大晦日のコンサートに向かったら 第十七話

1月7日 朝9時

ジリリリリリ!

「ん……」

ジリリリリリ!

「春希ぃ……止めてくれ」

ジリリリリリ!

「春希!?」

目覚まし時計を止めるのは毎朝いつも春希だった。かずさがうるさがらないように、目覚ましが鳴り出した瞬間に起き、すぐに止める。

それなのに今日の春希はいつまでも目覚ましを止めようとせず、そしてかずさは布団の中に春希のぬくもりを感じることが出来なかった。

かずさは今日がいつもと違う朝などだと気づいた。ぱちっと目を開き、布団を放り出す。

けたたましく鳴り続ける目覚まし時計を叩くようにして止め、部屋を見渡す。

――春希の姿がどこにもない。

ベッドを飛び出てキッチン、トイレ、お風呂場を探すが、春希はどこにも居なかった。

「何で…」

今日は一緒にデートをするはず、それなのに春希はどこに行ってしまったのだろうか。かずさは携帯で連絡を取ろうと、寝る前いつも携帯を置いているテーブルを見た。

「あっ…」

テーブルには一枚の書き置きが残されていた。パニックになってしまって見落としていたようだ。かずさははぎ取るようにその書き置きを手に取る。

『かずさへ
おはよう。おそらくこれを読んでる頃、時刻は9時になっている。その時間に目覚ましをセットしておいた。
かずさが学生の普通のデートをしたいというので、俺はその願いをできる限り叶えたいと思う。
普通のデートの始まりはやっぱり『待ち合わせ』だと思う。
だから10時半に御宿駅の西口にある、今はもうめずらしい公衆電話の前で待ち合わせよう。場所がうまく分からなかったら連絡してくれ、俺がかずさの元に向かう。
それじゃあ待ってるな。
追伸
頼むからカギだけはかけ忘れないでくれ!』

書き置きがあった場所のそばにカギが置いてあった。カギの横にもう一枚書き置きがあり、『→このカギな!』

と、念を押すように書いてあった。

「――ッ」

かずさは顔を真っ赤にしながら書き置きをぐしゃぐしゃに丸め、ベッドに向かって投げつけた。

◇◇◇

「――お、かずさ! こっちだ!」

御宿駅からかずさが歩いてくる。どうやらあの後二度寝をすることは無かったようで、春希は一安心した。

「ああ、こんなところにいたか。あたしを部屋に置き去りにしていった冷血漢は…」

かずさは腕を組んで仁王立ちし、春希の顔をその切れ長の瞳でにらみつける。

早い話、春希に置いていかれた事にすねていた。

「あのなぁかずさ、確認するぞ、昨日お前は『普通』のデートがしたいと言ったな?」

「……ああ、そうだよ」

「ちょっと周りを見てみろ」

かずさはめんどくさそうに周りを見た。

どうやらここは待ち合わせスポットになっているようで、手を繋ぎどこかへ向かうカップルや、これからどこへ行こうか話し合っていたりするカップルなど、まぁどこを見てもカップルだらけだった。

