―January 5th―

年が明けてから数日が経ち、
編集部はいつもの喧騒を取り戻した。
見慣れた顔、見慣れた光景、見慣れた遣り取り、
特別なことなど何もない、年が明けても、私の居場所はここだ。
それは、何も変わらない。

ごめん、ちょっと嘘吐いた。
何も変わらないってことはないよね。
私を取り巻く状況は、劇的に変わった。
ただ、仕事においてそれが何の関係もないってだけ。

ここ数日、本格的に出社したのは昨日からだが、
毎日ここで北原君と顔を合わせた。
バツの悪そうな、気恥かしそうな、
そんな顔の彼に、毎日会いに来た。
胸の傷はそう簡単には癒えないだろうけど、眠れない夜もあるだろうけど、
それでも彼は、前を向いていた。

その証拠に、私たちは色んな話をした。
彼は、私に何も隠しだてしなかった。
仕事の話や、嗜好の話。
果ては、日本の行く末についてまで、本当に色々話した。
そしてついに昨日、私たちの会話は、
『北原君がこれからどうしていきたいか』というフェーズに突入した。

小木曽さんが彼にとって最も大事な女性のうちの1人であること。
その事実はこの先もずっと、変わりえないだろう。
彼は、『このまま自然消滅してしまうつもりはない』と言う。
私は、『そう決めたのなら、それがいいよ。頑張れ!』と言う。
ある種の切なさを感じながら、
それでも、自分の行動の一貫性を保つために、私こそが頑張っている。
そして、最後は『いつでも相談してね』で必ず締めるようにしている。
それが、私が唯一北原君との関係性において、誰にも勝っている点だからだ。

想いの深さで、敵わない人がいる。
頼りがいで、敵わない人がいる。
その中で私は、『良き相談相手』というポジションを選んだ。
それしか、選べなかった。
もう一度君に出会えたことが、
自分にとってどれだけ大きな出来事だったか、
彼に力説しようとも、せずに。

松岡「あ…そういえば麻理さん、今日グァムから帰ってくるはずですよね?」

北原「5日ですから、そうですね。
   今頃空港に着いたくらいじゃないですかね」

浜田さんの説教を回避するための話題を、
真正面から受け止め、投げ返す。
先月までの彼と比べても、非常にいい傾向のように思える。
何しろ顔が、穏やかだ。

私も何だか穏やかな気分になって気が抜けたので、
ちょっくら休憩室でぼんやりして来よう。
いや決して、いや断じてサボリとかじゃないのよこれは。
社会人としての責務を果たすための、戦略的休憩なんだよ。
松っちゃんのこと、責められる立場じゃないなぁ…私も。

…………………

ひとしきりぼ〜っとしたあとで編集部に戻ろうとすると、
可愛らしい所作で、編集部に入ろうか悩んでいる感じの女性が目に入った。
何を隠そう、アイアンウーマンとして出版業界で名を馳せている、
風岡麻理さん、その人である。
うん、可愛らしい紹介文ができた。

何をためらっているのだろうか?
そっか、北原君にバツが悪いのか。
突然電話して、それっきりだったから。
そうじゃなくても、確実に気にしている相手だから。
うん、実に可愛らしい鉄の女。
二律背反の代表みたいなお人だ。

麻理「よし!…今日のところは帰ろう」

『なに面白いことしてるんですか麻理さん?』

…え?

麻理「きゃあ!おどかさないでよ鈴木!
   何こっち見て突っ立ってんのよ。
   あ、ただいま、たった今帰ってきたとこなんだけど…」

鈴木「…あ、おかえりなさい、麻理さん!
   どうでした?バカンス、楽しめました?」

…声が、出なかった。
いや、正しくは、目の前の可愛らしい女性に声をかけようとした瞬間、
電流でも走ったように、何も言えなくなった。

麻理「ま、まぁ、それなりにはね…」

鈴木「で、一体どうしたんですか?
   明らかに挙動不審な人になったりして。
   編集部に入るとなにかまずいことでもあるんですか?」

麻理「い、いや、そんなことは…。
   ただ、その…そう!タイミング見計らってたの。
   突然入ってって、みんなを驚かせてやろうかな〜と」

鈴木「麻理さん…もしかして」

麻理「っ、な…なに?」

鈴木「今年もまた佐和子さんと二人でずっと飲んだくれてたんでしょ。
   …肌、荒れてますよ?」

麻理「うっさい!」

『なんてね。わかってますって。
 北原君のことでしょ?』

鈴木「………っ」

なんで、なんでだ。
以前までの私なら平気で投げかけていた言葉が出てこない。
この人も他人のことに関してならそれほど鈍い人ではない。
だから、普通にしておかなければならない。
私と北原君の関係性が変わったことなんて、
麻理さんと北原君の関係性には何の影響もないことだ。
だから私は麻理さんとの関係性を前と全く同じにしておかないといけないのに。
からかわないと、いけないのに。

鈴木「らしくない、らしくないですよ!
   いつもみたいに堂々としてないと、ほら、入った入った!」

麻理「あっ、こら、鈴木、待っ…」

ガチャ…

鈴木「みんな〜麻理さんが帰ってきたよ!」

浜田「おお、あけましておめでとう!
   あれ、今日顔出すんだっけか?」

松岡「おめでとうございます!
   グァムはどうでした?いいところでした?
   今すぐゆっくりおみやげ話聞かせてください麻理さん!」

浜田「必死かよお前…俺の説教食らいたくなくて…。
   いやまぁ風岡、ちょっとは向こうでゆっくりできたか?
   取材旅行のあとそのままバカンスなんて、お前らしいけどな」

麻理「あけましておめでとう、二人とも。
   木崎は出先か」

落ち着いた雰囲気で周囲を見渡し、
いつも通りに周りに声をかける麻理さん。
でも、視線が何回か同じところで止まっている。
前までなら、私と麻理さんが2人きりになった瞬間ネタにしてたろうな。
でも私は、その資格を失ったみたい。

北原「お帰りなさい、麻理さん。
   あと、先に謝っておきますね、すいません。
   みなさんから勝手に、仕事もらっちゃってました」

麻理「ただいま、北原。
   …まぁ、今回だけは私にも落ち度があったから許すが、
   絶対に次からは仕事の話は私を通すんだぞ?
   ただでさえ前科者なんだからな」

北原「わかりました。
   丁度今、手が空きましたんで、何なりとお申し付けください」

麻理「…なんかお前、変わった?」

北原「いえ?別に。
   仮に変わったとしても、自分じゃわからないですよ」

麻理「そ、そうか。
   なんかちょっとだけ、いつもより明るい気が…」

流石に、恋する乙女は鋭い。
侮りがたし、恋のセンサー。

麻理さんというピースが埋まった開桜グラフ編集部。
浜ちゃん松ちゃんは、ニコイチ。
そして麻理さんと北原君は主従関係…に似て非なるもの。
私はその光景をニヤニヤしながら見てる係。

…いつも通りなのに。
そのはずなのに、なに、この居心地の悪さ。
誤魔化すようにパソコンに向かい、仕事に逃げる。

『らしくない、らしくないですよ!』

あれは誰に向けて言ったセリフだっただろう。
北原君の心の平穏と引き換えに、
私の自己満足に近い心の充足と引き換えに、
私が失ったものは…ひょっとしたら、
とんでもなく大きなもの、だったのかもしれなかった。



   ―January 10th―

誰にも教えたことのなかった最後の砦の場所。
それを初めて教えた相手は、
私の人生を大きく変えてくれた人。
言わないけど、彼には深く感謝している。

彼が、私を救ってくれた。
だから、私も彼を救いたかった。
そして彼は、救われたようだ。
めでたし、めでたし…。

それだけならば、この話は美談で終わるし、
私も、こんなに自分が卑しい人間なんて知ることもなかった。
しかし、彼が、私に心を開いてくれて、
彼の色んな一面が見れて、
彼と、たくさんの話をして…。
そんなことが、今の私にとっては何よりも楽しい。
この関係を、継続させたい。

別に『彼』のことを忘れたわけではない。
しかしもう、私の心は動き出してしまった。
長い間凍結していた心の雪解けのスピードは、
私自身を置き去りにするほどに速かった。

そして、今日は彼が開桜社に出勤しない日。
当然、私の頭は彼のことで埋め尽くされる。
鮮烈に残っている彼のステージでの姿。
真面目に仕事に取り組む姿。
堪えきれず流した涙の姿。
全部を肯定できるし、全部を愛しく思う。
この先何があっても、私が彼の評価を下げることはもうないだろう。

私は彼との『恋仲』を望んでいるのだろうか?
不意に疑問が頭をもたげた。
それはここ数日何度も脳裏を掠めた、答えのない問い。
いや、そこまでの具体的な思いはない。
それに、肝心の彼にその気がないのが、
当たり前だけど前向きになれない理由である。

しかも、多分だけど、
そこに至るまで、途方もない作業が待っている。
小木曽さんの件を彼が私の都合のいい方に決着させ、
私は、自らが作った状況にきちんとカタをつけなければならない。

具体的には、
『私には彼がいる』という誤った認識を解かないといけない。
そしてそのあと、さんざんからかったり煽ったりした
麻理さんへのアフターケアが必要になってくるかもしれない。

いやいや。
悲しいほどに意味のない想像だ。
そんなことに、なるわけない。
『なればいいなぁ…』と無邪気に思いを巡らすほど、
私は乙女でも純情でもない。

プルルルル…

鈴木「うおっ!」

携帯の着信バイブが私の思考を強制ストップさせる。
そして、その瞬間に、
誰からの着信なのかを少しばかり期待してしまうチャンポンぶり。
やっぱり私はちょっとだけ、乙女なのかも。

鈴木「そんなわけないのにねぇ…。
   えっと…佐和子さん?」

ピッ…

佐和子『やっほー鈴木ちゃん久しぶり!
    元気してる?』

鈴木「佐和子さんほどじゃないですけどね。
   どうしたんですか?」

佐和子『いや、今麻理と飲んでて、麻理トイレ行ってるんだけど、
    なんか悩んでんのよ。
    年下の男の気持ちが分からない〜〜〜つって』

鈴木「え…」

気づけば時刻は夜10時。
それでも麻理さんにしては珍しい早上がり。

佐和子『で、鈴木ちゃんなら職場で2人の様子見てるでしょ?
    なんか話聞いてると全然煮え切らないし、
    作戦会議でもしてあげようかな〜って』

鈴木「はぁ…」

佐和子『なぁに〜?その生返事は。
    鈴木ちゃんだって気になるでしょ?
    もし抜けれるんだったら今すぐ駅裏のバーに来て欲しいんだけど』

仕事に関しては別に…。
捗る気配もまるでないし、もう切り上げたって自然な気すらする。
そしてこの提案に乗れば、
『いつもの鈴木ちゃん』の体裁は保たれるであろう。
…パソコンゲームならここで選択肢でも出るんだろうな。

