夜の街。仕事が終わり、帰路に着く人達もすでに帰宅し終えた時間。夜の街に繰り出した者達はほろ酔い加減にすでになっている時間。そんな中でもそこは煌々と明かりを洩らしていた。
 飛び交う言葉、鳴り止まない電話、止まる事をしらないタイプ音。本日も開桜社は休むことを知らないのか、喧騒が響いている。

「お〜い、杉浦、頼んでおいたレイアウト、出来たか?」
「万端です。メールできちんと送りましたので確認の程、お願いします。後、集計の方も仕上がってます。浜田さん、折角先輩がマクロ作ってくれたんですから使いこなす事をいい加減覚えてください」
「いや、あのな」
「杉浦、頼んでおいた資料はどうなった? そろそろ先方にお伺いしないといけない時間なんだよ」
「そっちも今、終わりました。木崎さん、原稿の回収頑張ってきてくださいね」
「おぉ! ありがとう。うん、頑張ってくるよ」
「杉浦〜、テキスト起こしとPDF化出来た?」
「はい、大丈夫です。でも、松岡さん。先輩にも、仕事押し付けてましたよね。そういうのよくないと思います」
「――――さーてやっと帰れるぞーー!」
「あっ、こら、松岡さん! まだ話は終わってません!」
「そうだぞ、松岡。今日も説教だ。杉浦と麻理も呼んでな」
「げぇっ!? そんな浜田さん、殺生な! 麻理さんまで呼びつけた上に杉浦もつけるって、どんな拷問ですか」
「お前はその拷問をされるに値するんだよ。お前なぁ、入社してからもう四年目だぞ? 半人前は脱したけど一人前未満だなんて笑えない」
「そうだよ〜、まっちゃん。二年後が怖いね〜。来年入社してくる小春ちゃんに一年で追い抜かれるんだぞ?」
「いやいや、俺の方がほら、まだその時は人脈とかありますし!」
「麻理と北原の指導を一身に受けて、任されてる面がある杉浦が、その時のお前の人脈に劣ると思うのか? もう少し危機感持てよ」
「ぐっ」
「理解できたんならいい。麻理と杉浦の連行は勘弁してやるから、後で俺からきっちりお説教してやる。俺も終わらせるから手伝え」
「さっすが、浜田さん、優しいですね!」
「なんで、こう育ったんだか」

 頭を抱える浜田にまぁまぁと逆になだめる松岡の姿が小春の眼に届いた。小春がバイトをし始めてもう九か月。未だに変わらない光景が繰り広げられている。

 進路の関係上、出版社に勤めたいと決めた小春は、出版社に勤務している春希に相談をした結果、開桜社にバイトとして入る事となった。

「まったく、本当に成長しないんだから、松岡は。北原君が来た時と全く変わらない事してるんだから」
「あっ、あはは」
「でも、小春ちゃんが来てくれて助かるよ。ん〜、なんというか久々に仕事がキツイけど余裕を持ってられるというか。麻理さんがまだグラフにいた時以来だなぁ〜」
「そうなんですか?」
「そうなの。北原君が入社した時には麻理さんがいないし。入社してからも、というか麻理さんがいなくなった時点でほぼ代理扱い受けてたから」
「さすが、先輩ですねぇ」
「おやおや〜? 本人からは北原って呼ぶように言われてなかったっけ? 北原君が出張でいないからっていつもの癖が出てるのかなぁ〜?」
「うっ、だって仕方がないじゃないですか。二年もずっと先輩って呼んでたから中々癖が抜けなくて。それに近々結婚するから北原さんて呼ぶと先輩の彼女さんが拗ねちゃって」
「あぁ、ナイツの小木曽さんだっけ。彼女も北原になるから私生活では紛らわしい話なんだ」
「はい、それで。そのプライベートでは、そうなると春希さんって呼ぶしかなくて。でも、その、恥ずかしくて。だから、今も先輩って呼んじゃって。だから、その癖がここでも抜けなくて」
「あぁ〜〜〜っ! なんて可愛い! もうお持ち帰りしたい位だよ! これからもそのままでいて、私の癒しになってよ〜」

 ぎゅむっと鈴木に抱きしめられて息もつけなくなる小春。初めての女性後輩ともあって、グラフの中では小春の事を鈴木は猫可愛がりをしていた。

「くっ、苦しいです。鈴木さん」
「仕事も終わって、後は、私達は帰るだけなんだからいいじゃない」
「でも、ほら、周りが」

 周囲では百合? 百合なのか!? とか小声で言い合っていたり、耽美な光景に目を奪われている者達と、仕事が手につかなくなっている。
 さすがにこれ以上遊んでいたら、帰ってきた怖い編集長に怒られると、内心で鈴木は冷や汗を流した。

