「お待たせしました。小木曽さん、診察室にどうぞ」
 多くの外来患者が引けたウィーク・デーの昼過ぎ、峰城大学医学部付属病院の内科外来に、雪菜はいた。
 「失礼します。水野先生、こんにちは」
 「こんにちは。雪菜さん。体調は、問題ないですか?」
 「そうですね。特に変ったところは無いです」
 「尿検査ですが、特に異常な数値は出てません」
 「良かった〜」
 「ということで、エコー、しましょうか」
 「はい」
 雪菜は、上の服を脱ぐ。下着は付けたままで大丈夫。 
 「ホントは、泌尿器科の専門医の方が良いんだけどな」
 「また同じこと言って……。ダメですよ。水野先生以外の男のお医者さんに触られるの、嫌なんです」
 「僕は肝臓と消化器が専門だし、まだ研修が終わったところなんだけど。
 まあ、確かに、女医の泌尿器科医は、少ないからなあ」
 診察ベッドに俯けに横たわり、暖かいゼリーを塗られる。
 未だに、このねっとりした感覚は気持ちが悪い。知らない男にゼリーを塗られ、触られるなんで、考えただけでも、ちょっとダメだ。だからこそ、予約料金まで払って、水野治彦の担当する日と時間にやって来ているのだ。
 プローブが肌の上を滑る。雪菜への気遣いが、分かる。
 「尿管の吻合部に、従来通り狭窄は認められません。腎もキレイだね。
 X線写真では骨盤のヒビが入ってた所は問題なしでした。長い時間立っていると、腰とか足とか、痺れてこないですか?」
 「大丈夫です」
 「それじゃ、問題なしだね。……ねえ。雪菜さん」
 「何でしょう」
 「この傷跡だけど、今、レーザー治療が進歩しててね、ほとんど目立たなくすること、できると思う。
 受けてみない?」
 「…………」
 「嫌、かな」
 「もう少し、このままで」
 「確かに美容の範囲だから、お金かかるけど」
 「えーと、それが問題じゃ、ないんですよね」
 「そう、か。まあ、頭には入れといて」
 「ありがとうございます」
 「それじゃ、拭くね」
 水野はタオルで、背中についたゼリーを優しく拭う。
 「仰向けになって」「はい」「お腹も、見せてね」 
 再度ゼリーを塗り、胃、十二指腸、肝臓、胆嚢、膵臓を診て行く。
 「当然、問題なし、と」
 「ありがとうございます」
 「じゃあ、拭いて、服を着て良いですよ」
 エコーの後のゼリーを拭っている時の静寂って、何だか気恥ずかしいよね……。
 「ちょっと、お疲れぎみかな?」
 診察椅子に座った雪菜に、水野が問う。
 「それもエコーで分かるんですか」
 「当然だよ……。って、嘘。顔がね、ちょっと疲れた顔してる。耳の下、触って良いかな?」
 「はい……」
 「医師として心配、というレベルじゃないけど、ちょっと腫れてるっぽいかな」
 「そう、ですか」
 「僕もファンクラブの会員だから、秋のツアーとか、録音とか、収録とか、仕事がいっぱいあるの、分かってるから、無理するな、とは言わない。
 でも、人間関係だけは、ちょっと心配かな……。
 休息も仕事の内だと思ってね。しんどくなったら、何時でも良いから、電話して下さいよ」
 「分かっています。水野先生、ありがとうございます」 
 専門科じゃない自分がかかりつけ医で良いのだろうか、と思う反面、この立場は絶対に誰にも渡したくない、と水野は思っていた。