「な、みんなこうして待ち合わせをしてからデートに向かうんだよ。それなのに俺たち…」

春希は恥ずかしそうに口をつぐんだ。

ここにいるカップルたちのデートプランのゴールのほとんどは、一緒のベッドで次の日の朝を迎えることだろう。

それが『普通』だとするならば、自分たちはゴールからスタートしてしまう事になる。

なぜなら一週間近く、二人は朝を同じベッドの中で迎えていたのだから…

「――ああ分かった、分かった! 春希は普通のデートをしようとしてくれた!」

「分かってくれて助かる。それで今日のプランなんだけど、まず映画を観に行こう」

「…うん」

「よし、映画館はここから歩いて10分ぐらいだ。上映開始まで時間があるけど余裕を持って行動した方が良いからな、さあ行こうか」

歩き出そうとする春希だが、ぎゅっと裾を捕まれる。

「どうした?」

「…春希も周りを見てみろよ、どのカップルもみんな手を繋いでるぞ」

――確かにかずさの言う通りだった、それが『普通』の様だった。

「悪かった、これでいいか?」

春希はかずさの手をやさしく握る。

「…うん、いいよ」

二人で手を繋ぎながら映画館へ歩く。そういえば、こんな明るい時間に外でかずさと手を繋いで歩くのは初めてだった。

「(これが『普通』のカップルなんだ、『普通』の…)」

――そう春希は自分に言い聞かせながら、かずさと映画館へ向かった。

◇◇◇

「――内容はラブストーリー、脚本も素晴らしいけど、音楽がそれをさらに引き立ててるみたいでさ、アカデミー作曲賞にノミネートされるかもって話だ」

「ふーん」

映画館に着き、チケットを買い中に入った。自分の分のチケット代をかずさが払おうとしたが「俺の顔を立てさせてくれ」と春希が二人分払った。

この映画も春希のチョイス。ピアニストであるかずさの事を考えて、なるべく映画音楽に重点を置いた作品を選んだ。

話題になっている洋画だけあり席は8割ほどが埋まっていて、そのほとんどがカップルだった。

かずさはカップルたちの様子を横目で見ながら席に着いた。

「今観察してて思ったんだけど、普通カップルってのはこうやって映画を観るらしい」

頬を赤らめるかずさ。駅で手を繋いだのと同じように、『他のカップルもやっている』ことを免罪符に、自分の手を隣の春希の手に重ねる。

「…そうだな」

かずさは春希が思ったより映画館という娯楽施設を楽しんでいた。

館内が暗くなり、スクリーンに本編前のCMが映った。顔がビデオカメラになっているスーツ姿の男が映画の盗撮は違法だと訴えかけていた。

「(これからは俺も著作権の勉強をしておかないとな…かずさの容姿的に色んな動画サイトに投稿されそうだ…いやむしろ、宣伝をかねてこっちの方から動画サイトに投稿してみる手もあるのか…)」

などと考えていると、本編が始まった。

舞台はイギリス、証券会社に勤める30歳手前のやり手女性社員と、新卒で入ってきた部下の男との恋。

業績が評価され、アメリカにある本社に引き抜かれた彼女。

男の事が気がかりなのだが、歳が離れていることに遠慮し、男を捨てアメリカに向かう。

アメリカに着くと、なぜか自分の名を呼ぶ男の声が、声のする方を振り向くと別の便で女性より一足先にアメリカに着いていた男の姿があった。

2人は抱き合い、永遠の愛を誓い、ハッピーエンドという内容。

春希は途中、飛行機に乗るため雪道を必死に走る男の姿がなぜか他人事に思えず、かつ前評判通り音楽が素晴らしく、ハンカチを濡らしてしまった。

作品を締めくくる情感たっぷりな曲の中、エンドロールが流れる。

「…あいつかよ」

作曲者の名前がクレジットされた後、かずさがぼそっと呟いた。

◇◇◇

二人は映画館を出た、外の明るさが目に染みる。感動して涙を流している彼女を慰めている彼氏の姿が多く目についた。

「お、面白かったか、かずさ?」

こちらのカップルの方で泣いているのは彼氏の春希の方だった、目が赤くなっているのがバレないよう、かずさと目を合わせずに喋る。

「普通だね、まぁ海外まで彼女の事を追っかけた男の事は評価してやるよ」

「そうか、良かった。ところでエンドロールの時、何か言ってなかったか?」

ぼそっと何か言っていたような。

「ああ、あの映画の作曲者な、昔、母さんのヒモだったんだよ。どっかでみた名前だと思った」

「は?」
先ほどまで潤んでいた春希の瞳が一気に乾いた。

「昔、海外で母さんと食事したときに母さんの隣にいたんだ。唇が母さんの耳にくっつくくらいに近づいて囁くように話す男でさ、帰り際にいつも母さんの泣きぼくろにキスするんだ。あの時はまだ駆け出しだったけどね。ふーん、結構良い曲書けるようになったな」

「………………」

春希は何とも複雑な気持ちになった。映画内で流れるロマンチックな音楽を思い出そうとすると、頭の中で曜子とその作曲者が熱い夜を過ごしている姿が思い浮かんできてしまった。

