは、かずさと春希にとっても、共通認識だった。
雪菜への罪の意識と共に、二人は、何故もっと早い段階で、お互いの気持ちに素直にならなかったのか、という、自責を抱えていた。
そうすれば、雪菜をあれほど、深く傷つけることはなかったはずだ。
三人、もう少し違った関係になれたのではないか、という悔いだった。
かずさは、俯いて、唇を噛む。
「わたしこそ、ごめん。責めてる訳じゃないの。
確かに、かずさを、凄く恨んだわ。
でも、その恨みは、全部、自分に帰って来てしまう……」
「雪菜……」
「自分の汚さを思い知ることにしかならないのよ」
「お前は汚くなんてない」
「汚いよ。男と女の関係で言えば、わたしは、やっぱり、あなた達に割り込んだ、余計な女なんだ、と思う。
だから、遅かれ早かれ、あなたと春希くんは、結ばれたはず。そして、一旦、心と体の両方が結ばれたなら、誰もあなた達を引き離すことはできない。
だから、わたしが泣いて叫ぼうが、死を賭けて脅そうが、春希くんが、わたしを女として見ることは、もう無いと思う」
「…………」
「死を賭けて脅したら、きっと春希くんの方が、死を選びそう」
「そしたら、あたしは、春希の後を追うだけだ」
「馬鹿な女ね、かずさは。……でも、そうなったら、わたしも二人を追うよ。だって、わたしは、あなた達二人がいない世界に、生きていても意味が無いから。
だから、わたしは、そんな馬鹿なことは、できないな。
あのね、かずさ……」
雪菜は、かずさへと振り返り、その目を直視する。
「あなたがわたしに言ってくれた、『不倶戴天の敵か、生涯の大親友か』という言葉は、わたしにとって、人生で一番の宝物なんだよ。
春希くんがわたしに言ってくれた、『一生、わたしの側を離れていったりしない』という言葉は、わたしにとって、人生で一番の約束なんだよ。
例え恋人を恋敵に奪われたとしても、わたしは、二人の親友までも失いたくない。何を言われようとも、どんなにかっこ悪くても、痛い女に見られようとも、もう除け者にされるのは、嫌なんだよ」
「でも、あたし達には、色々なことがありすぎて、顔を見れば、話をすれば、辛い思いを、するじゃないか。
あたし達は雪菜を、めちゃくちゃに傷つけてしまった。
もう、学園祭前の三人には戻れない……。戻れないじゃないかっ。仕方ないじゃないか……」
かずさの眦に、涙が溜まる。
「……そうだね、かずさ。一人の男と、二人の女の、ドロドロの三角関係のままじゃ、何時迄も、みんな辛いよ。
でも、わたしは、あなたとの『不倶戴天の敵』の関係は終わらせたい。自他ともに認める『生涯の大親友』でありたいの。
自分にとって、本当に大事なものはなにか、考えて、考えて、考えて抜いて、そういう結論に至ったの。
だからわたしは、あなたがいる限り、春希くんに、女として迫ったりはしないわ。それに、謝罪だっていらない。
ただ、二人には、わたしの側にいてほしいの」
「雪菜……」
「分かってくれないかな？」
長い沈黙の末、かずさは絞り出すように、「……分かった」と言った。
「ふぅ」雪菜はため息をつく。
「ありがとう、かずさ。
でもね、矛盾したことを言うようだけど、かずさが、もし、春希くんへの愛に、手を抜いたら、わたしは何をするか、分からないわよ。
悪いけど、まだまだ全部、思い出の中に溶け込んだ訳じゃ、ないんだから……」
「雪菜……」
「だから、わたしに隙を見せちゃダメだよ？」
「ああ」かずさは、少し力なく答えた。
「……次の話題に移るね。春希くんのことなんだけど。
あ、そんなに身構えて聴かなくて良いから」
「う、うん」
「彼は、この祭壇画の、聖シュテファンのように、殉教したいのかな」
「えっ……」
雪菜は、再び、祭壇画を見上げた……。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「午後八時にRestaurant OPUSね」
一体、どう考えたら、こんな内々の夕食に、最高級ホテル内の最高級レストランを使おうという判断が出てくるか、春希には全く理解ができなかった。
しかし、今更、逆らう訳にも行かず、オフィスのクローゼットに収納してある、緊急対応用のフォーマル・ウェアを物色する。
