翌朝……。

「北原さんたち、遅いよ」
「ごめんごめん」
「孝宏ったら、ほんっと朝から……」

 何かを言おうとした雪菜が、大きく欠伸をした。孝宏は目も当てられないといった感じで天を仰いだ。

「全く、早くしないと朝飯食い損ねちゃうじゃないか」
「そんな訳ないでしょっ、もう……」

 そんな姉弟のやり取りを横に、春希は両親に頭を下げていた。

「本当にお待たせしてすみません」
「いいのよ、どうせ雪菜が寝坊したんでしょう。さあ、朝ご飯に行きましょう」

 そう言って一行は朝食を取りに向かった。





「う〜ん、やっぱりバイキングはいいよな。食べたいモン好きなだけ食べられるから」
「孝宏ったら、そんなに詰め込んではしたないわねぇ」
「だって料理も本格的だし。こういう時に食べとかなきゃ損じゃん」
「まあっ、それじゃあいつもの朝ご飯が美味しくないって言ってるように聞こえるけど」
「いえ、そんなことはありませんよ。小木曽の家の食事は本当に美味しいですよ」
「まあ、春希さんは本当に優しいわねぇ。うちの子たちとは大違い」
「……母さん、それこそ俺たちは普段優しくないって言ってるように聞こえるけど」
「ちょっと孝宏、『たち』って勝手にわたしを巻き込まないでよ」

 そんなこんなで朝食に舌鼓を打ちながら食事は進んでいった。さすがにホテルのバイキングともなればメニューも豊富、味も申し分なし、宿泊客を満足させるには十分過ぎるだろう。

「……お父さん」
「うん?どうした?」
「いい加減、機嫌を直して下さいな」
「な、何を言ってるんだ?別に私は機嫌が悪い訳じゃあ」
「だったらせめてこの子たちの前で仏頂面は止して下さい」

 妻に指摘され、さすがに小木曽氏は苦虫を噛み潰したような表情を自覚したのだろう、パンを口に頬張ることで誤魔化した。

「……本当にすみません」
「春希さんが謝ることはないわよ。わたしも楽しかったし」

 夫とは対照的な小木曽夫人のにこやかな態度に、春希は肩を竦めるしかなかった。
 ……発端は、部屋割りである。
 初め小木曽家での旅行の計画だったので二人部屋を二つ予約したのだが、そこへ雪菜の提案で北原親子が便乗したのでもう一部屋抑えたのだ。
 『分かっていれば最初から三人部屋を二つ取った』とは小木曽氏の弁で、男女三人ずつの部屋にすればよかったと、ホテルへチェックインした際にずっと愚痴をこぼしていた。
 その後部屋割りで揉めたのは火を見るよりも明らかで。小木曽姉弟は同じ部屋は絶対嫌だと言い合い、北原親子を同じ部屋にするのも気まずいのではと雪菜が言い出し、中々収拾がつかなかった。
 そこへ意外な提案を出したのが小木曽夫人で。『春希の母親と同じ部屋がいい』と言い出したのだ。夫が面食らったような表情をするのも構わず春希の了解を取り付けて、二人で部屋に入って行ってしまった。
 後に残された四人はお互い呆気にとられた顔を見詰め合い、そのままなし崩し的に春希と雪菜、孝宏と小木曽氏の組み合わせになったのだ。





 朝食を済ませた一行は、各々の部屋へ戻って支度を整え、ホテルの玄関に再集合した。

「姉ちゃんたち、遅いって」
「何言ってんの。女の子には色々身支度が必要なんだよ」
「今更見栄張ったってしょうがねえのにな」
「……何か言った?」
「なあんにも」
「孝宏もいい加減、春希くんを見習って女の子に対する気遣いを学ばなくっちゃ」
「余計なお世話だよ。姉ちゃんこそ北原さんに愛想尽かされないように気を付けた方がいいんじゃないの?」
「それこそ余計なお世話」
「そうだよ孝宏君。俺はもう……大丈夫だよ」
「ん?大丈夫?」
「あ、だから俺はもう雪菜を離しはしないってことで」
「……北原さん、何かあったの?」
「い、いや。何も」

