雪菜が最初の子どもを妊娠した時、春希はもちろん喜んだが、一抹の不安を感じないでもなかった。親と長い間うまい関係が結べなかった自分に、子供をうまく育てられるのか――という懸念も少しはあったが、妻、雪菜への絶大な信頼は、それを打ち消して余りあった。それよりも大きな不安はつまりは、もう取り消しようもない春希と雪菜の絆の証を前に、かずさがどうなってしまうか、であった。雪菜から妊娠の知らせを受けて無邪気に喜び、日に日に大きくなっていく雪菜のお腹に目を丸くするかずさが、しかし現実に、一個の人間としてこの世に生まれてきた春希と雪菜の子どもを前にしたとき、どんな思いを抱き、どんな反応をするのか――春華が生まれるまでの間の春希は、そんなかすかな不安をずっと胸の奥に潜めてきた。
 実際のところかずさがどう思っていたのかは、もちろん春希にはわからない。きっとかずさ自身にだって、よくはわからなかったのだろう。しかしながら、それまでどんな葛藤があったとしても、いざ春華がうまれてからのかずさは――最初の見舞いの病室で、ややくたびれつつも誇らしげな笑みで彼女を迎えた雪菜と、その腕の中、おくるみの中でうごめく赤茶色の肉の塊を見た瞬間から――もうこの小さな謎の生き物にすっかり魂を奪われてしまったのだった。
「――ああ……よく来た、よく来たねえ……おちびちゃん……お名前は――?」
 ぴくぴくうごめく新生児に向かって、かずさは小さな声で歌うように語りかけた。
「――まだ、決めてない。一応、春希君の「春」の字をもらうつもりだけどね。今の季節にも合うし。」
と雪菜。
「……そっか。うん、そっか。うんうん。かああいいねえ――うん? うん? 春ちゃんか。はるちゃん? はーるーちゃーん? ――うーん、いいにおいだねえ。なんのにおいでしゅか? うん? うん?」
 その時そばには春希もいたのだが、おそらくかずさはその存在を完全に忘れていた。彼女は全身全霊をかけて、雪菜の腕の中の小さな生き物の顔をのぞきこんでいた。
「――この子ねえ、もううんちするんだよ? でもね、まだおっぱいとミルクだけだから、うんちが臭くないんだ。うんちからごはんの香りがするんだよ?」
 雪菜が何やら自慢げに言った。
「そっかー、くちゃくないのかー。そうだよなー、あたりまえだよなー、こーんなにおちびさんで、こーんなにかわいいんだもんなー。うん、うん。はるちゃん。いいお名前をつけてもらおうねー。ママに似て美人さんになるよねー、はーるーちゃん?」
 かずさは顔をくしゃくしゃにして、小さな手をその優美で力強い指先でつん、つんと繰り返しつついていた。

 あれから7年近いときが過ぎ、今日は、その小さな生き物、北原春華の、保育園からの卒園式の日である。赤茶けたモロー反射のかたまりは、すっかり、おしゃまな美人さんになっていた。