佐和子さんは、私が乗ってくると思って電話してきてる。
ならば素直に乗るのが最も穏便なルートに見えるが、
『体裁を保ったあとの』体裁を、
果たして今の私は、保てるのだろうか…。
今の私は、何もしたくない。
麻理さん方面の話題にも、勿論手をつけたくない。

『ちょっと今日は仕事が立て込んでまして…』

鈴木「…っ。
   分かりました、今から向かいます。
   ちょっと2人で時間つぶしといてくださいね」

佐和子『流石は鈴木ちゃん、話わかるわね〜。
    じゃあ待ってるから、出来るだけ早く来てね〜』

ピッ…

流れに逆らうのを、体が拒否した。
たったそれだけのパワーが、今の私にはなかった。
心が、重たい。
それに伴って、帰り支度も進まない。

そして私はやっと、気がついた。
秘密を共有することのリスクの大きさ。
そしてそこに随伴する自分の生活さえ脅かしかねないほどのストレスが、
既に我が身を焦がし始めているということを。

…………………

佐和子「あ、やっと来た!」

鈴木「はは…どうも、おじゃましま〜す」

仕事終わりの女子会。
傍目にはそんな風に映っているだろうし、
実際それに違いない。
しかし、今日はテーマがしっかりしているため、ただの慰労では終わらない。

佐和子さんは、フルスロットル。
麻理さんは、くすぶり。
私は、自分のテンションはともかく、2人の温度の変化を見極めて、  
うまく立ち回ることを要求される。
前までの私なら何も考えずに…って、
何回こんな意味のないifを擦り続けるんだろう。
仕事が終わっても仕事みたいな、そんな感じに終始するんだろうか。

麻理「佐〜和〜子〜。
   あんた鈴木まで呼んでどうしようっての?
   私をこれ以上弄んで楽しい?」

佐和子「ま〜ま〜。鈴木ちゃんとりあえず座って。
    ちょっと待っててっていうから麻理で遊んでたら、
    ヘソ曲げられちゃって」

鈴木「はは…」

乾いた笑いしか出てこない。
これはどこかの誰かさんのかつての癖。
真実を胸に秘めたまま、そこに関連する話を周りでされてると、
なるほど…こうなるのか。
またひとつ、彼のことを理解した。

麻理「で、どうしようっての?
   私は佐和子だから話したのに…。
   鈴木に言ったら、職場で常にネタにされそうで怖いのよ」

佐和子「あんたがいつまでもうじうじしてるのが悪いんでしょうが!
    ごめんね鈴木ちゃん、ちょっとこいつ、悪酔いしちゃって。
    職場でネタにするのだけは勘弁してあげて」

鈴木「はあ…」

佐和子「でも、さっき納得してもらったから。
    口ではこんな風に言ってるけど、
    ホントは助けの手を本気で欲しがってるのよ」

麻理「また…いい加減なことを…」

鈴木「勿論北原君のことですよね?」

佐和子「話が早くて助かるわ〜鈴木ちゃん、愛してる!
    いやぁ、話をまとめるとさぁ…」

えっと…。
佐和子さんの話は、見事に麻理さん目線の話だった。
まぁ、そりゃあそうなんだけど。

クリスマスイブの夜に、突然北原君が開桜社を訪れ、
クリスマスケーキを一緒に食べたということ。
その時の北原君の様子が、明らかにおかしかったということ。
昔の想い人のことを思い出したと、打ち明けられたこと。
話の終わりかけに、
告白と受け取りたくなるような微妙な言い回しで褒められたこと。

そして海外旅行から帰ってきたら、
驚くほど彼の表情から憂いや切なさの類の色が消えていたということ。
まるで、悩みなんかどこかに行ってしまったという風に。
あの夜のような、『話を聞いてほしい』オーラが鳴りを潜めたから、
こちらからはイマイチ踏み込んでいけないということ。
要するに、恋する乙女の純情な感情。

鈴木「へぇぇ…あたしの知らない間にねぇ…。
   北原君もなかなかやりますねぇ、年上の女性を手玉に取るなんて」

麻理「そんなに離れてない!」

佐和子「何歳離れてるとか誰も言ってないでしょうが…」

鈴木「まぁまぁ…喧嘩しないでください」

自分の白々しさにちょっと吐き気がする。
だって、どれもこれも初めて聞く話じゃなかった。
あろうことか、相手方から直接聞いた話。
目線が違うってことだけ。

そして、彼はもう既に前を向いている。
後ろ向きな感情を必死に振り払って、
…もう一度大事な女性と、向き合おうと思っている。

ショックを受けた。
私が介入したのは、最初は、彼を純粋に救いたいと思っていたからだ。
そのことが、尊敬できる先輩である麻理さんのチャンスを、
あからさまに1つ消してしまったということを知ってしまった。
1月1日、あの日私は鬼の居ぬ間に、
麻理さんの恋の可能性を、根こそぎ奪ってしまったのかもしれなかった。

『北原君、ずっと想っている女の子がいるみたいですよ』

『だから、次の恋を探したほうがいいと思います』

まさか。
どの口が言える?そんなこと。
だって、未来なんて誰にも分からないじゃない。
あの日、彼の涙に遭遇するなんて誰が思ってた?
もしかしたら、彼が麻理さんに心を寄せる未来だって、あるかもしれない。

気づけば、完全な八方塞がり。
麻理さんの純粋な心を後押しすることも難しい。
自分に芽生え始めた新たな感情を応援することは叶わない。
そして、彼が新たにした決意を、
心の底から応援することは、今の私には一番できないこと。
こんな私に、誰がした。

結局、月並みなアドバイスしか、できなかった。
例えば、麻理さんは冬馬かずさと似ているところが間違いなくあるから、
今のスタイルは無理やり変えない方がいい、とか。
その上で、2人きりになれるような環境があったら、
積極的に作ってあげることを、約束した。

泥沼に踏み入れたと錯覚するくらい、足取りが重い。
家に帰るだけなのに、それだけなのに。
あの再会は特別だったのに。
彼を救うことができて、心の底から嬉しい。
…そのはず、なのに。

ひた隠しにしてきた過去を、打ち明けられる相手ができた。
その人は私に心を開いてくれたのに、
なんでも話してくれるようになったのに。
私の心が新たに手に入れたものは、
…また新しい孤独だけ、だった。



   ―January 13th―

ポーカーフェイスは、苦手だ。
だから、笑顔でいることに努めた。
そして、それより前の段階で、
プライベートを詮索されないような事情を自らに課した。
その甲斐あって、詮索の矛先を、
自然に他人に向けられるようなキャラクターを演じることに成功した。

嘘の土嚢をうず高く積んで、
その隙間から、例えば松っちゃんだったり麻理さんだったりを、
からかったりたきつけたりを繰り返した。
勿論、最低限のマナーやボーダーラインは弁えた上で。

そして私は、職場でもプライベートでも、市民権を得ることができた。
不快な思いをさせずに、相手もある程度楽しませられる。
そのくらいの技術は心得ていたから。
そして、このキャラクターが確立できてからは、
どこにいても居心地よく感じ、心乱されることはなかった。

しかしもう、心は乱されてしまった。
そうなると状況は一変してしまう。
今の私は、うず高く積まれた土嚢の手前で独りぼっち。
誰も悪くない。何も悪くない。
強いて言えば、嘘を吐いた自分が悪いんだろう。

この苦しみを彼に分かってもらいたい。
しかし、何て言えばいい?
『あなたの所為で今とても苦しい状況にいます』とでも?
そんな馬鹿な。

私は彼に再会できたことを奇跡だと思っている。
しかし彼は私に運命など感じてなんかいないだろう。
何故なら、『理由があるんだよ』と懇切丁寧に私が説明したから。
そんなところに墓穴を掘っていたなんてあの時は思ってもみなかった。
感じ方さえ、一緒だったなら。
彼が私との間に、運命的なものを感じてくれてさえいたなら…。

私は、逃げた。
職場でも、仕事で必要な時以外は彼と目を合わせないようにした。
仕事が終われば、一目散に部屋に帰った。
時間がこの症状を和らげてくれる、と願いながら。
そして、どうかこんな私を見ないでと、願いながら。

いいでしょ?
もう前を向いてるでしょ?北原君。
もし話があるなら、その時にどう応じるか考えるから。
だからしばらく、さようなら。
私は今日もそうやって、一足早く帰宅しようとする。

編集部から廊下、エレベーター前。
ドアが開いて、乗り込む。
誰もついてくる気配はない。
ドアが閉まり、ゆっくりと重力の方向にエレベーターは降りていく。
こうなるともうほぼ100%、逃げ切り確定だ。

一抹の安心感と寂しさを抱きながら、
エントランスホールを経て、入口の自動ドアを越えていく。
公道に出れば、街の喧騒が出迎えてくれる。
ちょっと長い距離を歩いて帰ろう。
家に帰ったらもうきっとくたくただから、シャワー浴びてすぐ寝よう…。

北原「鈴木さん!!!」

鈴木「!!!」

そんな想像を、想定を、ほぼ0%の可能性が打ち消した。
突然の落雷による痺れは体中を駆け巡り、
振り向いたまま私の足は、その場に縫い付けられた。

北原「はぁ…はぁ…。
   ちょっと…待ってくださいよ…」

鈴木「北原…君?
   どうしたの?そんなに息切らして」

北原「鈴木さんに、はぁ…話が、あるんです…。
   ここのところあまり話もできなかったし、ふぅ…。
   もしよかったら、このままあそこのバーまで行きませんか?」

鈴木「え?」

突然の彼からの初めてのお誘い。
いろいろと状況が整理できていないが、
彼は私が黙って帰ろうとしたのを見て、
おそらく階段を全力で駆け下りてきて、私に追いついたようだ。
そんな必死な様子も、大声を出す感じも、初めてで新鮮だった。

北原「もし…このあと時間があればでいいんですけど…」

時間は言わずもがな、である。
問題は、私が君を避けようとしていたということ。
しかも、そのことを決めてまだ幾ばくも経っていない。
でも、私の内部でどんな葛藤があろうと、
目の前のこの人には何の関係も、ない。

避けるのを決めたのも最近なら、
話があるならその時にどう応えるか決める、
そんな風に決心したのも、最近。
さて、どう応えよう?
…………………はぁ〜〜〜。
分かりました。分かりましたよ。

鈴木「いいよ〜。
   いつでも相談してって、言ったじゃん!
   だから私は、いつでもオッケーだよ」

笑顔で、答える。
これが私の、答えだ。

…………………

カラン…

いつもの儀式で始まる私たちの夜。
互いのグラスを預け合って、心さえも一つになる瞬間。
…なんて、まだ2回目なんだけどね。
詩的な表現をしてみたかったけど、
現実が伴ってないと空しいだけだな、こりゃ。