 * * * * *

 水野は、雪菜が有海で倒れて、救急車で運び込まれた病院に、その時たまたま、研修医として、救急外来にいた。
 2013年2月28日。雪菜が、かずさと決別した日。
 「あたし、弱い人間だから、卑しい人間だから、お前から、春希を奪うしかないんだ。……代償を払うよ」
 そう言って、自分の左手をつぶそうと、かずさは割れたグラスを振りかざした。
 雪菜は、無意識にかずさの右手を叩き、グラスを手放させて、かずさを救った。
 だが、決別の後、「壊れそうになる心に逃げていた卑怯な自分」と「春希のためなら他の全てを捨てることも厭わないかずさ」を比較して、激しい自己嫌悪に捕われ、頭が真っ白になり、信号に気づかず車道に出て、事故にあった。
 すぐに病院に行けば、命には別状なかっただろう。
 だが、骨盤骨折と、尿管の片側が断裂した状態で、この事故を隠し通すために、冬の有海を彷徨った雪菜が、翌日の春希との決別の後、病状を悪化させて救急車で運び込まれた時、打撲による内出血と、激しい炎症、高熱のため、当然緊急入院が必要な重症患者になっていた。
 次から次へと搬送される救急患者への対応に疲れていた水野は、ストレッチャーの上に横たわる真っ白な、やつれた顔の雪菜を見た時、心臓を掴まれる思いがした。
 信じられなかった。……あの美しい人が、絶対に幸せになるべき人が、なんでこんなに酷い状態で運び込まれたのか。全く理解できなかったのだ。

 * * * * *

 ……2010年12月11日。医学部男子と、峰城大学各学部から選抜された美女達との、合コンの夜。水野は仕方なく幹事をやらされていた。
 水野は一目で雪菜に恋をした。
 水野は、基本的に内気な男だ。下町の開業医を親に持つ身としては、金持ちの級友達と比べて質素で、派手な遊びとは無縁だった。
 だが、卒業を控え、一度も幹事をしたことが無い彼に、学部内での順番が回って来た。国試を目前にして当然嫌がったが、将来の人脈のことを考えると無下に断れなかった。
 幹事役、それも準備と会計に徹底し、司会進行はもう一人の遊び慣れた幹事に任せて、参加者を楽しく遊ばせて、問題なく終われば良い、とだけ考えていた彼は、真のミス峰城大学と噂される小木曽雪菜が参加すると聴いても、それ程、興味はなかった。
 だが、受付で声をかけられた時、一目で恋に落ちた。
 君は招待客だから、参加費はいらない、と言うと、意地を張って支払う姿がまた可愛かった。
 完全に舞い上がってしまった。だが、気軽に声をかけることができない。
 水野は、色恋沙汰に全く縁のない生活をしてきたから。極上の餌に群れる級友達に対して、天然トークで防戦する雪菜の姿を、遠くの席から垣間見ることしかできなかった。
 そして、一次会の解散の時も、声もかけられず……。
 悶々とした思いを抱えながら帰宅する途中で、携帯にかかってきた、見知らぬ番号に出てしまった。
 雪菜を探しているという、厚かましい、強い口調の男からの電話。
 それが北原春希だった。
 ……後日、一次会の会場にお礼の電話をかけた時、マスターから、その男が根も葉もない作り話をちらつかせながら、自分の番号を訊きだしたと聴いて、複雑な思いがした。よく思い返せば、参加者全員の電話番号を訊きだす手口も、殆どはったりで、詐欺的だった、と思う。
 当然、断固として怒るべきなのだ。だが、その男の雪菜を思う強い意志を羨ましく思った。そして自分の臆病を悔いた。だから、怒ることができなかった。
 そして、二か月が経ち、ヴァレンタイン・デー・ライブに雪菜が出ると聴いて、駆けつけた会場。キャンパスによく流れていた『届かない恋』を歌っていたのが雪菜だと知った衝撃、生で聴く雪菜の声の素晴らしさと、歌っている時の優しい表情、美しい立ち姿と、……側にいて愛しい目線をもらい続ける北原春希という男の姿に、強烈に心をかき乱された。
 だが、当然、何もできなかった。ただ、卒業後、小木曽雪菜と北原春希の、周囲もドン引きする程の熱々カップルの噂を聴いて、むなしく思っただけだ。
 ただ、幸せになってほしい、とは強く思った。