 3月最後の土曜日。雑居ビル1階のふた間をぶち抜いて作られた小さな保育園は、普段と違う緊張感と華やぎに包まれていた。今日を最後に保育園を離れ、4月からは小学生となる年長組の子どもたちは、いつもとは違うよそいきのブレザーやドレスに身を包み、プレイルームの真ん中の特別席に緊張した面持ちで座っている。春華も、その中の一人だ。下の子たち、在園児たちは、おしゃれしたお兄さんお姉さんたちの真後ろに、くすくす笑いながら集まっている。もちろん、雪音もいる。そして後方、壁際には、卒園生たちの保護者たちが、これまたいつもより少しだけおしゃれして並び立ち、めいめい、カメラを構えたり談笑したりしている。そのなかには春希と、おばあちゃんたち――春希の母と雪菜の母、そして、冬馬かずさの姿もあった。
 シックなスーツに身を包み、いつもの伊達メガネを今日は外したかずさは、気の置けない仲間扱いをしてくれるママ友たちに、ぎごちない笑顔を返していた。どうやら、すっかり緊張してしまっているらしい。
 乳児から預かる保育所には、幼稚園などとは違って「入園式」の類はないことが多い。「新入生」は年中、五月雨(さみだれ)式に入ってくる。まとまった長期の休みもないから、「始業式」「終業式」もない。だから保育園にとっては、年1回の「卒園式」というセレモニーは、格別重要な意味を持つ。まして今年の卒園児たち6人の大半は、赤ん坊のころからこの園で育った、兄弟同然の間柄だ。付き合いは家族ぐるみでこれからも続くだろうが、進学先は4つの小学校に離れ離れになる。
 だから6人の子どもたちにとって、今日という日は最初の大きな門出であった。そして春華ら子どもたちを見守るかずさ、自分の卒業式のときは居眠りしたり、ふてくされたり、あげくのはて最後の、高校の卒業式はすっぽかした彼女は、春華のこの門出にすっかり気が動転していた。どれくらい動転していたかというと、いつもならこういうとき出てきて、軽口をいって落ち着かせてくれる「守護霊」、脳裏の雪菜シミュレーターも立ち上がらないほどだった。脳裏では子どもたちと、そして在りし日の雪菜の笑顔がフラッシュバックするばかりで、泣いたらよいやら笑ったらよいやら、どうしたらいいかわからなかった。
(――落ち着け、クールに構えろ、絶対に泣き出したりするな……。見ろ、ママたちを。みんな満面の笑顔だ。そうだよ、今日はおめでたい日じゃないか。泣くことなんかないんだ。春希だって、お母さんたちだって、にこにこして……。うう――。どうしよう、雪菜……。)

 と、事務室のドアが開き、いつもはジャージとトレーナーの先生たちが、今日ばかりはおしゃれなドレスやスーツに身を包んで現れた。いつもはくたびれたジャージに洗いざらしのエプロンの園長先生も黒いシックなスーツで、子どもたちに
「起立! 礼!」
と声をかけた。
 卒園式が始まった。

 園長先生は、みんなに向けてのはなむけの言葉のあと、卒園生一人ひとりの名前を呼んで、卒園証書と、先生たちの手作りの記念品を手渡した。それから、在園生たちからお兄さんお姉さんたちへのお別れの言葉と、元気な歌のプレゼント。
 そして、卒園生6人が一人ひとり立って、在園生たちと、お父さん、お母さんたちの方を向いて、自分の言葉で、挨拶した。みんな、立派に、先生たちと両親へのお礼を述べ、小学校で何をやりたいか、どんな大人になりたいか、一所懸命に話した。保護者たちはみんな涙ぐんだ。
 ――そして最後に、春華の番が来た。かずさがふと春希の顔を見ると、驚くまいことか、さっきまでの余裕ある笑顔はどこかに消し飛び、ものすごく真剣な目で、春華を見つめていた。それを見て逆にかずさは、ほんの少し緊張が解けるのを感じた。
(――春希くんたらあ……なんて顔をしてるんだろ?)
 脳裏で雪菜の声が響いた。
(そうか、別に、泣いてもいいんだ。)
と、春華のスピーチが、始まった。

