綿が舞うようにゆっくりと落ちてくるひと欠片。
 ひらり、ひらりと春希の視界の中でちらつく白いものが、空から降ってきている雪なのだと認識するまでに数秒の時間を要した。
 それくらい彼の思考が考えるということから逃げ出そうとしていた。
 
「っ……!」
 
 原因ははっきりしている。
 背中からかけられた声。その声音の相手に彼は何度も何度も連絡を取ろうと試みては、その度に何らかの理由を付けて取りやめてしまっていて。
 その行為が問題を先送りにしているだけだとわかってはいたけれど、目の前にいる“かずさ”を優先するあまり、春希は彼女との接触を避けずにはいられなかったのだ。
 けれど、いつかは必ず“再会”しなければいけない相手。しかし、こんな風に偶然道端で出会うみたいな再会は予想していなかった。
 だから戸惑う。足が竦む。
 
 ――小木曽雪菜と対面することに、心の準備が必要だと思っていたから。
 
「……」
 
 今の春希と雪菜の関係は非常に複雑なもので――クリスマスに春希が雪菜を求め、それを彼女が拒み、彼を振ったという形に落ち着いているが――それが“外から見たままの形”でないことは当人達がよく知っている。
 
 ――春希が雪菜を求めた影にはかずさがいて。
 ――雪菜が春希を拒んだ裏にはかずさがいる。
 
 冬馬かずさという名前を抜きにしては二人の関係は語れないのだ。
 けれど、春希の雪菜に対する想いが嘘だったかと言えばそうではないし、雪菜が春希を拒んだのは、彼女の思いが切れてしまったからではない。
 彼等の周りにいるほぼ全ての人間が二人が付きあっていると誤認するくらい近しい間柄でもあったし、またそういう光景を周囲も望んでいた。
 過去の経緯から春希と雪菜の間に溝はあったが、それは時間が解決できるだろう問題で、二人が互いに寄り添う道を選択できれば乗り越えることは可能だったはずなのだ。
 しかし、春希はかずさと出会ってしまう。
 雪の降る街で、彼女と再会してしまった。
 分岐点というならば、正にあの大晦日の夜がそうだったのだろう。
 春希がコンサート会場まで足を運んでいなければ。曜子から送られてきたチケットを受け取っていなければ。
 きっと、二人にとってはまったく違った未来が描かれていたはずで――
 
「……雪、菜?」 
「あ、やっぱり春希くんだ。凄いおめかししてるから人違いかと思っちゃったよ」
 
 ゆっくりと振り返った春希を笑顔の雪菜が迎える。
 暗がりの中だが、夜道を照らす街灯の明かりがあり、空から降りてくる月明かりがある。だから春希の見間違えなんかじゃなく、確かに雪菜は微笑んでいたのだ。
 
「え、あ……と……」
「どこかへ行った帰り道かな? 確か春希くんの住んでるマンションってこの近くだよね?」 
 
 どうしてそんなに朗らかに笑えるんだって、そう率直に彼は思った。
 笑顔で再会できるような別れ方をした覚えはないし、あれから連絡も取っていない。それとも雪菜にとって“あの出来事”は大した意味を持っていなかったのだろうか?
 いや、それはあり得ないと彼は頭を振る。
 大した意味合いのない出来事なら、彼等は現在こういう事態には陥ってはいないだろう。
 
「……近くっていうか、もう少し先まで歩くけど……」 
「だったよね! って、別にわざわざ会いにきたわけじゃないんだよ? たまたまこっちを通りがかっただけで……あっ! だからって、別に会いたくなかったってわけでもないんだけど……って、なに言ってるんだろ、わたし。あはは……」
 
 少し視線を泳がせながらも雪菜が明るい声音で巻くし立てていく。まるで空白の時間をを作らせずに、この会話を途切れさせたくないという風に。
 春希は突然の再会に戸惑い気づけていなかったが、雪菜もまた無理を押していたのだ。
 浮かべる笑顔は彼女の虚勢。明るい声は彼女なりの防波堤。
 真っ直ぐに春希と向き会えない彼女の、ささやかな身を守る術。
 
