第69話



 ひらひらと手を振る曜子さんを横目に俺は千晶の取材をするためにリビングへと向かう。
 実は今回みたいなトラブルは今日に限った事ではなかった。
 そもそも曜子さんが和泉千晶をニューヨークに一人放り出すなんてことはしない。俺と
麻理さんに家賃ゼロを餌にしたのも食事などの家事を任せる為だけではなかったのだ。
 曜子さんが俺達に任せたもの。それはニューヨークでの活動そのものである。
もちろん仕事の調整・営業は曜子さんが専門のスタッフを用意してくれている。
だけどそのスタッフは仕事を取って来て管理するだけであり、和泉千晶の管理は含まれていない。
 千晶を押し付けられてすぐに日本にいる美代子さんに聞いた話によると、
やはりというか当然というのだろうか。
美代子さんは千晶の生活面を含めたマネージメントをしていたらしい。
 芸能面の仕事は専門のスタッフを雇っていたらしいが、その仕事に千晶を連れていくのは
美代子さんであり、仕事に熱中しすぎる千晶を制御するのも美代子さんの仕事だった。
 もちろん仕事に熱中すればプライベートの面。つまり食事などにもしわ寄せがくるわけで、
俺も知ってはいたが美代子さんは苦労したらしかった。
そしてニューヨークに送り込まれた千晶の世話をすることになったのは、当然俺になるわけで……。

春希「はぁ……。俺は出版社の編集部員だったはずなんですけどね。
   いつからマネージャーになったんでしょうか」

曜子「一応開桜社には籍はあるわよ?」

春希「退職した覚えはないですからね」

曜子「だから出向って感じかしら?」

春希「裏でなにをやったんですか? 麻理さんも突然の人事で困っていたんですからね」

曜子「それは悪い事をしたとは思ってはいるけど、
   それでも春希くんは風岡さんの直属の部下には変わりはないと思うわよ?」

春希「たしかに麻理さんの下での仕事もしていますけど、
   それは千晶のおもりの空いた時間でやっているようなものじゃないですか」

曜子「でも春希くん」

春希「なんですか?」

曜子「和泉さんは、朝稽古場に送り届ければ勝手に稽古していてくれるし、
   保育園に子供を連れていくくらいの仕事しかないじゃない」

春希「そうかもしれませんけど、実際そうなんですけど……、はぁ、もういいですよ。
   ほら千晶。取材するからな。だから寝るなよ」

千晶「わかってるって」

 俺も千晶の世話が嫌なわけではない。千晶にはプライベートの面では俺達が世話に
なっているのだから、俺も麻理さんも千晶のことを面倒だとは思ってはいなかった。
 だけど、こうも曜子さんの手のひらの上で転がされていると実感させられると、
どうしても反発したくなってしまう。まあ、自分の不甲斐なさを目のあたりに
させられてしまっていることに対する幼稚な反発だろうが……。
 曜子さんの言う通り、俺の仕事は自宅での千晶の世話と、
稽古場へ千晶を運んで行くことが増えただけで、
麻理さんと二人だけで暮らしていた時と仕事面での大きな変化はないといってもいい。
 だから、かずさのマネージメントの仕事だけは今みたいな中途半端な状態にはしたくは
なかった。おそらく曜子さんは、俺に逃げ道を用意してくれたのだろう。
 かずさのマネージメントも、仕事を取ってくる部分は俺がやるよりは専門のスタッフが
やる方が効率もいいし、なによりも能力の差がありすぎる。
 出版社の編集部員としてどうにか仕事になれてきた俺が、
どうしてクラシックの仕事という初めての仕事を一人で受け持てるというのだ。
おそらく曜子さんも最初から全ての業務をこなせる事を求めてはいまい。俺に求めているのは、
今千晶に対して行っているような日常のサポートであり、精神面でのケアを求めているはずだ。
 そしてゆくゆくはクラシックの仕事も覚えてもらえれば恩の字なのだろう。
 だけど、だからこそ俺は、中途半端にはしたくはなかった。麻理さんの事も、
かずさの事も、そして仕事の事だって、一人の人間がやれることには限界があるのだから。







 生活する人間の数が増えればそれだけ必需品の量も増えるわけで、ふだん買い置きしてある
ストックも早く消費されてしまう。また、冷蔵庫の中身の減りが早いのも同様だ。
 だからなくなった分は補充しなくてはならないし、
それはふだん全ての家事をハウスキーパーに任せている上流階級の冬馬親子も同じである。