 春希の発言に孝宏は首を傾げるばかり。でも深く追求するつもりもないようで、話はそこで止まった。

「お待たせ」
「母さんたち、待ちくたびれたよ」
「じゃあ、行きましょうか」
「待ってました〜!」
「……本当に、落ち着きがない」

 孝宏が駆け出すのを見届けた小木曽氏が溜息を吐いた。





 一行はホテルの裏にある砂浜にやってきた。そこには既に宿泊客だけでなく、地元の人達や他の観光客で溢れ返っていた。

「いやっほ〜、海だ海だ〜」
「孝宏君、上機嫌だね」
「あの子、ずっと沖縄に来たがってたから」
「だからってあんなに浮かれなくても……」

 孝宏はビーチに着いた途端に羽織っていたパーカーを脱ぎ捨てて海に駈け出して行った。その勢いは準備運動をしっかりするように父に窘められても止められるのもではなかった。

「じゃあ春希くん、わたしたちも行こう?」
「ああ、そうだな。せっかくだから、楽しまなきゃな」

 そして二人とも上に着ていた服を脱いで水着姿になった。

「春希くん、どう、この水着?」

 雪菜の水着は白の水玉の模様の入ったピンクのビキニだった。

「雪菜、その水着……」
「今回の旅行に合わせてね、朋にも手伝ってもらって買ったんだ」

 そしてモデルのポーズのように、その場でクルリと一回りする。長い髪がふわりと浮いてゆっくりと収まった。

「似合ってる?ねえ、似合ってるかな?」

 言いながらズイッと春希に歩み寄る。春希は不意に雪菜の肩をがしっと掴んで唸り声を上げ始めた。

「……最高だ」
「本当!?」
「ああ、もう何も言うことはない。何をどれだけ言っても雪菜の可愛さを表す言葉にならない」
「んもう、春希くんったら褒め過ぎだってば」
「ああでも、雪菜のこの水着姿を他の奴らの目に晒すのも許せない。俺の雪菜の水着姿なのに他の男たちの餌食になるのは我慢できない」
「あははっ、春希くん、しっかりしっかり」
「雪菜、戻ろう!すぐに戻って雪菜の水着姿を独り占めさせてくれ!」
「ちょ、ちょっと春希くん、落ち着いて。せっかく海に来たのにすぐに帰るのは勿体ないってば」

 雪菜は鼻息の荒くなった馬宜しく興奮した春希にすっかり振り回され、何とか落ち着かせようと必死に宥めていた。

「……お父さんたら、またそんな顔で」
「仕方ないだろう。北原君があれ程の態度になる恰好なんだぞ」
「まあまあ、雪菜の方が春希さんに振り回される場面なんて滅多にないんですし」

 弾むような声に、小木曽氏は軽く妻を睨む。

「……お前、どうしてそう平気でいられるんだ?」
「だって、雪菜があんなに楽しそうなんですもの」
「楽しそうに……見えるのか!?」
「ええ。本当に何の屈託もなく」

 本気で答える妻に、最早返す言葉はなくなってしまった。





「春希くん、オイル塗ってくれる?」
「ああ……って、ここで?」
「そうだよ。早く早く」
「え、で、でも」
「ほら北原さん、姉ちゃんの御要望だよ」
「た、孝宏君」
「孝宏はあっち行ってて。春希くん、ほらほら」
「あ、ああ……分かったよ」