「……」
「…………」
「……ね、ねぇ、春希くん。もしかしてさっきまで誰かと一緒だった?」
「え?」
「ほら、そんなにおめかししてるし……誰かと一緒だったのかなって……」
「それ、は――」
「春希くんの隣にいた人って、やっぱり女の人だったりするのかな?」
「……っ!」
 
 喉の奥まで出かかった言葉。声にならない呟きが零れ落ちそうな唇をそっと閉じて、春希はぎゅっと奥歯を噛み締めた。
 雪菜の問いに対する答えは一言で済む。そして、その言葉を放てば彼女は自ずと春希の現状を理解してしまうだろう。
 
 ――俺、かずさと一緒にいたよ。
 
 ある意味でこれは春希にとってチャンスで、わざわざ会話の流れや切欠を作らずとも、今ならばすんなりと“彼女”の名を口にすることができる。
 最初の一歩が大切で。始めの一言には勇気が必要で。
 けれど雪菜が門戸を開いた今ならば――
 
「ッ!」 
 
 もう一度奥歯を噛み締めてから、春希は意を決してかずさの名を口にしようとした。しかしその行為を他ならぬ雪菜の口上に遮られてしまう。
 彼女は言葉を吐きかけた春希の注意を引くように、大仰な動作で両の掌をぱんっと打ち合わせると
 
「そうだ! 春希くん。あの時はごめんなさい。急に電話かけちゃったりして」
「……電話って、え? 雪菜?」
「ほら、大晦日の夜にあなたの携帯にかけちゃったでしょ。……結局は繋がらなかったけど」
「あっ……」 

 ニューイヤーコンサートが開かれていた夜。その会場へ入るべきチケットを破り捨ててまで決意した春希の携帯が、不意に鳴り響いた。
 携帯を手に取り、そしてディスプレイに落とした視線に吸い込まれる小木曽雪菜の文字。
 一度は電話に出ようと試みた春希だったが、背中からかけられた懐かしい声がその動作の全てを止めてしまう。
 
「依緒がね、色々と気遣ってくれて。春希くんに電話かけてみたらって。詳しい事情は話してなかったんだけど、どうやら雰囲気から察してくれたみたいで……」
「依緒が?」
「大晦日だったし、武也くんが先に連絡取ってるだろうからって。ちょっと強引だったけど、わたしもあなたの声が聴けるかもって誘惑に逆らえなかった。でも……酷いよね、わたし。あんなことしておいて、こっちからかけられた義理なんかないのにね」
「そんなこと……」
 
 ないよ、そう言おうとしたが、結局春希は口を紡ぐことしか出来ない。理由はどうあれ、結果として雪菜からの電話に出なかったのは確かなのだ。
 後々にコールバックすることすらしていない。
 そのことを気に病んでいたし、彼女の態度を見るに雪菜も気にかけてくれていたのが分かったが、形だけを捉えれば春希が雪菜を無視していたに等しい。
 言うなればどちらも気まずい状態での再会である。
 お互い会話にぎこちない部分が出てくるのはしょうがない。だから春希は会話を仕切り直す為に雪菜に近況を尋ねることにした。
 
「……その、さ、雪菜。最近、どうしてる? 元気に……やってる……」
 
 真っ直ぐに雪菜の目を見て話ができない。
 純粋に彼女の様子が気になったし、色々と聞いてみたい気持ちもあった。なのに、そんな資格が自分にはないだろうという思いが春希の言葉と行動を濁らせるのだ。
 けれど、当の雪菜は春希から話しかけられたことが嬉しいとでもいうように、淀みなく言葉を走らせる。
 
「元気かって言われると……うーん、ぼちぼちって感じかな。年が明けるまでは家に引きこもってたんだけどね。いつまでもそんなだと家族に心配かけちゃうし」
「家族――」
「うん」
 