かずさ「こんなの全て配達してもらえばいいじゃないか」

曜子「そもそもなんでハウスキーパーを雇っていないのよ。春希君も風岡さんも仕事で
   忙しいはずよね? どこに家事をする時間なんてあったのかしら?」

 家事をまったくしない二人を買い物に連れだせば不平を言うのは当然であり、
比較的軽い荷物を持ってもらっていても文句を言いだすには時間はかからなかった。

春希「家事は時間があるときにちょこちょことやっているだけですよ」

曜子「ちょこちょこというわりには綺麗にしているわよね?」

春希「気分転換にもなっていますからね」

かずさ「春希はどういう神経をしてるんだよ。掃除なんて面倒なだけじゃないか」

春希「どうせ生活するなら綺麗な部屋で生活したいだろ?
   汚い部屋で暮らすよりはよっぽど気分が晴れるだろ?」

かずさ「それはそうだろうけど……」

春希「かずさだって汚いレッスン部屋でピアノなんて弾きたくないだろ?」

かずさ「そりゃそうだけど……」

春希「だったら掃除はこまめにすべきなんだよ」

かずさ「ほらっ、ハウスキーパーに掃除してもらえばいいじゃないか。うん、そうだよ。
    うちは毎日掃除してもらっているから綺麗なんだからな」

 解決の糸口が見えたとばかりに胸を張るかずさに、俺は小さくため息を洩らしそうになる。
一緒にいる麻理さんは意外にも100%俺に賛同しているわけでもなく、
何かを含んだ苦笑いを浮かべていた。

曜子「そうよ春希くん。適材適所っていうじゃない。
   私やかずさが掃除をしたって散らかすだけよ」

春希「いばって言うことですかっ」

曜子「事実でしょ?」

かずさ「そうだぞ春希。できることとできないことを認識することは大切なんだぞ」

 その認識は間違ってはいない。たしかにできることとできない事を認識することはとても
大切だ。だけど、その認識の前に、しなければいけない事としなくてもいい事が
あるっていうことを認識して頂きたい。
そりゃあ俺も人間だ。怠けたい時もあるし疲れているときもある。俺も見栄を張って掃除は
気分転換だって言いはしたが、その認識は間違いではないにせよ、したくないときもあるのだ。
 だけど快適に生活する為にはしなくてはならない事がある。しかもそういった生活に密接な
事ほど後回しにしてしないでいると生活に支障が出てきてしまう。それに、
一度狂った生活習慣を元の生活に戻すのは大変苦労してしまうというおまけつきだ。

春希「それは家事をこなそうと頑張ってから言ってほしいぞ」

かずさ「あたしだって掃除くらいしたことはある。母さんじゃないが、
    あたしも掃除をすると散らかるだけなんだって」

 ピアノと同じく遺伝って恐ろしいな。
 まあ、実際は遺伝じゃなくて、親を見て育ったって言うべきなんだろうけど。

春希「麻理さんだって最初は掃除は苦手だったけど、今ではしっかりとするようになったん
   だぞ。だからかずさだって最初のうちはうまくいかないかもしれないけど、
   頑張って続けていればできるようになるって。……ねぇ麻理さん、そうですよね?」

麻理「えぇ、まあそうかもしれないわね?」

 援護を期待して麻理さんに話を振ったというのに歯切れが悪かった。
むしろ話を振られて迷惑だという顔さえ見え隠れする。
実際は俺に迷惑ですなんて顔は見せないけれど、話を振られて困っている事だけはたしかであった。

春希「麻理さん?」

麻理「ううん、なんでもないわよ。うん、掃除はまめにするべきよね。
   そうすれば掃除をする習慣ができて、慣れていくわ」

春希「ですよね」

かずさ「へぇ、掃除をしなかった麻理さんも、今ではできるようになったというわけか」

曜子「そうよねぇ。汚い部屋でも平気で生活できていた風岡さんも
   心を入れ替えたんですもの。掃除は大切よね」

麻理「…………えっと、そ、そうよねぇ」

 麻理さん、どうしたんです?
かずさと曜子さんもわざとらしい指摘に麻理さんはじりじりと後退していく。その反応をみた
かずさたちはにやりと笑みを浮かべるものだから、さらに麻理さんは逃げ腰になってしまった。

春希「たしかに日本にいた時はまったく掃除らしい掃除をしてこなかった麻理さんだけど、
   今はまめに掃除するようになったんですよ。だからかずさも曜子さんも
   やれば掃除ができるようになるはずです」

曜子「へぇ、そんなにひどかったの?」

春希「えっ? えっと、そうですね。綺麗だったは言えなかったと……」

曜子「へぇ〜」

春希「あっ…………」

 だから麻理さんは歯切れが悪かったのか。たしかにお世辞にも日本では麻理さんの部屋は
綺麗ではなかった。それを指摘されれば麻理さんだって恥ずかしいと思っても不思議ではない。
 でも、どうしてかずさと曜子さんはその事を知っていたんだ?

