◇ ◇ ◇



 ふと思い、機内から窓の外を、見るでもなく眺める。

 かけがえのないひとを、無惨に傷つけて、悲嘆を背負わせ追いやった地を。

 かけがえのないひとを、奈落に突き落としてでも、往こうと決めた地を。

 幾つもの裏切りを重ね、幾人も傷つけ、その果てに選び取った終着の地を。



「…春希、そろそろ」

「ああ…」

 体を浮遊感が包み、胃の腑が違和感を訴えて暫し。ランディングギアが滑走路に触れる。
 空へ飛ばした心と意識を着陸と同時に頭と身体に呼び戻し、左手の温もりをそっと握り締める。
 無言で優しく握り返してくるのは、細く美しい、しかし独特の堅さを感じる、鍵盤を叩くための指。

 強い制動でシートから飛び出そうとする身体をベルトが拘束する。
 あの国から弾き出された自分たちを受け止めてくれた、などという錯覚を覚え、その発想を恥じて唇を噛んだ。

 機内のアナウンスに従ってシートベルトを外す。繋いだ手は離さないままに。
 スーツにタイツに靴までも、上から下まで赤一色の、オーストリア航空のフライトアテンダントが乗客の誘導を始めた。

 俺たちは手を取り合って、地上へ降りた鉄の鳥を後にする。
 新天地に一歩目を踏み出した時、弱く脆い自分から、強く逞しい自分に変わらんと誓いを新たにして。

「行こうか、かずさ」

「うん」

 ────俺とかずさは、歩みと鼓動のリズムを合わせて、罪の旅路を踏みしめていく。





 WHITE ALBUM 2 −Eine Liebe in Wien−





 3月23日。太陽が沈み往く時の流れに、8時間弱ほど逆らって飛んだ12時間。
 ウィーン国際空港に降り立った時、世界は黄昏色に包まれようとしていた。
 空港の、機能的だが無機質な滑走路も、茜に染まるだけで、哀愁を孕んだ情感を醸し出す。

「俺の荷物、無事に届いてるかな」

「そんなこと、行けば…帰れば、わかるだろ」

「…ああ、そうだな。帰れば…わかるよな」

 そう。これからは、このウィーンの郊外に居を構える、冬馬邸が俺の帰る場所。
 俺が「帰る」と表現するのは、そこ以外には、もはや無い。
 二度と戻らないと決めた故国ではなく、これからの人生を共に過ごす、かずさの家こそ俺の帰る場所。
 飛行機に持ち込めない大きなものや、持てても嵩張るものは、一足早く送ってある。

「じゃ…帰ろう、か」

「うん、帰ろ」

 髪と肌の色が様々な雑踏を避けながら、ことさらゆっくりと進む。
 かずさはゲートから出た後、待ち構えていたように密着すると、ひと時も離れる事はなかった。
 俺の左腕をかき抱いて離れず、肩に頬を摺り寄せて、周囲に憚ることなく二人(おれたち)の関係を主張した。

 それを俺が咎めようはずがない。望まないはずもない。
 あの国を出るまでは、この国に着くまでは、愛を育むのを我慢するという誓いはすでに果たしたのだから。
 あとは二人で巣に帰り、燻らせた心の熾火に身体という薪をくべ、燃え上がるだけなのだから。

「春希…ん、はぁ」

「ん…かずさ」

 しかし、急ぎも慌てもせず。移動にタクシーは使わなかった。
 空港のターミナルでリムジンバスの到着を待つ間、互いの顔に吐息を浴びせ合う。
 かずさは見せつけたがっている。二人が寄り添えることを、触れ合うことに誰の許しもいらないことを、世界に。