�爛疋譽好魁璽匹蓮▲�ジュアルエレガンスか……。
かずさのは、良い服が、置いてあったはず。
俺のダークスーツは、ちょっとイマイチかな……。
雪菜は、持って来てるのかな��
程なく、かずさがオフィスに帰って来た。憔悴、という訳ではないが、少し、物憂げな顔つきをしている。ひょっとしたら、泣いたのではないだろうか……。
「かずさ、夕食、Hotel ImperialのRestaurant OPUSだそうだ。この服で、良いか」
春希は、濃い紫のノースリーブのワンピースを提示する。
「良いよ」
「……雪菜は、服、持っているんだろうか」
「知らない。でも、OPUSだと知っていたことは、知ってる」
「……ということは、雪菜は、かずさを連れ出すために、俺に仕事を振ったと」
「だろうな」
「…………」
春希は引き続き、靴と、髪飾りを提示する。
「髪飾りは不要だ」
「アップにしてやるよ」
「……そんなに髪が触りたいの？」
「ああ」
「勝手にしろ」
「ありがとう」
「ふん。お前が切るなと言わなければ、とっくの昔に短くしているのに。ピアノ弾いてる時、重いんだよ」
「洗って、乾かしてるのは俺なんだから、良いだろ」
「勝手にしろ」
「で、何を話したんだ」
「雪菜は……、春希に、もう女として迫ったりしない、と言った」
「そうか」春希は、少しほっとする。
「それから、その、過去の三人の恋愛関係を乗り越えて、あたし達に側にいてほしいって」
「そうか……。分かった」
春希は、それだけ聴ければ十分、とばかりに、話しを打ち切った。
本当は、もう少し、話しの続きがあるのだが……。
かずさも、今は言いたくなかった。その替わり、自分の決意を伝えた。
「なあ、スケジュール、白紙にしてくれたんだよな」
「ああ」かずさの靴を拭きながら、春希は聴く。
「日本に帰って、雪菜の手伝いと、自分のツアーをやりたいんだ」
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
春以降の全ての企画を白紙に戻したことで、かずさと春希が日本に戻ることを可能とする条件は整ってしまった。
だが、春希としては、雪菜のセカンド・アルバムに協力することについて、即答する程の覚悟はできていなかった。
それが、かずさの演奏家としてキャリアにとって、一番良い選択かどうか、計りかねたからだ。
小木曽雪菜のファースト・アルバムへの関与を明らかにすること、そしてセカンド・アルバムに協力することは、ポピュラー・ミュージックへの接近を意味する。
だがそれは、クラシックの演奏家にとって、時に、致命的な損失をもたらす。
クラシック界は、偏見の多い世界だ。ファンも上流層が多い。ポピュラー・ミュージックに安易に近づけば、それだけで低い評価を下される可能性がある。また、大衆音楽に近づいて、メディアの好奇の目に晒される機会が増えれば、知られたくない私生活を暴かれる危険性も増す。曲への取り組みや、レッスンへの影響もあるかもしれないし、公演に支障を来すかもしれない。
それに、過去のクラシック界の器楽奏者の中で、ジャズその他のポピュラー・ミュージックに足をかけた者は、尽く大成していなかった。
それらの大きなリスクを考えれば、如何に雪菜からの誘いとは言え、簡単に乗れる話ではなかった。
だから、春希は少し躊躇っていた。
しかし、かずさが決意した以上、春希に、違う選択肢は残されてはいなかった。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
雪菜は赤いノースリーブのワンピースに、上品な赤い靴を合わせていた。身につけたアクセは、ネックレスだけ。
春希の心に、ふと馬鹿げた思いが横切った。
�爐修Δ�……、俺がプレゼントしたものは、もう、何一つ身に付けていないんだな。当然のことだが……��
それは、ただの確認なのか、一抹の寂しさなのか……。
春希は頭を横に振った。
夕食の席で、冬馬曜子オフィス欧州支部の無粋なマネージャーから、社長に対して、春から年末にかけての、冬馬かずさのスケジュール案及び企画案が、改めて提示された。