鈴木「お疲れ〜」

北原「お疲れさまです」

鈴木「しかしいつ来てもここはカウンターだけなら余裕で空いてるね。
   …大丈夫なのかなぁ。経営」

北原「いきなり下世話な心配ですね」

それでもまた始まってしまった私達2人だけの時間。
私は今、喜ぶべきなのか悲しむべきなのかを測りかねている。
それは何故かというと、彼の口から出てくる『話』が、
私にとって喜ぶべきことなのか悲しむべきことなのか、
今の段階ではまだ判別できないからだ。

北原「不思議な感じですね。
   つい先月まではこんな空間はなかったのに」

鈴木「そうねぇ…年が変わって、
   何もかも変わっちゃった感じだねぇ」

北原「そうですね…本当に鈴木さんには色々迷惑かけました。
   本当にいろいろすいませんでした」

鈴木「何それいきなり〜!
   謝るのはナシ、っていうか、ナンセンスだよ」

北原「なんか、鈴木さんに対して、
   謝るのがクセになってるみたいです。
   挨拶みたいなものだと思っていただければ…」

鈴木「私は嫌だよそんなの。
   普通に『ありがとう』と言われる方が、
   女の子は喜ぶんだよ?
   前にも言わなかった?」

北原「分かってます。でも、
   感謝の思いが深すぎるんですよ…」

グラスを傾ける北原君の視線が虚空をさまよっている。
まだ、分からない。
彼の意図が分からない。
そして彼も、分かっていない。
あえて自分を『女の子』と表現した、私の真意を。

ポツリポツリと、彼は喋りだした。
内容は、年初めに私に打ち明けてくれた苦い記憶…ではなく、
そこからまた新しく始まった、私と北原君との、話。
彼の言う通り、感謝の深さが言葉のそこかしこから滲み出ていて、
相談相手を名乗り出た者としては、それ冥利に尽きるなぁと思った。

たった2週間のことを彼は丁寧になぞるように喋る。
彼が、痛い記憶をあの日、なぞりながら喋ったように。
私が、封をしてた記憶をあの日、なぞりながら喋ったように。
本来雑談なんてものはあっちゃこっちゃに脱線するものなのだが、
時系列順に喋る相手にただじっと耳を傾けるだけ、というのは異様なのだろうか。

でも話自体は、私への感謝で溢れていた。
私が彼の中でただの先輩ではなくなったことの、証明を得た感じだ。
恋愛感情があろうがなかろうが、そのことをただ単純に、嬉しく思った。
その嬉しさで、泣きそうになった。
ただ、こらえる必要はなかった。
泣きそうになっただけで、泣けなかったから。

だって、彼の話の中から、決定的なものが抜けていたから。
不自然なほど、私と彼の2人しか、登場人物が出てこない。
この流れのまま、色っぽい話になどなるわけがない。
私の本当に望む言葉を、彼が出すことは絶対にない。

私だってジャーナリストの端くれだ。
数々のインタビューを原稿に起こしたり、実際にしたりしてきた。
これは、あくまで前置きだ。
彼が本当に言いたいこと。
いや、言いたいことかどうかは分からないが、
ここから話の内容はきっと…。

北原「実は今、雪菜とまたメールをするようにはなってるんです」

うん、そうだよね。

北原「お互いに謝り合って、でも、
   お互いがお互いを大切に想う気持ちは変わらないよ、って」

鈴木「へぇ…そうなんだ」

北原「でも、俺たちは急に距離を縮めようとすると、ダメになるんです。
   コンクリートに積もった雪が踏み荒らされた跡みたいに、
   ぐちゃぐちゃになるんです」

鈴木「………」

北原「だから、しばらくはこのままでいいと思っています。
   彼女としっかりと向き合いたいとは思いますけど、
   事を急いでも何もいいことはないですし、それに…」

鈴木「…それに?」

北原「俺も、今の方が気が楽なんです。
   今はあんまり、しんどい思いをしたくないんです。
   今のままでずっと…このままでもいいかな、って」

鈴木「…そっか」

私は何を聞かされているんだろう。
状況的には何も変わらないじゃない。
あなたの言った、クリスマスイブの状況と。
私は、あの時の小木曽さんじゃん。
そりゃあ手を払いたくもなるよ。

でも違う。あの時の小木曽さんなんかじゃない。
私はあなたの意中の人、じゃない。
ましてや、自分の気持ちに嘘を吐いてまで気持ちに応えようとした人、でもない。
本当に敵わない。
並べるわけない。
あなたたちの歴史に。
紆余曲折の、3年間に。

北原君の話を聞いてると、そのことばかり痛感するよ。
しかも、本当に痛いんだよ?
今の私にとっては、物凄く。
そうやってすべて曝け出すことが相手に対する誠実だと思ってるなら、
それはもう、あなたが過去の過ちを繰り返してることにほかならないんだよ。

心の中で、彼を責める。
ふざけんじゃねぇと、罵倒する。
やめてくれと、嘆願する。
でもそれは現実には出来ないから、出来ないから…。

鈴木「そんなにしんどいんなら、やめちゃえばいいのに」

憎まれ口の本音を、叩き込みたくなる。

北原「…え?」

鋭利な言葉に、北原君の体が一瞬強ばったように見えた。
多分彼は今、誰かに拒絶されるあの感覚を思い出したんだろう。
でも、安心していいよ。
私はあなたを裏切ったりなんかしないし、拒絶もしない。
これは確信犯の、ただの戯れなんだから。

鈴木「…今、目の色変わったよ?
   本当に、彼女のこと想ってるんだね。
   じゃあ、それでいいと思う。
   自分のペースで進んでいけば、いいと思う」

北原「え…」

鈴木「でも、忘れないでね。
   私は北原君の味方だから。
   潰れられちゃ、私が嫌だから。
   だから、そうなりそうになったら、今まで通り、頼っていいんだよ」

北原「鈴木さん…」

鈴木「今日はそのことを報告しに来たんでしょ?
   よかったじゃん、また彼女と連絡取れるようになって。
   全く、今時珍しいぐらい純情なおふたりだこと」

北原「…ありがとうございます。
   鈴木さんがいなかったら、俺、
   また雪菜とコンタクトを取ろうなんて思えなかったと思います」

鈴木「礼には及ばんよ、礼には。
   それに言ったでしょ?
   恩返しのつもりだって、さ」

北原「はい…はい!」

鈴木「よかったね。北原君」

ごめんなさい。

鈴木「また1歩、前に進むことができたみたいだね」

麻理さん、これはもう付け入る隙がないみたいです。
煽るような真似をして、本当にごめんなさい。

鈴木「そのうち、いい経験をしたと思えるよ」
  
そして、私にも、ごめんなさい。
嘘をのべつ幕無し並べ立てて、
さんざんあなたを傷つけて、本当にごめんなさい。

鈴木「そしたら、これを乗り越えたら、北原君もっといい男になるよ。
   それこそ私でさえ、振り向いちゃうくらいに」

もうとっくに、振り向いてるんだよ。
ごめんなさい。ごめんなさい…。

鈴木「頑張れ!」

私もそのうち、思えるのかなぁ…。
『いい経験をした』って。

…………………

『頑張れ!』が引き金となり、
そのあと私たちはタガが外れたようにお酒をあおった。
宴はいつまでも、いつまでも続くかのように思われたが、
彼の方があっけなく潰れていった。
私の方がヤケ酒だったんだよ?今日は。
やっぱり北原君、疲れてるんだね、いろんな意味で。

このタイミングで死に体の彼と2人きりになるなんて、完全に想定外。
酩酊状態の彼から、彼の住所を聞き出すこともできず、
仕方なく私の部屋に彼を再度招き入れることにした。
異性ではあっても、一度踏み入れて何も起きなかった私の部屋なら、
彼は小木曽さんに対して罪悪感を感じることもあまりないだろう。
大丈夫。言い訳は立つ。

言い訳?誰に?
ただ単に、彼のそばにいたいだけなんじゃないの?
…私の中で本音と建前が火花を散らしている。
別にいいじゃない、どうせ八方塞がりなんだから。
最後の夜かもしれないんだから。
私の願いを、少しくらい叶えさせてよ。

…………………

鈴木「ほら!北原君、着いたよ!」

北原「う〜ん…ここは、あ、鈴木さんの…」

タクシーに乗っている間に少し思考を取り戻したみたいだ。
でももう、時既に遅し。

鈴木「あなたがだらしないからここに連れてくるしかなかったの!
   ほら、自分の足で歩いて!」

北原「すいません…頭ガンガンする…」

普段は超しっかりしていて善の模範でもあるかのような彼を、
叱り飛ばすのはちょっと気持ちよかった。
味をしめて、私は口調を尖らせながら部屋まで誘導する。
そして部屋にたどり着くや否や、彼はトイレの住人になった。
うわ、えづいてるえづいてる。…吐いてる!
ちょっと引いたよ、これは。

…………………

鈴木「こうして見ると、本当にただの大学生なんだよねぇ…」

彼の寝顔を見ながら、そう思う。
トイレからなんとか出てきた彼に、自分のベッドを明け渡して、
自分は炬燵に足を突っ込みながら、
彼の寝顔をただじっと、見てる。
そう、事情を知らない人から見たら、
私たちはきっと、ただの大学生とただの社会人。

そして事情を知らない人にこの状況を見てもらえば、
きっと100%の人が同棲中の若いカップルだと思うだろう。
そんな幸せな認識をしてもらえるような状況は、
絶対にこの先、どんなルートを通っても、有り得ないのだろうか。

こうして彼を独占できる状態を作ることができても、
彼の心は、別の人の方向を向いている。
眠りについた彼と無理やり既成事実を作ることは可能かもしれないが、
彼の心は、別の人を捉えたまま離さない。

鈴木「………ぅ」

だめだ。

鈴木「う…うぅ…うぁ」

だめだだめだだめだ。

鈴木「ぅあ…あああ………あ…ああああああ」

もうだめだ。
もう、我慢できない。
でも、泣き止まなきゃ。
彼に見られるかもしれない。

鈴木「あっ、あっ、あ………う…うぁぁぁぁあああ」

お願いだよ、北原君。
この感情の逃げ場所を教えてよ。
でないと私もう、普通じゃいられないよ。
やっと見つけたのに。
やっとあなたを、見つけたのに。
私にはあなたしか、いないのに………。

いっそ見られた方が…というような心境だったかもしれない。
そうすれば、状況は劇的に変わる。
彼の中で『私』の認識が、きっと違うものになる。

でも、私にはできない。
できないよ、北原君。
私はあなたに救ってもらったから。
だから、あなたの負担には絶対になりたくない。
あなたに救ってもらったから。
あなたに救ってもらったから。
あなたに救ってもらった、から………。