 そのまま真っ直ぐ帰るでもなく、適当に降りて漫ろ歩く。
 中世の趣きを所々に残す世界遺産の都市を、バスを使い、トラムを利用し、地下鉄に乗り、無秩序にぶらつく。

 日が沈みかけ、街に夕闇が迫る時間帯、交通機関もだいぶ混み合ってきた。
 改めて路面電車に乗り、ようやっと帰路につく。たっぷり1時間は使っただろうか。

 …迂遠な真似をしているな、という自覚はある。それも、二重の意味で。
 空いている座席は無いので、二人寄り添って立ったまま、他愛ない会話で間を繋ぐ。

「…うん、これで大体、交通機関は把握できたかな」

「散々歩かせやがって…あたしだってこんなにうろついたことないぞ」

「悪かったよ。でも、お母さんのオフィスに行くのは明日だし、今日の内に移動手段は知っておくべきだろ?」

「っ………お、お前の時間はあたしの時間でもあるんだぞ。勝手に食い潰すな」

 今こいつ、曜子さんを「お母さん」って呼んだことに反応しかけたな。まあ、半分くらい狙ったのは確かだけど。
 半分はポーズであろう愚痴をこぼしながら、柳眉を寄せて不満げに見上げてくる。
 その不満を伝える手段が、くっついたままの俺の左腕に、何度も顔を擦り付けるというのもどうなのか。

 ………本当はわかっていた。かずさが早く帰りたがっていることを。
 三ヶ月の間、触れ合ったことこそ幾度となくあったものの、愛を確かめる行為は、一度きりのキスだけ。
 求め合いたい欲求をもどかしさと一緒に抑え込むのも、いい加減限界にきている。

 ………俺だって思っている。かずさと早くひとつに溶け合いたいと。
 あの第二音楽室で、五年ぶりに触れた唇の温もりを、俺を求めて火照る肌を、思うが侭に貪りたいと。
 明日から始まる二人の日々を戦い抜くために、今日という残り少ない時間すべてを費やして。

「もう、いいんだろ? あとは………帰るだけだよな?」

「ああ、帰ろう………って、をい」

 かずさが俺のコートの前を開け、潜り込んで抱きついてくる。
 厚い上着越しの接触では満足できなくなったのか、甘えん坊の虫が目覚めてしまったのか。
 俺の視界の左端から動かなかった艶やかな黒髪は、今は正面に回って動かない。
 荷物ほっぽり出すなよ。置き引きとかに遭ったらどうすんだよ。

「すぅ…はぁ…」

「っ………う…」

 シャツの襟元に熱い吐息を浴びせられ、くすぐったさに身悶えする。
 早朝の満員電車ほど混み合っているわけではないし、周囲には一人分以上のスペースはある。
 俺は僅かな羞恥に耐えつつ、足でかずさの荷物を挟み込みながら、甘えすぎる恋人を許容する男になって…

「すぅぅ…はぁぁ…」

「っ………おい…」

 …そしてかずさは、俺との間に空間が隔てられていること自体を嫌うように、より窮屈な距離を求める。
 もはや深呼吸と言っても差し支えないくらいに、俺の首筋の空気を吸い込んでは吐き出す。

 安心しきった様子で俺の首筋に顔を埋め、脳まで痺れそうな甘い吐息を浴びせてくる。
 一瞬、俺の中から糖分だけ吸収してるんじゃないかなんて馬鹿なことを考えてしまった。

「すぅぅぅ…はぁぁぁ………」

「っ………おい、かずさ」

 その幸せそうに蕩けた表情が妙に蠱惑的で、卑しい欲望が背筋を走る。
 このままでは俺の中の色々な何かが参ってしまいそうだ。何か軽口をひねり出して誤魔化さないと…

「………樹液を吸うカブトムシみたいだな。髪も格好も黒いし」

「うるさい。いっつもフラフラしてるお前が樹のわけあるか」

「………ああ、そうだな。でも」

「あ………ん」

 潜り込んできたかずさはそのままに、開かれたコートを閉じて包み込む。
 その上からしっかりと抱きしめて、他の乗客から見えないようにして、かずさの首筋に顔を埋めて囁く。