「それじゃ、私は帰るね、小春ちゃんはどうする?」
「浜田さんの仕事をもう少し手伝ってから帰ろうと思います」
「ほんとか!? ほんとなんだな、杉浦!」
「浜田さん、喜ぶのは分かるけど、あんまり近づきすぎるとセクハラで訴えられるよ?」
「口が減らないヤツだな。鈴木も。ほら、手伝う気がないのなら帰れ、帰れ」
「えぇ、言われなくても即帰ります。小春ちゃんもあんまり根つめすぎないでね」
「配分は考えてますから。それに入社までの間にスキルを獲得できるいい機会ですから、ドンドン頑張りたいです!」
「あぁ、なんていい子なんだろう。松岡に小春ちゃんの爪の垢を煎じて飲ませたいよ」
「それプラス、麻理と北原のも飲ませたらこのグータラもマトモになるだろう」
「酷いっすよ、浜田さん」
「まっちゃんも少しは反省しなさい。開桜社きっての働き者。その爪の垢を三人前用意しないとダメだって言われてるんだから」
「あっ、あはは」
「明日から頑張ります」

 代わり映えのしない光景が続く。世界に色はあれど、たった一つだけ欠けている。誰よりも輝いている唯一人の色が足りない。





「ごめ〜ん、待たせちゃった?」
「いえ、平気ですよ。傷心の先輩を癒すのも後輩の務めですから」
「うぅ〜、本当にいい子だぁ〜。全く、折角早く帰れたのに、今度は向こうが残業だよ〜。最悪の気分だぁ」
「はいはい、だからほら飲みましょうよ」

 開桜社のグラフ常連のいつものバーに小春と鈴木は来ていた。作業も終了してこれから帰ろうかという時に、かかってきた電話を取ったのが運のツキ。結局、夜食と飲み代を持ってくれるという話の上で、愚痴に付き合う結果となった。

「全く、いつもはこっちが残業で遅いと怒る癖に、自分が急な仕事で残業になったら逆ギレしてくれちゃって」
「それは、ヒドイですね」
「でしょー! 全くやってらんないよ。あ〜あ、どっかに仕事を理解しつつも私生活をサポートしてくれるいい男いないかなぁ。優しくて気立てが良くて、でもこっちの事をきちんと叱ってくれる人とか」

 ぼやく鈴木に冷や汗をかいた。なんだその理想の男性像は。
 そんな女にとって都合のいい男が、と思った所でばっちり一人だけ思い浮かんだ。そのハイレベルな条件を全て満たすイカれた馬鹿が。

「はぁ、やってらんないよ。好きだけど、生きてくのに仕事抜きでなんて考えられる訳がないのに。しかも、何、アレ。前の男なんて、仕事と俺のどっちが大事なんだって! 一昔前と男女逆じゃないの! 普通、そういう台詞は女である私がいうべきなのに!」
「それってバブル時代の事じゃ」
「十年たっても二十年たっても一昔前なの!」

 酒と傷心で変な方向にハイになっている鈴木に辟易とする。しかし、同時にどうして自分がこんな損な役割をいつも回っているんだろう。
 小春としては、確かに周囲に困っている人がいると助けたくなる性分であるし、それによって得る達成感もいい物だと思っている。だが、恋など一度しかした事のない己に恋愛の愚痴を聞かせるのはいかがなものかと、常々思っていた。

 具体的には最近になって漸く、やっと春希の事を吹っ切れたのか同じ大学の医学部の人と恋仲になった美穂子ののろけとか、孝弘と交際し玉に喧嘩する亜子の愚痴を聞いたり、大学に入ってから幾つもの交際を重ねている百合子の自慢を聞いたりと。一人だけ置いてけぼりにされてるのに、いつも聞き役に徹せられる。
 たまに、何でこの三人と友達でいるのか分からなくなる小春なのだった。

「それで、小春ちゃん。大学では人気でしょ〜? 確か、ミス峰城でいい所まで行ったんでしょ。このこの〜」
「あれは、気付いたらエントリーされてて、仕方なく出たらなんか変なコトになってて」