…もう一度、私を救ってよ。北原君。



   ―January 14th―

朝が、来た。
私もいつの間にか泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。
思いのほか、頭も心もしっかりしている。
心の中に溜まった膿が、涙になって全部流れ出したのだろうか。
もう、大丈夫。
もう、無様は晒さない。

北原君は…まだ寝てる。
時刻は、朝の5時。
あと2時間半もすれば、私はまた会社に赴く。
彼も、家に帰るなり大学に行くなりするだろう。
それまでまだ、寝かせといてあげよう。

昨夜と全く同じ状況だが、
彼の寝顔を見ていても、もう、泣きそうな気持ちにはならない。
ということは、私は最悪の事態は避けられたということだ。
彼の目の前で涙を零すという事態を避けて、
なんとか、朝にたどり着いた。

達成感こそないが、脱力。
私は『本当の私』を彼に見て欲しかったんだろう、本当は。
でも、恩人に対しての見栄や気遣いが、それを許さなかった。
結局、自分に嘘を吐き続けたまま、最後の夜は終わった。
まぁ泣いちゃったから、それも半分嘘なんだけど。

私ももう少し、眠ろう。
体内時計はちゃんとしている。
遅刻とかは気にせず、もう一度おこたに潜って…。

北原「おはようございます」

…とと。

鈴木「おはよう、北原君」

北原「また鈴木さんに迷惑かけちゃいました。すいません。
   おまけにベッドまで占領してしまって…」

鈴木「まぁ、それは大いに反省していただいて…。
   てか北原君、昨日のこと、どのくらい覚えてる?」

北原「大体のことはおぼろげながら…。
   タクシー降りて、この部屋に入ったぐらいまでは」

ギリギリセーフ。
こぼしてはいけなかったあの雫は、
彼の目には全く触れなかったと実証された。

鈴木「そかそか、もうちょっと寝ときなよ。
   まだしんどいでしょ?頭重いでしょ?」

北原「確かに頭はガンガンしますね…フラフラしてます」

鈴木「いいよ、私ももうちょっと寝るし、
   まだ、横になってな」

北原「そうですね…じゃなかった。
   実はもう一つ鈴木さんに言わなきゃいけないことがあるんです」

鈴木「言わなきゃいけないこと…?」

北原「はい」

言わなきゃいけないこと…?
もう聞いたよ。小木曽さんとの再接近の話は。
それだけでお腹いっぱいなのに、まだなんかあんの?
ネタによっちゃ、食あたり起こしちゃうよ。

小木曽さんの話より言いにくい話なんだよね?きっと。
で、お酒を飲んでるうちに忘れちゃったんだよね?
…………………。
ダメだ。
期待しちゃいけない。
彼はまた、小木曽さんと向き合い始めたんだ。
そんなことしたら、傷が多くなるだけだ。

北原「あのですね…」

絶対にいい話ではない。

北原「実は、」

私に、望む未来が来ることはない。

北原「俺…」

でも、ひょっとしたら、


北原「来週で開桜社でのバイトを、辞めることになりました」


…………………え?

北原「鈴木さん、最近早く出るのが多かったから、
   ずっと伝えそこねてたんです。
   電話とかメールとか考えましたけど、それで済ますのもなんか違うなと思って」

え?何?

北原「これから就職活動も始まりますし、
   元々、このくらいの時期に辞めさせてもらうつもりではいました」

何を…言ってるの?

北原「でもきっとまた、お世話になります。
   落ち着いたらバイトでまた戻ってくるかもしれないですし」

会えなく…なるの?

北原「受かるかどうか分からないので、軽々には言えませんが、
   開桜社の採用試験を念頭に就活も進めていくつもりです」

先の長い話は、どうでもいい。
…要するに彼は、私の悩みをいきなり解決してくれたわけだ。

北原「ですから、開桜社で鈴木さんに会うことはなくなりますが…」

これで、彼を見て私の胸が熱くなることもなくなる。
これで、麻理さんと北原君の距離を慮る必要もなくなる。
これで、小木曽さんに想いを馳せる彼に触れることもなくなる。


もう、これで………。


北原「………鈴木さん??」

鈴木「………あれ?」

…やっちまったなぁ。
最悪の事態を避けることができたという安堵に包まれていた私の心は、
新たな衝撃に耐えられるはずもなかった。
そうか、そうか。
枯れることなんてないんだね、涙って。

鈴木「あれ?あれれ?ぐすっ。
   変だな〜なんだろ、これ。
   なんかごめんね?北原君」

北原「鈴木さん?
   どう、したんですか…?」

折角乗り越えたと思ったのになぁ。
全部、台無し。

鈴木「あはは〜…なんだろなぁ、これ。
   …そっか、ぐすっ、最近北原君とよく、喋ってたじゃん?
   だから、一時的にセンチメンタルになっただけだよ〜。
   朝だから頭の中もまだはっきりして、ないし、さ…」

北原「鈴木さん…」

そうか、真に乗り越えるべきはこの最後の瞬間だったんだ。
そんなことも想定できてなかったなんて…。
ごめんね、北原君。
リスク管理のなってない先輩で。
ホントに、ゴメンね………。



   ―January 21st―

浜田「松岡ぁ!お前まだ頼んだやつあがってねぇのかぁ!」

松岡「ひっ!す…すいませぇん…。
   だいたい今日の午後14時ぐらいにはなんとか…」

浜田「おいおいそれじゃあ余裕で日も締め切りも跨いじゃうじゃねぇかよ!
   ○×△■◎♨〜〜〜〜〜!!!!!」

平穏な日常が、戻ってきた。
そんな、目の前の状況に微妙なアイロニーを込めた表現。
でも私の心は至って、平穏だ。
相変わらず締め切りに追われる日々ではあるが、
今の私には、仕事があることが救いになっている。

だって、私は逃げた。
あの朝、半分無理やり彼を部屋から追い出したあと、
私は心に蓋をすることに決めた。

彼からの着信は何度かあったが、無視した。
彼に実際何度か開桜社で声をかけられたが、
その度に存在しない理由をつけては、はぐらかした。
麻理さんの背中を押すことも、
彼の相談に乗ることも、
すべてを、放り投げて知らんぷり。

でも、仕方ないじゃない。
客観的に見ても、英断だと思うよ?これ。
きっとこのまま『良き相談相手』を続けていれば、
何度も何度も彼に涙を見せてしまうことになる。
だから、断ち切る。
彼はもう前を、小木曽さんの方を向いてる。
何の問題もない。

浜田「だいたい今日はなぁ、北原の送別会があんだぞ!
   全部をスムーズにやってのけてようやくギリギリの計算だってのに!」

松岡「ひぃっ!最善を尽くします!
   北原ぁ〜最悪手伝ってくれ〜」

北原「ははは…」

今日は彼の、最終出勤日。
彼の送別会も、幹事に欠席の連絡は済ませてある。
それなりの理由は用意した。伝言も頼んだ。
プレゼントも松っちゃんに渡しといた。
大丈夫、何も抜かりはない、はず。
いつかまた彼が私の前に現れることになっても、
もうその時にはきっと笑い話で酒の肴だ。

だから、何も言わずにさようなら。
またいつか、会えるといいね。

…………………

送別会はもう済んだ頃だろうか?
勤勉な後輩の背中を押すこともしなかった薄情な先輩は、
家に帰って眠ることもできずに、只今とある場所にいる。

全国的な知名度のあるところなら、
入場料も取られるかもしれないし、
開門時間や閉門時間だってあるかもしれない。
しかしここは非常にローカルな場所。
おみくじや売店は流石にもうやってないが、
ひっそりと境内は開放されていた。

本殿を見つめながら、物思いに耽る。
あの時は、とにかく彼の支えになりたい一心だった。
だから、神様にだって平気で縋った。
あの時の私の純粋な願いは、
霧散して空にでも還ったのだろうか。

鈴木「………」

それとも、あの願いは叶ったのだろうか。
だとすれば、私は彼を救えたということになるのだろう。
彼がしてくれたように、私もできた。
素晴らしい美談だ。
物語にしても、遜色がない。

鈴木「………ぐす」

誰も見ていない。
ここなら土嚢の前で世界から隔絶されることもなく、
感情を解放することができる。

鈴木「う…うぇぇえええん…ぅうぅ…」

私は泣いた。
ちょっと周りの目を気にしながら、控え目にむせび泣いた。

私は、幸せだった。
あの元日の朝から、今日に至るまで。
忘れたわけじゃない。
でも、辛い過去から解き放たれて、
一人の男の人を、心の底から想うことができた。

だから今日は私の、失恋記念日。
今の私の願いが叶うことはもうないけど、
あの時の私の願いは、叶ったと思っていいだろう。
この涙は、そのご褒美。
楽になるための、前を向くためのご褒美だ。

そろそろ、日付も変わる。
大晦日はカウントダウンしたりしなかったな。
10秒前から、いこうか。
今日は私の、失恋記念日。
0の瞬間、彼に別れを、告げよう。



鈴木「10…」



北原『今日からアルバイトとして一緒に働かせていただきます北原です。
   何か手伝うことがありましたら、
   できる限り頑張りますので、何でもお申し付けください!』

鈴木『固い、固いよ新入り〜。
   もっと肩の力抜いてさ、気楽に行こうよ〜』



鈴木「9…」



北原『おはようございます、今日も元気ですね。鈴木さん』

鈴木『北原君は全然元気じゃないくせにいつも私より早いよね!
   まぁ『元気がない』と『早い』を相殺して及第点かな?
   松っちゃんなんて私より早いの見たことないし』