「もう、根は張った。びくともしないさ」

「………うん」

 ………二人とも、感じている。後ろめたさが、消せずに残っているってことを。
 三ヶ月の間、触れ合うことを互いに戒めて、意固地な誓いを果たした今でも。
 もう、いいんだよ、と。抑えこんでいた想いの丈を、存分に交わし合ってもいい段階になったのに。
 
 いざ求め合わんとしても、どこか臆病なままの二人………無理もない、よな。
 壊してしまったものの価値を、その大きさを、どうしようもなく理解しているから。



 ◇ ◇ ◇



 日は完全に沈み、西の空だけがうっすらと明るさを残している夜の入り口。
 ウィーン郊外の冬馬邸に到着しても、俺たちの間に会話は少なかった。

 右手には荷物を、左手にはかずさを抱えたまま歩き出す。
 鉄の柵と立派な庭木に囲まれた正面の庭を抜け、重い扉を開き、玄関ホールに入る。

「なあ…」

「…ん?」

「あたしの部屋、で…いいよな?」

「…ああ、いいよ。よくないわけ、ないだろ」

 愁いと戸惑いのブレンドに、角砂糖四個分の甘さを溶かし込んだような誘(いざな)いの声。
 欲望が、さらに滾る。ここで押し倒してしまいたい。今すぐかずさを貪りたい。

 だけどそれはしたくない。してはいけない。
 かずさに逃げ込むような抱き方だけはできない。

 たくさんの大事な者と決別したあの夜、一度だけかずさに溺れそうになったことを思い出す。
 あの時の二の舞はごめんだから。五年前の二の舞はもっとごめんだから。
 俺は、かずさを護り、かずさを慈しみ、かずさを癒すために、ここまで来たんだから。

 袖を引く手だけはそのままに、身を離したかずさが俺を先導する。
 前を歩くかずさの髪から甘やかな空気が俺へと流れてくる。

 いたたまれない気持ちを無理矢理御するため、周囲へ目を逸らす。
 バロック調の装飾を施された壁に、絵画やクリスタルのランプが飾られている。
 天井からは刺繍入りのカーテンが垂れ、王宮様式のアートテーブルやチェア。
 そんな、別世界のような廊下を進み、かずさの私室の前に着いた。

「開ける、ぞ」

「…ん」

 五年間、気が遠くなるほど遠回りし。
 今日という日を迎えても、迂遠な真似を繰り返し。
 ついに辿り着いた二人の世界。

 正直、俺もかずさも、身体と心の昂ぶりを持て余している。
 お互いに、もうこの先の事しか考えられないのに、しかし心は臆病なまま。
 もう、なんの遠慮も必要ないはずなのに。

 かずさが震える手で部屋の扉を開け、照明のスイッチを入れる。
 暗がりで急に灯った明かりに、二人揃って目を眇める。
 が、どう導こうかと、どう進もうかと迷う、心までは照らされないまま。

 そして部屋を見渡すと………

「んなっ…!?」

「…春希?」



 ………散らかり放題の光景が、目に入ってしまった。



「な、なあ、どうしたんだよ、春………」

「………るぞ」

「え?」

「片付けるぞ! 掃除するぞ! っていうかお前も手伝えかずさ!!」

「は、はあっ!? な、なんだよそれ! 散々期待させといて!!」

「いいから手伝え! …ああもう! 気を揉んでたのが馬鹿みたいだ!」

「わけわかんないぞお前! って、お、おい…!」

 ………台無しだ。いろんな意味で。
 俺って奴は、こいつという奴は………

「…ほんっと変わんないのな、お前!」

「こっちの台詞だ馬鹿野郎! 神経質! 仕切り屋!」

 ………俺たちという奴は、なんだってこんな時にまでこうなんだ。
 かっこ悪い自分を持ち出さなきゃ、この空気を払拭できないなんて、な。



 ◇ ◇ ◇



 まだ夜中と言うには早い時間なのをいいことに、家中の電気をつけてどたばたと動き出す。
 旧式とはいえまだまだ現役のでかい掃除機を引っ張り込み、ついでにバケツと雑巾も持ち込む。

