静かな夜。いつもなら、喧騒の余熱を体に残しているのに、今日は余熱所か微熱すら感じない。
 それもそう。今日は土曜日。いつもなら北原家にお邪魔しているが、週末だけは別だった。旅行や春希の出張があれば北原家に呼ばれる事もあるが、そうでない限りであれば近づくことはない。結婚直前の恋人同士の逢瀬を邪魔する程、かずさは野暮ではない。

 六年前ならば、この広い屋敷と呼んで差支えない家も寂しくはなかった。一年前、春希と再会する前であれば、寂しくはなかった。母が傍にいた。ピアノを弾けばその向こう側にいる春希と語らう事が出来た。だが、今は不意に途方もない寂しさがよぎる事が多い。母は療養中で家に帰ってくるのは月に数える程。春希は傍にいるのに、会いたいけれど会いに行く訳にはいかない。

 寂しさを紛らわすように、今日も酒に手を付ける。
 母宛てに送られてきたワインを今夜もあけて、煽る。僅かにしか感じられない甘さと、喉が僅かに焼ける感触が寂しさを紛らわせてくれる。それが、かずさのいつもの週末。それが、本来のかずさの週末。

「ん?」

 来客のチャイムが唐突に響く。
 この一年で友人は増えたが、かずさは元来人見知りをする性質。知り合いであれば事前連絡があるはずなのに、無いという事は望まぬ来客という結果が導かれる。
 しかも、日付が変わろうかという時刻。あまりにも不作法。

 酒で僅かに高揚した頭が、とりあえず怒鳴るという選択肢を選ぶのに一秒もかからなかった。もし、春希がいたなら馬鹿な事いうなと言われかねない、独り暮らしの女性としては軽率な行動である。




 玄関を開ける寸前には、普段ですら吊り上がっている様に見えるまなじりが更に上方へと向いていた。口はへの字に曲がり、見るからに不機嫌だと分かる。度胸の無い男ならしどろもどろになった挙句に逃げ出す事は確実。

 玄関を開け、門の向こうにいる人影を一度見据える。そこには線の細い影と、平均身長よりも低い影。低い方は輪郭が知り合いに似ている気がするが、その人物は決して不作法ではない。たまに五月蠅いが、最近は説教を食らうような事はしていないはずだ。よって却下。

「おい、お前ら」
「あぁーーー、かずささん〜。やっと出てきましたね〜〜」

 近づいて確認しようと門を開けた途端に小さい影が動き、がばりと抱き着かれた。こんなに暑い抱擁は春希に受けて以来。これが男であれば股間を蹴り飛ばしている所だが、生憎と抱きしめられた感触からして女性。しかも、その声には聞き覚えがある。先程、脳裏に描いて否定した少女と全く同じ声。

「こっ、小春!?」
「も〜、な〜んですぐに出てくないんですかぁ〜?」
「いや、あの」
「うぅ〜、胸が大きいからって人を待たせていい理由にはならないんですよぉ〜」

 ぐにぐにと平均を超える美乳を小春に揉み拉かれていた。

「ちょっ、こら、揉むな! 何で揉むんだ。雪菜だって事ある毎に揉んでくるし! そういうことするのはお前のキャラじゃないだろ!」

 近所迷惑など知らぬとばかりに声を張り上げる。予想外にして想定外の事が起きてかずさは久方ぶりにテンパっていた。

「って、おい。無言で揉むな! こらっ! おい! って、ちょっと待て。先っぽはっ! くぅ…………はぁ……………………っつ………………………………ダメっ…………だって、ば……………………」

 コリコリと夜風の厳しいこの冬に描かれる痴態。昨日の小春と鈴木を超える艶姿である。男であれば誰だって生唾を飲む込む行為が深夜の住宅街の路上で繰り広げられていた。
 
 普段の小春ならば決してしない行為である事と。小春だからこそかずさは引きはがし難かった。
周囲からまま小春希と呼ばれるように小春と春希の性格は似ている。そっくりといってもいい。だからだろうか、かずさの感覚的に春希の妹のように感じられて。そして、小春を通して春希と接しているように感じれて。だからこそ、拒めなかった。

