雪菜を主人公とした「歌を忘れた偶像」、そしてかずさが主人公の「雪が解け、そして雪が降るまで」の執筆に春希が本格的に着手したのは、年明け早々であり、未定稿を杉浦小春に読んでもらったのは、2月も末のこと。気づいてみればその間に、雪菜の誕生日も過ぎていた。もちろん自分も娘たちも、そしてかずさも、忘れるはずはない。しかし今年は、小さなケーキをみんなでつついたくらいで、特別なことはしなかった。ただ、久しぶりにみんなで、茶の間のテレビで雪菜のライブのDVDを見た。
 それ以来春華と雪音の二人は、時折二人で雪菜の真似をして歌うようになった。雪菜が亡くなってからしばらくは、時々かずさが歌ってやるのを聴いていることはあったが、自分たちですすんで歌うことはほとんどなかった。しかし最近では放っておいても、気づくと二人で、マイク(らしきもの)を片手に腰を振り振り「時の魔法」だの「届かない恋」だのを歌っているのである。
「そろそろ、いいかもしれないな……。」
 楽しげに歌い踊る二人を眺めて、かずさが言った。
「――ん? 何が?」
と春希が問うと、かずさは
「ピアノだよ……雪音の。そろそろ「やってみたいか?」と聞いてみてもいいかな。まあ、春華にも、もういっぺん聞いとかないといけないけどな。でもたぶん相変わらず、春華はお絵描きの方が好きだろう」
と答えた。
「――そうか……頼めるか?」
「――ああ……折を見て、な。任せておけ。」

 そんな風に、少しずつ、北原家の時計の針はまた進み始めていた。

 そして、予定より2週間ほど遅れた3月半ば、劇団ウァトス、瀬之内晶の凱旋公演「時の魔法」が始まった。初日には春希とかずさも招待されていたが、かずさは
「ふざけるな。」
の一言で拒絶し、プラチナチケットが一枚宙に浮いてしまった。そしてその一枚は結局、小春の手に渡ることとなった。話を聞いてしばし逡巡していた小春だが、さすがに編集者としては、瀬之内晶に顔をつなげる機会を見逃せるはずはなかった。

 つつがなく終了した初日の舞台裏。花束を抱えて春希と小春は楽屋へと向かった。既に顔見知りの「座長」上原氏が、笑顔で迎えてくれた。
「初演のご成功、おめでとうございます。」
「あー、北原さん! お越しいただきありがとうございます。今回は本当にお世話になりまして。おかげさまで、延期したにもかかわらず、全日程、ソールドアウトです。姫の体調次第では、追加を打つことも考えてますよ。とはいえ、キャストの回復のために十分なインターバルが必要ですがね。――それはともかく、姫が、お待ちかねですよ。」
 くいっと上原が顎をしゃくった向う、鏡の前に、精根尽き果て、眼だけをぎらぎらさせた瀬之内晶――和泉千晶が、すわりこんでいた。それでも上原の声に視線を上げた千晶の顔が、春希を認めてパッと輝いた。
「――今日は、来てくれたんだね……ありがとう。」
「――ああ……。かずさは、やっぱり、連れてこられなかった。すまん。――お前の舞台を生で見るのはこれが初めてだが、見事だったよ……。陳腐な言い方ですまん。」
「――またまたあ……今回実質的な「原作者」じゃないか……まったく、ようやくホンも煮詰まったかっていうタイミングの時に、あんな原稿よこしてきてさあ――おかげでこんなに遅れちゃったじゃないか――。」
 千晶は楽しげに憎まれ口をたたいた。
「そこは、本当に申し訳ない。まさか、真面目に取り上げて、ここまで参考にしてくれるとは、思わなかったよ。」
「そりゃあね、あんなおいしいネタ、放っとくわけにはいかないじゃないか。本来なら「原作・北原春希」ってクレジット打たなきゃなんないところだよ。とにかく、おかげで、和希のキャラが一気に膨らんだ――どうだった、和希――吉田の演技は?」
と千晶は、向うで缶ビールを片手にあいさつする主演男優の方を見やった。最近テレビでもよく見かける優男だが、こうして生で見ると大した存在感である。
「素敵でした……完璧な――完璧の更にその上を行く究極のダメ男。見かけはダメ人間じゃない、社会人としても家庭人としても完璧に有能なくせに、肝心のところでヘタレで根性が捻じ曲がってるから、周りの女性全部を不幸にする――まさに先輩そのものです。お見それしました! ――あ、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私、鴻出版の杉浦小春と申します。本日は、北原さんにお誘いいただきました。」
 興奮冷めやらぬ面持ちで小春が激賞した。
「ありがとうねえ。あいつ、前も含めて、まさに「和希」をやることで役者になってきたんだよ。その意味で、あたし以上に、春希には恩があるわけだ。」
 千晶の言葉に、吉田は呵々大笑した。
「まったくです、初めまして北原さん、お会いできて光栄です。杉浦さんも、おほめにあずかり光栄です。」
「こちらこそ初めまして、吉田さん。堪能させていただきました。でも――おれはあなたほどイケメンじゃないですからね……。ああ、千晶、杉浦は俺たちの後輩だよ。付属上がりの峰城大卒。見ての通り編集者だが、俺と違って、すでに本物の「作家」でもあるんだ。こないだの、芥×賞候補にも残ってる。そのうち、作品集も出るよ。」
「おまけに、ここにいる作家見習いさんの担当でもあります。」
 胸を張る小春に、千晶がにっこりした。
「そうか。しっかり鍛えてやってくださいよ。」
「それより、瀬之内さん、これまでお書きになった脚本から、何か出版してみよう、というお積りはございませんか……?」
 ――早速仕事の話に入る小春の切り替えの早さは、さすがだった。