「ど、同僚の黒人の俳優の演技はうまいなぁと思ったよ」

春希は音楽から話を切り替え、頭の中で絡み合う曜子と作曲者の姿を消した。

「あ、うん。あたしもそう思った。作曲賞うんぬんより、助演男優賞の方をあの俳優にあげるべきだよな。あっ…演技といえばさ」

演技という言葉に、何かを思い出したかずさ。

「こ、今度は何だよ…」
また曜子さんのヒモが出てくるのかと身構える春希。

「三年前の学園祭、あたしたちの演奏の前って、演劇部の公演だったって知っていたか?」

「いや…今初めて知った。というよりかずさ、他の出演者の事なんて気にしてたのか?」
あの時期は三人の出番、自分のギターの事しか頭に無くて、前の演者の事なんか考えたこともなかった。

そして、ふだん学校行事に関して非常に疎いはずのかずさの口から、学園祭に関して自分の知らない内容を話されるのが新鮮だった。

「母さんから聞かされたんだ。あの人、あたしたちの出番の結構前から会場にいたらしい。それで演劇部の出来が素晴らしかったって、芸術関係でめずらしく褒めてたよ」

「曜子さんが褒めた? それはすごいな。そういえば校舎に垂れ幕がかかってた事があったな『演劇部 金賞受賞』みたいな感じで」

「母さんが褒めてたのは正確には演劇部じゃなくて、主演女優だけどな。一人で四役こなしたらしい。照明とかセットとかは高校レベルだけど、あの女優の演技はお金を払える演技だってさ。名前は確か…せ、せ、せの…『セノウチアキ』?」

