ようやく恋人らしいことをした記念すべき日の翌日。つまり十二月二十五日。ほとぼりも冷めない内に俺は冬馬から呼び出しを受けていた。

……朝の五時に。

 冬の明朝は凍てつくくらいに寒い。ガチガチと震える口から吐き出される白い息も即座にダイヤモンドダストになりそうだ。この関東平野で実際そんな異常気象になったら温暖化も抑止されることだろう。

 人を呼び出すには非常識な時刻ではあるが、しかし俺にとっては迷惑でもなかった。恋人だからとかいう盲目的な意味ではなく、冬馬に「おやすみ」と言っておきながらあれからちっとも休んでいなかったから。

 冬馬も起き抜けとは思えないくらい電話口の声がはっきりしていたし、それに……

「……」

 今もほら、マンションの階段を下りて目の前にある公園に、なぜか俺よりも先に着いてるし。

 この時間って、電車動いてるっけ?

「は、早いな」

「朝だからな」

「いや、今のは挨拶したわけじゃなくて」

「それより先に何か言うことがあるんじゃないか?」

 鼻の頭を赤くした冬馬。ついでにテンションも赤く染め上がっているようだった。

 でもこれ、実際に口に出すのは思った以上に恥ずかしいんだよな。台本を言わされてる感があって。

「ごめん、遅れた。待ったか?」

「ああ待った。あたしを凍死させる気か、馬鹿野郎」

……お前は前振りどおり定型文で返してくれないのな。

 厚着で一回りほど体格が大きくなっているくせに、冬馬は細かく震えていた。ジョークだけど実はジョークでもないらしい。

「使えよ、これ。懐に入れて暖めておきましたぜ親方」

「……キモい」

 ぶつくさ言いつつも使い捨て携帯カイロをぶっきらぼうに受け取る。コートもマフラーも手袋も俺が愛用しているものより桁が違う代物だろうけど、文明の利器は偉大だったようで、冬馬は目を細めて幸せそうに赤く染まった頬に当てた。

……当てる前に鼻に近づけてた気がするのは俺の見間違いだよな?

「それで昨日の今日でどうしたんだ? もしかして冬馬も眠れなぐわっ!?」

 このままでは凍死しないまでも体調を悪くすると踏んで早速本題に入ろうとした俺を、冬馬はつま先で確実に臑を蹴りあげて遮った。不意打ちだったから精神的にも肉体的にもかなり痛い。

 苦悶の表情で見上げる俺を、冬馬は大魔神の如く威圧的な目で瞬きひとつせずに射貫く。

「いま、なんて言った?」

「えっと……だから何で呼び出されたのかって」

「そのあとだ。冬馬って、誰だよ……」

「あ……」

 拗ねて尖った冬馬の……いや、かずさの唇が、そんな可愛らしい、女の子みたいな不満を漏らす。

「……ごめん」

「……」

「ごめん、かずさ」

「仕方ない……許す」

 『まだなれてない』なんて当然の言い訳を、聞き入れてくれるはずもないくらい、かずさは、かずさと呼ばれることに飢えていた。

「そもそも、お前は恋人の名前を呼ばないどころか、他人の家の親を名前で呼ぶだなんて非常識にもほどがあるだろ。春希のくせに生意気だ」

 そんなガキ大将みたいに言わなくても……。

 もしかしてもしかしなくとも、かずさは昨日ずっとモヤモヤした嫉妬を抱えていたのか。でも今更自分から名前を呼んでなんて言い出せず、鈍感な俺がかずさのことを呼ぶ度にやきもきした溜め息を心の内で吐いてたことになる。