 舞台「時の魔法」の遅延の主たる責任者は、実のところ春希である、と言ってもよかった。小春の助言を入れてブラッシュアップした草稿を、かずさに読ませて許可を取ったうえで、開幕ギリギリ状況の千晶のもとにメールで送りつけたのである。それを一読した千晶は、九分どおりできあがっていたホンに徹底的に手を入れた。その作業におよそ十日間を要したのである。完成したホンは初演2日前に、「順延のお詫びと予約修正手続のお知らせ」とともに、春希とかずさの手元に、ご丁寧に一部ずつ届けられた。もちろん、許可を取るためなどではない。単なる事後報告である。
 春希の自宅にそれが届いたのは、たまたま、かずさが子どもたちをお迎えする日で、春希あての一部を郵便受けから取り出したのもかずさだった。もちろん開封はしなかったが、差出人の名を見れば中身は瞭然である。かずさがそれを思わず床に叩きつけ、春華にたしなめられたのは、まあ、仕方のないことだった。
 その後深夜に帰宅した春希が、開封して取り出した分厚い脚本を、かずさは憎々しげに一瞥して、
「勝手にしろ。」
と吐き捨てた。
「お前……やっぱり、行かないつもりだな?」
と春希が問うと、
「もちろんだ。――でもお前は行けよ。あたしには今一つ理解できてないが、お前はやつに恩義を感じてるんだろう? なら、それが礼儀ってものだ。」
とかずさは目をそらしたまま答えた。
「わかった――ありがとうな。」
「何がだ?」
「俺の原稿をあいつに送ることを承知してくれて。いやそもそも、俺が書いたことを許してくれて、ちゃんと読んでくれて。」
「――許してなんかいない。ますます、お前のことが嫌いになった。最低な男だお前は。――あれを読んで、そのことがよーくわかったよ。雪菜もまあ、かわいそうに……。」
 かずさが肩をすくめて窓を見やると、そこにはいつからか、かすかに雪が降っていた。
「――なんだ……? 道理で3月にしちゃ冷えると思った。――路面がおかしくなる前に帰るか。」
「――ああ……気を付けてな。曜子さんによろしく。」
「――ん……お前も、早くやすめよ。」

 それが初日の二日前のこと。その夜以来、弱弱しくもしかし休みなく降り続けた雪に、東京は薄く雪化粧だった。






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 吉田と、小春ってのも、在っていいですよね?

0
Posted by のむら。 2016年09月26日(月) 14:29:15 返信

 吉田と、小春ってのも、在っていいですよね?

0
Posted by のむら。 2016年09月26日(月) 14:23:46 返信

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