曜子「大丈夫よ春希くん。べつに私たちは風岡さんをいじめようとしているわけではないのよ?」

 今している事がいじめです、とは言わないけど。

曜子「この前風岡さんから聞いたのよ。それに私は仕事をばりばりやりながらも家事を
   しっかりとやっている風岡さんを尊敬しているわ」

春希「そうなんですか?」

曜子「だって私には家事は無理だもの。ピアノに夢中になりすぎて、他の事はまったくね」

かずさ「たしかに母さんはピアノしかないよな。子育てさえほどんどしてこなかったからな」

曜子「でも、あなたはしっかりと育ったじゃない?」

かずさ「母さんと同じくピアノしかできないけどな」

曜子「それでも私はここまで育ってくれたことを感謝しているわ」

かずさ「まあ、あたしも母さんには感謝しているよ」

曜子「かずさぁ……」

かずさ「そりゃあ母さんに日常的な面倒を見てもらった記憶は皆無だと言ってもいい」

曜子「かずさ……」

 そこは落ち込む所なんですか? 自分でも家事はしてこなかったって言ってたじゃないですか。

かずさ「でも母さんはあたしにピアノを与えてくれた。今もピアノを弾くには最高の環境を
    与えてくれている。その事にはすごく感謝しているんだ。それに、もしあたしが
    ピアノを弾いていなかったら春希とこうして一緒にいられなかったかもしれないからな」

曜子「たしかにあなたからピアノをとったら何も残らないわよね。一応私の遺伝子をもって
   いるから容姿だけは、いいか。あとは私の財産もあるわけだからお金にも
   困らないわね。よかったわね、かずさ。私が母親で」

かずさ「母さん……」

曜子「に、睨まないでよ。ほんの、冗談よ冗談。本気で言っているわけではないって、
   あなたもわかっているでしょ?」

かずさ「母さんが言うと冗談に聞こえないんだよ」

曜子「そ、そう?」

春希「まあかずさもそのへんにしとけって」

かずさ「春希が言うんなら……」

曜子「かずさも大人になったっていうことね。もうピアノだけじゃなくて、
   子供だって産める年齢になったのよねぇ」

かずさ「か、母さんっ」

 かずさんのかん高い悲鳴に周りにいる通行人も視線を向けてくる。かずさにしては珍しく、
顔を真っ赤にして両手を振って戸惑いをみせている。
 俺もかずさほどではないけど、きっと顔を赤くしているのだろう。
……だって、かずさの子供となれば、必然としてその父親は…………。

曜子「べつに間違っている事を言っているわけでもないでしょ? たしかに今すぐ子供が
   欲しいって言われても事務所の社長としては困ってしまうわよ。
   もちろんピアノの先輩としての意見としても今子供を産むのは反対かな」

かずさ「あたしだって今は子供が欲しいなんて思っていないよ」

曜子「私も今はその時期ではないと言っているだけなのよ。子供を産むことでピアノの質が
   向上する事もあるわけだしね。…………まあたしかに子供を産んで引退しちゃう人も
   いるから人それぞれかな? そうよね。子供がっていうよりは、
   子供を産んだあとの環境ってことかしらね」

かずさ「心配するなって。あたしは…………、その。子供は育てられない。
    だから産みたいとは思っていない」

春希「かずさ?」

 俺は具体的な何かは掴めはしないが、不安が俺の背中を押し、
かずさの肩に手をかけようとする。しかし、目に見えない拒絶が俺が触れる事を拒む。

かずさ「春希っ、違うんだ」

 かずさ自身も俺の事を拒んでしまった事に驚く。
おそらく俺以上にかずさの方が驚いているに違いなかった。

春希「かず、さ?」

かずさ「本当に違うんだ。いや、違くはないんだけど、その、えっと、子供は欲しい。
    春希との子供なら欲しいよ。だけど、子供は育てられない。
    子供を育てる事ができるなんて、あたしには思えないんだ」

曜子「ごめんなさい春希くん。たぶん私が育児をしてことなったせいね」

かずさ「それも違うよ。母さんのせいじゃないっ」

曜子「でも、私がかずさの世話をした記憶はないわ。生まれた時から人任せで、かずさに
   してあげたことはピアノだけ。そのピアノにしたって私が直接指導することなんて
   ほとんどなかったもの。ピアノを与えて、優秀な指導者を付けてあげただけよ」