「『セノウチ、アキ』か『セノウ、チアキ』か、どっちの名前を聞いたこと無いな。そんなにすごい女優なら聞こえてきそうだけれど、違う大学に進学したのかな?」

「案外春希の近くにいたりしてな」
春希の顔をのぞきこんでくるかずさ。

「だから、そんな名前の女の子知らないって」

「偽名を使ってさ、持ち前の演技力を使って春希に近づいて。高校時代、学園祭で話題をもってかれた恨みを晴らす事を刻々と計画しているのかもな」

「こ、怖いこと言うなよ…ん? セノウ、『チアキ』?」

「何だよ、やっぱり心当たりあるのか?」

「いや、ないない、いくらなんでもないな。おっともう二時近い、さっ次はランチだ」

「――うん」

『チアキ』という名前から一瞬、和泉千晶の姿が春希の頭をよぎった。一時期毎日のように春希の家に来ていたが、クリスマス前からぱたりと訪れて来なくなった女性。

あいつが偽名なんてめんどくさいことをして俺に近づいてくるわけが無い、春希は研究室で気持ちよさそうに寝ている千晶の姿を思い出し、先ほどの疑惑を頭から振り払う。

◇◇◇

「春希ぃ、ここでランチはないだろぉ……」

かずさの語尾がうわずっている。かずさの言葉の字面だけ追うと拒否の意なのだが、かずさの顔は春希がこれまで見てきた中で一番表情が緩んでいた。。

目尻は垂れ下がり、口角は上がり、普段よりも脚が内股になっているような気がする。

『スイ○ツパラ○イス』

今、二人の目の前にある店の名前だった。そして入り口にはシンプルなメニュー。

『スイーツ食べ放題、1時間1500円』

この店の前に連れてきてから、かずさはこんな風に心身(特に胃袋)共にとろけてしまっていた。

「そ、そうだな、やっぱりランチはもう少ししっかりしたものを…」

春希はかずさのそんな様子に、この店に連れてきた事を若干後悔し始めた。

「冗談冗談、ここで良いって! ほら店内を見てみろよ、カップルがたくさん居るぞ、普通のデートだろ?」

「カップルが多いっていうか、男一人だと入店できないんだけどな。分かった、入ろう」

「あはは、やった」

自動ドアが開き、店内からあんまい匂いが漂ってきた、匂いだけで血糖値が上がってしまいそうだった。

店員に席に案内されたが、かずさは席に座ること無くいくつものテーブルに並べられている様々なスイーツへと向かっていった。

春希はスイーツへ向かう前に、いつも常備している胃腸薬をちゃんと持ってきているか確認した。

――入店して30分が経過した。

「俺…もう十分だよ…」

「え? まだ半分の時間だぞ。あ、これも美味しい…」

かずさは生クリームをたっぷりのせたパンケーキを口に含みながら喋った。

糖分でたっぷり満たされ、胸焼け気味の春希には、食べながら喋るなと注意する気力は無い。

「ほら春希、お前も食べてみろよ」

かずさは切り分けたパンケーキの上に生クリームをたっぷりと乗せたフォークを春希の口元に運んだ。

「お、おいやめろよ…」

「何照れてるんだよ、家の中じゃうどんふぅふぅまでして食べさせたじゃないか」

「あれは周りに人がいないかったから…」

「……周りの人ってのを見てみろよ」

周りの席に座るカップルも、恋人の口にスイーツを運びながら食べていた、彼らに恥じらいの表情は全く見られない。。
店の中に満ちる甘い匂いは、脳神経まで甘いモノにしてしまうらしい。

「……わ、分かったよ。あ、あーん」

「はい、春希」
かずさは春希の口の中にパンケーキを入れた。

「美味しいか?」

「ああ…美味しいよ」
顔を真っ赤にしながら話す春希。

「口元にクリームがついてるぞ」
かずさは春希の口元に手を伸ばし、クリームをすくい取ると、ぺろりと舐めた。
そんな淫靡な光景と、店内の甘い匂い、胃を満たすスイーツに春希はもう色々な意味で限界が来ていた。

「俺のことはいいから、かずさは残り30分、好きなだけ食べてくれよ」

「言われなくても…いただくよ」

経過した時間は同じでも、かずさが食べた量は春希の倍以上になるだろう。

それでもかずさの手は止まらない。

「もいっかい!」

かずさはまた席を立ち、チョコファウンテンに向かう。石清水のように頂上から流れ出るチョコに楽しそうにバナナを浸している。

「本当に…綺麗だよ…」

そんなかずさの姿を見て、春希は席からぼそっと呟いた。

同じようにスイーツを求める他の女性客の中に、かずさの姿が混じっている。

それなのに、かずさだけ色使いが違うように他の客から輝いて見える。

春希が恋人だから、ひいきしてかずさが見えているのでは無い。

元々そういうもの他人とは違うものを持って生まれてきているのだろう。

そしてかずさにはその恵まれた外見だけで無く、ピアノの才能も与えられている。

神様は不公平だ。

「ただいまっと…」

山盛りになったお皿を持ってかずさが戻ってきた。

「太るなよ」

「大丈夫、あたしいくら食べても太らないから」

かずさは周りの女性客に聞かれたらフォークを投げられそうなことをさらりと言った。

――やっぱり神様は不公平だ。

◇◇◇

「――次はどこに行くんだ?」

スイー○パラ○イスを出た後も、かずさは上機嫌だった。手を繋ぐだけでなく、腕を絡めてくる。

通りを行き交う男の春希を見る目がいっそう厳しくなっているのだが、夢心地に居るかずさは気がついていないようだ。

かずさの胸が、三年間でさらに成長した胸が春希の腕に押しつけられている。

もうこのまま二人で部屋に帰り、押し倒したくなってしまう気持ちを抑え、春希は次のプランを話す。

「――アクセサリーを見に行きたいんだ」

◇◇◇

「いらっしゃいませ」

落ち着いた中年の男性店員の声が店内に響く。春希は以前雪菜にアクセサリーを買った店とは違う店にかずさを連れていった。前の店は品揃えはいいのだが、店員が春希の顔と購入商品を覚えてしまっているのがネックなのだ。