 未だにその時の事を根に持っているのか、小春の口はアヒルの様にとがっている。
 何故、そうなったのかは小春も問い詰めて聞いている。恋人が出来た周囲の三人がいつまでたっても浮いた話の一つもない小春に対して行ったお節介である。少しは目立てば小春の事を周囲の男ども認識するだろうし、接すれば小春のいい所も多くの人達に見られる。同じ学部で未だに小春に想いを遂げずにくすぶっている意気地なしの男共に発破をかけようとしての行動だったと。

 聞いた時にはなんだ、それと。唖然としてしまったのを覚えている。

「で、その後、どうだったの?」
「特に変わりはありませんよ。見た目とか見栄だけで近づく人なんてこっちからノーセンキューです」
「付き合っていかないと分からない面ってやっぱりあると思うんだけどな」
「確かに、第一印象は最悪でも、長い事一緒の時間を過ごしていると、実は凄くいい人がいるっていうのは知ってますけど」
「おっ、なんだなんだ。想い人でもいるのかなぁ〜、小春ちゃんは」
「いませんよ。そういう人は」

 苦笑と自嘲の混じった笑みを小春は浮かべていた。それは鈴木にとってはどこかで見た表情。三年前にも見た、目の前の少女と呼んでも差支えない女の子と似ている女性の笑顔。
 あぁ、やっぱりと思う。目の前の子は何処までも麻理に似ているのだと内心で、鈴木は嘆息した。

 だけどそれは許されない想いで、だけど誰よりも純粋な想い。だからこそやるせない。



 はぁっともう一度重いため息を吐く。目の前の少女はまだ社会人にもなっていない20過ぎの少女。ならば、一度は大きなお節介をしようと思った。目の前の少女が酷く傷つくかもしれないけれど、耐えきれなくなって人手が足りなくなるかもしれないけれど、それでも何とかしたいと思う程には鈴木は小春に入れ込んでいた。

「そう言えば、さぁ、小春ちゃん、この前の忘年会、凄かったねぇ」
「わっ、忘れてください!」
「えー、忘れられないなぁ。だって、あれだよ。松岡以上に頑張ってるのにバイトだからってボーナスが出ない事で気にもんでた北原さんに、じゃあ、ご褒美にいい子いい子してくださいって強請ったのは今でもウチじゃ話草だよ?」
「〜〜〜〜〜〜〜っ! 忘れてください!」

 先日の忘年会でグラフ班及び、麻理を呼んでの忘年会での大騒動。
 努力をし、結果を出している小春に申し訳ないと麻理と春希が酒の席で空気を呼んでもいない発言をぶちかました。その上での問題発言。麻理がボーナスが出ない代わりに、己か春希に何か欲しいものがあったら強請ればいいとかとんでもない発言をしたのだ。
 麻理も鈴木同様、というかそれ以上に小春に対して期待をかけて、目にかけている。だからとも言える発言だった。
 その時は酒が一滴も口に入っていない状態だったから皆が皆、適当に流していたのだが、麻理があまりにも小春を可愛がり過ぎたせいか、小春の許容量を超える酒を摂取した後に事件は起こった。

『先輩〜』
『こら、杉浦、会社では北原って呼べって言ってるだろ』
『仕事は終わったんだからいいじゃないですかぁ〜』
『全く、酔っ払い過ぎたぞ。麻理さんも加減させて飲ませないと』
『すまん。いや、だけど、な。小春にも酒で簡単に潰れないように鍛えておかないと後々、大変だと思ったからで』
『杉浦と二人で飲んでる時にしてくださいよ』
『先輩〜、麻理さんとばっかり話をしてないで〜、私の話を聞いて下さいよ〜』
『っと、すまん。それで、どうしたんだ?』
『ボーナス、出ない代わりに、先輩が何か、穴埋めしてくれるんですよね?』
『まぁ、可愛い後輩の努力と出した結果が報われないっていうのは間違ってると思うからな。俺だけじゃなくて麻理さんも聞いてくれるさ。無茶な範囲じゃなければ、いいよ』
『そっかぁ〜。えへへっ。麻理さんからのは遠慮しますけど、一つだけ先輩にはあります。お願い聞いて下さい』
『お〜、なんだ、なんだー! 小春ちゃん、一体どんなお願いを春希君にするんだ〜』
『あの、そんなにワクワクした目で一同見ないでください。杉浦も、そうなったら言えない――『先輩〜、褒めてください』――酔い過ぎだろ』
『私、頑張ったんだから、褒めてください』
『そんなんでいいのか。というか結構、褒めてると思うけど』
『む〜、褒める時は言葉じゃなくて、態度で示すべきだと思うんです』
『えーーーと』
『おぉ〜と、北原君が思いがげない言葉に冷や汗を流しているぞ』
『杉浦、そのまま北原を困らせてやれ』
『松岡さん、明日の仕事は絶対に手伝ってあげません』
『撤回で、杉浦、あんまり困らせるなよ』
『まったく、旗色が悪くなったすぐに態度を変えて、風見鶏か、お前』
『そういう木原さんだって、北原に手伝ってもらえないって言ったら逃げるでしょうに』
『さ〜て、浜田さん、空いてますよ。お酌します』
『逃げた』
『先輩、よそ見しないでください』
『いでぇ! グキって今鳴ったぞ!』
『先輩、褒めてください。早く』
『あぁ、よく頑張ったな』
『むぅーーー、さっき言ったように態度で示してください』
『これ以外に、どうすればいいんだよ』
『いい子いい子って、頭、撫でてください』
『えっ? そんなのでいいのか? ちょっと子供っぽいというか』
『いいから、私が望んでるんですから、お願いします。ずっと今まで頑張っていいこにしてきたんですから、だからいいこいいこってしてください』
『じゃ、やるぞ』
『ん』