「ハウスキーパーさんがいるんじゃなかったのかよ!」

「あたしと母さんの部屋は断ってたんだよ!」

「なんだそりゃ!? 一番お願いしなきゃいけないところだろうが!!」

「どういう意味だよ!? あ、おい! ドレッサー勝手に開けるな!」

 着もしないのに、その辺に放り投げられていた服をかき集め、かずさに確認を取りながらクローゼットに仕舞う。
 もちろん綺麗に畳ませるか、ちゃんとハンガーにかけさせる。っていうかこいつ、基本脱ぎ散らかしかよ…!
 ああ、もう、下着まで…! くそ、知るか! 文句なんか言わせない。

「お前なあ! なんでオートクチュールのドレスが座布団がわりになってるんだよ馬鹿!!」

「あたしのだからあたしの勝手だろ!? お前はいちいち細かいんだよ!」

「なんでティーセット出しっぱなしなんだよ! ロイヤルアルバートのいいやつじゃないか!!」

「ロンドン公演に行った時に母さんがもらってきて、勝手に置いてったんだよ!!」

 やいのやいのと憎まれ口を叩き合い、とにかく手足をせっせと動かす。
 隙を見ては手を止めようとするかずさを叱り飛ばし、指示を出し………

 ………でも、こっそりと懐かしい空気に口元を緩ませてしまう俺がいる。
 ああ、そうだった。あの頃は、こいつとは、こんな感じの日々があった。
 あんな風に、ささやかだけど、小さな幸せだけを感じていられた時はもう、戻っては来ない。

 ある程度掃除が終わり、ついでに荷物の確認を済ませ、一息つくことにした。
 汗をかいたことを言い訳に、かずさにシャワーに行かせた。というか、半分強制した。

 ………ごく自然に、言えただろうか?
 不自然に、声が上擦っていたりしなかっただろうか?

 何をやっているんだか…これじゃまるで、初めて同士の学生カップルみたいだ。
 まあ、あながち間違いでもない気はする。これはある意味初めてをやり直しているようなものだから。
 そんなことを考えながら、入れ違いに、俺もバスルームを借りて、一日の汚れを洗い落とす。

「ふう…さっぱりした」

「早速くつろぎやがって…」

 スウェットに着替え、平静を装って部屋に戻る。
 エアコンを入れておいたおかげで、室内はかなり暖かくなっていた。

「なんで着いて早々、掃除なんてやってんだあたし………」

「誰のせいだよ………クタクタなのに余計に疲れさせやがって………」

 下着にシャツ一枚という艶かしい姿のかずさを努めて視界から逸らす。まあ今さらって気がしないでもないけど…
 高級そうな、柔らかで毛の長いボアカーペットに腰を下ろす。値段など最早考えたくもない。
 しかし一切頓着せず、熱いシャワーで火照った身体を投げ出した。かずさが………

「あたしのせいじゃない。細かくて神経質で、お節介で几帳面な誰かのせいだ」

「俺だけのせいじゃない、ずぼらで大雑把で、物臭で面倒臭がりな誰かのせいでもある」

 ………こんな風に寄って来て、一緒に座ってくれることを期待して。
 大の字に寝転がった俺の傍に、シルクのショーツに包まれた尻が降りてきた。
 初めて旧冬馬邸で泊まったあの日の翌朝、風呂上りに同じ格好で鉢合わせて、蹴っ飛ばされたのが懐かしい。

