雪菜Trueアフター「月への恋」第十六話「春希の母」

2ヶ月ほど時間をさかのぼって、4/6(日)春希の実家


「ひさしぶりです…」

 春希が呼びかけた目の前の女性の顔には全て諦めてしまったようなシワが刻まれていた。擦り切れたような生気のない髪には白髪が混じり、乾いてひび割れた泥細工のような唇には紅ひとつさされていなかった。

 春希は、砂を吐くようなかすれた声でやっと次の言葉を紡ぎ出した。

「…母さん」

 母と呼ばれた女性は、口を開いて何か言おうとしていた。しかし、いつもそうだったように、舌が重く湿った綿のようになってしまい、何も言葉を紡ぎ出すことができなかった。

 親子二人の間が毎々のごとくやるせない沈黙に覆われようとしていた。
 そこへ助け舟を出したのは雪菜であった。
「…はじめまして。小木曽雪菜と申します」

 春希の母の眼差しが、若干光をおびた。母はやっとのことでひとこと口にした。
「こんにちは」

 そのたったひとことの返答を待ち望んでいた春希も、ようやく言葉を繋いで返す。
「あ、その。元気、だった?」

 母親はこくりとうなづく。そして、しわがれた声を絞り出すように言った。
「春希は?」

 春希は切れそうな細い糸を手繰るようにたどたどしく会話を繋ぐ。
「俺は、なんとか…。今日は、挨拶に来たんだ」

 そして、雪菜の方を見て勢いをつけて言った。
「俺、この人と結婚します」




 居間に通された二人に、マグカップでホットミルクが出された。コーヒーや茶を飲む習慣は春希の母にはなかった。離婚以来、客を迎えることもなかったのでティーカップもなかった。頭を悩ませた末の選択だったのだろう。

 母親はおどおどした様子で雪菜の様子をうかがっている。

「どうも、頂きます」
 雪菜はミルクに口をつけた。

 甘い。甘過ぎる。蜂蜜が入っている。

 春希の方はミルクを急いで飲み干すと、いそいそと要件を切り出した。
「雪菜とは高校の時からの付き合い。先月の頭に結婚を申し込んだ。
 結納は省略するけど両家顔合わせはしようと思う。
 第一候補日は…」

 雪菜はそんな『嫌な事を早く済まそうとしている』態度が出てしまっている春希を遮る。

「お母さん。お母さんの中では春希くんはずいぶん子供のままなんですね。このミルク、すごく甘いですよ」
「そ、そう? あらやだ。私ったら…ごめんなさい」
「いえいえ。春希くんは小さい時どんな子だったんですか?」
「お、おい。雪菜」
「………」

 口をつぐんだ母の代わりに春希がしゃべり出す。
「どうって、普通の子だよ。ちょっと小利口でくそ生意気だったかもな…」
 雪菜はそんな春希の言辞を聞き流しつつ、春希の母を注視する。春希の母の表情は怯えたような、諦めたような力のないものだった。

 雪菜は意を決して言った。
「ごめんなさい。お茶菓子はお持ちしてたんですけど、お茶の方は忘れてきてしまって。春希君、ちょっとお茶買ってきてくれるかな?」
「? わかった。じゃ、向こうのコンビニで…」
「ううん、駅前にあったルビシアで季節限定のさくらんぼの紅茶がいいな。お母さんはいかがですか?」
「? ええ」
「じゃあごめん。春希君行ってきてくれる?」
「ああ、わかった」
 母親と二人で話したいということか。雪菜の意を解した春希は一度席を外すことにした。

 二人になった状況で雪菜は母親の緊張をほぐすように話しかけはじめた。
「春希くんは小さい時どんな子だったんですか?」
「どうって…良くできた子だったわよ。私にはもったいないくらい」

 その後も春希のことを色々と聞いてはみたが、母親からはありきたりな返答しか得られなかった。
 雪菜はこの母親の本音を引き出すため、敢えて煽ってみることにした。
「でも、すごくお母さんをないがしろにしている悪い子ですよね」
「えっ!?」
「だって、実家には自分のものは箸一本残らないよう持ち去った、なんて、控え目に言っても『いけない子』ですよね」