北原『ははは…』



鈴木「8…」



北原『やります。是非やらせてください』

麻理『それじゃ、早速向こうの編集長のところに行くわよ。
   ついてきなさい、北原』



鈴木「7…」



麻理『あ、始まった』

鈴木『なんだか遠い距離から撮った映像ですねぇ』

麻理『いったいこれがどうしたって…え…?」

鈴木『え…え?』



鈴木「6…」



北原『………すいません、淹れ直してきます』

麻理『じゃないって!ほら、主役は真ん中に座れ。飲み物もちゃんとある」

鈴木『も〜、みんなクラッカー鳴らすだけで、
   『おめでと〜』って言わないのが悪いんですよ?』

松岡『鈴木さんだって無言だったじゃん」

浜田『だってなぁ…いきなり会議室に呼び出して、
   30秒後にお祝いしろって言われても、こっちも心の準備が』
   
北原『一体何の騒ぎですかこれは………あ』



鈴木「5…」



北原『うぅ…うあぁぁ…
   あぁぁぁぁああああああああああああ!!!』

鈴木『北原君…泣かないでよ…
   流石にお姉さん、どうしていいかわかんないよ…』

北原『す…すいませ…ひっく…
   うぅぅ…あ…あぁぁ…ひっく……あぁぁぁぁ』

鈴木『ホットコーヒー買ってきたから、
   これ飲んでちょっと落ち着いて?
   私でよかったら、なんでも聞くから…』

北原『はい………。はい………!』



鈴木「4…」



鈴木『で、どう?』

北原『………え?』

鈴木『だから、どう?』

北原『これから、俺がどうすべきか、ってことですか…?』

鈴木『スッキリしたでしょ?』

北原『あ………』



鈴木「…3…」



北原『なんか、鈴木さんに対して、
   謝るのがクセになってるみたいです。
   挨拶みたいなものだと思っていただければ…』

鈴木『私は嫌だよそんなの。
   普通に『ありがとう』と言われる方が、
   女の子は喜ぶんだよ?
   前にも言わなかった?』

北原『分かってます。でも、
   感謝の思いが深すぎるんですよ…』



鈴木「……2……」



鈴木『そんなにしんどいんなら、やめちゃえばいいのに』

北原『…え?』

鈴木『…今、目の色変わったよ?
   本当に、彼女のこと想ってるんだね。
   じゃあ、それでいいと思う。
   自分のペースで進んでいけば、いいと思う』



鈴木「………1………」



北原『鈴木さん?
   どう、したんですか…?』

鈴木『あはは〜…なんだろなぁ、これ。
   …そっか、ぐすっ、最近北原君とよく、喋ってたじゃん?
   だから、一時的にセンチメンタルになっただけだよ〜。
   朝だから頭の中もまだはっきりして、ないし、さ…』

北原『鈴木さん…』

鈴木『だから…気にしないでね』



鈴木「ゼ…」


??「また泣いてるんですね、鈴木さん」


鈴木「………え?」


最後のカウントが、遮られる。
特に最近聞き慣れていた、男の人の声によって。


北原「…どうして、泣いてるんですか?」


鈴木「北原君?…なんで…」


北原「何となく帰る気になれなくて、気付いたら…ここに」


鈴木「私も…そんな感じだよ」


神様、この人が私の好きな人です。
頭は激しく混乱しているけれども、
胸の鼓動はどんどん高まっていくけれども、
状況の整理が全然できないんだけれども…、
今、私の目の前にいるこの人が、私の好きな人です。

彼にさよならを告げることを、
あなたは許してくれませんでしたね。
どうしろと、言うんですか?
失恋記念日を翌日に持ち越させてまで、
直接玉砕しろとでも、言うんですか…?。

北原「でも、鈴木さんがここにいるとは思いませんでした。
   送別会にも来てくれなかったのに…」

鈴木「その節はごめんね、
   って言っても、ほんの2・3時間前だけどね」

北原「会の方は滞りなく終わりました。
   …祝われた側が言うことではないですね。
   でも、鈴木さんいなかったから…今会えて嬉しいです」

鈴木「………」

涙は、完全に止まった。
そして、今彼が言ったことが理解できない。
まずこの状況すら理解できてないのに。

北原「鈴木さん、あからさまに俺から逃げてましたよね」

鈴木「いや、そんなこと…。
   …ちょっとくらい、あったかもねぇ」

北原「逃げないでくださいよ。
   俺はまだまだいろんな話をしたかったのに。
   なんでも相談してって、言ってたじゃないですか」

鈴木「私だって、冷静じゃいられない時だってあるんだよ。
   …私が全部、悪いって言うの?」

北原「鈴木さん…」

彼は、拒絶される恐怖を知っている。
それを考えれば、私の行動は彼の傷口に塩を塗るようなものだったかもしれない。
でも、私にだって真新しい傷ができていた。
どっちが悪いとかじゃない。
ただ、私たちは運が悪かっただけだ。

北原「やっぱり…『彼氏さん』のことですか?」

鈴木「…?」

彼がいきなり言いだしたのは、
あさってな勘違い。
いや、この涙の大元にあるのは確かにそれなんだけど、
別にそれが原因で泣いてたわけじゃないよ。

北原「俺が鈴木さんのことも考えずに、
   雪菜とのこと相談し続けたから、
   鈴木さんの辛い記憶を呼び起こしてしまったんじゃないですか?」

鈴木「………」

北原「もしそうだとしたら、本当にすみませんでした」

違うよ。
全然違う。
それこそ、腹立つくらい。

北原「でも、もしそうなら、鈴木さんにも俺に話して欲しいんです。
   鈴木さんのおかげで本当に俺、ここまで来れました。
   だから、もし胸の中に抱えてるものがあるなら、俺に話して欲しいんです」

鈴木「………」

北原「話して、くれませんか…?」

涙が、出てきた。
今私を笑うやつは、きっと怪我をする。
話せって、何を?
あなただけ救われた顔をして、
あなたに直接想いを伝えて、その上で惨めに振られろっていうの…?
なんなの、一体…。

鈴木「………もう………やだ………」

ダッ。

北原「…鈴木さん!!」

私は走り出した。
本殿の側道を抜けて、裏の道路に向かって一目散に走り出した。
とにかく、一人になりたかった。

北原「鈴木さん!!」

少し後ろで、彼が必死に追いすがってくるのが分かる。
でも私は止まらない、とは言っても女子の脚力だ。
まともに競り合えばすぐに追いつかれてしまうのも分かっている。
だからこんな雑草の生い茂った側道を選んだ。
裏に速く出ることができれば、逃げ切れるかもしれない。

北原「待ってください!はぁ、鈴木さん!!」

逃げる先に街灯の光が見えた。
ゴールはもうすぐだ。
その先の横断歩道で信号が点滅しているのも好都合。
私だけ渡るのが間に合えば、私と北原君で連帯が確定する。
私の逃げ切り確定、ということになる。

鈴木「はぁ…はぁっ!」

今私の顔は汗やら涙やらでえらいことになっているだろう。
見られたくない。
見られたくない!
神社を抜けた。
赤になる前に横断歩道も渡れた。
脇の車も動き出した。

鈴木「はぁ、はぁ…」

ここまではもう、追ってこれない。
悪いことをしたと思いながら、
振り返らずにもう一度歩き出そうとする。
…その刹那。


ドガッ

キキーーッ


鈍い音と、突然のバイクのブレーキ音。

嫌な予感が、体中を駆け巡った。

振り返らない予定を、翻す。

その瞬間、私の目が映し出したものは…。



鈴木「い…いやあああああああああああああああああああああ!!!!!!!」



アスファルトに寝そべったまま動かない、彼の姿だった。



   ―January 22nd―

鈴木「………」

麻理「鈴木…ちょっと、鈴木?」

衝撃の光景を目の当たりにしたあと、
私は自分でも驚くくらいの叫び声をあげた。
そしてそのあと、すぐに我に返り、彼に駆け寄った。
バイクに撥ねられ、道路に叩きつけられたその傷が生々しく頬に残っていた。

私はすぐに救急車を呼んだ。
ただ、無事でいて、と願いながら。
彼の手を、取りながら。

すぐに救急車がやってきて、
動かない彼と一緒に私は乗り込んだ。
いろいろ状況を聞かれもしたが、
私はそのすべてに正確に答えた。

心音も脈拍も、正常。
出血も、それほどではないとのこと。
ただ、彼の意識は失われている。
体内で何が起きてるかもまだ分からない。
運び込んで治療をするまで、
予断を許さない、とのことだった。

バイクの人は、今も警察の人と話しているのだろうか。
だとしたら、申し訳ないことをした。
その原因を作ったのは私なんだから。
何もかも悪いのは、私なんだから。

運び込まれて、彼は即座にICU(集中治療室)に移された。
私はただ、祈るしかなかった。
もしこれで彼の身に何かあったら、
何かあったら………。
震えが、止まらなかった。

少しだけ冷静さを取り戻した私は、
どうしたらいいのか分からないながらも、
まずは、誰かに連絡しようと思った。
彼のお母さんには、病院側が連絡を入れてくれたらしい。
ただ、今東京にいないということなので、
少なくとも来るのは朝になって以降になるらしい。

彼の携帯は、事故の衝撃で壊れていた。
だから、私が連絡するしかない。
さっきまで彼と楽しい時間を過ごしていたであろう人たちに。
まずは直属の上司、麻理さん。

金曜の夜ということもあり、
北原君以外のグラフ編集部の面々は、2次会に繰り出していたらしい。
そんな楽しい時間に、こんな連絡をするのも気が引けるが仕方がない。
いずれは言わなければいけないことだ。
彼らは、送別会に行かなかった私が何故彼についてるのか、
という当然の疑問を抱くであろう。
でも、言わなければいけない。

というわけで、私たちがひた隠しにしてきた秘密の関係は、
今ここに、最悪の形で明るみに出ることになった。
2次会は当然、途中でお開きになるだろう。
周りの心配している空気をよそに、
麻理さんが代表してこちらに向かうことになったらしい。
何しろ、深夜だから。
大挙することは、常識に鑑みて。

鈴木「………」

麻理「鈴木!ねぇってば、どういうことなの?」

鈴木「…!麻理さ………。
   うあぁ、ぁああああああああああああああ〜〜〜〜っ!!!!!」

麻理「ちょっと、ねぇ、落ち着いてって!」

意識の遠くから、女の人の声が聴こえた。
それが麻理さんの声だと認識した瞬間、
私はまた、溢れる涙を止められなくなった。

鈴木「ごめんなさ…麻理さん…ごめ、なさい………」

麻理「…鈴木…」

鈴木「北原君…わたしのせいでぇ…。
   わたしが…にげた、からぁ…」

麻理「………大丈夫よ、鈴木のせいじゃないわよ。
   だから、落ち着いて、ね?」

鈴木「まり、さん………」

そうだ、落ち着かなきゃ。
彼が戻ってきた時に、私が泣いていたら、
また彼に心配事を増やすことになる。
それはダメだ。
落ち着くから、普段の私に戻ってみせるから。

だから、神様。
とても残酷な、私の神様。
彼を、助けてあげてください。

覚えてるでしょ?
まだそんなに時間経ってないよ。
あの時の願いは、叶えられるべきだよ。
そう、思わない?