……本当にごめん、かずさ。

「それでな、春希。わざわざ来てもらったのには理由があって。先に言っておくけど、別に眠れなかったとか顔が見たかったとかそんなアホらしい精神病の一種じゃないからな」

 わざわざ後半を言う理由があったのかはさておき、かずさは携帯カイロを代わる代わる両頬に当てたりしゃかしゃか振ったりしながら、目線を合わさずにぼそぼそと語り出した。

 昨夜、曜子さんと交わした会話を。

…………

「そっか。じゃあ、またやる気になったんだ、ピアノ」

 その内容を聞いて自然と笑みが浮かび、胸をなで下ろした。

 年明けに開催されるコンクールに出場すること、その本選に出場できた暁には曜子さんが大学推薦の斡旋をしてくれること。

……俺の見込みどおり、母親とのわだかまりが少しずつ解けはじめたこと。

 実を言うとどうにかしようと頭を捻っていた懸案事項のひとつだったが、俺がお節介をしなくても解決してしまったようだ。

「よかった。ホントによかった」

 一番いい解決方法であることには違いない……けれど、昨日に引き続き少しばかり寂寥を感じずにいられないのは身勝手がすぎるか。

「絶対に見に行くからな」

 言葉も表情も前向きになって、とても喜ばしいことなのに、なんだか微妙に負けたような気がするのは。

 かずさは少し幼さの残るはにかんだ笑顔で照れくさそうに頬をかいた。

「三年前に捨てられたくせに、ちょっと甘い顔されるとホイホイついてくって、あたしも大概マザコンだと思うんだけどね。おんぶにだっこで、単純でさ」

「おんぶにだっこしてもらえる相手がいてラッキーじゃないか。意地張って意見を変えないような頭でっかちより単純な方がずっといいんじゃないか?」

「春希……」

「ま、俺としては意外だったけどな。ひねくれてて意固地なかずさが素直になったのも、大学に通う気があるってのも」

「春希ぃ……っ!」

 かずさの顔が照明のように明滅する。でも照れ隠しのひとつでも言わないと今はまともに会話ができない。

 だって、こんなに嬉しい吉報はない。曜子さんとの和解がここまでプラスに転じるなんて予想外だったから。

 恋人は所詮他人で、母親は何者にも代えられない肉親ってことが、壁に正面から激突したくらい伝わったから。

……なんて、悲観的な帰結になってばかりでどうする、北原春希。せっかくの記念日に。

「じゃあしばらく曜子さんは日本にいるのか?」

「ああ。あたしの進学のこともあるし、ついでに卒業式も見に来るって」

「ついでって……」

「だから少なくとも三月まではいる。……でも、それから先は多分パリだ」

 せっかく浮きかけた感情が錨を下ろす。曜子さんとの関係は大分癒えてきたけれど、まだかさぶたになった程度で。また疎遠になるんじゃないかとか、誰も帰らない家に一人でいることの孤独感に再び耐えられるのかとか、そんな先が見える不安を、きっと抱えている。

 曜子さんはかずさが行くなと言ったらどうするだろうか。置いて行ってしまった罪悪感に苛まれて止めるか、それとも今度はちゃんと話をした上で自分を待ち望む世界へ飛び立つか。

 どちらにせよ、そうやって曜子さんを悩ませることが正解だなんて、かずさも思っていないはずだ。

「電話、すればいいんだよ」

 だから俺は、あえて的をはずした、見当違いな助言しかできない。

「忙しくても、時差があっても、電話っていう便利な機械があるんだから話はできる。もう意地を張る理由もなくなったんだから簡単なことだろ」

「そう……かな」

「そうだよ。死に別れるわけじゃないんだから年に数回は会えるんだし」

「……簡単に言うなよ。他人事だからって」

「きっと大丈夫さ。かずさは曜子さんと強い絆で結ばれてる。血っていう、一生切っても切れない絆で。また仲違いしてもその度に仲直りすればいいんだ」

「血……か」

「それにかずさは曜子さんの血が濃そうだし」

「昨日もそんなこと言ってけど、どこをどう見たらそう思えるんだよ」

「そりゃあ……」

 あんな殺人的コーヒーもどきを飲める人類なんて、そうそう見つからないし。

「なんだよ」

「いや、忘れてくれ」

 かずさの咎める視線に後込みする。でも、あんなの飲み続けてたらいつか糖尿病になって手遅れになる。……というか今の今までよく無事だったと不思議でならないけど。

「それで、肝心のコンクールは大丈夫なんだよな。もう受かる前提みたいに話してるってことは楽勝なのか?」

 よく知らないけど、細々とピアノを触っていたとはいえ、今から準備しても間に合うのだろうか。

 しかし予想に反してかずさは難しい顔をした。

「どうかな。二年もブランクがあるし、本選に行けたら奇跡ってところ」

「……おい」

「コンクールも今までみたいな学生限定じゃないし。年齢制限は十八歳以上三十歳以下」

「つまり最年少で挑むわけか」

 想像するだけでも厳しそうだ。曜子さんも厳しい条件を突きつけてくる。

 でも……

「かずさなら優勝できるんじゃないか? あれだけ上手いんだし」

「……お前、ホント何もわかってないド素人なんだな」

「まったくもってその通りなんだけど、そうやって蔑まれると死にたくなるからやめてくれ」

 そういう態度が新規のファンを離れさせるんだぞ。クラシックの世界にとどまらず。

「そんな甘い世界じゃないんだよ、ピアノってのは」

 どうやら俺の本心からの激励はかずさの癪に障ったようで、寒冷というよりよりはむしろ生暖かい目で見られた。

「あたしは二年もブランクがあるし、春希が知ってるあたしのピアノなんて、お遊びのポップスとかがほとんどだろ」

「でも今度はお遊びじゃない本気のクラシックなんだろ。本領発揮というか」

「だからこそ腕前が露呈するんだ」

「じゃあ俺が冬馬かずさファンクラブ会員ナンバー一番ってことで」

「なんだそれ」

「これから始まる伝説の天才ピアニストの、だよ。お前知らないのか? 冬馬かずさは俺が最初にファンとして目をつけたんだぜ」

「……キモい」

「好きなんだ、かずさのピアノ」

「っ!」

 流れるように、色々な表情をした音の波が、包み込んでいって……なんだか、あまりにも気持ちよくなって、安心して、眠くなる。

……これ、褒め言葉だよな?