 このまま揉み拉かれ、腰砕けになるまで続けれると思われた痴態は、

「こら、小春。迷惑だろうが」

 もう一人の線の細い影によって遮られた。

「うぅ〜、麻理さん。なんで、邪魔するんですかぁ〜」
「酔っ払ってるお前の願いを聞いて送り届けたって言うのに迷惑かけてどうするんだ。全く」
「そうだ、かずささん! 飲みましょう!」
「ちゃんと、話しを聞け!」
「ひゃんっ! 髪を引っ張っちゃだめです!」
「そうでもしないと今のお前は聞かないだろ」
「かずささん、ダメ…………ですか?」









 玄関での押し問答の結果、招き入れる事となった。敗因は、酔っ払って涙腺の脆くなった小春の泣き笑いだ。

「全く、小春の奴は。それで、成り行きで入れてしまったけれど、アンタは?」
「あっ、申し遅れました、私――「肩書とかはどうでもいいよ。小春がこれだけ信頼してるんだから」――風岡麻理です」

 いつもに比べて殊勝な麻理。かずさ並とまではいかないが、傍若無人と呼べなくもない麻理がここまでおとなしいのは、単に豪邸に縮こまっている訳ではなく、普通に恐縮しているからだ。
 これが佐和子の家や、鈴木の家に押しかけていたのならばいつもの態度が出るモノだが、かずさと麻里は初対面。さすがに借りてきた猫の様におとなしくなってしまう。

「風岡――麻理? あぁ、春希の上司か。いつも春希が世話になってる。ありがとう」

 自然と返される言葉。笑みすら伴っている。
 春希から余程話を聞いているのか、笑みを浮かべる程にはかずさの中での麻理の印象は良かった。
 それに面を食らったのは麻理である。春希が初めて書いた雑誌の記事の内容は未だに色濃く残っている。そこに描かれていたかずさと今のかずさは似ても似つかない。
 後、なんだ。その、まるで春希が夫みたいな言い種は。

「こっ、こちらこそ」

 内心、結構むっと来ているからか、言葉も詰まる。かつてかずさと似ていると言われた身としては目の前の相手を見る目もきつくもなる。

「かずささ〜ん! グラスどこですか〜?」

 部屋に入れても小春の酔いは一向に収まらない所かちょっとヒートアップしている。一度も入った事もない人の家で堂々と小春はキッチンを捜索していた。委員長癖は何処に行ったと、問いたい。

「待て、さすがに今の小春には任せられない。今、出す。ちょっと待っててくれ」

 小春を押しのけてグラスを取り出し、きっちりと三人分用意する。

「それじゃ、乾杯しましょう! 完敗!」
「今、字が違わなかったか?」
「そう、聞こえた気が…………」

 とにもかくにも乾杯の音頭が撮られて、グラスの触れ合う音が鳴り響く。その中でビールを中年オヤジの如く一気に飲み干す小春。飲みっぷりに自棄が明らかに混じっている。

「それで、小春。一体どうしたんだ。こんな夜中に。お前らしくないぞ」
「えぇ〜、それは、ですねぇ。かずささんと麻里さんと一緒に飲みたかったからです!」
「だから、何で。というか、アンタなんで止めなかったんだ?」
「……………………弱みを突かれて」

 顔を赤らめて横を向く麻理に、あぁとかずさは納得してしまった。飲み屋でさっきみたいに揉み拉かれればいう事を聞くしかない。現実は違うのだが。

「だからですねぇ〜。簡単な話なんですよ。三人で先輩と雪菜さんの結婚を祝いたいという事です。えぇ、雪菜さんの負け犬という汚名返上を祝してとか、決して私が今日、先輩に告白して分かりきってたけど見事玉砕したからとか、私達で負け犬同盟を築こうとかいう訳じゃないです」
「「ぶっ!」」

 小春とは思えないやさぐれた声と、毒に満ち満ちた内容だった。

「小春、お前、春希に告白したって!」

 かずさの怒鳴り声も聞く耳持たないのか小春はテーブルの上に置いてあって先程までのかずさの晩酌だったワイン。それをグラス一杯まで入れて、そして一息に喉をごぎゅごきゅと鳴らしながら飲み干す。ダンッとグラスが割れるかと思う程の勢いでテーブルに叩きつけられた。

