未だ、夜のテレビの声や家族の談笑が僅かに聞こえる住宅街にて、男二人は向き合っていた。
 初めて、こうして向き合うといっても過言所か、それは事実で。嫌な緊張感がある。いつもは五人で談笑をしながら向き合う事はあっても、二人っきりで話し合うのは初めてだった。

「ストレートで良かったかな」
「はい、今日はそれでお願いします」

 トクトクとブランデーグラスに注がれる琥珀色。芳醇な香りを蓄え、注がれる度に、僅かな甘い香りが部屋に満ちていく。鼻をくすぐる芳醇にして濃厚な香り。それだけで一級品だという事が、ここ最近分かり始めた舌と鼻が判断をしていた。

「こうして、君と向き合って飲むのは初めてだったか」
「そう、ですね」
「固くならなくてもいい。別に、君を取って食う訳ではない」
「あっ、あははっ」
「まずは乾杯をするとしよう。君と雪菜の結婚を祝して」
「ありがとうございます。お父さん」

 今日、こうして初めて盃を交わしたのは、春希と雪菜の父だった。


 数日前、雪菜の母からではなく、父から直接の誘いの電話が来た。
 仕事を何とかその日空くように調節し、結果こぎつけた二人の酒杯。孝弘は彼女と遊びに行っている。雪菜の母はリビングに控えているが出張ってくる気配はない。雪菜は連れてこなかった。雪菜の父から二人きりでという言葉があったから、連れ来ることはなかった。

「君とは二人きりで飲みたいと、一年前から常々思っていたのだが、遅くなった。すまない」
「いえ、お父さんも仕事があります。俺も、休みが中々に取れない業種にいる事ですし」
「そうだな。君も随分と活躍しているようだ」
「雪菜とかずさのおかげです。俺がこうしているのは」
「君らしい」

 気まずい空気の中当たり障りのない言葉を選んで会話する。ぎこちなさが取り払えない二人。雪菜の父は何時ものように、だが、いつもよりもゆったりとかみしめるように酒をたしなみ、春希は折を見てその喉を焼く熱さに耐えながら飲んでいた。

「もうすぐ、結婚式か。早いものだ。今でも目蓋を閉じるとあの子が、お父さん、お父さんと抱っこをねだる姿が浮かぶ。本当に早いものだ」
「そうですね。俺も彼女と出会って六年。随分と時間が経ちました」

 時間は経過した。だが、二人の中にある時間の感じ方には差異がある。見守り、成長を感じてきた雪菜の父にはあまりにも早く、傷つけ、傷つけられ苦しみ合った時間を過ごした春希にとっては六年という膨大な長い時間。

「あの時には、雪菜が男を家に連れてくる事など考えてもいなかった。本当に早いものだ。今も、雪菜の事は目に入れても痛くないと思える」
「…………お父さん」
「立場上、お互い印象は良くなかったかもしれない。私は君の事を避けていたし、君は煙たがっていたかもしれない」
「そんな事は、なかったです。俺は…………」
「しかし、私が君にそういう態度を取ったのは、君が雪菜に全面的に信頼され、愛されているからで…… それが私には、もう覆せない事だと思っていたからで」
「えっ」
「それ見た事か、とか、お前は騙されているんだ、とか……そういう言葉では、絶対に娘を諭せない……心の底から雪菜を一番に考えてくれている、嫌になるくらい信頼できる男だと思っていたからだ」
「ありがとう、ございます」

 父親に褒めてもらった記憶も、認めて貰った記憶もほとんど残っていない春希にかけられた言葉は、父親の様に威厳と優しさのある声。
 鼻をぐずつかせながら、精一杯の感謝の気持ちで言葉を返す。いつか、こんな言葉を聞けるのかと願っていた。それが漸く聞けて。最後の最後まで渋った態度を取っていた雪菜の父からは、本当は最大限の信頼を寄せられていた嬉しさが溢れだす。

「君は、その信頼を最後まで裏切らなかった。感謝する」
「そんなっ! 俺は、何度も雪菜を、傷つけて。裏切りそうになって! 俺は、俺は……………………」
「だが、君は今日ここにいる。君は、雪菜の手を最後にはきちんと取った。それが全てだよ」
「おとう、さん」
「私達の信頼を最後まで裏切らずにいてくれてありがとう」
「俺こそ、こんな俺を最後まで信頼していただいて、本当に言葉が尽きません」
「かしこまった言葉はいい。君はこれから、私たちの家族になるのだから。もう一人の息子よ」
「…………………………………………っ!」