「…それで、何を買うんだよ?」

照れくさそうに尋ねてくるかずさ。

「――ペアになるアクセサリーが欲しいんだ。離れていても、それに触れればかずさの事を思い出せる。そんなアクセサリーが…」

「そっか…」

「ネックレスなんてどうだ? こういうのって指輪…ペアリングが定番だけど、ピアノの邪魔になりそうだからさ」

「ネックレスか、いいな…」

指輪をしていても、よっぽどゴツゴツしたもので無い限りピアノの演奏に影響は無い。それでもかずさはネックレスを選んだ。

指輪は…また別の機会に、もっと大事な時に渡して欲しかったから。

「――この、クロスのネックレスがいいな」

しばらく店内を見てからかずさが指さしたのは、シンプルなシルバークロスのネックレス。

ペアになっていて、男性の方のものが一回り大きく作られている。

「俺も良いデザインだと思う。でも十字架か…かずさは信仰心みたいなのあるのか?」

「まぁ、音楽神ミューズは信じてるよ。神様、信仰心、うん…あってもいいかな…」

かずさは笑顔で答えた。

これまでかずさは信仰心なんて、神様なんて信じていなかった。
一時は自分からピアノを奪いにかかり、さらには春希と親友さえも失いそうになったのだから。
それでも、もし今こんな風に春希と廻り会わせてくれるているのが神様のおかげだとしたら、少しくらい信じてあげてもいいと思った。

そしてデザインがシンプルなものを選んだのは、このネックレスが自分と春希の今の関係を繋いでいる様子を表現しているものにしたかったから。
これからかずさと春希の関係は、恋人、マネージャー、高校時代の同級生と色々表現する事ができる。

でもその関係を繋いでいるのは「愛」というたった一つのシンプルな想い。
愛しているから一緒にいる。

そこに誰に対しての遠慮も、罪悪感の無い。
愛しているから二人は一緒にいる、ただそれだけ…


「あってもいい…か、面白い表現だな」

「ほ、本当だ! 母さんと今度のクリスマスはストラスブールのミサに行こうって話してたんだ」

「ストラスブール? フランスか」

「そうだ、教会のミサも幻想的だし、雪化粧した街並みも綺麗なんだよ」

「石畳の上に雪か、走って転ぶなよ」

「はははは、何でストラスブールで走らなきゃいけないんだよ。心配なら春希も来るか?」

「行きたいところだが、クリスマスか…日本に居られる最後の時期だから、忙しくなってそうだ。できない約束はしたくない。親子水入らずで楽しんできてくれ。その綺麗な街並みを写真で撮って送ってくれよ」

「りょーかい」

「写真には、かずさの姿も入れてくれよな」

「はいはい、分かったよ」

「じゃあ、このネックレスでいいか?」

「…うん」

春希はガラスケースの中を指さして。

「――このペアのネックレス、お願いします」

◇◇◇

「――ありがとうございました」

店員の言葉を背に、二人は店を出た。

「春希、さっそくあたしにネックレスをかけてくれよ」

かずさは二人の間を象徴するもので縛られたがっているのだろうか。

ネックレスをねだるかずさのうれしそうな表情に、春希はどことなく犬のような印象を受けた。

――でも、ここではネックレスを付けられない、そういうプランだ。

「次の場所でな」

「どこに行くんだ?」

「――まず、駅に戻ろう」

陽が沈み始めているが、町で見かけるカップルの数は減っていない。

むしろこれからが、恋人たちの時間…

◇◇◇

「綺麗だな…春希…」

御宿駅から電車を乗り継ぎ40分かけて来たのは『伊吹町駅』、春希がかずさに見せたかったものは駅を出てすぐに見えた。

――光のイルミネーションが施された、大きな大きな樹。

樹の周りにはたくさんのカップルが足を止め、その幻想的な姿を見上げている。

イルミネーションされた大きな樹なんて、東京にはいくらでもある。

それでもこの樹がこれだけのカップルを引きつけるのは、10年前、あるアイドルが生んだ都市伝説が原因だった。

「緒方理奈の大切な樹らしいんだ…」

「緒方理奈?」

「そう…」

10年前、日本アイドル界の頂点に上り詰めながら突如引退を発表した緒方理奈。

引退する少し前、彼女には『謎の男』の噂がつきまとっていた。

彼氏?

大学生?

社会人?

マネージャー?