「えぇ、しました。そして、見事に玉砕しました。だって、だって、三年も、三年もずっと思ってたんですよ! 三年前は、見てられなくて雪菜さんの事、応援しました! えぇ、しましたよ。応援を! けど、けど、本当は好きで。応援しちゃったから、好きだっていう事も出来なくて! 三年、三年ずっと見てきました! 先輩の横で雪菜さんが笑ってる姿を、先輩が笑ってる姿を!
 苦しくても、言える訳がなかったんです。本当は好きだって! 雪菜さんじゃなくて私を見て欲しいって! 言える訳…………ない、じゃないですかぁあ!」

 小春の眼から大粒の涙が零れ落ちていた。何度も、何度もテーブルに水たまりを作ってしまうんじゃないかという程、涙が零れ落ちていた。

 その涙と共に吐き出される激情に、かずさも麻理も何も言えなかった。だって、だって、本当に痛い程、小春の気持ちが理解できるから。一度も小春と同じことを考えた事が無い訳では、無いから。

「でも、二人共、いい人だから。二人共、大好きだから! 祝福しないといけなくて! 本当はしたくないけど。でも、心の底からしたい気持ちも嘘じゃなくて。だから、だから! この気持ちを終わらせようって。先輩にこの想いを告げて、きっぱりとフラれて、笑顔で、二人の結婚式に出ようって決めたんです。今日、涙を全部流して、結婚式は嬉し涙しか流さないように、しなくちゃ、いけないんでよぉ」

 えぐえぐと、子供の様に泣き腫らしていた。
 鈴木に諭された時には、何とか気丈に受け答えを出来ていた。だが、告白した後までは元気ではいられない。そうなると分かっていても、想いを否定された後まで、気丈でいられる程、小春は春希同様に強くはない。

 そして、かずさは誰よりも小春の言葉に納得した。だって、自分が一年前に通った道だから。誰よりも、誰よりも今の小春の涙に共感できた。

「そっか。頑張ったな、小春」
「かずさ………………さん?」
「ったく。こういうのは私がする役じゃないけど、今日だけは、な」

 酔いが回り過ぎて暴れだしそうな小春の頭をかずは胸にかき抱いた。誰よりも共感できる人を。今、この瞬間で誰よりも傷つている目の前の少女を。

「頑張ったよ。お前は、本当に」
「私……………………頑張りましたか? 私……………………頑張れましたか?」
「あぁ、お前は頑張った、いい子だよ」

 よしよしと我が子を慈しむかのようにかずさは小春の頭を撫でた。
 かずさの手と共に流れる髪の感触の向こうに温もりがあった。真に理解してくれる人からの励ましの言葉と慰めの言葉。それが、小春にとって、今一番の慰めの言葉だった。



 一しきり、泣き崩れた小春は、涙と一緒に酔いが抜けたのか、顔を赤らめて洗面台の方へと逃げて行った。

 残されたのは先程から、ちびちびと持ってきた酒を飲みながら一言も発せなかった麻理と、そんな麻理とどう接すればいいのか迷っているかずさだった。

 ちびちびと飲みながらも酒は尽きる。ついにはテーブルの上にあったワインまで空いている。それでも一向に小春が帰ってくる様子がない。困ったかずさは結局、酒に逃げた。
 戸棚に陳列された多種多様な酒瓶を眺めつつ、かずさは一人、悩んでいた。というよりも胸につっかえている言葉。そう、小春の負け犬同盟という言葉だ。

「これで、いいかな」
「ありがとう。ってトウニー・ポート!? しかも60年もの!?」
「驚くほどのものなのか、これ。まぁ、いいや」
「あっけらかんと渡されるとありがたみが…………」
「いいじゃないか。それで、負け犬同盟ってどういう意味だと思う?」
「…………………………………………」

 いい酒で高揚していた気分が急転直下。冷や汗がダラダラと麻里から流れていた。

「私と小春が、まぁ負け犬っていうのは分かる。私と小春はフラれたんだから。でも、なんでそこにアンタがいるんだろうな」
「………………………………………………………………」
「ふん、やっぱり春希を真似て回りくどい言い方はやっぱり私じゃない。なぁ、アンタも春希の事、好きなんだろ? 小春とおんなじで結構な時間」