「わたしは、あかちゃんのときから、このほいくえんにまいにちかよっていました。いもうとの雪音がうまれてからは、雪音といっしょに、まいにち、おとうさんかおかあさんにつれられて、ほいくえんにきて、みんなといっしょにあそんで、ごはんをたべて、えをかいたり、おうたをうたったり、おべんきょうもしました。ずっと、みんなと、いっしょでした。
 ――でも、年中さんのときに、わたしたちのうちには、とてもかなしいことがありました。おかあさんが、こうつうじこで、しんでしまったのです。わたしも雪音も、しばらく、ないてばかりいました。
 でも、おかあさんはしんでしまったけれど、わたしたちには、おとうさんがいました。おとうさんは、だいすきなおかあさんがしんでしまって、じぶんもなきたいきもちだったろうに、ぐっとこらえて、おかあさんのぶんまで、わたしたちのおせわをがんばってくれました。そして、おばあちゃんもいました。しょっちゅうあそびにきてくれて、ごはんをつくってくれて、おやすみのひには、いっしょにおでかけもしてくれました。
 それから、かずさおばちゃんがいました。おばちゃんは、おとうさんとおかあさんのおともだちで、ふたりのことがだいすきだったそうです。おばちゃんは、おかあさんがしんでないてるわたしたちをだっこしてくれて、おうたをたくさんうたってくれました。
 わたしたちがちいさいころから、いつもあそんでくれたおばちゃんも、がんばって、おとうさんやおばあちゃんのおてつだいをしてくれました。みんなもしってるように、週のはんぶんは、わたしたちのおむかえをしてくれたし、ときどき、がんばって晩ごはんもつくってくれました。
 そして、園のみんなと、せんせいがいました。せんせいは、園でわたしたちがないてると、だっこしてくれました。みんなも、やさしくしてくれました。だからわたしたちは、すぐにげんきになりました。
 わたしは4がつから、小学生になります。園のみんなとも、せんせいたちともおわかれです。これからもときどきあそびにきますけど、わたしがこれからまいにちかようのは、園じゃなくて小学校です。おとうさんやおばちゃんに車でおくってもらうんじゃなくて、きんじょのおともだちといっしょに、自分であるいてかよいます。これから、ちょっとずつ、自分でやれることをふやしていきます。そうして、いつか、おとなになったら、こんどは、こどもたちや、まわりのひとたちを、少しでも、たすけてあげられるようになりたい、とおもいます。がんばって、わたしたちをたすけてくれた、おとうさん、おばあちゃん、かずさおばちゃん、せんせい、そしておともだちみんなに、ありがとう、をいいます。これからも、よろしく、おねがいします。」

 両手で持った紙をちらちら見ながら、それでもよどみなく、春華は立派に自分の挨拶をやり終えた。そして顔を上げてにっこりした。

「それでは、わたしたち卒園生から、みなさんに、歌のプレゼントがあります。きいてください。わたしたちのだいすきな、おかあさんのうた、おとうさんと、かずさおばちゃんがつくってくれたうた、「時の魔法」です。」

 スピーカーから聞きなれたイントロが――自分たちの演奏(カラオケバージョン)が流れてきたことに、かずさも春希も、完全に虚を衝かれ、度肝を抜かれた。ママ友たちが歓声を上げるなか、春希は呆然とし、かずさはこらえてきた涙腺が決壊するのをおぼえた。
 すわっていた春華以外の卒園生たち5人がぱっと立ち上がり、春華と並んで立った。そして、きれいなユニゾンで歌いはじめた。

「ひとはくるしみもほほえみも つないでゆける
 あなたといるときのわたしなら そんなこともおもえる
 こんないちまいの葉もつけない かれた木にもきせきは起きる
 ほら白いたくさんの光が 真冬のさくら さかせていくよ

 きっとかなうよ ねがいは目をとじて
 時の魔法を となえよう ゼロからonce again 」

 ――あまりのことにしばし呆けていたかずさだが、一番が終わり、間奏に入ったところで猛然と行動を開始した。急いで園のおんぼろな電子オルガンに歩み寄り、スイッチを入れてピアノモードを立ち上げた。そして二番目に入るタイミングにあわせて、かぶせるように伴奏を開始した。雪音が立ち上がって手をたたき、他の子どもたちも歓声を上げた。

「いそがしく日々をすごしてた だけど今は
 やさしいまなざしで このセカイ見わたせるとおもえる
 こんないちまいの葉もつけない かれた木にもきせきは起きて
 ほらわたしの中にもかがやく 真冬のさくら さかせていくよ

 きっとかなうよ ねがいはとどくから
 時の魔法を となえたら ここからonce again 」

 ――気がつくと、オルガンの前のかずさのかたわらに、春希が立っていた。園のおんぼろギターを抱えて。そして、サビのところから伴奏に加わった。

「あなたといる未来が キラキラとふってくる
 いつまでもいつまでも大切にしたいなぁ

 きっとかなうよ ねがいは目をとじて
 時の魔法を となえよう ゼロからonce again
 ゼロからonce again 」

 ――万雷の拍手と歓声の中、こうしていっしょにセッションしたのは、雪菜の告別式以来だったことを、二人は思い出していた。そしてかずさは、春希の頬を涙が濡らしているのを見た。





作者から転載依頼
Reproduce from http://goo.gl/Z1536
http://www.mai-net.net/

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

Menu

SSまとめ

フリーエリア

このwikiのRSSフィード:
This wiki's RSS Feed

どなたでも編集できます