また、冬馬かずさの帰国の時期と、小木曽雪菜への曲の提供及び秋のコンサート・ツアーに関する記者会見の実施について、提案があった。
さらに、アーティスト小木曽雪菜に「既に」提供している作曲、編曲の著作権料、演奏への費用などの支払い、名前の表記について、契約案が提案された。
「私としては、異論はないけど……、食事前にする話じゃないわね」
「食べる前でないと、落ち着かないので……。それから、雪菜の二枚目のアルバムに対する曲、編曲の提供及び演奏については、別途、書面で確認したいと思いますが、とりあえず概要としては……」
「分かった、降参。春希君、お願いだから、後日にして頂戴。もう、食べましょう。私も久しぶりに、娘の顔をアテにワインを美味しく飲みたいわ」
「分かりました。では、帰国後に検討することにしましょう。雪菜も、俺達が帰ったら、打ち合わせさせてくれ」
「あはは。相変わらず、春希くんは、仕事が早いね〜」
「……よろしく、雪菜」
「よろしくね、かずさ」
そして、四人の前にはウィーン料理が運ばれた。穏やかな食事会だった。
だが、かずさと春希は、その料理を堪能することができなかった。
雪菜は、かずさと、春希の日々の暮らしの話を聞きたがった。誰が、食事を作るのか、外食は週にどれ位なのか、掃除はどれ位の頻度で誰がするのか、かずさは一人で練習しているのか、他の楽器はもう練習しないのか、……等々。
かずさは、訥々と答えて行く。
だが、決して、かずさと、春希の、情熱の夜につながるような、答え方はしない。曜子も、かずさの話を聞いて、突っ込んだり、皮肉を言ったりはするものの、殆どは、大人しく満足気な笑みを浮かべるばかりで、際どい雰囲気になるのを避けているように思えた。そして、食事もワインも、量は少なかった。
雪菜が話題を振り、かずさが答える……。基本的に、そのパターンは最後まで崩れなかった。春希は、言葉少ない。
春希には、雪菜とかずさは、やはりまだ、旧交を温める、という程の会話ではないなと感じられた。
丁度、良かったのかもしれない。今は、再び出会えただけで。
伝統で雁字搦めの高級レストラン。感情的になることは、決してできない場所だから、お互いの顔を見ることができて、差し障りの無い会話をして、声を聴けただけで、それだけで良かったのかもしれない。春希は、そう思った。
�狎禳擇世辰董∈┐澆鮴欧蕕靴僕茲震�じゃないだろう。
今の雪菜を、本当に信用していいのかは、未だに分からない。
だが、かずさが決断した以上、それを尊重しよう。
俺はどうなっても良い。どんなに辛い思いをしようが、かずさがもう嫌だと言うまで、付き合ってやる。
お手柔らかに、雪菜……。
本当に、変らない美しさにびっくりしたよ。
元気で、良かった��
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「はあ……、ちょっと疲れたわ」
「社長、大丈夫ですか。顔色が良くないです」
部屋で待っていた工藤美代子マネージャーが肩を抱く。
かずさと春希には、美代子と高柳医師が来ているとは、言っていない。
「すみません。無理をさせてしまいました」と、雪菜が詫びる。
「大丈夫、大丈夫。一晩寝れば、朝には良くなるわよ」
「そうだね。でも少なくとも明日は、静かにしていてもらおうか」
四人は、Hotel Imperialに宿泊していた。
曜子は、雪菜、美代子に支えられながら、寝間着に着替え、ベッドに入る。
「曜子ちゃん、薬は飲んだの？」
「ごめん。ちょっと楽しくて、飲むの忘れてたわ」
「困った患者さんだなあ」
そう言いながら、高柳は軽く、雪菜を睨んだ。
「雪菜が悪いんじゃないわよ。
しかし、春希君の着てたスーツ、ちょっと古かったわね。何週遅れなんだか。もっとちゃんとしたの着てもらわないと、格好つかないわ」
「春希くんは、もともと、服の趣味は良くないですよ」
「かずさもなのよ。華やかな服が苦手なのかな。今日、どんなドレス着てくるか、心配だったんだけど、春希君が選んだ、かずさの服は、よく似合ってた。
嫁の服はちゃんと選べても、自分の服には無頓着か……。
あの男は、ホント、かずさに甘すぎるわね……。着せ替え人形じゃ無いんだから……。ふふふ。