 心が傷ついた時に誰かが傍にいる有難さは何者にも代え難いものがある。それが自分を気遣ってくれる優しい家族なら尚更だろう。
 春希には“それ”が無いし、三年前までかずさにも“それ”が無かった。
 
「特別なにか話したわけじゃないんだけどなぁ。母さんとか妙に鋭い感じで」
「……良い人達だもんな、雪菜の家族。それだけ雪菜のことが大切なんだよ」
「そうなのかな」 
「そうに決まってる。おばさん達だけじゃなくって、孝宏くんも雪菜のこと気にかけてるだろ?」
「孝弘? それが全然なの。孝宏ったらね“そんな辛気臭い顔してんなよ、姉ちゃん。折角の休みなんだからさ、北原さんと一緒に買い物にでも行ってこいよ”って、それが出来たら世話ないのにね」
「……っ」
「わたしもわたしで否定できなくて……結局は誤魔化すために行く当てもないのに外に出ちゃったり」
「……雪菜」
「けど、さっきも言ったけど依緒や武也くんが色々気遣ってくれて、少し元気になってきたのは本当なんだよ? こうして春希くんと向き合っても逃げずに話せるくらいにはね」
 
 春希にとって麻理や千晶の存在が助けになったように、雪菜には依緒や武也が助けになったのだろう。
 一人で立ちあがれない時でも、誰かが支えてくれれば歩くことくらいは出来る。そしていつかは、前に進むことが出来るようになるものだ。
 
「そういう春希くんは元気? ごはんちゃんと食べてる?」
「大丈夫。ちゃんと毎日食べてるよ。それとも痩せたように見えるか?」
「ううん、見えない。でも春希くん、そういうところで無理しちゃう癖があるから、ちょっと心配かな」
「なんで? 痩せてないのに?」
「誰かに心配かけないように無理しちゃうの。やつれた姿とか見せたら相手に心配かけるから、そういう姿を見せないようにって」
「……俺だって落ち込むこともあれば、塞ぎこんだりもするぞ」
「わかってるよ。見た目よりずっと繊細だもんね、春希くん」
「見た目よりはって、ちょっと傷ついた」
「ごめんなさい。でもそういうところあるよね? だから心配なのは本当。でも今のわたしにあなたを気にかける資格なんてないから……」
「……」 

 普段の春希なら“他人を気遣うのに資格なんて必要ない”と即断していたところだが、他ならぬ自分自身が雪菜に対し同じ感想を抱いていた為にフォローの言葉を吐くことが出来ないでいた。
 互いに相手を気にかけているのに強く踏み込むことが出来ない。その重苦しい雰囲気が見えない壁となって二人の視線を泳がせる結果となる。
  
「……」
「…………」
 
 目の前にいる相手との距離が遠く感じる。手を伸ばせば届くのに、心の檻がそれをさせてくれない。
 舞い散る雪が二人の髪と服をうっすらと染めていく。
 身体が芯から冷えたように感じるのは、雪が降るほど冷たい空気のせいなのか。
 すれ違いながら過ごした大学の三年間でも、これほど二人の距離が離れたことは無かった。
 
「このまま……」
「え?」
「このまま真っ直ぐ家に帰るんだよね、春希くん。住んでるマンション、近くだもんね」 
 
 春希のマンションがある方向に目線を動かせながら、雪菜が問い掛ける。
 その行為につられて春希も視線を動かして――距離がある為その姿を確認することはできないが、現在そこには彼にとっての一番大切な人が彼の帰りを待っているはずだ。 
 
「……うん。ちょっと買いたい物があるから少し寄り道するけど、それが終わったら真っ直ぐ帰るよ」
「そっか。わたしもこれから帰るところなんだ」
「駅に向かってるところ?」
「そんな感じ。特別なにか予定があるわけじゃないんだけどね。雪も降ってきたし、それにあまり遅くなるとお父さんがうるさいから」
 