 ドストレートに逃げ場がない程のまっすぐさでずばりと言い当てられた。ぐぅの音も出ない程に適格な診断。
 だが、言い逃れは出来る。しらを切り通せばなぁなぁで済ませられる。洗面所から帰ってきた小春を抱えて早々と逃げ出せばいい。幸い、目の前のかずさは麻理にとって御しやすい相手だった。以前、取材で会った曜子と比べれば、話術とも呼べない。人を食ったような態度も取らずにストレートに聞いて来るなど、似ても似つかない。
 逃げようと思えば逃げられる。



 だけど、いい機会だと。逃げる、それよりも心の中ではいい機会だと思ってしまった。

「ごめん。度数のあるヤツ。出してくれる」
「…………分かった」

 出てきたのはカミュのバカラグラスに入っている一級品。だが、今度は驚く事も、遠慮する事もなく、封を切り一息に煽る。そして、前を向いた。


「好き、だよ。北原の事は。部下として、同僚としてとかじゃなくて、男として」
「…………」
「小春も勇気を振り絞ったんだ。私も、いい加減、言葉にしないと」
「私じゃなくて、春希に言え」
「仕事があるから、直接なんて言えない。けど、ここでだったら思う存分愚痴を、吐ける」
「………………………………だから、負け犬同盟…………か」

 小春の時と同じようにかずさは頷いた。
 そして、同時に感じる同族の匂い。小春とは違い、最後の最後まで真正面から好きな人と向き合えず、傷つくのを恐れて逃げる、そういうタイプの人間であると。

「入ってきた時はびっくりしたよ。わざわざめちゃくちゃ仕事を振る私の所にバイトが来るんだもんなぁ。吃驚したよ。きつくてすぐに辞めるんじゃないかと思った。けど、あいつは私が出す要求に全部、必死こいて食らいついて、遅くまで残ってでもやり遂げて。北原には二度驚かさせられたよ。その後も、仕事量を増やしていって、でもきちんと食らいついて来るんだ。今思えば、貴女の事を忘れようとする為に逃げてたんだけど、それでも、その時は私に追いつきたいかと思っちゃってた。今思うと恥ずかしい勘違いだけど。詰まるとまずは自分で頑張って分からなければ調べて、それでもどうしようもない時は私の所に来て、仕方がないなぁ〜ってちょっと思ってたんだ。
 それが、三か月もしない内にどんな仕事を渡しても、きっちりとする奴になってた。頼りになる男になってた。けど、最後の最後には頼ってくれて嬉しかったんだ。それで、私の方もいつの間にか、ただの部下じゃなくて、唯一人の部下として、可愛い部下だって思うようになってた」

 麻理の独白にかずさは静かに聞き入っていた。
 己の知らない春希の過去。雪菜でさえ知らない春希の物語をただ、知りたかった。想いが叶う事はもはや無けれども、それでも好きな人の、最愛の人の過去を知りたくないと思う事は出来なかった。かずさの想いは未だ、小さくなかった。
 それに、麻理の話はどこかで体験したかのように身に覚えがあって、余計に耳を傾けていた。

「あいつさ、たまに無自覚に口説いて来ることがあって」
「あぁ」
「納得できるんだ」
「私も何度もあれに心揺さぶられたよ」
「それで、もしかして私に気があるんじゃないのか、コイツ。とか思うようになって。それから北原がバイトに来る度に目で追っていた。PC越しに北原が真面目な顔を覗き見て、不意にこっちを向いたら慌てて目を背けて」

 ばっちり身に覚えがあった。

「だけど、さ。結局、違ったんだ。ただ、憧れだったみたいで。それを知った時は悔しかったなぁ〜。それでも私は、北原に幻滅されたくなかったから北原が知ってる私を何とか演じた。本当は、涙目になってたのに」