あっと……、ごめんなさいね」
「曜子さん……、大丈夫ですよ」
雪菜は、微笑んだ。�狢臂翩廚犬磴覆い韻畢�
「でも……、おかしかった。ここに泊まってる、って、言った時の春希くん」
「全く、この程度のホテルで狼狽えたんじゃね。他都市の演奏会の時には、どんなレベルのホテルに泊まってるんだか……。安いホテルじゃ、演奏にも悪い影響が出るんだけどな。
もっとも、私は、こんな古めかしい、過度な装飾のホテルは、あまり趣味じゃないんだけど……」
「あはは……」もちろん、雪菜の趣味だった。
「それで、当初の目的は果たされたのかな」
「そうですね。後は、春希くんの企画通り、二人に帰国してもらって……」
「計画の通り、進めて行くだけね。頼りにしてるわ、雪菜……」
「さあ、もう寝なさい」高柳が声をかける。
「ありがとう」曜子は、目を閉じた。
……この人は、病気で辛いのに、何故、こんなにも明るく、美しいのだろうと、雪菜は思った。願わくば、彼女のように常に強くありたいと、そして母・秋菜のように常に優しくありたいと、心から思っていた。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
3月14日、かずさと春希は、成田に降り立った。極秘裏に帰国した二人を出迎えた者はいなかった。
二人は寄り道もせず、岩津町の、買い戻された例の豪邸へ向かった。
目次 ／ 前回 ／ 続き
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
できるだけ早めに、回答を下さい。
それと、有能なマネージャーさん。曜子さんに、電話してくれないかな。
曜子さん、今日の夕食、ごちそうしてくれるって。
わたし、とっても期待してるんだよね。何時から、何処に行くか、決めておいてもらえると嬉しいな」
「……分かった」
「それと、ちょっと、かずさを借りても良いかな」
えっ、と、二人は同時に言う。
「別に、とって喰おう、というわけじゃ、ないんだけどなあ」
「何……」かずさは、構える。
「もう一度、大聖堂に行きたいんだけど、付き合ってくれないかな？」
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「やっぱり、凄い迫力だよね。かずさは、大聖堂、良く来るの？」
祭壇を見上げながら、雪菜は、独り言のように、かずさに質問する。
「来ないね。ハプスブルグ家の富と権力を誇示する豪華絢爛なゴシック建築、実質的にハプスブルグ家の墓……。日本で言ったら、日光東照宮みたいなものだから」
「……そういわれると、ロマンの欠片も無いね」
「あたしは、物に幻想を抱かないタイプの人間らしい」
「かずさ、らしい」雪菜は微笑む。
「でも、一昨年と、去年は、クリスマス・ミサに来た」
「春希くんと一緒に？」
「……うん」
「ごめん。当然か……。やっぱり、羨ましい、な」
そして、祭壇を見上げる。
「雪菜……」
「二年二か月前のクリスマス・イヴ。ストラスブール大聖堂で、わたしと春希くんは、二人でミサに参加するはずだった」
「…………」
「クレベール広場なんかで、待ち合わせしなきゃよかった。そもそも、二泊三日を過ごすためだけに、無理して、ストラスブールに行くべきじゃなかった。
わたしは、何度、自分の軽率さを呪ったか分からない。あなた達が、お互いのこと、ずっと、想い会っていること、分かっていたはずなのに。
わたしがしなくてはならなかったのは、あなた達を会わせないこと、だったのに。何としてでも、邪魔することだったのに」
「雪、菜……」
「そう、思って、深く後悔した。口では、春希くんをあなたに返す、なんて言いながら、わたしの全てが、後悔に支配された。
……でも、後から分かったの。全部、遅かれ早かれ、だったんだ、って」
「卒業式の夜や、空港での別れ際に、二人して謝って、認めてほしいと言われたら。『アンサンブル』誌の冬馬かずさ特集の後や、曜子さんの御宿での年越し公演の時、かずさが春希くんに連絡していたら。
わたし達が、約束通り結婚した後だって、あなたと春希くんが一度でも会ってしまったら、どうなっていたか分からない……」