彼の横で、彼のことだけを想って、
私があの時、自分のことはそっちのけで、
願ったたった一つのこと。


『北原君が、元気になれますように…』


…………………

治療が、終わったようだ。
診断結果が、ICU脇の長椅子で待っている私たちに告げられた。

『左上腕骨単純骨折、及び第六〜第八肋骨亀裂骨折、左大腿骨単純骨折、
全身の打撲・裂傷、右前十字靭帯損傷』

考えられた中での最悪の事態は、
とりあえず回避できたようだ。
脳や内臓に、異常はなかった。
しかし彼の体は今も痛みや呻きで満ちていて、
決して手放しで喜べるわけではない。
そして、彼の意識はまだ戻っていない。
そのため、しばらくは彼の意識が戻るのを待ちながら、
経過観察ということになる。

麻理「ほぉらぁ、鈴木。
   よかったじゃないの、命に別状なくて。
   あんたが迅速に対処したおかげだよ」

鈴木「う…うぅ…ごめんなさい…ごめんなさい…。
   あたし、が…。
   あたしさえ、いなきゃ…」

麻理「それは言っちゃ駄目なんじゃない?
   北原も怒ると思うよ?」

鈴木「ごめん…ごめんね…きたはらくん…」

良かった…。
手放しでは喜べないけど、
それでも…良かった…。
あなたがいなくなったら…。


私は………。


…………………

嵐のような夜は過ぎていった。
朝も早くにやって来た北原君のお母さん。
年明けに北原君が話してた家庭の事情、
それと照らし合わせたら、なんか違和感を感じた。

北原君は、お互い完全に無関心なんて言ってたけど、
違う気がした。
傷ついた彼を見つめる優しい瞳は、
紛れもなく母親のそれ。
きっと彼女も感情表現が下手なだけなんだ。
北原君と、同じように。

そのあと、麻理さんは仕事に戻った。
麻理さんは私の隣で私をずっと励ましてくれた。
私が弱気になったら、優しく叱ってくれた。
そして去り際に、「また夜に来る」と私に言い残した。
…私と北原君の間に何があったか、詮索しなかった。

私はもう、何も隠す気はない。
きっとすべてを話す機会も来るだろう。
でも今はとりあえずそのすべてを脇に置いておいて、
彼の快復をみんなで祈る時間だ。
後悔も謝罪も、すべてが終わってからでいい。
嵐が過ぎて、状況は却って単純明快になったようだ。

それなのに…。

肝心の彼が目を覚まさない。
医者の先生は『そのうち目を覚ますから、心配しなくていい』と言っていた。
彼は一般病棟の個室に移された。
その流れが、『本当に心配ない』ことを示唆している。

でも私は、一人不安を拭えずにいる。
行ったきり帰ってこなかった彼を思い出してしまう。
大丈夫だよ。
だってお医者様の言うことなんだよ?
100%じゃないと太鼓判なんて押せないはずなんだよ?

なのに………なのになのになのに。
こんなにも体が震えて、
こんなにも頭がぐちゃぐちゃで、
こんなにも涙が止まらないなんて。

私たち以外に誰もいなくなった個室で、
彼の手をきつく握り締める。
もう、いやだ。
独りになるのは、いや。
お願い、ひとりに、しないで…。

気づくと、外の景色が暗くなっていた。
もうすぐ麻理さんが戻ってくる頃だろうか?
握り締めた手を、ほどいた。
そしてその瞬間、私は大事なことを思い出した。

鈴木「小木曽さん…」

北原君を失う恐怖で、
大事なことを失念していた。
彼と再びコンタクトを取り始めた彼女のこと。
彼にとって、私なんかよりずっとずっと大事な存在。

彼女にこのことを伝えなければならない。
でも、携帯は無残に壊れてしまっていた。
メモリーは、生きているのだろうか?
携帯は、お母さんが持って帰ってしまったし。
彼女のことは知っているが、
現状連絡を取る術がない。

目覚めてしまえば何の問題もないことなのだが、
彼が眠っているうちに、彼女に早く連絡することが、
彼が目覚めた時に、彼女が隣にいる状況を作ることこそが、
私の、最後の責務に思えてならなかった。
北原君の3年間を、垣間見た者としての。

ならば、どうする?
どこかにヒントは、あったはず。
確か彼女は…ミス峰城大付属に3年連続で選ばれた人間。
そこから辿れば、彼女に連絡する手段が見つかるかもしれない。
とりあえず、開桜社に戻っていろいろ調べて…。

北原「つかまえた…」

鈴木「………え?」

という私の目論見も、あっさり崩れ去る。
踵を返した途端、袖口を誰かに掴まれる感触に止められる。
最近は何をやっても、自分の思う通りには事が進まない。

北原「…あ、あれ?ここ、は…痛っ!!」

鈴木「あっ、北原君動いちゃダメ!」

北原「う…はぁ、はぁ………病院?」

鈴木「…そうだよ…ここは、病院だよ…」

北原「………なんで?」

朝起きたら私の部屋…という状況には適応した北原君でも、
目覚めたら病院のベッドの上…は動揺したらしい。
そして体は動かない、痛い、熱い。
それ、全部私の所為なんだよ。
ごめんね、ごめんね…。

…………………

北原君はまた、眠りについた。
今の彼には、丁度いい休憩になるのかもしれないが、
引き換えに事故の痛みを背負わされたというのなら、
割に合わなすぎるだろう。
でも、そっとしておくしかない。

彼もショックを受けていた。
私から説明を受けた事の顛末。
常識人の、普段なら絶対にしない迂闊すぎる暴挙。
いや、そこではなく、
事故で大切な人を亡くした私の目の前で自分も事故に遭ってしまったことを、
彼は物凄く悔やんでいた。

お互いにかける言葉をなくし、
お互いに疲れきっていたら、
彼の方が先に、夢の世界に入っていった。
そういえば、小木曽さんのことをまた失念していた。
彼の方は一瞬でも彼女のことを思い出しただろうか?
思い出しただろうな、そりゃ。

しばらくすると、麻理さんがやって来た。
忙しい合間を縫って、お見舞いの品まで用意して、
最愛の部下に会いに来た。
私も覚悟を決めて、話そう。
極力北原君側の要素は排除した、
非常に自己中心的で独善的な女のしでかした、愚かな行いを。

…………………

麻理「へぇ〜…」

鈴木「………」

麻理さんに話したのは、大きく分けて3つ。
彼氏がいる、とずっと嘘をついていたこと。
北原君の相談に、年明けからずっと乗り続けていたこと。
そして昨夜、事故当時の状況。

1つ目の話は、
『なんでそんな嘘ついたの?』『すいません実は…』
で、終わる話だと思う。
でも、他の2つはそうはいかない。

私は、麻理さんを欺き続けていた。
彼の相談に乗り続けながら、
彼の心に、他の女性が入り込む余地がほぼないと分かっていながら、
麻理さんの援護射撃をすると、約束していたのだから。
それは、信頼を失う行為にほかならない。
裁かれる覚悟を、決めないと。

麻理「…で、あんたは北原のことどう思ってんの?」

鈴木「………え?」

なのに、いきなり拍子抜け。

麻理「いやさぁ、話聞いてるとさ、
   無神経で鈍感な男に女がとうとうキレたってだけじゃない。
   しかも事故った原因は明らかに北原の注意不足だし」

鈴木「違うんです麻理さん!
   私が逃げたりしなきゃ…」

麻理「その結果がこれだから確かに北原には同情するよ?
   でもやっぱりアイツが悪いんだよ。
   自分だけ色々相談乗ってもらって、
   自分だけ楽になって…その裏で相手がどれだけ傷ついてるのかも分からない、
   サイテーな奴だね。見損なったわ」

鈴木「そ、そこまで言うこと…」

違う。
これは麻理さんの本心じゃない。
ただ、私を庇うために、私を守るために、
彼が寝ているのをいいことに、
こんな論調で話をしているだけだ。
彼が目を覚ましたら覚ましたで、
今度は彼を心から見舞って、その上で、
私にしたのと同じように心から気遣いをするんだろう。

麻理「だからさ、あんたはずっとそばにいてやんな。
   次目を覚ましたら、その時思いっきりキレてやったらいいのよ。
   なんなら2,3日仕事休んじゃえば?
   フォローしとくからさ」

鈴木「まり、さん…」

麻理「もう、泣かないの!
   いい大人がいつまでもウジウジと」

なんで、なんでそこまで自分の本音を殺して、
相手に優しくできるんですか?麻理さん。
私はそれが、できなかったのに。
できなかったから、こんなことになったのに。
度し難いまでに、優しい。
だからこそ、今の私には痛い…。

麻理「もう私、行くわ」

鈴木「麻理さん」

麻理「いい?鈴木。
   北原に申し訳ないって思うんなら、
   思ってること全部正直に話しなさいよ?
   結局のところはそれしか、ないんだから」

鈴木「麻理さん!」

麻理「じゃあね、また落ち着いたら、来るわ」

スーツ姿で颯爽と去っていく麻理さんは、
本当に格好良かった。
彼女が今、どういう思いをしてるか、
それを知る機会は今後一切ないだろう。
彼女自身が、『思ってることを話さない道』を今、選んだのだから。

そして私は今になって、大きな勘違いをしていたことに気づいた。
どん底の私を救ってくれたのは、北原君。
その事実が変わることはないが、
そのことに最近は囚われすぎていて、
大切なことに気づけずにいた。

麻理さん、編集部のみんな。
家族や友人や、開桜社の仲間、
そのほか私を取り巻くすべての人たち。
私はとっくに、いろいろな人たちから救ってもらっていた。
優しくて心穏やかな日々を、プレゼントしてもらっていた。
私が独りで泣いている時でさえも。

そんなことに今更気づいて愕然としながらも、
私は、嬉し涙を止めることはできなかった。

…………………

北原「………ん、ん?」

鈴木「久しぶり、北原君」

北原「お久しぶりです、鈴木さん。
   俺は…どのくらい眠ってましたか?」

鈴木「時間にして、3時間ぐらい?」

北原「それは大した久しぶりですね…」

軽口を叩き合う、いつもの空気。
これこそ、私と北原君が1年弱続けてきたスタイル。
でも、もうあの頃には戻れない。
あの頃には、戻らない。

鈴木「痛い?どこか、痛む?大丈夫?」

北原「正直、体中が熱を持ってるみたいで、熱いです。
   でも、平気ですよ。
   頭は冴えてますんで」

鈴木「そう…」

北原「浅い眠り…だったんですよ。
   だから、何度も同じ夢を見る」

鈴木「夢?…どんな?」

北原「誰かさんが僕の前から逃げて、
   それを必死に追いかけてる、夢です」

鈴木「あ………」

それは、私の罪。
麻理さんがいくら私を庇ってくれても、
私の中でその認識が覆ることはない。

鈴木「ごめんなさい…」

北原「あっ、そういう意味で言ったわけじゃないです。
   ただ、そういう夢を見たってだけなんで…」

鈴木「もう、逃げないから。
   私はここにいるから。
   だから、そんなことを気にしなくて、夢に見なくていいんだよ…」

北原「…そうですか…」
   
鈴木「そうだよ…」

北原「………」

鈴木「………」

どうしようもない沈黙のあと、
居た堪れなくなったのか、彼が口を開く。

北原「…鈴木さんに、教えて欲しいことがあります」

鈴木「え?」

北原「どうしてあの時、鈴木さんはあそこにいたんですか?
   どうして、泣いていたんですか?
   どうして…逃げたんですか?」

鈴木「………」

北原「…矢継ぎ早に、すいません」

鈴木「…北原君って、意地悪だね。
   本当に、分からないの?」

北原「鈍感だって、朴念仁だって、よく言われます」

鈴木「それを言わせようってのが意地悪なんだよ…。
   だから逃げたのにさ」

北原「もう、逃げないんですよね」

鈴木「…うん…」

そういえば私、こんな状況初めてだ。
中学生の時、初めて彼氏ができた時も。
高校生の時、やたらにモテた時も。
大学生の時、忘れられない恋をした時も。
全部私は受け身だった気がする。

