雪菜Trueアフター「月への恋」第二十話「夏ツアー開始(3)」

福島市郊外の温泉宿 かずさの客室


「かずさ、不用心だぞ。鍵くらいかけろ」
 春希がアイスペール片手に現れた。そのまま室内に入ると鍵をかける。
 そんな当たり前の行為にすら、かずさは内心どきりとした。
 ベッドにうつ伏せたまま枕に顔を埋め、表情を隠す
「ああ、春希。来てくれたか。悪い」
「…つらいのか?」
「…ああ、まだのぼせてる。あと、腕が凝ってる」
「大丈夫か? 腱鞘炎とか起こすと厄介だぞ」
 春希はそう言いつつ氷の入ったビニール袋を頭にかずさの後頭部にあてる。
「痛みはないし、練習直後に軽く冷やした。あとは、温めて休むだけなんだが…」
「のぼせてたらダメだろ。ほどほどにしろよ」
「あと、このホテルってマッサージあるか?」
「待ってろ」

 春希はホテルの利用案内を見る。
 マッサージはあるが9時まで。現在9時30分。まずはフロントに電話をかける。
「すいません。マッサージをお願いできますか?」
「申し訳ございません。本日はもう担当の者が…」
「207号室の冬馬さんなんですが…」
「…今から手配しますので一時間以内にご返事いたしますが、手配できるかまでは…」
「わかりました。ありがとうございます」

「時間すぎてるから、来てくれるかわからないとさ」
「話は聞こえてたよ。しょうがないな…」
 そこでかずさは言葉を濁らせた。
『なあ、春希」
「なんだ?」
「マッサージしてくれ、って言ったら怒るか?」
「なっ…!」

 春希は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐ冷静に返した。
「雪菜が怒る」
 かずさはすぐ言い返す。
「腕だけでいい」

 春希は少し考えた。棚にタオル類と換えの浴衣があるのを確認する。
「待ってろ」
 そう言うと春希は洗面所から熱い湯を張った洗面器を持ってきた。
「何するんだ?」
「まあ、待ってろ。ああ、先にバスタオルを身体の下に敷いておいてくれ」

 春希はハンドタオルを湯に浸すと固く絞り、かずさの腕にあてた。そのまま柔らかくマッサージする。
「ああ…いい…」
 温かさと、間接的ではあるが春希に触れられている心地よさにかずさは声をあげる。
 浴衣の下でかずさの身体の線がよじれるのを見て春希は密かに動揺したが、平静を装い問いかける。
「痛くないか? あまり強くしないからな」
 春希としては直接肌に触れないように濡れタオルを使ったわけだが、温かさとあいまってかずさはかなり気持ち良い。

「いつもマッサージしているのか?」
「いや、ごくたまに。今日は変わった環境で少し無理したのが響いたかな? …アンコール曲を一つ追加で仕込んだ。お前のせいだよ」
「なんで?」
「お涙頂戴記事書かれて恥ずかしく無いように、こちらも準備しなくちゃならないじゃないか」
「…悪い」
「謝るな。気合いの入ってないピアニストからでもなんとか記事ひねり出してくるのがお前の仕事だろ。迷惑だが悪いことしているわけじゃない」
「…すまない。かずさ」

「悪いことってのは、ただの記者、しかも婚約者がいるような男性を部屋に連れ込んでマッサージをやらせるようなことをいうんだ」
「ごめん」
「そこは絶対謝るところじゃない。そこで絶対謝るな」
「ああ…」
 ここでかずさは聞こえないぐらいの小声で言った。
「むしろ、つけ込んで手を出してくれると嬉しいんだけど…」
「何か言った? かずさ」
「なんでもない」

 ここからかずさは独り言のように述懐を始めた。
「今日は、松川の話を聞いてから、『自分には何ができるんだろう』って考えてた。いや、『自分は何をしているんだろう』って考えてた。
 チャリティーなんて偽善だな、なんて考えてたけど、不真面目にやったら偽善にもならない、ただの迷惑だよな」
「ああ、でも真面目にやったら偽善も善になるさ」
「そうか?」
「ああ、金が集まってそれで人が救われるんだから善だろ。かずさが見直されるかどうかなんておまけだから、偽善とか気にする必要はない」