「ごめん……」
そのことは、かずさと春希にとっても、共通認識だった。
雪菜への罪の意識と共に、二人は、何故もっと早い段階で、お互いの気持ちに素直にならなかったのか、という、自責を抱えていた。
そうすれば、雪菜をあれほど、深く傷つけることはなかったはずだ。
三人、もう少し違った関係になれたのではないか、という悔いだった。
かずさは、俯いて、唇を噛む。
「わたしこそ、ごめん。責めてる訳じゃないの。
確かに、かずさを、凄く恨んだわ。
でも、その恨みは、全部、自分に帰って来てしまう……」
「雪菜……」
「自分の汚さを思い知ることにしかならないのよ」
「お前は汚くなんてない」
「汚いよ。男と女の関係で言えば、わたしは、やっぱり、あなた達に割り込んだ、余計な女なんだ、と思う。
だから、遅かれ早かれ、あなたと春希くんは、結ばれたはず。そして、一旦、心と体の両方が結ばれたなら、誰もあなた達を引き離すことはできない。
だから、わたしが泣いて叫ぼうが、死を賭けて脅そうが、春希くんが、わたしを女として見ることは、もう無いと思う」
「…………」
「死を賭けて脅したら、きっと春希くんの方が、死を選びそう」
「そしたら、あたしは、春希の後を追うだけだ」
「馬鹿な女ね、かずさは。……でも、そうなったら、わたしも二人を追うよ。だって、わたしは、あなた達二人がいない世界に、生きていても意味が無いから。
だから、わたしは、そんな馬鹿なことは、できないな。
あのね、かずさ……」
雪菜は、かずさへと振り返り、その目を直視する。
「あなたがわたしに言ってくれた、『不倶戴天の敵か、生涯の大親友か』という言葉は、わたしにとって、人生で一番の宝物なんだよ。
春希くんがわたしに言ってくれた、『一生、わたしの側を離れていったりしない』という言葉は、わたしにとって、人生で一番の約束なんだよ。
例え恋人を恋敵に奪われたとしても、わたしは、二人の親友までも失いたくない。何を言われようとも、どんなにかっこ悪くても、痛い女に見られようとも、もう除け者にされるのは、嫌なんだよ」
「でも、あたし達には、色々なことがありすぎて、顔を見れば、話をすれば、辛い思いを、するじゃないか。
あたし達は雪菜を、めちゃくちゃに傷つけてしまった。
もう、学園祭前の三人には戻れない……。戻れないじゃないかっ。仕方ないじゃないか……」
かずさの眦に、涙が溜まる。
「……そうだね、かずさ。一人の男と、二人の女の、ドロドロの三角関係のままじゃ、何時迄も、みんな辛いよ。
でも、わたしは、あなたとの『不倶戴天の敵』の関係は終わらせたい。自他ともに認める『生涯の大親友』でありたいの。
自分にとって、本当に大事なものはなにか、考えて、考えて、考えて抜いて、そういう結論に至ったの。
だからわたしは、あなたがいる限り、春希くんに、女として迫ったりはしないわ。それに、謝罪だっていらない。
ただ、二人には、わたしの側にいてほしいの」
「雪菜……」
「分かってくれないかな？」
長い沈黙の末、かずさは絞り出すように、「……分かった」と言った。
「ふぅ」雪菜はため息をつく。
「ありがとう、かずさ。
でもね、矛盾したことを言うようだけど、かずさが、もし、春希くんへの愛に、手を抜いたら、わたしは何をするか、分からないわよ。
悪いけど、まだまだ全部、思い出の中に溶け込んだ訳じゃ、ないんだから……」
「雪菜……」
「だから、わたしに隙を見せちゃダメだよ？」
「ああ」かずさは、少し力なく答えた。
「……次の話題に移るね。春希くんのことなんだけど。
あ、そんなに身構えて聴かなくて良いから」
「う、うん」
「彼は、この祭壇画の、聖シュテファンのように、殉教したいのかな」
「えっ……」
雪菜は、再び、祭壇画を見上げた……。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「午後八時にRestaurant OPUSね」
一体、どう考えたら、こんな内々の夕食に、最高級ホテル内の最高級レストランを使おうという判断が出てくるか、春希には全く理解ができなかった。
しかし、今更、逆らう訳にも行かず、オフィスのクローゼットに収納してある、緊急対応用のフォーマル・ウェアを物色する。