「いいえ、あの子は…あの子は…」
 母親は言葉を探して口をぱくぱくとさせていたが、やがて堰を切ったようにいままで抑えていた感情をさらけ出した。
「あの子はいけない子なんかじゃないんです。わたしが悪かったんですよ…その、あの子をわかってあげられなかったから…」
 自責の念を口にする母親に雪菜は詰め寄る。
「でも、家族のすれ違いって、お互いに原因あるものと思うんです」
「………」
「詳しく、教えてもらえませんか?」

 春希の母はゆっくりと、しかし、抑えていたものがあふれだすように話し始めた。




「わたしと春希がおかしくなってしまったのは、わたしとあの人…春希の父親と別れてしまってからだった」

「あの人はね、岡山の資産家の息子で、わたしとは幼なじみだったわ。春希に似て、優しくてとてもしっかりした人で、わたしとはとても釣り合いのとれない人だった」

「わたしはね、彼の前から立ち去るつもりだったの。1人で生きていこうと思って岡山を出た。彼はそんなわたしを追って実家を出て、私と一緒になってくれた」

「でも、彼がわたしを選んでくれたのには多分に『同情心』があったのよね。父の会社が潰れ、両親とも逃げ出して寄る辺なくなったわたしだからこそ、彼はわたしを選んでくれた」

「わたしは彼にとって『守ってあげたくなる弱い女』だったのよね。彼は弱い女を見捨てることのできない情け深い男だったの」

「そんな彼だったから、もっとかわいそうな状況におかれてしまったあの女を見捨てられなかったし、わたしはそんな彼をつなぎとめることができなかった」

「彼を引き留めるために『ダメな弱い女』になってやろうかと思ったこともあったわ。でも、そんなことできなかった。彼に支えられて立ち直ったのに、そんなことできるわけなかった」

「彼の周囲の友人はこぞって彼を責めに来たわよ。『なんで幸せな家庭を捨ててそんな女に走るんだ』ってね。…私との結婚を反対したときのように」

「彼の親戚筋はね、逆に彼を実家に引き戻す機会だと思っていたみたい。わたしは、春希を奪われないようにするので精一杯だった」

「そうまでしたのに、わたしは春希を…」

「父親にとっては…春希は十分立派な子だったのよね。『もうこいつは俺がいなくても大丈夫』って、安心できる子に成長していたの」

「わたしにとっては立派すぎる子だったのよね。『いつまでも小さくてかわいい春希でいてほしい』なんて考えてしまう浅ましいわたしには眩しすぎるくらい立派な子だったの」

「だから、父親がいなくなってより気丈に、一人前以上に振る舞うようになったあの子を私は見ていることが出来なくなってしまっていった…ひどい母親よね」

「あの子が一歩歩みを進める度に、この家を出ていってしまう日が、わたしを置いていってしまう日が見え透けてしまって。春希が日々成長していくのを見ていられなくなって…」

「あの子は、わたしに誉められたくて、わたしを安心させたくて、父親がいなくても大丈夫って示したくて一生懸命なんだ、って、そんなことわかっていたのに。わかっていたのに、わたしは…」

「わたしは、あの子を…」

「…あの子を、遠ざけ、突き放してしまった…」




 母親は涙を拭いつつ、話を終えようとした。
「でもね、こんないい人と一緒になってくれて、本当に嬉しい…。これからは春希のことをよろしくお願いしますね。わたしに代わって」

 雪菜はその結末に反駁するように強い口調で返答した。
「いいえ、そのためにはお母さんの協力が必要です」
「…どうして?」

「わたし、みんなが幸せじゃないと嫌なんです。だから…」

 雪菜は固い意志を湛えた瞳で春希の母を見つめて言った。
「絶対に春希君と仲直りしてください。お願いします」

 母親は目の前の女性を驚いた顔をして見つめた。
 そして、涙した。

「ありがとう、雪菜さん。わたし、やってみますね」
 母親は涙を拭いつつ言った。彼女の目から諦めたような色は消えつつあった。

 ちょうどその時、春希が買い物から戻ってきた。

「ただいま」
「お帰りなさい、春希君。あ、お母さん。台所お借りしますね」
「ええ、どうぞ」
 雪菜は春希から受け取った紅茶を持って台所に入った。

 春希が席に戻るのを見計らって、母親は口を開いた。
「春希。結婚するにあたって、お願いがあるの」
「? 何だい」
「馬鹿なお母さんを許して。お願い」
「…っ!」
「春希につらい思いをさせて、本当にごめんなさい」
「…………」