「………呆れた。阿呆らしい。馬鹿みたい」

「おおむね同意するが、お前が言うのは釈然としない」

 あの頃の空気が、懐かしい雰囲気が、距離感を縮めただけで戻ってきたような錯覚。
 そう、錯覚だ。今はもうあの頃より強く強く繋がっている。あの頃の比じゃない。



 これは、咎人の絆だ。

 一つの愛のために、大罪を犯した者同士の絆だ。

 大切な人たちの、怒りと憎悪の上にしか成り立たない幸せの絆だ。



「でも、それでもさ」

「あ…! ぁ………」

 そっぽを向いていたかずさに手を伸ばし、ぐいと引き倒して頭を抱え込んだ。
 一瞬聞こえた嬌声はあえて聞こえなかったフリを決め込む。

「きっとこれからは、こんな風にやっていくんだろうな、俺たち」

 洗い髪に顔を埋めながら優しく語り掛け、シャツごしの背中を、下着に包まれた柔い肉を撫でる。
 心からの愛を込めて。そっと、そっと、かずさの緊張を解きほぐす。

「………うん。そう、だな。きっと…そうなんだな」

 陶然たる面持ちで、ささやくような応(いら)えを零したかずさは、抵抗らしい抵抗も無く。
 これでいい。たぶんこいつはまだ、自分から俺を求められない。
 最後の最後で躊躇する気弱さは、俺がこいつに植え付けてしまった呪いだ。

「ん、ぁ…春希?」

「どうした…? かずさ」

 おとがいに手を添え、その濡れた瞳と唇を俺の顔の前まで誘い込む。
 もちろん抵抗なんて無い。どころか、途中から自分で顔を寄せてきた。
 きっとそれが、今のかずさの精一杯。ここから先は俺が導く。

「なぁ、春希? お前、ここにいるんだよな? あたし今、お前に抱かれてるんだよな?」

「そうだ。いくらでも確かめろ…俺が、ここにいるってこと。お前を…抱きしめてるってこと」

「ぁ、ん…む」

 おずおずと唇を寄せてきたかずさを、まずは舌先で迎えてやる。
 ゆっくりと、しかし何度も、柔らかな粘膜をねぶり、薄い唇を開かせる。
 そうしてやっと、中からピンクの舌が顔を覗かせた。

「んぁ、れる…ちゅ、ふぅぅ…んっ、ちゅる…ぷ、は、ぁ…」

 ざらついた真っ赤な肉を二枚、摺り合わせ、こすりつけ、絡ませ合う。
 まだまだ拙い舌使いに、しかし俺は焦ることもなく、かずさの動きが慣れてくるまで繰り返す。
 流れ落ちる透明な滴を啜り、自分のものと混ぜ合わせて送り返し、それをまた含ませて。
 俺がこいつに教え込む。甘え方も、溺れ方も、愛し方も、何も考えずに出来るようになるまで。

「ん、ぷはぁ………、触れ合えなかった…っ! 五年間、お前の幻にしか会えなかったっ……!」

「いるよ…かずさ。俺はここにいるよ。幻なんかじゃない、本物の、俺だ。ん…む、ぅ」

「んんん〜っ!? ん、く…ぅぅぅん………っ!」

 寂寥と慨嘆の言葉が漏れ出る前に、急いで唇を塞いだ。
 優しく、隙間無く、緩く開けたまま、動かせるのは二枚の舌だけになるように。
 左手で頭を抱えながら、空いた右手は遊ばせることなく背を撫でる。
 触れ合わせた唇は離さないまま、互いに必死で舌を味わい続ける。

「あむ…ぷ、は、やっと会えたときは、もうお前は雪菜のものになってて…! もう、あたしが触れてもいい男じゃなくなってて!」

「今はもう、お前のものだ。お前だけのものだ。これからは………お前が好きにしていいものだ」

「よこせよ…お前、を………くれよっ…! 欲しいよぉ………春希ぃ………っ!」

「もうやったぞ? 俺を全部………それこそ、俺を形作っていたものを全部、だ」

「ぅ………ぅぇ、ぅえええっ…ぃぇっ…春希ぃ…はるきぃ…っ、ごめん、許してぇ…」

「………かずさ」

「春希ぃ…っ! んん、むぅっ」

 寝転がる俺にとうとう覆い被さり、頬を掴んで唇を押し付ける。枕、用意するんだったな…
 それこそ一辺の遠慮も無く、舌を差し込んでくる。顔中に舌を這わせてくる。
 その間、俺はかずさの求めるとおりに舌で応え、あやすように優しく髪を梳いてやる。