「ああ、そうかもな。あとは、彼女を亡くした男の子のこととか考えてた」
「松川さんの修理見に来た子か?」
「ああ…」
「…かわいそうな子だよな」
「そうだな」

 彼女を亡くした男の子に何がしてあげられるだろうか。
 かずさにはピアノを弾いてあげることしかできない。
 それで、男の子は彼女を思い出し慰められるだろうか。それとも、悲しくて泣くだろうか。

「なあ、春希」
「なんだ?」
「わたしがいなくなった子の代わりにピアノを弾くことに、何か意味はあるかなあ?」
「…あるさ。それでいなくなった奴のことを思い出せるかもしれないさ」
「それで?」

 春希は手を止めずに、思い出すように言った。
「親しかった奴が急に手の届かない所に行ってしまったんだ。
 もう、仲良く過ごせる日々が二度と来ない絶望は埋めてやれないが、楽しかった日々が確かにあったことは思い出させてあげられる。
 目の前にその子がいなくても、見えなくても、声が聞こえなくても、君がその子と過ごした時間は嘘ではない、って。
 君の思い出は無駄な幻影ではない、かけがえのない宝物だよ、ってね」

 かずさは最初、春希もクサいことを言うな、と思っていたが、ふと「春希は自分のことを言ってるのではないか?」と思い至った。
 5年余前、自分が手の届かないウィーンに逃げ出して、春希はどう思ったのだろう…

「ゴメン。春希」
「そこは謝るところじゃない」
「そうか…」
 かずさはくよくよと妄想するのをやめにした。

「なあ、春希」
「何だ?」
「…肩も頼めるか?」
「…了解。お姫様」
 春希は新たにタオルを絞り直した。




「おい、かずさ? おい!?」
 春希は途方にくれた。
 かずさがマッサージを受けているうちに眠ってしまい、肩を叩いても揺すっても起きないのだ。
 かずさの浴衣は、上から濡れタオル越しにマッサージしたせいでじっとり濡れている。このままでは風邪をひいてしまうだろう。

 マッサージをした後でかずさに浴衣を着替えてもらうべく、スペアの浴衣の存在は確認していた。しかし、本人が寝てしまう事態は想定外だった。
 かずさは浴衣の下にブラジャーも着けていない。しかし、このままにはしておけない。

 春希は改めてかずさを見た。
 うつ伏せの髪の間から覗く顔やうなじはなまめかしく、見る者の胸を締め付ける。濡れた浴衣の下には優美な曲線が流れており、満ちた臀部へと伸びていた。

 春希は唾を飲んだ。これを自分が着替えさせなければならないのか…?
 春希は手順をシミュレーションしてみた。
 無理だ。
 かずさの豊かな2つの膨らみが露わになった時点でそれ以上想像できない。

 しかし、何とかしなくては…
 春希は頭を捻った。




「…ん?」
 かずさは目を覚ました。少し寝入ってしまったみたいだ。

 起きてみて驚いた。
 春希がベッドの横に突っ伏して眠っている。
 その右手にはドライヤーがある。どうやらかずさの濡れた浴衣を乾かしているうちに眠りこんでしまったらしい。

 気持ち良さそうに口を開けて寝ている春希を見て、かずさは呆れた。
「…なんでこいつはこんな美人前にしてぐうすか寝られるかなあ…」
 かずさは身体を起こした。のぼせていた頭はもうすっかり回復していた。
「ほら、起きろ」
 軽く春希の肩を揺さぶるが、春希は起きない。

「…着替えるか」
 浴衣はドライヤーで概ね乾いていたが、温風の当たらなかった脇のあたりはまだ濡れていて気持ちが悪い。
 かずさは春希がよく寝ているのを確認して、帯を解き始めた。

 かずさは、古い浴衣を脱ぎ、新しい浴衣を広げる間も春希が起きないかずっと見つめていた。
 春希の寝顔はずっと変わらずやすらかだった。
 そんな寝顔を見つめているうちに、かずさは自分のカラダの内側からこみ上げてくるものを押さえられなくなってきた。
 何より、自身が全裸に近い姿を春希にさらしていることが、よりいっそうかずさを昂らせていた。

 かずさは新しい浴衣を羽織ろうとしていた手を止めた。
「下も…替えるか…」
 かずさは下着に手をかけゆっくり脱ぎ始めたが、それは下着が汚れていたからというよりは、単なる言い訳にしか過ぎなかった。
 何より、その下着が少し粘着質の糸を引いていたことが、彼女の色情をより一層湿していた。