 まるでキスをねだる乙女の様に顎を差出し、瞳を閉じて待つ小春。目を閉じる寸前には思い人からのご褒美を得られる喜びに満ち満ちた女の表情を、小春が浮かべていたのを知るのはその場にいた女性二人だけだった。

『ったく、杉浦は』
『ひゃんっ、えへへ』
『空気読めてないぞ〜、北原くん。そういう時は小春って呼び捨てにしないと』
『まぁ、私も鈴木に同意見だな』
『俺にどうしろと!?』

 と、熱い夜だった訳なのだが。尚、その日、小春の事をとてつもなく羨ましそうに見ていた人がいたとかいないとか。


「小春ちゃん。正直な所どうなの? 北原くんの事。まぁ、あの前から怪しいなぁと思ってたけど。北原くんに仕事頼まれた時だけ凄く目を輝かせてたし」
「そんなに、分かりやすいですか? 私」
「うちの男共は仕事だけに目が行ってて、曇ってるから分かってないけど、麻理さんは分かってるね、絶対」
「あぁ、やっぱりですか。ですよね」
「何々、意味深な溜息ついて」
「あの人も、私と一緒だからきっと分かってたんだろうなぁって思って。だって、先輩の代理で行くと決まってほんの少しだけ溜息ついてるんですよ」
「あ、あはは。麻理さん、露骨すぎ」

 開桜社に、小春以外に春希を目にかけているのはその好意を向けられている人物と好意を向けている当事者以外には周知の事実である。
 だが、手を出す愚か者はいない。開桜社きってのワーカーホリックにちょっかいかけて倍どころか、三倍返しにされるのが目に見えているからだ。

「やっぱりおかしな事ですよね。恋人がいる人を好きになるのって」

 はふぅと憂鬱が目に見える溜息を小春が吐き出す。本人すら、それがいけない事だと自覚しているからこそ溜息に詰められている成分が負の色をしている。分かっているのだ、小春も。

「そうかな? 人の気持ちなんて簡単に収まらないよ。でなきゃ、不倫も浮気もないし。それに、ねぇ。北原くん、モテるからねぇ」
「そうなんですよねぇ。この前も別の部署の人からお土産をわざわざ貰ってましたし」
「なんだよねぇ。面倒見がいいし、ルックスはそこそこだけど将来性はあるし」
「えぇ、いつもしっかりしててお堅くて説教ばっかりしてるんですけど時折見せる優しさがなんというか。いつでも困っているとひょっこり現れて助けてくれますし。一度気になっちゃったら、お説教も全部自分の事を気遣ってくれてるんだなって嬉しくなっちゃうんですよね。しっかりしてる所が頼もしく見えて。その上、私が遅くなるといつも残ってくれて一緒に帰ってくれるんですよ。夜道は危ないからって。私、もう21歳なのに。でも、特別扱いされてるみたいでいつも嬉しくて拒めないんですよね」
「相当やれてるね、小春ちゃん」
「そうかもしれません。でも、一緒に帰ってくれる理由を聞いた時はさすがにイラっときましたけど」
「あぁ、そりゃ、ねぇ。まだ高校生に見えちゃうから危ないんじゃいないかっていうのは。さすがに、ねぇ」
「えぇ、えぇ、そうですよ。先輩の周りにいる人達と比べたら私は背も低いし、胸も小さいし! なんで先輩の周りにはあんなハイレベルな人ばかりが集まるんですか!」
「どうどう、落ち着け小春ちゃん」