「許して…春希ぃっ………許さないで…雪菜ぁ………っ春希、許して、許さないで、春希ぃ………っ!」

「許さない。許せない。だから…お前は俺と、離れるなっ………許さないから、離れるなっ…! かずさぁっ…!」

 許すも許さないも、罪を犯したのは俺であって、お前は俺に唆(そそのか)されただけだよ。
 裏切ったのも、裏切らせたのも、全部全部。俺と言う悪魔に踊らされて、罪の果実を口にしただけだよ。

 だけど、甘いだろう? この果実は。
 俺という樹が、甘党のお前のために実らせた果実だ。
 お前と俺が実らせた罪の果実は、とてもとても甘いだろう?

「あっ!? …あ、あぁぁ、んぁう、はぁぁぁ…っ、ぁぁん、っっっぁぁっ!」

 不意打ちに、右手を下着の中へ潜らせた。尻を滑って向かった先は、泣き濡れる壷の中心。
 ほぼ予想通りだったとはいえ、凄まじい濡れ方に一瞬指を止めかけた。
 が、俺の指は止まるそぶりなど微塵も見せず、勝手に動いて勝手に侵入し、勝手にかずさを高めていく。
 気付けば左手もシャツの内側に侵入し、いつの間にかブラのホックを外している。
 舌も、かずさが求めるままに休まず動き、独立した三つの手順を同時に進めていく。

「ぁあ…う、うん、うんっ! んぅーっ!」

 そして、かずさも。貪られながら、俺のスウェットパンツを下着ごと脱がそうとする。
 でも脱がし切るには手が届かなくて、だからってキスはやめたくなくて、ついに足で引っ掛けてずり下ろした。

「んっ…ぷ、はぁ………足癖の悪い奴」

「ぅるさい…! やめんな! んぷ、ちゅ、れる……むぅぅぅ!」

 そりゃそうだよな…我慢できないよな。お前も、俺も。
 この国に着いてから、この時のことばっかり考えて、なのに日が沈むまでおあずけさせちゃったもんな。
 もう…一瞬だって、我慢なんかできっこないよな。する必要…無いんだもんな。

「………っ!」

「んむぅぁっ!? ………ぁ…っ」

 息継ぎに唇を離した一瞬を狙って、きつく抱きしめたまま転がり、互いの上下を入れ替えた。
 さっきとは逆に、俺がかずさに覆い被さる。少しだけ違うのは、キスを一旦やめたこと。
 そして、かずさの足が俺の腰に巻きつき、濡れて滾ったお互いの中心と中心が、むき出しのまま触れ合っていること。

「ん、はぁ…っ、いい、ぁっ…ぅあ、ん、いい、もっと、ぃぃ、はぁぁぁっ…っ!」

 シルクの檻から開放されて上向いた双丘を、両手で包み、努めて優しく揉み上げて。
 五年前に見たときよりも更に大きくなっているそれの、柔らかさを堪能しつつ。
 怒張した俺自身と、火傷しそうなくらい熱い蜜と粘膜を緩くこすらせながら、じわじわと。

「ぅ…ぅえええっ…うぇっ…春希ぃ……嬉しぃ…っ、嬉しいよぉ…っ」

「っ………く」

 かずさの両目から、とうとう滴が溢れて落ちた。
 その量は見る間に増え続け、止め処なく流れ落ち、長く艶やかな髪に吸い込まれていく。
 嬉しいのか? 嬉しいだけなのか、かずさ? 本当はそれだけじゃないんだろ?
 それだけじゃないことも、俺はわかってしまう。言葉どおりに受け取れないよ…