「じゃ、じゃあ……さ」

 甘えるように、控えめに、けれど新しい玩具を見つけたみたいに、かずさの眼孔が鋭くなった。

「もしもあたしが優勝したら、また何かくれるか?」

「ファンに見返りを求めるなよ」

「そうじゃなくて!」

「じゃあ、恋人として?」

「えっと……うん。試験のときみたいに」

「ご褒美を?」

「だからそうやってペットみたいに言うな、この馬鹿!」

 照れ隠しで蹴りを入れるのは可愛いんだけど、できることならもうちょっと加減を知ってほしい。

……痣にならなければいいなぁ。

 関係ないけど、レッサーパンダって可愛く見えて実は凶暴な動物なんだぜ。

「オッケー。わかった。また考えておくから。ご……プレゼントをさ。だから絶対に優勝しろよ」

「よし。じゃあ契約の印だ。腕を出せ」

「ひぃ!?」

「何もしないって。……そういう反応されると、ちょっとへこむよ」

 だったら最初からしなければいいってツッコミは、本当にへこんでいる様子のしおらしいかずさにできないから、俺は言われるがままに右腕を出した。

 かずさはポケットから何かを取り出したと思ったら、確認する暇も与えずに素早く俺の腕に巻き付けた。

 その”何か”とは――

「腕時計……?」

「その疑惑の視線はやめてくれ。別に、内側に毒針とか仕込んでない」

 しかもどこかで見たような……それによく知っているような品物で。

 ちらりとかずさの左腕に目を向けると、かずさは見せつけるように俺の右腕の隣に自身の左腕を並べた。

 うん、やっぱり俺のと同じ腕時計だ。

「って、ペアルック!?」

 二昔前のカップルがよくやっていた、噂に名高い所行。しかも女物で……。

「痛いな……」

「締め付け、強すぎたか?」

「いやそうじゃなくて」

 もしかしてからかわれてる?

「一日遅れたけど、実はあたしも用意してたんだ、クリスマスプレゼント。渡すタイミングは逃しちゃったけど」

 でもかずさは至って真剣な様子で、ちょっと恥ずかしそうにはにかみながら自分の腕時計を慈しむように撫でている。

 なら俺は、素直に喜んでいい。毒気を抜かれた気分だけど、かずさの初めてのプレゼントの意図をちゃんと汲む。

「ありがとう、嬉しいよ。そうだよな。かずさの隣を歩くんだし、俺も身だしなみくらいちゃんと気をつけないとな」

 そう思ったんだけど……

「なに勘違いしてるんだ?」

「え」

「言っただろ、契約の印だって。それは腕時計じゃなくて鎖だ」

「いや、疑う余地もなくどこからどう見ても腕時計だけど」

「っ!」

「いや鎖だな。疑う余地もなくどこからどう見ても鎖だな」

 なんで俺、この歳になって『黒いタイルは島でそれ以外は海な』みたいな小学生の遊びみたいなことを同い年の恋人としてるんだろう。そういうプレイなのかな?

「これでお前は、あたしだけのものだ」

 自慢げに鼻を高くして胸を張るかずさは、やっぱりちょっと幼く見えた。

「この鎖がある限り、お前はあたしから離れられないし、あたしのことしか考えられなくなる。わかったな、春希」

――呪われた装備。

 かつて、友達の家でやってたゲームにそんな禍々しい装備品があったのを急に思い出した。今思うと何で一人用ゲームをみんなで見て進めていたのか不思議だ。

「……あのさ、かずさ。ひとついいか」

「な、なんだよ」

「どうしてそこまでして俺を縛っておきたいんだ?」

「……自分で考えろ、そんなこと」

「ごめん、さっきから必死で考えてるんだけど、学年トップクラスの成績を以てしても理解ができなかった」

 素直に本当の気持ちを伝えたのに、真摯な質問をかずさは不機嫌そうに舌打ちした。

 そんな背筋が凍るくらいな目で蔑まなくてもいいじゃん……。

「これからコンクールに向けて猛練習することになる」

 そこまで聞いて『ひょっとして』と思い当たる。

「二年参りくらいは許し――行けるけど、それも行事が終わったら寄り道しないで家に帰って練習」

 もしかしてかずさは……

「その間に春希が離れていかないか……母さんみたいにどっか離れて行っちゃうんじゃないかって気がして……さ」

 まだ、人の優しさを、愛情を、信じることができないんじゃないかって。

「ウザいだろ、馬鹿だろ、キモいだろ」

 そうなった原因である母親と和解しても、俺がどれだけ愛を囁いたとしても、軽減されはしても根本の治療ができないでいる。

 だからこの腕時計――鎖は、自分の目で見える絆なんじゃないだろうか。

 でも、そんなまやかしの代物で解決できるわけがない。

 だから俺は……

「ウザいし馬鹿だしキモいな」

「……っ」

「でも嬉しいし愛おしいって思うよ。ありがとな」

「…………春、希……」

 痛々しいバカップルを演じてやろうじゃないか。誰にでも平等でお節介な俺が、かずさただ一人のことしか考えない俺になってやろう。

 この呪縛がとけても、かずさが俺のことを信じられる日が来るまで。

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