生まれて初めて口にする、告白の台詞。
あまつさえ玉砕することが前提の、救われないシチュエーションで。
まぁ、しょうがないか。
耳の穴かっぽじってよく聞けよ、北原春希。



北原「鈴木さ…」



鈴木「あなたのことが好きで、
   好きで好きで好きで、仕方なかったからだよ」



北原「………え」




極限まで心を落ち着けて、言った。
決して大袈裟ではない、でもやっぱり大袈裟な言葉を。
これが私の、生まれて初めての告白。

鈴木「………」

北原「………」

鈴木「…なんとか、言いなよ」

北原「え…えっと…」

本当に予想だにしない返答だったのだろうか。
もうこうなると鈍感通り越して馬鹿だよ。

鈴木「もうちょっと分かりやすくしてあげようか?
   『あなたのことが好きです。
    私と付き合ってください』」

北原「え、えっと、ですね………」

北原君の質問には、すべて答えたよ。
まさか3つの質問にいっぺんに対応できる便利な答えがあるとは思わなかった。

さぁ、次はあなたの番。
私の告白に、正直に応える番。
そしてそれがきっと、私が全うに受け止めなければいけない罰。
さぁ、来なさい。


北原「…俺にとってですね…」

鈴木「え…?」

北原「俺にとってあの元日の出来事は、
   奇跡だったんですよ…」

またもや、肩透かし。
一刀両断されることを覚悟していたのに、
私にはまだ太刀傷一つついていなかった。

それに………。
始まり方が、異次元。
どこからその言葉を引っ張ってきたんだ、っていう。
でもそれより、
彼も感じてくれていたんだ。
あの邂逅を、いや私にとっては邂逅ではないんだけれど、
あの日のことを、『奇跡』だって。

北原「この人になら自分のすべてを話してもいいと、思いました」

鈴木「うん…」

北原「だから、話しました…」

鈴木「…うん、知ってるよ」

北原「俺の話を全部聞いてくれて、
   しょーもない男女の喧嘩話を長々として絶対失望されたと思ったのに…」

鈴木「…そうだったんだね」

北原「満面の笑みで『スッキリしたでしょ?』って………。
   …衝撃を受けましたよ…」

鈴木「…軽かった?
   どういう反応を示したほうが、よかった?」

どういう話なんだろう、これは。
確かに時系列順に話をするのが私たちの新しいスタイル。
私はイエスノーで答えられる質問を提示しただけなのに。
でも、私はもう遮る気はない。
ただ、彼の口から紡がれる言葉を聞く。
裁きの時間は、まだ続く。

北原「いえ、なんというか…。
   懐の深さにただただ、驚いたんです。
   俺がその立場だったら、閉口してるかあんぐりしてるか、
   普通の反応しか示せなかったと思います」

鈴木「何が普通かなんて、そんなの分かんないけどね」

北原「嘘みたいな、出来事でした。
   俺が世界のすべてだと思ってたことが、
   たった数時間で劇的に変わってしまった」

鈴木「それは言いすぎじゃない?」

北原「いえいえ、そんなことないですよ。
   色々と予想外の人でした、鈴木さんは」

鈴木「褒めてんのか貶してんのか、相変わらず分かんない表現使うよね」

北原「どちらでもないですよ。
   事実を言っただけです」

鈴木「あ、そ」

北原「…だから俺は、事実しか言いません」

鈴木「………」

とうとう、審判の時。
今私たちは個室に2人きり。
だから、私を必要以上に傷つけないように、
ゆっくり時間をかけて、しっかりと断ってくれるんだ。
大丈夫、私もあなたも、
絶望を知って、そこから前を向く強さをもう教えてもらっているから。

北原「………鈴木さん」

鈴木「………何?」

北原「事故は、昨日の夜ですよね?
   てことは………。
   …3日前に雪菜に、会ってきました」

鈴木「………え………?」

彼が話してるのは、確かに事実なのだろう。
小木曽さんに、会ったんだ。
それを、このタイミングで話すんだ。
問題はその事実から、何が導き出されるのか、
その、一点。

鈴木「仲直り、したんだね。
   おめでとう」

北原「仲直りは、しました。
   俺と彼女の間で、決着をつけました」

鈴木「よかったね。
   …そっかぁ、私、ふられちゃったか。
   久しぶりの恋、本気の恋、楽しかったよ?」

北原「鈴木さん」

鈴木「…届かない恋〜をしていても〜…」

北原「鈴木さん!」

鈴木「でも、よかった。お幸せに。
   もう彼女を離しちゃ、ダメだよ」

麻理さんの言う通りだったな。
すべてを正直に話して、よかった。
この涙は、胸の痛みは、切なさは、
悔いの残らない誇らしい思い出になって、私の中に残り続ける。
本当によかったね、北原君。
ありがとう、今まで。
あなたに出会えて、本当に、良かった………。



北原「もう、離したんですよ。
   もう…彼女と幸せには、なれないんです」



………え?

信じられない言葉に、私の周りの空気が、
まるで外気に晒されたように凍りつく。

北原「彼女と、仲直りしました。
   そのあと彼女と…さよならしました」

鈴木「………え?
   なに?ちょっと待って…。
   ………なんで、なんでぇ!?
   北原君、言ってたじゃない!
   小木曽さんともう一度しっかり、向き合いたいって…」



北原「だから、向き合ったんですよ。----
   そしたら決定的なことに気づいたんです。
   …俺の中から、雪菜に対する熱が失われてることに」

鈴木「…なんでそうなるのよ…。
   冬馬さんを忘れたっていうのは嘘でも、
   小木曽さんへの気持ちは嘘じゃなかったでしょう…?」

北原「もちろん、今でも大切な女性です。
   かけがえのない、人です。
   でも、もう戻れません。
   確認しました。
   もう2度と俺たちは恋人同士に戻らない」

鈴木「だから、なんで!?」

北原「大切に想う気持ちはあっても、
   もう、恋人として、純粋に愛せないんですよ。
   …俺たちの間には、つらいことが多すぎたんです」

鈴木「…」

北原「俺の心の、問題です。
   無理矢理一緒にいたら、絶対にもっともっと彼女を傷つけてしまう。
   3日前、それがハッキリわかってしまったんです」

鈴木「………」

北原「だからその日に、彼女をもう1度だけ、
   深く傷つけることを選びました」

何も、言葉が出てこない。
しっかりしなきゃ。
私は彼の相談役なんだよ?
でも、私は彼女とのことで確かに彼の背中を押した。
その所為で、この結末に流れ着いてしまったんだとしたら、
私は………。

北原「それに…」

鈴木「…」

北原「俺は、あなたともっと、
   色んな話がしたいんです。
   言ったでしょ?
   ついさっきのことじゃないですか」

鈴木「……」

北原「…これが、恋心なのかは、ハッキリとは分かりません。
   でも、俺は同じ夢の中を彷徨ってました。
   あなたに追いつきたくて、ずっと夢中で走ってました」

鈴木「………」

北原「そして、やっとつかまえた、と思ったらベッドの上。
   …なんか、カッコ悪いですね。俺って」

鈴木「…カッコ悪いし…馬鹿だよ…」

北原「…違いないです」

彼は、冗談は言わない。
私は、彼のことが好きだ。
そのことを伝えた上で、
彼もそれに準じたことを言ってくれている。
なのに…心が、割れるように痛む。

鈴木「………私、汚いんだよ?」

北原「何がですか?」

鈴木「あなたが元気になれるようにって思って、
   あなたの相談に乗ってたはずなのに…。
   大切な人と駄目になった話を聞かされて…」

北原「………」

鈴木「私、こんなに嬉しいんだよ?」

北原「………鈴木さん」

鈴木「こんな女、駄目だよ…腐ってるよ…。
   北原君の価値を、下げちゃうよ…」

北原「鈴木さんは、魅力的なひとですよ…。
   俺の持っていた狭い価値観、
   丸ごとひっくり返したんですから」

鈴木「………」

北原「…そうだ…ずっとこのことを伝えたかったんです。
   泣かれたり、逃げられたりしてずっと言えなかったことなんですが…」

鈴木「………何?」



北原「開桜社辞めちゃいましたけど…。
   もっと言うと、今こんな状態なんですけど、
   これからもずっと、俺と会っていただけますか?」



鈴木「………!!」

北原「………」

鈴木「………」

北原「………なんか、言ってくださいよ」


鈴木「知らない!!
   でも明日も明後日もここにいる!!
   それで文句ない!?」


北原「………はい、ありません」


鈴木「うぅ………え〜〜〜ん………」

北原「泣かないでくださいよ…。
   俺もう、あなたを泣かせたくないんです」

鈴木「知らないよ…北原君の気持ちなんて…」

私は、幸せだ。
運命の人に、出会えた。
その人は、私の手の届かないところに行ってしまったけど、
私より3つも年下の男の子が、私を救ってくれた。

彼も紛れもない、運命の人。
ごめんね、私、とうとう違う男の人を好きになっちゃったよ。
報告が遅れて、本当にごめんね。

その人が、青春時代の輝かしい思い出を忘れることはないと思うけど。
その日々を共に過ごした、
2人の素敵な女の子のことを忘れることはないと思うけど…。
彼の抱いてる痛みや記憶も一緒に、
私の抱いてる痛みや記憶も一緒に、
私は、その人とこれからを歩いていこうと思います。


本当に今まで、ありがとう。


………さよなら。


元気でね。いつかまた、会おうね。




   ―Epilogue―

時は流れず、現在まだまだ冬の真っ只中。
彼の傷が徐々に癒えていくのを、
まるで、自分の罪が少しずつ雪がれていくような感覚で見ている。
彼のことが、本当に愛おしい。
彼のためなら、なんでもしてあげたくなる。
事実、彼の世話を何度かしたことは、置いておいて。

頬の傷はもう、目立たなくなった。
腕や脚についていた大仰なギブスも、
重要度の低い順に外れていく。
しかしそれを着けていた期間に伴い、
関節や各部位の機能低下は避けられなかった。
だから今は、それを取り戻すためのリハビリ期間中である。
私は今、それに付き添っている。