 春希はオイルの瓶を取り、雪菜の背中に視線を向け。

「な、なあ雪菜。水着、どうしよう?」
「ああ、俯せになるから解いちゃっていいよ」
「あ、ああ。分かった」

 雪菜がシートに俯せになったのを見て、春希は雪菜のビキニの紐をスルリと解いた。

「じゃ、じゃあ塗るぞ」
「うん、お願いね」

 春希は改めて掌にオイルを落とし、雪菜の背中に塗りたくった。

「ん、んっ、冷たいね」
「あ、大丈夫か?」
「うん、続けていいよ」
「じゃあ、続けるな」

 春希がオイルを塗るその姿を、相も変わらず小木曽夫妻は対照的な表情で見詰め。

「父さん、いい加減慣れないと持たないぜ」
「……お前は黙っていなさい」

 孝宏が父に余計な茶々を入れるのを、小木曽夫人はにこやかに眺めていた。





 しばらくして、小木曽夫人が春希のところへやって来た。

「春希さん、雪菜は?」
「あ、オイル……塗ってから、寝ちゃってます」
「あらあら、雪菜ったら」
「あの……お父さんは?」
「お昼食べてから部屋に戻っちゃったわよ」
「……本当にすみません」
「いいのよ、そんなに気に病むことじゃないでしょう?」
「でもやっぱりお父さんにとっては気分いいことではないと思いますし」
「お父さんもお父さんなのよ。雪菜が春希さんと婚約したのに、いつまで経っても認められないものだから」

 楽しそうに語る様子に、春希は正直落ち着かなかった。

「はあ〜、ただいま〜」
「あら孝宏、ちょうど良かったわ。留守番頼めるかしら?」
「留守番?いいけど、どっか行くの?」
「ええ、ちょっと春希さんとデートをね」
「ぶっ!」

 唐突な発言に、春希は息を詰まらせてしまった。

「お、お母さん。いきなり何を」
「まあ、こんなおばさんが相手じゃつまらないかもしれないけどね」
「い、いや。そうではなくて」
「じゃあ行きましょうか」

 小木曽夫人が春希の手を引いて立ち上がる。春希は訳が分からないままに、夫人に連れて行かれていった。

「ごめんなさいね突然」
「いえ、別に構いませんけど」

 二人はそのまま近くの海の家に入り、カキ氷を注文した。

「……実はね、昨日、あなたのお母さんと色々話したのよ」
「!……そうですか」

 母と同じ部屋を所望したから何かあったとは思っていた。こういうことかと春希はどこか納得もしていたので然程驚きはしなかった。

「母とは、何を……?」
「それは、あなたがお母さんから確かめること。わたしからは言えない」
「ですが、でも……」
「あなたたちの家族の問題ですもの。あなたが自分で向き合わなくてはいけないと思うの」

 至極尤もな意見だったので、春希には何も言えなかった。
 しかし雪菜が間にいてくれる時でさえどう接すればいいか戸惑うのが今の北原親子の現状である。それを理解していない訳でもないのに、今の言葉は春希にはとても重く伸し掛かった。

「雪菜も、自分の決意を固めてあなたと向き合ったもの」
「え……?」
「薄々は分かるわ。あなたと何かあった時期があったんでしょう?」

 春希は、重く頷いた。

「あの子も見栄っ張りだから。わたしたちに余計な心配を掛けたくはなかったんでしょう?実際、お父さんも孝宏も気付いていなかったし」
「じゃあ、どうして……?」
「大学に進んでからずっと、あなたと出掛けるって週末に何度かね」
「それで、どうして……?」
「だってあの子、あなたと出掛けるっていうのに、ちっともオシャレしないんですもの。わたしたちに気付かれないように出て行くし、服装だって地味なものばかりで。
 髪型だって三つ編みにして、極め付けは伊達メガネよ。どう考えたってデートに行く恰好じゃないじゃない」
「あ……」
「しかも決まって日付が替わる直前に、絶対にお酒に酔って帰ってきて。それでそのまま真っ直ぐお風呂に入って、そしてシャワーの音で掻き消しながら泣いてたのよ」
「そんな……」
「帰ってからすぐお風呂に行くから着替えもタオルも用意してないでしょう?わたしが持っていった時に、シャワーをずっと出しっ放しにして泣いてたのよ」
「そう……ですか」
「一度や二度ならまだしも、大学に進んでからずっと。そうねぇ……三年ぐらい続いてたかしら、そんなことが」
「……」
「あなたも家に来なくなって……その間ずっと続いてたの。あなたが三年ぶりくらいに家に来てくれてるようになってからはそんなことはなくなったけれど」
「そう……なんですか」
「でもまた半年くらい前かしら?仕事やら出張やらで忙しくなって、その度に部屋に閉じ籠る日が続いて。五年ぶりに冬馬さんが遊びに来てくれるまで」