 本当にどうしてここまで似ているのかとかずさは嘆きたかった。
 その思いは六年前に経験した想いと全く一緒だ。六年前に感じた想いと全く一緒だった。

「そう言えば、さ。言われたよ。私は冬馬かずさと似ているって」

 心の中で頷く。似たような過去を味わっている。似たような行動を取っている。春希の行動に対して似たような想いを持ってしまっていた。そして、同じ人を愛してしまった。

「私も同じだよ。同じ経験をした」
「そっか」
「あぁ」
「そっか」
「あぁ」

 小さな言葉の繰り返し。だが、麻理とかずさの間に忌避感も、嫌悪感も生まれなかった。在るのは同族意識。いや、きっと二人の事を表すのならばこちらの方が正しいだろう。『同病相哀れむ』と。

「よく、二人の仲を祝福できたな」
「ふん、もう一年も前に決着がついている。とっとと結婚してくれればこっちも困らなかったのに」
「諦められないのに?」
「諦めてるさ、春希の一番になる事は――――」
「――――かずささん! これ、貰ってもいいですか!」

 ドシリアスの最中に帰ってきた酔っ払い。バンっと勢いよく扉から飛び出してきた小春の手には一枚の白いYシャツ。

「小春、こっちは真面目に――――ダメだ」

 小春の手に握られたブツ見るなり、一瞬でかずさはまなじりを釣り上げて拒絶した。

「いいじゃないですか〜。一枚ぐらい」
「それはダメだ」
「あっ、代わりのヤツを買ってお返ししますから!」
「それだけはダメだ。それは私のだ」

 頑なに拒むかずさ。小春の事を他の友人の面子の中でも一番、気に入っているが、それでもかずさは頑なに拒んだ。

「えぇ〜、どうしてですか?」
「っつ、お気に入りのヤツだから」
「えぇ〜、でもこれ安物ですよね? ねぇ、麻理さん?」

 急に話を振られた麻理は、小春の傍若無人ぶりに呆れを見せたが、気を取り直して、シャツを見た。それはどこにでもあるシャツで、高級品とはお世辞にも言えない。どこででも見かけるような、男物のYシャツ。
 男物?

「ねぇ、あれって」
「それは、私の、だ!」
「じゃあ、貸してくれるだけでいいですから」
「ダメだ」
「今日だけ、今日だけでいいんです。今日だけは…………」

 洗面所で水気は拭われていたのに、小春の瞳は水気が溢れんばかりになっていた。
 かずさも涙には弱い。何よりもそこにあるのは残り香であって、本物ではない。だからだろうか、つい、優しい態度を取ってしまう。

「今日、だけだぞ」
「やりました!」
「って、嘘泣きなのか!」

 この短時間で小春は劇的に成長していた。主に、悪い方向へと。
 そして、心底あきれ果てたかずさの袖をくいくいと引っ張る影が。

「ごめん、私もちょっと貸してほしいかも」
「…………後で、きちんと返せ」








 



 暖房を最強に設定して、お揃いの格好となった三人。もちろん、Yシャツは素肌に着ている。もう、玄関前で見た光景が霞むほどの扇情的な光景。
 春希であっても狂喜乱舞しそうな光景だ。

「スンスン。先輩の匂いが少し、します」
「悪くない、かな?」

 春希の着古しというか、何度か身に着けたYシャツを着てご満悦な小春と麻里。いいのか、それで。

「お前ら、諦めたんじゃなかったのか」
「今日ぐらいはいいじゃないですか」
「今日は例外で」

 今日という時間制限を付けているためかはっちゃけている麻理と小春。諦めると口にしたとはいえ、早々に諦められるのならば、こんなにも苦しく嘆き、涙を流したりはしない。次の恋が出来るまでは引き摺るのは目に見えている。

「まぁ、いいけど」

 口の中にポートワインを流し込む。甘さの中に香るアルコールが心地いい。

「ところで、かずさん。これで、どうやって手に入れたんですか?」
「――――何故、聞く」
「欲しいからです」
「諦めたんじゃなかったのか!?」
「それとこれは別です」

 別らしい。

「それで、どうやって?」

 ずずいと顔を寄せてくる小春。唇が触れ合うんじゃないかというぐらいに顔が近い。最も、お互いにそういうケはないので、そうなる事はないのだが、嫌に気恥ずかしい。
 ついっと横を向くと、ワクワクとした様子でかずさが口を割るのを待っている麻理。逃げられそうにない。