�爛疋譽好魁璽匹蓮▲�ジュアルエレガンスか……。
かずさのは、良い服が、置いてあったはず。
俺のダークスーツは、ちょっとイマイチかな……。
雪菜は、持って来てるのかな��
程なく、かずさがオフィスに帰って来た。憔悴、という訳ではないが、少し、物憂げな顔つきをしている。ひょっとしたら、泣いたのではないだろうか……。
「かずさ、夕食、Hotel ImperialのRestaurant OPUSだそうだ。この服で、良いか」
春希は、濃い紫のノースリーブのワンピースを提示する。
「良いよ」
「……雪菜は、服、持っているんだろうか」
「知らない。でも、OPUSだと知っていたことは、知ってる」
「……ということは、雪菜は、かずさを連れ出すために、俺に仕事を振ったと」
「だろうな」
「…………」
春希は引き続き、靴と、髪飾りを提示する。
「髪飾りは不要だ」
「アップにしてやるよ」
「……そんなに髪が触りたいの？」
「ああ」
「勝手にしろ」
「ありがとう」
「ふん。お前が切るなと言わなければ、とっくの昔に短くしているのに。ピアノ弾いてる時、重いんだよ」
「洗って、乾かしてるのは俺なんだから、良いだろ」
「勝手にしろ」
「で、何を話したんだ」
「雪菜は……、春希に、もう女として迫ったりしない、と言った」
「そうか」春希は、少しほっとする。
「それから、その、過去の三人の恋愛関係を乗り越えて、あたし達に側にいてほしいって」
「そうか……。分かった」
春希は、それだけ聴ければ十分、とばかりに、話しを打ち切った。
本当は、もう少し、話しの続きがあるのだが……。
かずさも、今は言いたくなかった。その替わり、自分の決意を伝えた。
「なあ、スケジュール、白紙にしてくれたんだよな」
「ああ」かずさの靴を拭きながら、春希は聴く。
「日本に帰って、雪菜の手伝いと、自分のツアーをやりたいんだ」
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
春以降の全ての企画を白紙に戻したことで、かずさと春希が日本に戻ることを可能とする条件は整ってしまった。
だが、春希としては、雪菜のセカンド・アルバムに協力することについて、即答する程の覚悟はできていなかった。
それが、かずさの演奏家としてキャリアにとって、一番良い選択かどうか、計りかねたからだ。
小木曽雪菜のファースト・アルバムへの関与を明らかにすること、そしてセカンド・アルバムに協力することは、ポピュラー・ミュージックへの接近を意味する。
だがそれは、クラシックの演奏家にとって、時に、致命的な損失をもたらす。
クラシック界は、偏見の多い世界だ。ファンも上流層が多い。ポピュラー・ミュージックに安易に近づけば、それだけで低い評価を下される可能性がある。また、大衆音楽に近づいて、メディアの好奇の目に晒される機会が増えれば、知られたくない私生活を暴かれる危険性も増す。曲への取り組みや、レッスンへの影響もあるかもしれないし、公演に支障を来すかもしれない。
それに、過去のクラシック界の器楽奏者の中で、ジャズその他のポピュラー・ミュージックに足をかけた者は、尽く大成していなかった。
それらの大きなリスクを考えれば、如何に雪菜からの誘いとは言え、簡単に乗れる話ではなかった。
だから、春希は少し躊躇っていた。
しかし、かずさが決意した以上、春希に、違う選択肢は残されてはいなかった。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
雪菜は赤いノースリーブのワンピースに、上品な赤い靴を合わせていた。身につけたアクセは、ネックレスだけ。
春希の心に、ふと馬鹿げた思いが横切った。
�爐修Δ�……、俺がプレゼントしたものは、もう、何一つ身に付けていないんだな。当然のことだが……��
それは、ただの確認なのか、一抹の寂しさなのか……。
春希は頭を横に振った。
夕食の席で、冬馬曜子オフィス欧州支部の無粋なマネージャーから、社長に対して、春から年末にかけての、冬馬かずさのスケジュール案及び企画案が、改めて提示された。