 馬鹿だろ。おふくろ。
 俺、わざとあんたを無視していたんだぜ。
 何でそんな簡単に自分から謝ることができるんだよ…
 父さんもいなくなってひとりで一番苦労していたのは母さんじゃないか…

「あとひとつ、お願いがあるの」
「…何だい?」
「あのひとを。あなたのお父さんも許してあげて」
「…っ!」

「わたしは、もう十分なものをあなたのお父さんからもらった。息子もこんなに立派に育ってくれた…ごめんなさいね、春希。こんなにいい息子なのに、素直に誉めてあげることもできなくて。ひねくれたお母さんでごめんなさいね…」

 馬鹿だ。俺は馬鹿だ。
 母親に反発して、父親を恨んで。
 表面上はヘラヘラと気にしていないフリをして、実はすごく根に持って。
 諦めて。自分から縁を切ったように振る舞って。
 こんなにも母親を傷つけて、自分まで傷ついているのに。
 母親から諭されるまで、それを止めようとしなかった。止められなかったなんて…
 ひねくれているのは俺の方だよ…

「…ごめん、おふくろ…」
「いいえ、謝るのはわたし。悪いお母さん…」
「そんなことないよ、俺だって…」
 春希の目から涙が落ちた。

 最後に母親は、紅茶とお茶菓子を持ってきた雪菜に対し一言忠告した。
「春希には気をつけてくださいね。この子、優しい分、困った人を見るとすぐ飛んで行ってしまうから」
「んなっ…!」

 雪菜は大きくタメを作ると、とびきりの笑顔で返した。
「ええ。そのことは、よ〜〜〜くわかってますから」

 そして、そんな春希君が大好きなんだから。




 帰り道で春希は雪菜に聞いた。
「お前、うちのおふくろと何話したんだ?」
「えっ!? …春希君のお父さんの話とか、お母さんの話とか…」
「…誰か間に入ってくれると解決することってあるんだよな。ありがとう。お前には本当に感謝している」

「ううん、それより…」
「それより?」
「…やっぱ、何でもない」
「?」

 春希君、いつの間にか私のこと『お前』って呼んでくれている…
 雪菜はその小さな幸せを噛みしめていた。



数日後


 春希は10数年ぶりに父親に電話をかけていた。
 春希自身が思っていた以上に自然に言葉が出た。
 くそ生意気な中坊時代そのままだった。

「親父、久しぶりだな」

「ああ、こっちはうまくやってるよ。峰城大出て、開桜社って出版社で編集やってる」

「そうそう、この春なんて増刊一冊任されたんだぜ。…嘘じゃねぇよ。編集後記見てみな。俺の名前一番上だから」

「…え、もう持ってるって? 意外だなぁ、親父がクラシックなんかに興味あるなんて…って、かずさの表紙に惹かれて買ったのかよ! …え? ほっとけよ。クラシックわからなくても雑誌は作れるんだよ」

「そういや、実家の商売はどうなの? 順調? はは、そりゃめでたい。母さん捨てて戻ったかいあったじゃん」

「何電話口で頭下げて謝ってんだよ。…おれが恨んでるみたいじゃん。やめてくれよ。…なんてね。正直、ちょっと前まで結構根に持ってた」

「でもさ、母さんも恨んでないし、ちゃんと養育費まで喰らった俺が根に持つ話じゃないよな」

「あ、そうそう。今日電話したのは別の用事。…俺、結婚するわ」

「すごい美人でいい人。俺にはもったいないくらいの人だよ」

「式は年内かな。…で、ここからが本題。親父も来てくれ」

「良くないわけないよ。片親だと見栄えよくないから仕方なしにだけどな。世の中にはエキストラ使うやつまでいるんだぜ。親父ならただで請け負ってくれるだろ」

「はは、そりゃありがたい。先立つものはいくらあっても困らないし。生憎母さんの隣りしか空いてないけどな」

「あと、彼女がやたら親戚呼ぶから。釣り合い取るため叔父さん叔母さん連中も何人か巻き込んで来てくれ。…なんで? 俺が恨む筋合いなんてどこにもねぇよ。小さい時はよくかわいがってくれたじゃん」

「タカ叔父さんとか元気? …だから、本当に気にしてないさ」

「泣くなよ、親父」

「ばかやろう…俺まで泣けてきたじゃないか…」



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