 * * * * *

 その雪菜は、息も絶え絶えに、ストレッチャーに横たわっていた。
 内科の研修医の身分では何もできない。その無力さも彼を傷つけた。
 応急処置を施し、その日は、背中を切開してドレナージと、骨盤骨折の固定術を行う。額に擦過傷を伴う軽い打撲があり、念のため頭部CT撮影も行う。
 数日後、患部の炎症が落ち着くのを待って、峰城大学医学部付属病院に搬送して、尿管吻合手術を行った。執刀医に無理を言って、前立ちをさせてもらった。幸い、難しい手術ではなかった。傷も、大きなものにはならないだろう。
 雪菜の意識が戻る前、担当医に任ぜられた水野は、雪菜の病室をたびたび見舞った。彼女の母親は見るたびに泣いており、父親と弟は怒りに震えていた。
 意識が戻っても、記憶の混濁があるようだった。ある日、部屋に入ろうとした瞬間、「北原君は、もう日本にはいないの。あなたを裏切って、ウィーンに逃げたのよっ」という、母親の泣き叫ぶ声が聴こえて来た。
 「お母さん、やだなあ。そんな嘘。嘘でも、悲しいじゃない……」
 「嘘なら、どんなに良いかっ。でもっ、でもっ」
 コンコン。「お母さん、ちょっと宜しいですか?」
 「先生……」
 「こんにちは。小木曽雪菜さん。僕は水野と言います。あなたの担当医です」
 「すみません。あの、わたし、どうしちゃったんでしょうか。腰が固定されて、動けないんです」
 「まず、落ち着きましょうか。深呼吸してみましょう」
 「はい……」数度、深呼吸をする。
 背中が痛むことに気づく。
 「小木曽雪菜さん、あなたは、交通事故に遭ったみたいです」
 「事故……」
 「覚えてないですか?」
 「…………」 
 「ちょっと、待っててもらえますか」水野はナースステーションへ踵を返し、内科医局に電話する。
 「すみません。○○○号室の小木曽雪菜さんですが、目が覚めました。
 ただし、意識の混濁が見られます。至急頭部CT撮影と、結果によっては精神科の診断、治療が必要と思われます」
 ……幸いにも再度の頭部CT撮影結果に問題はなかった。
 だが、精神療法が進むに連れ、雪菜の胸には、辛い現実が思い出されて来た。雪菜は、無意識のうちに、薄々分かっていたようだが、やはり耐えきれず声を殺して泣き続けた。またしても水野は、雪菜に何もしてやれなかった。
 腰の固定が外れないまま、雪菜は早期のリハビリを開始した。痛みが雪菜を襲う。だが、肉体の痛みは精神の痛みを忘れさせてくれる。
 雪菜は、必死になってリハビリを受けた。
 水野は毎日、一度は病室を訪れた。特に病状について話す訳でもない。ただ、朋が見舞いに来ていた時に、あの合コンの幹事だったことは告げた。雪菜も、朋も、全く水野を覚えていなかったことには、落胆したが……。
 だが、親近感はもってくれたようだ。
 ……雪菜の腰の固定は、外された。経過は良好だった。
 一方、食事摂取量は、あまり良好とは言えなかった。しかし、続く微熱が治まり、手術後経過の確認さえ終えれば、退院の目処が立った。
 ……当直開け、様子を見に、ナースステーションに寄った水野は、雪菜の母親が、娘がいないといって騒いでいるのを見かけた。朝方、病院を抜け出したらしい。
 水野は、雪菜の母親の携帯電話の番号を聞くと、外来入口のタクシー呼び出し電話に向かい、朝方、雪菜に似た女を送らなかったか調べてくれと尋ねた。
 ……乗せたという、返答があった。理由を言うと、行き先を教えてくれた。
 成田だ。
 当直明けの頭は重く疲れていたが、迷いはなかった。水野はすぐさまタクシーに乗り込み、雪菜の母親に電話する。
 ……あの聡明そうだった彼女を、ここまで狂わせた北原春希と、彼を奪って行った女というのは、いったいどういう奴らなんだ、と怒りに震えた。
 ……成田について水野は、容易に雪菜を見つけることができた。
 ロビーの椅子に俯いて座る、明るい色の髪の女。その痩せた肩は震えていた。
 「お嬢さん、隣、空いてますか」取り乱さないように、とりあえず、近寄り、ゆっくり座った。