「結婚式で新曲、披露するのは知ってるよな?」

 かずさの言葉に麻理も小春も当たり前の様にこくりと頷く。こんな大イベントで大転換点に目の前の三人が騒がないはずがないというのが周囲の認識だった。

「その練習をウチでしてるんだよ。下にはスタジオがあるから深夜でも音は漏れないし。それで、練習をしてたんだけど、春希のヤツが納得できないモンだからって朝までやってたことがあった。その時に忘れていってな」
「だからって、新品を買ってきてすり替えたりは…………」
「麻理さんだってその機会があれば同じことするんじゃないんですか?」
「………………………………ノーコメントで」

 ついっと横を向く麻理。やらない自信がなかったらしい。

「でも、それだったら一着だけじゃ?」
「…………………………………………よく気づくな。その話には続きがあって。後で、さ。すり替えたシャツを持っていったんだけど、バレて」

 どうやってバレたのかは二人は問わなかった。
 小春も麻理も、目の前のかずさは嘘が苦手そうだから、きっと誤魔化しきれなかったんだろうなぁと思っていたのだが、事実は異なる。
 新しくかったシャツを日に干して新品クサさを抜いた後に、ちょっとくしゃくしゃにし使用後を演じて持って行ったのだが、一発でばれた。曰く、匂いがなかったのがバレ原因だそうだ。別にシャツに鼻を押し付けてクンカクンカした訳でもないのに、何故かバレた。
 そして、その後、問い詰められて、欲しかったんですと正直に吐いた後に、お許しを貰えた。だが、話はそれだけでは終わらない。

「その後、一週間に一度の頻度でくれるようになった」
「正妻の余裕?」
「シャツは渡しても、先輩は渡さないっていう意思表示のようにも見えますね」

 雪菜の行動に対して明らかに好意を持てない二人だった。
 仮に、雪菜の行動が完全に善意に基づくモノだとしても好意的には解釈しにくい。まぁ、たぶん、完全無欠なまでに善意ではないのは目に見えているのだが。

 敵に施される情けほどみじめなモノは無い。

「お前らだって貰えるんなら、尻尾振って貰う癖に」
「「うっ」」

 だが、貰えるものは貰うのが人間。ましてや最大級に意識している異性の私物。しかも直に相手を感じられるブツ。率先して欲しいと思ってしまうのも仕方がない。

「…………下着とかは」
「ある訳ないだろ。雪菜に全部没収されたよ」
「麻理さん、そんな事聞いてどうするんですか」
「i……………………単なる好奇心」

 眼を横に逸らしながらでは説得力は皆無。













 宴は進む。開けられた瓶はすでに10本を超えていて麻理でさえもフラフラと頭が揺られている。
 酔った三人の話題は、Yシャツから日頃の生活の愚痴へと移り、そして最後に春希に対する愚痴へと移っていた。

「先輩は酷いです。仕事でまずは、けなして、いじめて、その上に鼻をへし折って。初めてで色々と頑張ろうとしてたのに、少しでも早く現場に馴染む為に努力してたのに思いっきりいじめられました。しかも、その後きちんと出来る様になると、褒めてくれるんですよねぇ。誉め方も的確で。なんですか、あの見事な飴と鞭は。あんな手法、思いっきりヤクザですよ、ヤクザ! しかも、本気で怒る時はこっちの為に怒ってくれるから、怒られてる時でも嬉しいんですよ。あぁ、私の事、きちんと見ててくれるんだなぁって。だから、私もついつい先輩の方を見ちゃうようになって。後はずぶずぶと」

「それは分かるな。アイツ、こっちが無視しても正論を振りかざして何度も何度もこっちに来るんだよな、本当にしつこくて。普通、何度も無視したら諦めるのに、何度無視してもアイツだけは絡んできて。だから、絡んでるアイツの事を観察してる内に、ずっと眼で追うようになって、気付いたら声をかけてくれるのが嬉しくなって。だけど、今までの手前、他の奴らと同じ様な態度が取れなくて。しかも、アイツ、最悪だぞ? 学生として当たり前の事をちょっと出来ただけで自分の事の様に大げさに喜びやがって。あれで絶対に女を調教してる。しかも、こっちがすり寄ろうとしたら離れて行って、でも本当に欲しい時には傍にいてくれて。全く、麻薬みたいなやつだよ。知ってしまったら抜け出せない」