 なだめながらも内心、頷いている鈴木だった。いや、どう考えても春希の周りには美形率が高すぎる。本人は十人並みに近い容姿の癖に。

「でも、やっぱりこの想いは胸に秘めないと。だって、先輩は、凄く綺麗で、凄く優しくて、とても立派な女性と結婚するんですから」
「顔だけ見た事あるけど、アイドルとして売り出してもなんら遜色ないよね。何処であんな素敵な子を捕まえたんだか」

 鈴木が漏らす愚痴に、対する答えを小春は知っている。口に出す事は出来ないが、胸にきちんと刻まれている。
 だからこそ、小春は想いを遂げる事も口にすることもできない。知っているから、あの二人がどれだけ傷つけ合い、傷つき、悩み苦しんでいたかを知っているからこそ余計に入り込むことが出来ない。一年前に結論を出したあの三人に割り込もうとも思えない。
 何よりも遅すぎるのだ。三年前の、春希と雪菜を応援してしまったあの時に決着はついている。 

「勝てないって分かってるし、私はあの二人を引き裂きたいとも思ってません。私にはあの二人を傷つける事なんて出来ません。あの二人が、あの三人がどれだけ苦しんでるって知ってるから。苦しみぬいた上で出した結果があの二人の結婚式だって知ってるから!だから、私はこの想いを沈めていこうと思います」
「それは違うよ、小春ちゃん」

 想いを告げられず、その身が軋み程の恋を抱いた心をそっと閉じ込めるように小春がカウンターに突っ伏す。そこに浴びせられる冷たくとも温かい言葉。
 いつもとは違う鈴木の態度に小春は酒で低迷しかけている頭をそちらへ向ける。

「いつまでも想いを引き摺るのは心にも悪いし、小春ちゃんはまだ、きちんとフラれてないんでしょ?」
「まだ一度も、そういう事口に出してないですし」
「だからこそ。もうすぐ北原くんの結婚式でしょ。その時、笑顔で送り出したいって思ってるよね」
「そうですね。あの二人の、結婚式ですから心から祝福したいです。その気持ちに嘘はないです。笑顔で送り出して、祝いたいです」
「今の小春ちゃんは諦めてるフリをしてるだけ」
「フリって、私はちゃんと!」
「でなきゃ、ウチまで追いかけてこないよ、普通」
「うっ」
「あっ、やっぱりそっちの理由もあったんだ」
「将来、出版社につきたいのは嘘じゃないですけど。その気持ちがなかったと言えば嘘になります」
「いい子だね、本当に。ねぇ、今のままだと結婚式、苦い顔するよ。笑顔で、送り出したいんでしょ」
「はい」
「なら、一度ぶつかって玉砕してきなよ。それで、思いっきり泣いて、結婚式当日に笑って送り出してあげよう」
「迷惑にならない、かな」
「けじめだと思えばいいんじゃないかな。笑って小木曽さんを送り出すための」
「私の為じゃなくて、雪菜さんの為…………か」

 それは免罪符。誰かの為という酷く自己満足に満ちている免罪符。だが、免罪符というモノははた迷惑でありながらも心底欲しかねない程の魅力を持っている。
 そう、自分の行動を正当化する為の、免罪符。

「そうそう、まぁ、一度くらいの失恋がなんだ! 小春ちゃんはまだまだ若いんだから。次の恋がすぐ近くにあるよ」
「いますかね。先輩みたいにお節介で、頑固で、強いけど弱くて、だけど頼りになるような人」
「探せば、ね」
「そう、ですね。えぇ、そうですね。では、不詳、杉浦小春、近々玉砕してきます。その時は一晩付き合ってくださいね」
「一晩だけでいいの?」
「鈴木さんに毎日付き合ってもらうのは無理だから、それ以外は友達に頼ります。けど、玉砕するのに発破をかけた責任はきちんととって下さいね」
「大人のお姉さんに任せておいてね」
「はい」

 こうして、一つの恋が終わりを告げる。
 長い長い、三年にも渡る想い。White Albumに刻まれてもおかしくはない恋は終端を迎える。ぬるま湯から抜け出て傷ついても前に進もうとする彼女に、やっと冬が訪れようとしていた。

 小春日和、それは晩秋から初冬にかけての穏やかで温かい一日。冬の訪れを告げる切ない一日。

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