かずさ「だから、母さんのせいじゃないんだって。あたしの気持ちの問題なんだ」

曜子「じゃあどうして子どもはほしいけど育てる自信がないっていうのよ?」

かずさ「それは…………」

曜子「すっごく人任せの言い方をしてしまうけど、私もかずさが育児を完璧にこなせるとは
   思っていないわ。むしろ人にまかせっきりになってしまうでしょうね」

春希「曜子さん、さすがにそれは言い過ぎなのでは?」

曜子「春希くんは黙ってて。それに、お世辞にもこの子が育児を一人でこなせるとは思え
   ないわ。もちろんお金で解決することはできるわよ。でも、この子の場合はそのお金で
   解決する手段さえ使えない気がするわ。えぇと、言っておくけど、お金の問題ではないのよ」

春希「えぇ、まあそうですよね」

 普段から派手にお金を使っているし蓄えも十分にある。
それに今も稼ぎもいいわけだからお金の心配はないくらい俺だってわかる。
たしかに曜子さんが言う通りかずさはお金があっても、その使い方を知らない場合が多いんだ
よな。ベビーシッターを雇うにしても、どう契約すればいいかさえわからないだろうしな。

曜子「この子はね、普段の生活さえ一人では無理なのよ。食事だって自分では用意できない
   し、一人にしておいたらきっと一週間は生きていられないわよ」

春希「それは言いすぎ…………ではないですね。切実に心配です」

かずさ「春希っ! それは言いすぎだろっ」

春希「いや、そのな。お前ここから一人でウィーンに帰れって言われたらできるか?」

かずさ「えっと、どうかなぁ……」

 あっ、目をそらしたな。
 予想通りの反応過ぎて不安がさらに急上昇してしまった。

春希「一応聞いておくけど、ここからうちのマンションまでは帰れるよな?
   ここからだったら歩いてでも帰れる距離だからな」

かずさ「タクシー使ってもいいのなら」

春希「はぁ……。今お金持っているのか?」

かずさ「…………ない、かな」

春希「わかった。お金はあるとする」

かずさ「なら、大丈夫?」

春希「住所は知っているのか?」

かずさ「…………知らない」

 ぷいと横を向き拗ねる姿を単純にかわいいなんて思っていられるほど俺は能天気では
なかった。むしろ心配症の俺の保護欲が急上昇するほどだ。
 わかってはいたけど、かずさを一人にはできないんじゃないか?

春希「とりあえず俺から離れないように手を握っておけ。
   こんな所で迷子だなんてなられたら最悪だからな」

かずさ「そこまで言うのかよっ」

春希「俺と手を握るのは嫌なのか?」

かずさ「…………嫌じゃないけど」

春希「だったら、ほら」

かずさ「わかったよ」

 温かくて細長い指が俺の手に絡みついてくる。
 どうやら俺もかずさも手をつなぐ事は嫌ではないらしい。手をつなぐ事によって、
俺は恥ずかしさを、かずさは拗ねていたのを忘れたほどなのだから、
手をつなぐという行為は些細な事を忘れさせてくれるようだ。

曜子「おのろけ中に悪いんだけど、ねえかずさ。どうして子どもは駄目なのよ?
   春希君があなたがまったく子育てできない分も含めて子育てしてくれるわよ。
   いっそのことあなたも含めて二人分まとめて育ててくれるほどだと思うわよ」

 曜子さんが言いたい事はよくわかる。間違ってない。間違ってないけど、
かずさにそれを言ってしまったら、また拗ねるじゃないですか。

かずさ「それもわかってる。でも、あたしが心配しているのは、そういうことじゃないんだ」

曜子「あらそうなの?」

 かずさの反論に、曜子さんも肩透かしをくらったようだ。そして俺も、
かずさには悪いけど似たような気持であった。
 今は和泉千晶っていうでっかい子供まで世話してるんだ。
ここにかずさと子供が加わったらどうなってしまうかと内心不安にもかられる。
 でも、千晶の世話にせよ、俺は嫌だと思った事はない。…………まあ、面倒だとは思う事は
ある。たまに頭をひっぱたきたくなるようなこともある。もちろん叩かないけど。
 それでも一緒にいる喜びが俺を動かしてくれるわけで、それがかずさとその子供ならば、
俺を元気よく動かしてくれるはずだ。

かずさ「あたしは母親になるのが怖いんだ。
    あたしなんかが母親になったらいけないとさえ思ってる」

曜子「それを言っちゃったら私なんかあなたを産んでもなお母親になんてなれなかったわよ。
   でも、それでもあなたは育ったじゃない? だったらかずさが子供を産んでも大丈夫よ」