また、冬馬かずさの帰国の時期と、小木曽雪菜への曲の提供及び秋のコンサート・ツアーに関する記者会見の実施について、提案があった。
さらに、アーティスト小木曽雪菜に「既に」提供している作曲、編曲の著作権料、演奏への費用などの支払い、名前の表記について、契約案が提案された。
「私としては、異論はないけど……、食事前にする話じゃないわね」
「食べる前でないと、落ち着かないので……。それから、雪菜の二枚目のアルバムに対する曲、編曲の提供及び演奏については、別途、書面で確認したいと思いますが、とりあえず概要としては……」
「分かった、降参。春希君、お願いだから、後日にして頂戴。もう、食べましょう。私も久しぶりに、娘の顔をアテにワインを美味しく飲みたいわ」
「分かりました。では、帰国後に検討することにしましょう。雪菜も、俺達が帰ったら、打ち合わせさせてくれ」
「あはは。相変わらず、春希くんは、仕事が早いね〜」
「……よろしく、雪菜」
「よろしくね、かずさ」
そして、四人の前にはウィーン料理が運ばれた。穏やかな食事会だった。
だが、かずさと春希は、その料理を堪能することができなかった。
雪菜は、かずさと、春希の日々の暮らしの話を聞きたがった。誰が、食事を作るのか、外食は週にどれ位なのか、掃除はどれ位の頻度で誰がするのか、かずさは一人で練習しているのか、他の楽器はもう練習しないのか、……等々。
かずさは、訥々と答えて行く。
だが、決して、かずさと、春希の、情熱の夜につながるような、答え方はしない。曜子も、かずさの話を聞いて、突っ込んだり、皮肉を言ったりはするものの、殆どは、大人しく満足気な笑みを浮かべるばかりで、際どい雰囲気になるのを避けているように思えた。そして、食事もワインも、量は少なかった。
雪菜が話題を振り、かずさが答える……。基本的に、そのパターンは最後まで崩れなかった。春希は、言葉少ない。
春希には、雪菜とかずさは、やはりまだ、旧交を温める、という程の会話ではないなと感じられた。
丁度、良かったのかもしれない。今は、再び出会えただけで。
伝統で雁字搦めの高級レストラン。感情的になることは、決してできない場所だから、お互いの顔を見ることができて、差し障りの無い会話をして、声を聴けただけで、それだけで良かったのかもしれない。春希は、そう思った。
�狎禳擇世辰董∈┐澆鮴欧蕕靴僕茲震�じゃないだろう。
今の雪菜を、本当に信用していいのかは、未だに分からない。
だが、かずさが決断した以上、それを尊重しよう。
俺はどうなっても良い。どんなに辛い思いをしようが、かずさがもう嫌だと言うまで、付き合ってやる。
お手柔らかに、雪菜……。
本当に、変らない美しさにびっくりしたよ。
元気で、良かった��
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「はあ……、ちょっと疲れたわ」
「社長、大丈夫ですか。顔色が良くないです」
部屋で待っていた工藤美代子マネージャーが肩を抱く。
「曜子ちゃん、だいぶ無理したね」同行してきた高柳憲正医師が、曜子を椅子に座らせ、脈を測った。
かずさと春希には、美代子と高柳医師が来ているとは、言っていない。
「すみません。無理をさせてしまいました」と、雪菜が詫びる。
「大丈夫、大丈夫。一晩寝れば、朝には良くなるわよ」
「そうだね。でも少なくとも明日は、静かにしていてもらおうか」
四人は、Hotel Imperialに宿泊していた。
曜子は、雪菜、美代子に支えられながら、寝間着に着替え、ベッドに入る。
「曜子ちゃん、薬は飲んだの？」
「ごめん。ちょっと楽しくて、飲むの忘れてたわ」
「困った患者さんだなあ」
そう言いながら、高柳は軽く、雪菜を睨んだ。
「雪菜が悪いんじゃないわよ。
しかし、春希君の着てたスーツ、ちょっと古かったわね。何週遅れなんだか。もっとちゃんとしたの着てもらわないと、格好つかないわ」
「春希くんは、もともと、服の趣味は良くないですよ」
「かずさもなのよ。華やかな服が苦手なのかな。今日、どんなドレス着てくるか、心配だったんだけど、春希君が選んだ、かずさの服は、よく似合ってた。