正体が定かではないが緒方理奈のそばにいるという『謎の男』。その噂が生まれた場所が、この伊吹町駅前の樹。

緒方理奈はここで、ある男性とキスをしているところを多くの人に見られた。

――アイドルがこんな人の多いところでキスをするわけが無い。

――いや、あれは確かに緒方理奈だった。

――暗くて分かるはずが無い。

――イルミネーションで明るかった。

など、この樹の場所は緒方理奈とその男の正体について論争の場となり、正体が判明しないまま、緒方理奈は芸能界を去った。

噂が事実となったのが、緒方理奈の復帰会見。彼女が再び芸能界に戻ってきた時、彼女の左手薬指では指輪が光っていた。

海外から戻ってきた彼女にインタビュアーは質問をした。「あなたが日本で一番印象に残っている場所はどこですか」と、それは暗に、噂は本当か、指輪の送り主は誰かと尋ねていた。

――その質問に対して緒方理奈はにこりと笑い、ここ、伊吹町駅の樹をあげた。

アイドルなのに恋をして、引退したと思ったら復帰したり、世間は緒方理奈に自分勝手な女というレッテルを付け、バッシングを始めた。

そしてこの『謎の男』は緒方理奈をそそのかし、一度引退に追い込んだ男として日本中から責められる事となった。

しかし復帰後の緒方理奈の歌声が、彼が緒方理奈に関しては責められるべき存在では無いことを証明した。

緒方理奈の歌は以前にも増して人を引きつける力を持っていた。

緒方理奈の曲は『恋』をテーマにしたものが多い。しかし今まで彼女は、恋人を愛し、恋人に愛される。そんな普通のことを知らずに歌っていた。

しかし、復帰した彼女の歌声は、本物の『恋』を知っている女性だけが歌えるものだった。

その歌声は緒方理奈は普通の恋する人の心を理解したことを知らしめ、日本中の人が、緒方理奈が『普通の女の子』であった事を理解した。

誰かに恋する気持ち、恋する人に裏切られる気持ち、大切な人を裏切る気持ちを理解した彼女の人の胸を打つ歌声は、これまでの彼女に対する誹謗中傷を全て封じ込めた。

そして『謎の男』の評価は、『緒方理奈に普通の恋愛をさせ、今もその歌声を支え続けている男』というものに変わっていった。

『天才アイドル歌手、緒方理奈』その彼女が選んだ男の正体は今だ明らかになっていない。

この『謎の男』が緒方理奈を得るため失ったもの、傷つけたものがあったのかどうかは彼ら以外には知るよしも無い。

もしかしたら緒方理奈を得るために『謎の男』のとった行動は非難されてしかるべきものだったのかもしれない。それでも、緒方理奈の歌声と人柄が引退前より魅力が増したのは事実だった。

それから緒方理奈が愛したこの樹は、恋に恋しがちな若者達によって『この樹の前でキスをしたカップルはどんな試練にさらされようと永遠に結ばれる』という都市伝説を生み出される事となった…

「――はははっ何だその都市伝説? ただのファンタジーじゃないか」

春希からこの伊吹町駅の樹の話を聞き終わったかずさは、そのとってつけたような甘い都市伝説に笑ってしまった。

別に馬鹿にしているわけでは無い、ただの感想。――『ああ、ファンタジーだな』と、春希は笑いながら返してくれると予想しての言葉。

「非現実的か?」

春希の表情は、予想に反して真剣だった。

今までのデートと春希の態度が変わっていた、春希の真意を探すため、慎重にかずさは言葉を繋ぐ。

「――あ、当たり前だ。この樹が綺麗なのは認めるよ、本当に綺麗だ。ここに連れてきてくれた春希には感謝してる、とっても嬉しいよ。でも、樹の前でキスしたら永遠に別れないなんて非現実的だろう」

「だとしたらさ…」

「――何だよ」

「だとしたら、高校時代、ほんの数ヶ月しか一緒にいなかった、それもひどい裏切りをした相手がさ…三年間自分の事を想い続けてくれて…さらにその相手は世界で活躍する天才ピアニストで、卒業したら自分をマネージャーにして雇ってくれるなんて話…現実的か?」

「それは…」

伊吹町駅の樹の都市伝説をファンタジーだと否定しておきながら、いま自分が春希と交わしている約束も『普通』の感性で考えたらありえない。

「でも現実だ! あたしはずっと春希が好きだった! 春希がマネージャーになってあたしとずっと一緒にいてくれるなんて、考えただけで最高に幸せなんだよ! 
あたしにはピアニストだ! ピアニストを支えるマネージャーを雇うことが変か? マネージャーが恋人じゃおかしいか?」