 「水野、先生……」
 酷い顔をしていた。涙が出そうになった。
 「ウィーンに向かうには、軽装すぎるね。向こうは、まだ、寒いよ。無理しちゃ、ダメだよ」
 水野は、自分のダウンジャケットをかけてやる。
 「すみません……」
 「……乗り過ごしちゃったの?」
 「いえ……。情けないですね……。ここのゲート、ちょっとした思い出があって。だから、体が、動かなくなっちゃったんです……」
 そこは、五年前、春希と一緒に、かずさを見送りに来たゲートだった。
 目の前で、かずさに走りよる春希。熱い抱擁と、口づけ。
 かずさに諭され、唇を噛んで、泣きながら立ち尽くす、春希。
 「雪菜、ごめん」と言って、泣きながら、引き剥がされるように春希と別れてゲートの向こうに消えた、かずさ。
 二人を許すことも、泣き叫んで罵倒することも、春希を取り返すこともできず、ただ自分を責めていた、雪菜。
 思えば、そこが地獄巡りの入口だった。
 十八歳の冬の、苦悩の全てが思い起こされて、身動きが取れなくなったのだ。
 よくよく考えれば、あの時、雪菜を気遣い、泣いて分かれた二人が、再び出会えば、一瞬にして惹かれ合うことは予想できたのだ。
 何故なら、二人は、いや、かずさ、雪菜、春希の三人は、自分の真実の愛を忘れられる程、器用ではなかったから。
 自分たちの愛と友情を、都合の下に隠せる程、大人ではなかったから。
 ゲートまで来た時、それが分かってしまったのだ。
 「チケット、買う前で良かったのかな……」
 「担当医としては、いてくれて助かった。……ちょっと、おでこ、触るよ」
 案の定、酷い熱だ。
 「これは、帰ったら抗生物質の点滴だな」
 「お腹、痛くなるから、嫌なんですけど……」
 「仕方ないね……」
 「……ただ、会いたかった。会って、二人に戻って来てと言いたかった」
 「…………」
 「でも、無理だね。先生、わたし、酷い顔、してるでしょ」
 「そうだね。痩せすぎだよ。美人が台無し、かな」
 「こんな顔で会いに行ったら、かずさと春希くん、動揺して、めちゃくちゃになっちゃう」
 「めちゃくちゃにしてやれば良いじゃないか!」
 雪菜は驚いて、水野を見上げる。
 「僕が行ってきて、北原をめちゃくちゃに殴ってやるよ!」
 「……先生」
 「君をこんなに傷つけた、あの男が許せない。彼を奪った、その娘を許せないよ。僕は、君が……」
 「ごめんなさい」
 「雪菜さんが謝ることじゃない。悪いのは北原だろ」
 「ごめんなさい、先生。わたし以外の人が、かずさと、春希くんを、悪く言うのは、許さないよ。
 二人は、わたしの親友だから……」
 「雪菜さん……」
 「全部、わたしが悪いの。だから、ごめんなさい。ご心配、かけました」
 その瞳から、涙がぼろぼろとこぼれた。
 ……肩を抱き、移動しようとしたその時、水沢依緒が走りより、雪菜を抱きしめ……、二人してフロアーにへたり込んだ。
 依緒は人目憚らず、泣いた。「止めてよぉ……」と「ダメだよぉ……」を繰り返しながら。
 一緒に来た飯塚武也と、水野は、その時、初めて知り合うことになった。
 雪菜は「ごめんね」と繰り返すばかりだった。

 * * * * *

 その後、雪菜はもう一度、病院を抜け出すことになるのだが……。それ以降は落ち着いて、どういう経緯か詳しくは知らないが、冬馬曜子オフィスと契約、アーティストとして独り立ちしている。
 5月にファンクラブが立ち上がった時、水野は雪菜からメールをもらった。
 「先生、わたしのかかりつけ医でいて下さいね。その代わり、ファンクラブ特別無料会員として、会員番号七番をプレゼントします」
 水野は簡素に「もちろん!」と返信した。
 ……水野の寝室には、雪菜のファースト・アルバムに付いていたピンナップ二枚が、額縁に入れて表裏並べて飾ってある。
 いつか、この背中の傷をキレイに消してあげたい。
 それが水野の大きな願いだった。





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