嫁の服はちゃんと選べても、自分の服には無頓着か……。
あの男は、ホント、かずさに甘すぎるわね……。着せ替え人形じゃ無いんだから……。ふふふ。
あっと……、ごめんなさいね」
「曜子さん……、大丈夫ですよ」
雪菜は、微笑んだ。�狢臂翩廚犬磴覆い韻畢�
「でも……、おかしかった。ここに泊まってる、って、言った時の春希くん」
「全く、この程度のホテルで狼狽えたんじゃね。他都市の演奏会の時には、どんなレベルのホテルに泊まってるんだか……。安いホテルじゃ、演奏にも悪い影響が出るんだけどな。
もっとも、私は、こんな古めかしい、過度な装飾のホテルは、あまり趣味じゃないんだけど……」
「あはは……」もちろん、雪菜の趣味だった。
「それで、当初の目的は果たされたのかな」
「そうですね。後は、春希くんの企画通り、二人に帰国してもらって……」
「計画の通り、進めて行くだけね。頼りにしてるわ、雪菜……」
「さあ、もう寝なさい」高柳が声をかける。
「ありがとう」曜子は、目を閉じた。
……この人は、病気で辛いのに、何故、こんなにも明るく、美しいのだろうと、雪菜は思った。願わくば、彼女のように常に強くありたいと、そして母・秋菜のように常に優しくありたいと、心から思っていた。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
3月14日、かずさと春希は、成田に降り立った。極秘裏に帰国した二人を出迎えた者はいなかった。
二人は寄り道もせず、岩津町の、買い戻された例の豪邸へ向かった。
目次 ／ 前回 ／ 続き
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
タグ
このページへのコメント
vice versaさま、コメントありがとうございます。
黒い雪菜…、好きです（笑）。
もっと黒く書きたいのですが、書けなくて…。
二人とも泣き虫の女の子、になってしまいます。
ご指摘ありがとうございました。
あやふやな記憶で妄想したらあきませんね…。
でも、春希が知らなかった方が、私的には良かったので、ちょっと書き換えをします。
また、お読みいただけましたら、ありがたいです。宜しくお願いします。
tuneさま、コメントありがとうございます。
雪菜true√の彼女は凄く強いので、かずさtrue√の雪菜だって本当は強いんじゃないか、という妄想と、営業で録音の立ち会いに行った時に、音楽関係者から「デビューしたら」と声をかけられていることを合わせて妄想しています。
それと、やっぱりバンドものの話が好きなんですよね…。アニメだと、７話の前半まで見て、また１話に帰る、みたいな見方ばっかりしてて…。
ちょっと書き換えをするまで、休憩をしますが、また読んでいただけますと、ありがたいです。宜しくお願いします。
雪菜が春希とかずさに対して、無自覚に復讐しているのがうまく描かれている作品です。
雪菜自身は、3人の幸せのために行動しているのでしょうが、
その幸せも雪菜にとっての幸せでしかないですし、
なによりも二人にとっては復讐以外の何物でもないでしょう。、
このような行動をとる雪菜だからこそ、腹黒いという評価がなされるんだと思います。
雪菜の心の暗さをうまく表現できている作品だからこそ
人を選ぶ作品になってしまうんでしょう
それと、春希は雪菜が交通事故にあったことを知らなかったはずでは？
かずさTed後にかずさと雪菜が話し合うとどうしてもかずさとしては雪菜に対して後ろめたさを感じられずにはいられないでしょう。この物語の中で雪菜が余りにも強くそしてしたたかになっている(曜子さんにも隠している事がありそうに感じます)事が人によっては受け付けにくいかもしれませんが、私としてはあれ程の目にあって立ち直って来たのはこの物語の中で曜子さんが言った様に開き直って、三人の事を含めて一からやり直す覚悟を持ったからだと考えれば、それ程不自然では無いとは思います。それでも歌手デビューはおかしいと思われる人もいるとは思いますが、そこも含めてのSSですし、このSSはこういうものなのだと受け入れて楽しみたいと思います。次回も楽しみにしています。