「知ったら、抜け出せない、か。本当にその通りだよなぁ。私のおみやげの趣味はちょっと人から外れてるみたいなんだけど、それでもいらないって一度も言わないんだよ。ちょっと困った顔してさ、でも、私からのおみやげだからってちゃんと貰うんだよなぁ。しかも、褒め上手で、人の心を掴むのが上手すぎる。なんだよ、ピンポイントにこっちの趣味ドストライクの所に来て。意識しない方が無理に決まってるのに。しかも、『麻理さんのそういう所、好きです』とか、勘違いしそうな台詞を何度か吐いて。気になっちゃうし、嬉しくなるに決まってるのに!」

「そうそう、その上、アイツ。決定的な所でわざとじゃないかって思うぐらいに外すんだよ。お礼だからって言って、プレゼント貰ったんだよ。そしてら、何が入ってたと思う? 参考書だよ、参考書! しかも、ご丁寧に中学の基本の英語だよ。普通、女にプレゼントっていったら、アクセサリか小物だろ! 何で、わざわざ参考書! ったく。普通のプレゼントなら、あぁ、やっぱコイツもそういうヤツなんだって、思えるのに。そうじゃなくて。しかも、それにはアイツの誠意が目一杯、詰まってるんだ。だから捨てられない。あぁ、もう本当に最低だ」
「最低ですよね、先輩」
「最悪なヤツだよ。北原は」

 クスクスと春希の愚痴を言い張り合う三人。愚痴な癖に、惚気が何度も入っているあたりが彼女達らしいとでも言えばいいのか。口々に最低だ、最悪だ、外道だとか言い合うが、それでもそこにあるのは全てが全て本心ではなく。

 何よりも彼女たちの愚痴の中で、一度たりとも口にされない文言がある。それは、『出会わなければ良かった』という類の言葉である。
 彼女達三人は、その言葉を一切吐かない。愚痴であるのに、絶対にその言葉だけは吐かない。だって、どんなに口で最悪だ、最低だと言っても、出会った事に対して後悔の思いは抱いた事はないから。出会わなかった過去を思う事だけは出来ないから。そして、出会った事に多大なる幸福があった事は事実だから。

 彼女たちの愚痴は続く。出会った事に感謝を捧げながらも、北原春希という未だ、己たちが知らない部分を共有しながら、北原春希の幸福を祝しながら。







「また、しませんか? 結婚式の夜とかに」
「いいなぁ。そういうのも。二次会は依緒とか柳原が出るから付き合うにしても、三次会は面倒だし」
「私は、どうしようか。仕事の都合があるし」
「来いよ。私も、アンタと話すのは楽しいし。後、演奏だけでも聞きに来てくれ。これは、どうしても聞いて欲しい。私達が世話になった人達、全員にどうしても聞いて欲しい」
「うわっ、好奇心煽るだけ煽って、どんなのか言わないなんて、気になる」
「だったら、それだけでも聞きに来いよ」
「分かったわよ。何とか時間を調節して行く」
「うん、ありがとう」
「期待してますからね、かずささん」
「任せろ」

 宴は佳境を過ぎ、時刻も丑三つ時を過ぎている。そろそろ、目蓋も重くなり始めている三人。話題も未来に向けての言葉が増えてくる。

「そうだ、最後に乾杯しましょう!」
「これ以上、乾杯する事なんてあったっけ?」
「ありますよ〜。今、私達が傍にいる事に。こうして、本気で愚痴を言いあえて、本当に共感できる人がいる事に」
「………………………………まぁ、そういうのも玉にはいいか」
「……………………この年になって、そういう人に巡り合えるのは行幸かな」

 同じ好きな人が出来て、同じ好きな人の幸福を心から願える人に出会えて、同じ傷を抱く人が傍にいて、同じ人を笑いながら乏しめる事が出来てる事に、精一杯の感謝を。

「では、私達三人が出会えたことに」
「「「乾杯」」」

 彼女達は、今日新たな友を手に入れた。彼女達は、今日親友と呼べる人と出会う事が出来た。その事に対して、祝福を。そして、出会わせてくれた大好きな人に感謝を。





 こうして、負け犬同盟は結成された。

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