 春希の前で全裸になってしまった。
「替えの下着はどこだったかな…」
 スーツケースをあさりつつ、口ではそんなことを言ってはいるが、かずさの目は春希から全く離れていない。スーツケースを探る手よりも、後ろの春希に向けた下半身のほうがもじもじ動いている。
 第一、替えを用意してから前の下着を脱ぐべきだっただろう。

 そんな艶めかしい光景が目前で広がっているとは露知らず、春希は昏々と眠っている。
 その様子にかずさが腹立たしさすら感じていた時、春希の口の端からよだれが一筋ベッドまで落ちようとしていた。

「…っ!」
 かずさは驚きの声をかみ殺すと、突っ伏した春希の背後に歩み、拳を握り締めた。
 かずさの頭の中では、怒りと理性と劣情と女の意地が暴風雨を起こしていた。

『こいつ。のんきに寝こけて起きないばかりか、わたしのベッドによだれまで垂らしやがって!』
『待て待て! わたし今裸だぞ! 春希起こしてどうするんだ!』
『…起きてわたしの姿見たら、我慢できずに襲いかかってくるかなぁ。…もしそうなっても、悪いのはわたしだよな』
『ええい、襲いかかってくるならきやがれ! これ以上わたし一人だけ恥ずかしい思いしてるなんて許せるか!』
 頭の中では「殴り起こすに賛成」が多数派を占めた。

 そしてかずさが拳を振り上げた瞬間、部屋の電話のベルが鳴った。

 プルルル…、プルルル…

『なっ…!』
 プル…がちゃ
 かずさが驚き動きを止めた刹那、春希は目を覚まし、受話器に飛びついた。
 『電話は3コール以内に取れ』
 身に染み込んだ社会人の習性だった。

「ふぁい…はい、もしもし。開桜グラフの北原です」
 春希もさすがに最初のひとことは寝ぼけ混じりだったが、すぐ形だけは整った返答を口にする、

「わわわわっ!?」
 どたどたっ、ばんっ!
 かずさはピンポン玉が跳ねるように飛び退くと浴衣をひっつかみ、打たれた犬が犬小屋に駆け込むようにユニットバスに逃げ込んだ。

「あ、はい。207号室の冬馬です。はい…はい、少々お待ち下さい…あれ? かずさ?」
 かずさを探して寝ぼけまなこで辺りを見回す春希にかずさはユニットバスから怒声をあげる。
「バカ春希! こっちは着替え中だったんだぞ!」
「…悪い…ああ、マッサージ、今から市内から呼ぶから1時間後になるけどどうするかって」
「…もういいって言ってくれ」
「わかった。
 …はい、もしもし。はい、もう結構です。ありがとうございました」

 春希はユニットバスのドアの向こうからかずさに頭を下げた。
「かずさ。悪かった」
「…もういい、帰れ」
「ああ…明日、頑張って」
「うん…」

 春希が部屋から出る前に、かずさは浴衣を羽織ってドアを少しだけ開け、最後にひとこと声をかけた。
「春希…マッサージありがと。楽になった」
「どういたしまして、おやすみ」
「おやすみ」

 春希が出て行った後、かずさはユニットバスから出ると、よろよろとベッドに向かった。
 そのままベッドに倒れ込み、つぶやいた。
「危なかった…」

 興奮が冷め、目を閉じると、春希の寝顔が目の裏に浮かび、間もなくかずさは眠りについた。



 翌朝、かずさは雪菜に電話をかけた。
「ごめん、雪菜…」
「どうしたの?」
「昨日、春希にマッサージ頼んじゃった…腕の…あと、肩も…」
「? それぐらいいいんじゃない?」
「それだけじゃなくて、あと…」
「あと?」
「…寝顔見ちゃった…マッサージしたまま寝こけやがったから…」
「鑑賞はおっけーです」
「いや、悪かった」
「かずさは悪くないよ」
「いや、ホント。わたしが悪い」
 正確には悪いことは全て未遂に終わっていたのだが。
「もう、いいってば。それより今日頑張ってね」

 電話を切った後、雪菜は独りごちた。
「あの様子は…寝顔にこっそりキスくらいしちゃったのかなぁ?
 …まあ、いいか。
 それより問題なのはまだ電話してこない春希君よね…」

 雪菜はそろそろ春希から謝りの電話がかかってくる頃だろうと予想しつつ、かずさより連絡遅れていることをどう償わせようか、と思いを巡らせていた。

 性的に。



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