かずさ「たぶん母さんの言う通りだとは思うよ。実際子供なんてほっといても育つと思う。
    母さんが海外に行ってからもあたしは何不自由なく生活できていたからな。
    あたしの場合は金銭面では全く不自由しなかったし、ピアノだって好き勝手やること
    ができた。そういう面では充実しすぎるほど充実していたし、
    この環境が恵まれ過ぎているっていうことも理解できている。
    だけどさ、そういうのでもないんだ」

春希「俺だって自分が父親になれるかどうかなんて自信はない。だけど、
   この人とならって人との間の子供なら、この人の子供を育てたいっていう相手となら
   大丈夫なんだじゃいのか? そりゃあ全てがうまくなんていきやしないだろうけど、
   俺だってまともに育ったとは思えはしないけど、こうして生きていけてる」

かずさ「理屈ではわかってるんだ。わかってるよ。だけど…………どうしても駄目なんだ」

春希「…………かずさ」

 かずさは曜子さんのせいではないとかたくなに認めようとはしないが、
根本的には曜子さんが中学生のかずさにした決断が原因だと俺は判断してしまう。
 今まで世界の中心だった母親に捨てられたと思いこまされてあの広い屋敷に一人で
高校生活を送らければならなくなったかずさの心境は、
極端な言い方をすれば虚無だといえるんじゃないだろうか。
 これがいっそ地獄ならば生きていこうと強くなれたかもしれないと思えてしまう。
だけどかずさに用意されたのは、今までの世界を否定された何もない世界。
 なにもなければ動けはしないし、心も死んでいってしまう。
 それが感情を表現するピアノであれば致命的にかずさの心を引き裂いてしまったのだろう。
 その高校時代を経験したかずさにとって、自分が経験した耐えがたい高校時代を自分の子供
にも経験させてしまうのではないだろうかという不安は、
きっとかずさの心に深い傷として残っているのではないだろうか。

曜子「…………春希君、ごめんなさい」

春希「曜子さん」

曜子「かずさはああ言っているけれど、やっぱり私のせい、みたいね」

春希「……それは」

 俺は、それが違うとは言えない。心の底では曜子さんが原因だと思ってしまっているから。
それに、ここで気を使った言葉をかけても何も解決はしないだろう。

かずさ「だから母さんのせいじゃないって言ってるだろっ」

 かずさの必死の訴えも、どこか空々しく聞こえてしまう。
 たとえ母親の事を今は恨んでいなくても、恨みがなくとも傷は残ってしまっているから。

曜子「…………かずさ」

 秋風が俺達を追い越していき、肌寒さだけが体の芯に響かせてゆく。まだ秋であって冬では
ない心地よさを届けてくれるはずの秋が、どんよりと俺達の心を冷たくしてゆく。
 俺も曜子さんもかずさの元気な姿ばかり見ていたせいで忘れていた。
高校時代のかずさを知っている俺でさえかずさが隠していた傷に気が付けないでいたんだ。
 いや、俺はかずさが本当につらい時を見ていない。俺がかずさを意識しだしたのは、
かずさが普通科に移って来てからの高校三年からでしかない。
 音楽科で一人孤独であった高校一年、反発しても虚しいだけの高校二年。その高校生活に
おける大部分を占める二年間はほとんど武也から聞いた話でしか理解していないかった。
 もちろんかずさからも少しは聞いてはいるが、
それは事実の羅列であって感情の吐露には至っていなかった気がした。
 俺達は成長して社会人になった。かずさはジェバンニで二位にまでなり、
今話題のピアニストにまで駆け上がった。
 だけどかずさの心の一部は、今もあの音楽室で一人でいるとは思いもしなかった。



第69話 終劇
第70話につづく




第69話 あとがき

もう一つの連載『やはり雪ノ下雪乃〜』が完結して時間の余裕ができたはずなのに
どうして今まで以上にスケジュールが埋まりまくっているのでしょうか? 謎です。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。

黒猫 with かずさ派

このページへのコメント

更新お疲れ様です。
かずさが子育てについて後向きな態度になるのは仕方の無い事かもしれませんね。もし春希と出会わなければピアニストとして生きてゆく事さえ出来なかった可能性が高いでしょう。でも裏を返せば春希と出会いピアニストとしてそれなりにやって行ける様になったからこそ、その先について悩む事も出来る訳でそう考えると春希がかずさを好きになってくれた事はかずさには途轍もなく大きな人生のポイントでしたね。
次回も楽しみにしています。

0
Posted by tune 2015年10月26日(月) 17:39:51 返信

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

Menu

SSまとめ

フリーエリア

このwikiのRSSフィード:
This wiki's RSS Feed

どなたでも編集できます