「ん…かずさ」

「ぁぅ…っ…春希ぃ…っ」

 目元に口づけて、流れる涙を口に含む。塩辛い………塩辛いなぁ、かずさ。
 その間にも、手と腰は休ませない。こういうことが、今の俺にはできてしまう。

 お前にはわかってしまうんだ。どうして俺にできるのか。
 俺がどうしてこんなに慣れているのか。どうして優しくできるのか。



 ◇ ◇ ◇



『相変わらず楽しそうに歌う奴だよな…
 そこは全然変わってなかった』

『…なんて、簡単に言うべきじゃないよな。
 だって、取り戻すまで三年かかったんだもんな』

『あの、輝いてる雪菜の陰に、
 三年分の泣いてる雪菜が隠れてるんだよな』

『そう思ったらさ…
 あの、笑ってる雪菜が嬉しくて、
 けれど、心が痛くなった』



 ◇ ◇ ◇



 だってお前は知ってるから。俺が、話して聞かせたから。

 俺が三年傷つけて、そして二年愛した時間のことを、教えたから。
 俺がお前を慈しむ手練の向こうに、雪菜を見てしまうんだろう?
 俺が積み重ねて、愛欲と悦びの海で、溺れ合っていた雪菜が。
 俺が裏切り、お前に裏切らせた、悲哀に打ちひしがれる、雪菜が。
 お前がまだ大好きなままの、不倶戴天の敵になってしまった、雪菜が。

「お前っ…ヘタクソじゃなくなっちゃったなぁ………うまくなっちゃったんだなぁ…っ」

「…っ、よせ、よ」

 ………わかってたさ。だって、雪菜を裏切った日から一ヶ月、ずっと予想していたから。
 最後の最後で躊躇してしまう、小心者でビビリのお前が、雪菜の名前を出してしまうことくらい。

「あたし………お前に、抱かれるっ…たびに、思い出しちゃうんだなぁっ…!」

「よせ、って……言ってるのに……っ!」

 ………わかってたさ。だって、お前と抱き合える日を一ヶ月、ずっと夢想していたから。
 お前に引きずられて、この時だけは思い出すまいとしても、雪菜を思い浮かべてしまうことくらい。

「あたしたち…もう、さ………雪菜を抜きには…繋がれなく、なっちゃったんだ、なあっ…!」

「だからっ………かずさっ…もう、よせ…っ!」

「あたし、それでも………お前が欲しいからっ………お前がいないの、嫌だから…っ!
 きっと、何度だって、雪菜を裏切って、お前を欲しがるに、決まってるんだよっ…」

 …あとはもう、繋がるだけ。踏み込むだけだ。
 手を休め、腰を休め、喋る舌を休ませて、かずさを強く抱きしめる。
 お互いの傷をえぐりながらの愛撫で、お互いに完全に準備が整ってしまった…

「ただ、春希が欲しいってだけでぇ…っ、何度だって、お前にお前を捨てさせるん────」

「────聞け、かずさ」

 これ以上は言わせない、と、決意を込めてかずさを見つめる。
 俺の強い口調が意外だったのか、かずさは驚いたような顔で黙りこくった。

「はる………き…?」

 いや、そりゃまあ、毅然として揺るがない北原春希なんて、自分でもないわーって思うけどさ。
 そんなに驚かれるなんてちょっと傷つくというか、なんというか………って、もういいや。