 零れ落ちそうな涙を耐える為に上を向く。下を向いていれば涙をこらえきれずにスラックスを濡らしていただろう。それだけに不意打ちだった。それだけに嬉しい言葉だった。
 いつかのどこかの世界。選ばなかった未来において投げかけられた冷たい言葉。それと全く同じ言葉が、温もりと優しさに溢れた言葉で帰ってくる。

 だた、本当に家族と認められる。それだけで喜びは尽きない。


「それで、子供の方はどうするつもりかな?」
「家を建てる目途がついたらにしようかと。上司や勤め先で懇意にしている方が何人かいるので」
「そうか、子供の事で苦労はするだろう。しないはずもない。困った事があれば私や家内に相談するといい」
「はい、その時は頼らせていただきます」
「しかし、孫か」
「可愛がり過ぎないでくださいね。甘やかしすぎてもいい事はないですから」
「そんなにジジ馬鹿になりそうかな、私は」
「雪菜が常々言っていたので」
「まぁ、最後の所で責任が行くのは親である雪菜と君なのだから、存分にかわいがるとしよう」
「お父さん…………」
「何、子供も手を離れて、後は見守るばかり。孫でも可愛がらないとやっていけないのだよ。この年になると」
「あっ、あはは」

 チロリチロリとブランデーを舐める。手の中の温もりがブランデーの香りを花開かせて、より一層香りが立っている。
 美味い酒だ、と心から思う。

 ふと、ブランデーのラベルを見る。そこには、24年の歳月が刻まれていた。

「ん、あぁ。これか。いつか、雪菜が大人になった時に注いでもらおうと思っていたんだが。高校を卒業目前に君を雪菜が連れてきてからは、そうする事をやめた。いつか、飲もうと思って、雪菜の成人式でも封を切らなかった。いつか、雪菜の結婚式の前に飲もうと思っていた」
「俺が、ご相伴にあずかって良かったんですか?」
「君と、飲もうと思っていた。だから、こうして叶ってくれて良かったと心から思う」
「……………………」

 あぁ、どうしてこの人は、俺の心の琴線に触れる事ばかりを、嬉しい事ばかりを言ってくれるのだろうか。そう思う心が春希には尽きない。
 
「お母さんとはどうだね?」
「えぇ、出席はしてくれるようです。雪菜のお蔭で、長い間あった溝が、少しは埋まったと思います。それは、これからも埋めていきたいと。雪菜のお蔭です」
「私が言うのもなんだが、君も中々に大変な女を捕まえたな。そこまでお節介するのは中々にいない」
「雪菜は、周りが幸せでないと自分も幸せになれないと言ってましたから」
「強欲な娘だ。雪菜らしいと言えば雪菜らしいが」
「えぇ。お父さん。こんなにも素晴らしい娘さんに育てて下さって、そして、出会わせてくれて、結婚を許してくださって。本当に、ありがとうございます」
「……………………っ。私ではなく、家内に言ってやってくれ。雪菜を育てたのはほとんどが家内だ」
「はい、後で必ず。ですが、先にお父さんに伝えておきたかったんです。俺をいつも厳しくも優しく見守って下さった、俺の父に」
「………………………………っ、そうか」
「はい」
「今日の酒は少しばかり、塩が効いてる」
「えぇ、でもその塩味で旨味を増してます」
「あぁ、本当に。塩辛い気がするが、今日は実にうまい」

 静かにグラスを傾け、塩味の効いた酒を二人で嗜む。未だかつて味わった事のない、芳醇にして苦くもあり、甘くもある人生でただ一度きりの酒。男だけが味わえる、極上の美酒。

「雪菜の事を、頼む」
「…………俺は、雪菜を傷つけてばかり、苦しめてばかりでした。これからもそうでないとは言えません。この命にかけて何て出来るかどうかも分からない事を口走る事も出来ません。ですが、今まで以上に、雪菜の笑顔を守っていきたいと思います。雪菜の横を一生歩んでいきたいと、思います。」
「本当に、君は嫌になるくらい、私が思った通りの息子だよ」
「頑張ります。お父さん」
「あぁ、頑張れ。私のもう一人の息子よ」

 男達の静かな宴は、夜遅くなるまで繰り広げられた。新しい息子と新しい父の間に祝して、

 この後、お互いの妻に怒られるまで、酒杯を傾け合う親子の姿が度々、見られることになる。

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