 両手を後ろ手に回しながら雪菜が可愛く小首を傾げる。そんな彼女の所作に合わせて栗色のロングヘアーがふわりと靡いた。
 零れる吐息の中に小さく響く声を含ませて。
 月明かりを浴びて佇む雪菜の姿を前に、春希は舞台女優のように映えてるな、なんて場違いな感想を抱いていてしまっていた。
 その思いを唾と一緒に飲み込み、春希は別れの言葉を彼女に告げる。
 
「……じゃあ、俺、行くよ」
「うん」
「……さよなら、雪菜」 
「ばいばい、春希くん」
 
 掌を広げてひらひらと手を振る雪菜。そこに添えられた笑顔を見るのが辛くなって、春希は急ぎ彼女に背中を向けた。
 これで視界から雪菜の姿が消える。それと同時に“踏み込めなかった”という思いが彼の胸の中に去来してきた。
 後悔にも似た気持ちが彼の足取りを重くする。けれど、幾許も進まないうちに後ろから声をかけられて――
 
「は、春希くんっ!」
 
 切羽詰った雪菜の声が彼の歩みを止める。
 
「……やっぱり、送ってはくれないんだね……」
 
 再び振り返った春希を迎えたのは、うっすらと目元に涙を湛えた雪菜の姿だった。
 
 
 
 
「遅いっ」
 
 イライラが頂点に達したような不満気な呟きが室内に響く。彼女がこういったニュアンスの言葉を吐いたのは春希の部屋に戻ってから何度目だろうか。
 それくらいかずさは精神を尖らせていた。
 原因ははっきりしている。
 部屋の主たる春希がいつまでたっても戻ってこないからだ。
 
「一体いつまで買い物に時間をかけたら気が済むんだ、あいつは。だからコンビニで済まそうっていったのに」
 
 帰宅してから軽くシャワーを浴び、それから部屋着に着替えても春希は戻って来なかった。
 既に予定時間……というより、かずさが想定していた待ち時間を一時間もオーバーしている。
 当初は買い物の品選びに時間をかけているんだろうと高をくくっていたかずさだったが、一向に戻ってくる気配のない彼の動向にイライラは募るばかり。
 その腹いせに先に飲み始めてやるとテーブルにビールを取り出すも、やっぱり春希と一緒に乾杯がしたいので、かずさは愚痴を零しながらも、そのまま机に突っ伏すことしか選択出来なかったのだ。
 座った姿勢のままでテーブルに頬を乗せ、腕だけを前に伸ばして唇を尖らせるかずさ。
 そんな彼女の視線の先に放り出していた自身の携帯電話が飛び込んできた。
 
「連絡……してみようかな」 
 
 ――催促がてら、一言文句を言ってやろうか。
 
 そう思って手を伸ばすものの
 
「……やめた。春希が悪いんだから気にかけてなんてやるものか」
 
 と、拗ねてしまう。
 思いの丈は彼が帰ってきてからぶつければいい。それに電話越しに伝えるよりも、本人を前にしたほうが溜飲も下がるはずだ。そう思ってかずさはふて寝をを決め込むことにした。
 伸ばしていた腕を胸元まで引き戻し、テーブル上で腕枕を作る彼女。
 そこに自身の頬を埋めて
 
「はやく帰って来い。あんまりあたしに心配かけるな、馬鹿」
 
 寂しげな呟きは、その腕の中だけに吸い込まれていった。
 
 
 

このページへのコメント

続きが待ち遠しいです。
更新頑張って下さい。

0
Posted by アッチ 2014年10月19日(日) 23:40:43 返信

更新楽しみにしてます! かずさendでお願いします
(。>д<)

1
Posted by とみさん 2014年10月11日(土) 17:00:17 返信

更新がんばってください!応援してます!

0
Posted by なっつ 2014年10月07日(火) 03:14:00 返信

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