北原「………っ、はーっ、はーっ………」

鈴木「全然口ほどにもないじゃん北原君。
   もしかして、もやしっ子?
   運動経験とか全然ないの?」

北原「じゃあやってみてくださいよ鈴木さん…。
   確かに運動系の部活には入ってませんでしたけど、
   これはちょっと、いやかなり参りますよ実際…」

靭帯を傷めたこともあって、
彼は疲労よりは、どちらかと言うと、痛みと戦っている感じ。
そんな彼の表情を見ると、私は少し自分を責めたくなる。
でも彼は、私の口から謝罪の言葉はもう金輪際聞きたくないとばかりに、
神妙な空気になると理不尽なくらい私を叱り飛ばす。
対抗策として私は、『お前の責任なんだからお前が頑張れよ』的な空気を、
常時出していることにした。

でもその方が楽しいし、
彼も楽しそうにしてくれる。
ならば、それでオッケーなんだ。

北原「ダメだ、休憩!
   こんなに急激に鈍るもんなんですね、人の体って」

鈴木「そうねぇ…。
   まぁ、生きてる証だと思うしかないんじゃない?
   あなたが今どういう感覚世界にいるか、ぶっちゃけ分かんないし、
   私に聞いても、無駄だよ」

北原「思いっきり他人事ですね…。
   ちくしょう…すぐに元に戻してやるからな!」

他人事なわけがなくても、
他人事だよと言ってあげるほうがいい時もある。
こういうからかいや憎まれ口は、
『なにくそ』という思いを素直にパワーに変えていける彼には、
まさにうってつけの薬なのだ。

リハビリを終えた北原君に自分の肩を貸して病室に戻る。
なんだかんだ色んな人に慕われてるらしい彼には、
ほぼ毎日のように見舞いの客がやってくる。
…でもそのメンツが、彼の八方美人ぶりを示しているような気がする。

3日前は確か、バイト先が一緒だった、ポニーテールの女子高生。
私を見た彼女が微妙な反応を見せたもんだから、
久しぶりにセンサーが反応したなぁ。
3つも下の子をその気にさせるなんて、犯罪だよ、犯罪!
勿論棚上げ状態は自覚した上で言っているわけですけどね!

2日前は確か、大学のゼミで一緒だとかいう、飄々とした女の子。
彼女は彼の惨状を只管にゲラゲラ笑っていたなぁ。
ちょっと私に似てるな…って思った。
どこまでが本心なのか分からない、『掴みどころのない』女の子。
でも、わざわざ見舞いに来るくらいだから…ねぇ?

そんで昨日は確か…確かもくそもなく、麻理さん。
面倒見のいい彼女のこと、今でも週に2回くらいは様子を見に来る。
昨日は休みで、グラフの編集部の面々を引き連れてきたもんだから、
ちょっとだけ恋人同士の空気を出していた私は、
泡食って彼を突き飛ばして、彼が悶絶…なんてこともあった。
そして私たちは彼らの話題の格好の標的になってしまった。
いや〜追求される側の肩身の狭さを初めて知りましたよ。
次からは少し、自重しようかしら。

でもやっぱりみんな大人で、心の底から信頼できる人たちだ。
私の真実を知った今も、
彼らは以前と全く変わらずに接してくれる。
そのことがたまらなく嬉しい。
私は、本当に仲間に恵まれた。

そして、今日の来客は…ふぅ。
ここんところ毎日来てる。
3日前は女子高生に過剰に色目を使い、
2日前は女子大生と腹の探り合い。
昨日は昨日で女子会社員にやたらしつこく連絡先を聞き、
本気で警戒されていた、自称『北原君の親友』。

北原「武也…お前よっぽど暇なんだな」

飯塚「いやぁ、ここに来ればかなり高い確率で綺麗どころに会えるからな!
   どっかの誰かがほうぼうに触手を伸ばしたおかげで…」

北原「人聞きの悪いことを言うな!
   誰の前だと思ってんだ…」

飯塚「流石にお前の所有物には手は出しませんって〜…。
   こんにちは鈴木さん!今日も変わらずお綺麗で♪」

鈴木「…いい加減にしとかないと、本命の子にも愛想尽かされるよ!飯塚君」

飯塚「春希…お前なんか余計なこと吹き込んだろ」

北原「気にするなって、俺も気にしないから」

彼、飯塚武也君は、北原君と高校の時に知り合い、
3年になった時に、軽音楽同好会を立ち上げた人。
つまり彼がいなければ、北原君がギターを握ることもなく、
あのステージにも立つことがなかったわけで…。
私の現在に間接的に深く関わった人物、ということになる。

いや、感謝はしてるよ?
でも『北原君の親友』が、
こんなに『軽い』という言葉を更に薄切りしたような人間だとは思っていなかったよ。
類は友を呼ぶ、とは一概に言えないみたい。

でも、友情には厚い人間だとも思う。
彼がここに来ている理由。
前述の理由も無くはないのだろうが、元々は純粋な見舞いだった。
そして、昨年末の出来事を病床から伝えられ、
彼のことを本当に心配しているのだ。
そして彼の『本命』は、
同じように親友に付きっきりらしい。
それについては私は非常にコメントをしづらい。

そんな中ふと、彼にとっては当たり前の疑問を、
彼は普通に私たちに投げかけてきた。

武也「何で2人とも未だに苗字で呼び合ってんの?」

そういえば、そうだ。
私たちは、恋人同士だ。
『北原君』に、『鈴木さん』。
愛着すら湧くこの呼び方に、疑問すら湧かなかった。
いや、『北原君』はまだいいけど、
『鈴木さん』なんて、街中で大きめの声で言ったら何人が振り返るやら。

それに、『春希君』は、特別な呼び方。
彼をそう呼んでいたのは、たった一人だけだった。

でももうそろそろ、いいのかもしれない。
私は、『春希君』と呼びたくなってきたし、
名前で呼んでもらったほうが、嬉しい。
問題は、彼の方。
その呼び方をしたら、どういう反応を示すんだろう。

北原「やっと帰りましたね、あのバカ」

鈴木「そんな言い方無いでしょ?
   心の中では感謝してるくせに」

北原「まぁ、否定はしませんけどね」

本当の親友同士って、
案外こういうものかもしれない。
平気で悪口や憎まれ口を叩き合って、
また会う約束もせず、でも常に心で繋がってる。
羨ましいな、と思った。

そして彼を病院の裏門にお見送りして、
私たちは自分の病室に戻る。
今日はやけに風が強いんだな。

鈴木「もう来週で、退院だね」

北原「そうですね、待ちに待ったって感じです」

冬が終わり、春が来る。
彼の心にも、私の心にも。
そんな風に考えるだけで心が躍るような季節を、
私たちはただ、待ち侘びる。

鈴木「退院できたら、いっぱい遊びに行こうね、春希君!」

北原「そうですね…、………!」

想いを込めた、一言。
彼はどう、受け止めるだろうか。

北原「………とりあえず俺は、就活を慌てて始めないといけませんね」

鈴木「あ〜いきなり夢のないこと言っちゃうんだね!
   いいじゃん開桜社に内定貰ってるようなもんなんだから。
   本当に付き合い甲斐のない男だね、春希君って」

北原「いえいえ、望むならば何処へでもお連れしますよ」

とても優しい、笑顔。
彼の心に積もった雪は、完全にとけてなくなったのだろうか。
そんなわけない。
そんなわけはない、けれど。

今の彼の表情は、
私が見てきた中で、2番目にいい顔をしてる。
あのステージの上の、
はにかんだような、自分に酔ったような最高の笑顔の次くらいに。

ゆっくり、ゆっくり、進んでいけばいい。
いつか彼の最高の笑顔が見られるように。
私は少なくとも、チャンスを得ることができたんだから。
私は今、最高に幸せだ…。

北原「あ、そういえば…」

鈴木「ん、何?」

北原「―――――」

ビュゴォォオオオ!!!

北原「って、甘いもの大丈夫でしたっけ?」

えっ、あっ!?
………なんだそれ。
今確実に彼は私を名前で呼んだはずなのに。
嫌がらせか突然の突風この野郎!!
いきなり幸せの絶頂から奈落に叩き落とす気か貴様!!
全然聞こえなかったじゃんかぁ〜もう!!

鈴木「大丈夫だよ、なんで?」

北原「いや、ホワイトデーも近いですし。
   世話になった分、なんかお返ししたいな…って」

鈴木「それは思う存分、お返ししてください。
   そして思う存分、私のことは名前で呼んでいいからね!」

北原「武也の尻馬に乗ったみたいで癪ですけど、
   ………望むならばいくらでも、お呼びしますよ」

これからはもう何も、心配ない。
この世界の真ん中で、彼は私の名前を呼ぶし、
私もまた、彼の名前を呼び続ける。
私たち2人の存在が、世界に谺していく。


もう、ひとりなんかじゃない。


一緒に、2人で、歩いて行けるね。


だから、これからもよろしくね。春希君。


~fin~




あとがき

長々とすみません。
最後まで読んで下さった方、感謝しています。
本当に、ありがとうございます。

もともと僕もWA2が大好きでのめりこんで、
そしてこのサイトの素晴らしいssに触発されたクチなんですが…。
完成されたストーリーからの後日談が僕には向いていないらしく、
サブキャラのifルートという、
逃げ道を行く結果となってしまいました。

それでもとりあえず形になったので、
ここにアップさせていただきます。
どんな意見でもいただけるだけでうれしいです。

以上です。
ありがとうございました。

このページへのコメント

誰かが幸せになれば誰かが…。
というWA2の鉄板の構図をここでも用いてみました。
それでも麻理さんは凛としているだろうと…。

ありがとうございます。

0
Posted by boragi 2014年06月01日(日) 15:26:27 返信

美しいお話でした…。感動しました。確かに、麻理さんが可哀想ですけど…。春希に詳細を告げないで年末休暇に行っちゃうからあかんのですよね…。

0
Posted by ushigara_neko 2014年06月01日(日) 00:49:57 返信

以前にpixvでアップしました。
こちらに初投稿という意味です、ややこしくてすみません。
真理さんもいろいろこの立場だと言いたいことがあったでしょうが、こういう風になってしまったらきっと波風を立てずに大人な対応を見せると思いまして…。

終始鈴木さん目線の物語なので、真理さん側の心情描写ができなかったですが、まぁそこは仕方ないとw
コメント、ありがとうございます。

0
Posted by boragi 2014年06月01日(日) 00:22:02 返信

鈴木さんがヒロインのもう一つのCCルートですね。過去に読んだSSでは鈴木さんが物語のカギを握る立場にある作品は読んだ事はありますが、ヒロインで登場した作品はこれが初めてでしたので新鮮でした。ただ麻理さんが損な立場になってしまいちょっと気の毒ですね。後もし間違いでしたらすいませんですが、この作品以前別のサイトに載せていませんでしたか?タイトルも同じで内容も覚えているものに近いしそう思ったのですが。

0
Posted by tune 2014年06月01日(日) 00:15:55 返信

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