「俺は、最低の男だ。誰より好きだったひとを、幸せの頂点から不幸のどん底に叩き落した男だ」



 今の俺は、昔の恋人を想って泣きむせぶ、弱い北原春希とも決別したんだ。

 新天地で、今の恋人を命がけで護り抜く、強い男になるって決意したんだ。

 お前が言ってくれた言葉を、信じて頑張る北原春希なんだ。



「それまで吐いた言葉をすべて嘘に塗り替えて、大切な友人と、温かい家庭を、最低の方法で裏切った男だ」



 お前は言ってくれた。みんなを不幸にして手に入れた幸せだけど、世界一幸せだって。

 今の悲しみや、辛さや、後ろめたさは、どんな嬉しさや、楽しさや、前向きな気持ちでも絶対に和らげることはできない。

 だけど、今のこの幸福感は、どんな悲しみや、辛さや、後ろめたさでも絶対に消すことはできないって、お前は言ってくれた。



「人生の先輩たちに受けた恩を仇で返して、みんなみんな打ち捨てて、それでも………お前だけを欲しがった男だ」



 ぐいと抱き寄せて、額と額をくっつけて、濡れた瞳を見つめて、目を逸らさないで。
 お前の心に届くように。お前の目に映る俺に言い聞かせるように。
 最低の男の、汚く醜い本性を、受け取ってくれ。



 ◇ ◇ ◇



『ずるいよね、春希くん』

『あなたは…何年経ってもわたしに嘘をつき続けるんだね』

『忘れられるはずのない思い出を、
 忘れてしまったかのように嘘で塗り固めて、
 ずっと、自分を殺して生きてくつもりだったんだね』

『ただ…わたしのためだけに』



 ◇ ◇ ◇



『わたしは…もうちょっとだけここにいる』

『だから、ここでさようなら。
 …ね?』

『だから、たとえどんな大きな傷だって、
 いつか、塞がるよ』

『それじゃあね、春希くん…』



 ◇ ◇ ◇



「かずさ、お前を愛してる」   『お幸せ、に』



 その一言は、なんの抵抗も無く、なんの迷いも感じずに溢れ出た。
 字面通りに、含めた意味も無く、行間を読むだのもありはしない。

「お前のことを五年間、ずっと変わらず、愛し続けてた」

「ぁ…」

 それこそ心は僅かも揺らがず、かといって無感情にというわけじゃない。
 悲しさも辛さも関係ない、当前のようにあった、五年間眠らせてきただけの真実だから。

「お前がずっと欲しかった。お前と同じに欲してた」

「ぁ、ぁ…」

 新しく好きになった人を、五年かけてお前と同じくらい好きになった。
 そして、五年ぶりにお前に会って、昔よりもっともっと好きになった。
 正しさも信頼も友情も人道も家族も、それに近しい人たちよりも、愛した。

「何よりも、誰よりも、お前だけいれば、俺の幸せは揺るがない。だから────」

 俺に任せろ。お前との小さな世界を護り抜くから。
 俺がお前と世界を繋ぎ、未来を紡いでみせるから。

「────悲しみや、辛さや、後ろめたさの向こう側で、俺と、幸せになってくれ」

「はる、き………春希ぃ」

 かずさの泣き顔がくしゃりと歪む。ああ、俺はやっぱり、お前を泣かせることしかできないのか。
 できれば、嬉し泣きの笑顔が見たかったんだけどな。そう、あの時………

「春希………春希ぃ、はるきぃ」

「笑ってくれよ…かずさ」

 ………お前が五年ぶりにヘルパーだった柴田さんに会って、何も出来なかったと謝られて泣かれて。
 で、お前ももらい泣きして、だけど笑顔で抱き締めた、あの時の泣き笑い。
 俺はさ、泣かせたことはあっても泣いた笑顔を見たことは無かったから。
 そしてこれから先も見ることはないだろうなって思って、あの人に嫉妬したんだぞ?

「春希ぃ…っ! 春希春希、はるきぃ〜〜〜っ!!」

「やっぱ、無理か。畜生、悔しいな………」

 ああ、もう待てない。お前が欲しい。お前が愛しい。
 泣かれたままなのは辛いけど、その向こうに幸せがあるなら。

「いくぞ、かずさ」

「うんっ………」

 五年前から続く、二度目の愛の契約を果たそう。
 病める時も、健やかなる時も、死が、ふたりをわかつまで────



 ◇ ◇ ◇









作者から転載依頼
転載元
http://www.mai-net.net/
作者
火輪◆a698bdad氏
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