「おかしくなんてないよ、でも『普通』じゃないだろ? ピアニストになれるなんてほんの一握りの人間だ。それも海外でも活躍できるなんてさらに数が限られる。そしてかずさみたいに道を歩けば誰もが振り向く美人なんて…どう考えても『普通』じゃないよ」

「春希…お前…何が言いたいんだよぉ…何のためにあたしをここに連れてきたんだよぉ…」

かずさは今にも泣き出しそうだった。

さっきまで本当に幸せだったのに。

『普通』のデートが出来ていたはずなのに…

「俺、本当はかずさが普通のデートをしたいって言ったとき、ちょっと怖くなったんだよ。かずさがこのまま普通の女になったらどうしようって、三年間離れていた男の事なんて忘れて他の恋を探そうとする普通の女にさ」

「質問に答えろよぉ…どうして春希はここに連れてきたんだ?…あたしにどうして欲しいんだよぉ…」

「かずさ、俺がデートの最後にこの場所を選んだのは、緒方理奈の愛した樹の話をしたのは、お前に緒方理奈になってもらいたかったから…緒方理奈のように、『壊れた』女になって欲しかったから…」

「壊れた…女?」

「緒方理奈は…どこか人には理解できない、壊れた部分を持っている。アイドルとして頂点にいるのに、その地位を捨てて男といなくなるなんて、壊れた女じゃないとできない。そしてかずさ、お前も…三年前にひどい別れ方をした男を好きでいるなんて、その男をマネージャーにしたいだなんて、普通じゃ無い、壊れてるよ…」

「春…希?」

「俺はやっぱり三年間で変わったよ。他人の事を考えられる委員長じゃなくなった。
かずさが他人と違う壊れた部分を持っている事を知っていたとしても、それをかずさに治して欲しいなんて思わない」

「え……?」

春希はネックレスを取り出した。

「かずさ、お前が壊れてしまったのは、普通じゃない家庭環境や三年前の別れが原因だと思う。
それでもこのネックレスを付けたら、これからどんなに普通の経験を重ねても、普通とはどういうことか理解しても、俺の事だけは忘れない、俺の事だけを愛し続ける、俺を恋人としても、マネージャーとしても側に置き続ける、そんな壊れた女でずっといてくれ。
そしてウィーンへ戻ったら、このネックレスを見る度に思いだしてくれ。日本には三年間、お前を忘れられなかった男が居ることを。一年後には三年間忘れることができなかった女が自分をマネージャーとして雇ってくれるなんて夢物語を信じてしまうぐらいに、壊れてしまった男がいることを…」

「分かったよ…あたしは春希を愛し続ける。たとえ他の人から見たら、普通じゃ無い、壊れていると思われても…。だから春希、ネックレスをつけて…あたしを…縛って…」

春希はかずさの首の後ろに手を回す。

「本当にいいのか?」

「――うん」

春希はかずさの首にネックレスを付けた。イルミネーションの光がシルバーのクロスに反射して、いっそう輝きを増している。

「次は春希だ…」

「ああ…」

かずさは春希からネックレスを渡された。

「春希、お前はこのネックレスを見る度に思い出すんだ。ウィーンには三年間、ずっとお前の事を想いながらピアノを弾き続けた壊れた女が居ることを。そして自分は一年後、その女のピアノを支えるために海外へ出ることを、そしてそれは夢物語ではなく現実なんだってことを…」

「ああ…」

かずさは春希の首の後ろに手を回し、ネックレスを付ける。

「かずさ…俺を愛してくれてありがとう…
 俺のために壊れてくれてありがとう」

――二人の唇が軽く触れる。

「んっ」

柔らかい…春希がそう思った時には、もう唇は離れていた。

「――海外で生活した事の無い春希に教えておくけど…このぐらいのキスは感謝のしるしみたいなものだからな…」

ただの挨拶をかわしただけとは思えないほど、かずさの頬は赤らめていた。

強がっているのがよく分かる、本当にしたいことがよく分かる。だから春希は、かずさがしたいことをするための助け船を出す。

「覚えておくよ。それじゃあ…恋人同士のするキスは?」

「――これから…春希の部屋で…」

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