 正直、春希にとって身を切り裂かれる思いだった。雪菜は精一杯隠しているつもりだったのだろう、でもそれも結局母親にはお見通しだった訳で。
 春希にはこんな素敵な家族が雪菜をずっと支えていたんだな、と実感し、同時に自分達親子の間にある壁の高さと厚さに改めて心が重くなった。

「お母さん……ごめんなさい」
「どうしてあなたが謝るのかしら?」
「俺が、雪菜を裏切ったばかりに、雪菜は……」

 春希は、全てを話した。自分と雪菜の間にあった五年間の全てを。雪菜の告白から始まり、でも春希の中にあるかずさへの捨て切れない想いに突き動かされて雪菜を裏切り。
 三年間の空白、クリスマスイブの決裂、二年参りの春希からの告白。バレンタインコンサートで歌を取り戻した雪菜と結ばれ、二年間で取り戻せたと思っていた愛情。
 しかしストラスブールの旅行での思わぬかずさとの再会、帰国後の曜子の画策したかずさの密着取材。かずさと過ごす日常で揺れるかずさへの想い、雪菜との間に再度生まれた溝。
 曜子の病の発覚、孤独に打ち拉がれるかずさ、膨らむかずさへの想いに最後の最後まで覚悟を固められずに揺れた自分。
 そんな中で自分を叱咤し前へ進む決意を見せてくれた雪菜。自分自身を奮い立たせかずさも春希も救ってくれた雪菜。
 自分の鬱屈をぶつけるのを最後まで我慢してくれた雪菜。そして今の自分の全てを丸ごと包み込んでくれた雪菜。

「なるほど。色々あったのね、あなたたち」
「本当にすみません。俺が、雪菜を傷つけてばっかりで」
「でも、あの頃の雪菜だって、自分で動かなかった訳でしょう?それはあなたの責任ではないわ」
「でも、雪菜がそうなってしまったのも、元はといえば俺の……」
「確かに、もうこれ以上傷つきたくなかったという想いは雪菜にもあったと思う。
 でもそれを恐れて閉じ籠ってばかりいたら人はいつまで経っても先には進めない。最初に雪菜があなたに告白したのだって先に進みたかったからでしょう?結果がどうであれ」
「それは……そうですけど」
「それに、その時の経緯があればこそ、今のあなたたちがあるんですもの。そうではないかしら?」
「そう、ですね……」
「当人同士の山あり谷ありの過程でお互いを理解し合って、幸せに辿り着くまで努力をするのが恋愛でしょう?
 いくら周りを掻き乱したとしても、当人同士が傷つけ合うことを恐れて自分たち自身に平坦な道を選んでいるばかりでは恋愛とは呼べないと思わない?」

 確かに、関係修復後も雪菜とは互いにぶつかったり喧嘩したりを繰り返していた。でもそれは相手を深く理解するには必要なものである。
 相手を傷つけ、そのことで自分が傷つくのを恐れて差し障りない接し方を選んだところで、それは恋愛ではない、相手を甘やかすだけの馴れ合いの域を出ない。

「春希さん、あなたも自分自身の幸せを本気で考えたいのであれば、自分自身と向き合うことが大事だと思うの」
「自分自身と……ですか」
「自分の中にあるお母さんへの気持ち、雪菜への気持ち、そして、あなた自身に対する気持ち……答えはあなた自身の中にしか存在しない」
「俺自身の……中に」
「そのためならわたしたちはいくらでも力になってあげますよ。わたしたちはもう、家族なんですから」
「何だかお母さんの言葉は、いろんな所で矛盾しているように思えるんですけど」
「……そうね。自分で考えてみろって言って、いくらでも力になるって言って」
「……でも、ありがとうございます」
「いいえ。雪菜が幸せになって欲しい、そのためにあなたたちにも幸せになって欲しい……それだけですもの」

 そう言って小木曽夫人は柔らかく微笑んだ。その笑顔は正に母親のそれで、春希は改めて子供を想う親の気持ちに触れ、少し居た堪れない気分になっていた。

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