『冬馬かずさ、急死

 2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
 1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
 彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
 冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』





「申し訳ありません!」

 北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。

「あなたの責任じゃないわよ……春希君」

 そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子――今の春希の義母――は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。

「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」

 ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。

『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』

「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
 あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」

 向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。

「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
 むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」

 春希が帰国する。それがどういう意味を持つのかを、曜子にも容易に察することはできる。
 娘のために婚約者を裏切り、友と決別し、仕事も辞めた。そんな春希の行動に曜子は感謝に絶えなかった。そのことで彼がどれ程の犠牲を払ったかを分かっていたから尚更に。
 彼にとってそんな忌まわしい過去が眠り続ける、自分の生まれ育った国への帰国。曜子にとって春希に対してはどれ程頭を下げてもし足りないくらいだった。

「いえ、俺はいいんです。決めたことですから」
「……本当に、ありがとう」

 ……それからしばらく、他愛無い話が続き、かずさ亡き後の今後の方針をどうするか決めるためにもう一度集まることにまで話を付けた。

「……春希君、これからどうするの?」
「ひとまずホテルに部屋を取ってますので、そこに」
「そうじゃなくて、これからのことよ」
「え……?」
「わたしとしては、あなたがここに留まってくれれば……」

 無理な注文だと分かってはいる。生前のかずさとて、日本に残る意思はなかったのだから。今の春希には酷とも言える頼みだった。

「……それは、できません。ここに、俺の居場所はありません」
「でも、かずさももういない。あなたが向こうにいる理由もないのよ?」
「それでも……自分の意志で手放したんです。虫が良すぎますよ、今更」

 予想していた返答ではあった。もし彼が自分の提案を受け入れる人物であれば、五年前の時点で受け入れてくれたはずだから。

「だから……帰る前に、あともう一度だけ、行っておきたい所があるんです」
「行っておきたい……所?」

『……あ、あ……』
『かずさぁ!』
『ご……ごめ、ん……』
『……かずさ?』
『本当に……ごめん、なぁ……』
『何を……何謝ってんだよぉ!』
『ごめん、な……せ……』
『……え?』
『……せ……つ……なぁ……』

「生前、かずさに言われてたんですよ。『絶対に雪菜と仲直りしろ』って。
 今更無理だって分かってるはずなのに、そんなこと……」
「……で、行くの?彼女の所?」
「……はい。せめて、かずさのことは伝えておきたいですから」
「……なら、わたしも行くわね」
「……お義母さん?」
「ほら、三年くらい前かしら?あなたたちに彼女の動画を送ったのは」
「は、はい」
「あれからわたしもご無沙汰だし、挨拶も兼ねてね」

 こんな時にでも不敵?な微笑を浮かべる曜子を見て、叶わないなぁ、と春希は首を振った。





「……」
「……お久しぶり、です」

 3月14日。春希と曜子は、小木曽家のリビングで夫人と向かい合っていた。
 曜子がかつて連絡を取り合っていた際の雪菜の携帯番号は既に使われておらず、本人との接触は叶わなかった。それならば、とナイツレコード社にも問い合わせたが、結果は変わらなかった。なので二人は小木曽の家を訪ね、雪菜に会おうとしたのだが。

「……何の用ですか?」
「……雪菜――さんに、伝えたいことがありまして」
「あの子に……今更何を?」
「奥さん、わたしたちはかずさが――娘が亡くなったことを雪菜さんに伝えたいだけです」

 曜子が間に入り事情を話したが、夫人は頑なに口を閉ざしたままだった。

「母さん、誰か来てるの?」
「こんにちは、おじゃまします」
「孝宏……今は」

 そこへ、新たにリビングに入ってきた人物が。
 夫人が慌てて止めようとしたが時すでに遅く、小木曽孝宏は春希に気付いて……。

「あんた……北原!?」
「久しぶり、だね……」
「……帰れよ」
「孝宏君……」
「今更どの面下げてのこのこ来やがったぁ!」
「雪菜に……会いに」
「はあぁ!?勝手に姉ちゃん捨ててっておきながら、ふざけやがって……。
 冬馬かずさが死んで寂しくなって、また姉ちゃん誑かしに来たってのかぁ!」
「別に……そんなつもりは」
「止せ、孝宏」

 そこで、孝宏と共にリビングに入ってきた人物が制止に入った。
 孝宏の肩から腕を割り込ませ、後方へ押しやった。

「飯塚さん……」
「武也……」

 飯塚武也が春希に向き直り、幾分冷静な視線で見詰めてきた。

「久しぶりだな、春希」
「そうだな、武也……」

 袂を分かちあったとはいえ、かつての親友同士。二人にとってこれだけで挨拶には充分だった。

「武也、お前どうしてここに」
「雪菜ちゃんに挨拶しにな」
「雪菜?いるのか?」
「いる……って表現が正しいかどうか疑わしいがな」

 そう言って武也は和室へ通じる戸を開けた。
 するとその奥には、今まで春希が小木曽家では見たことのないもの……。

「な、何だあれ?」
「見りゃあ分かるだろう?仏壇だ」

 武也が仏壇に歩み寄り、春希も慌てて後を追う。
 そして、そこに飾られた遺影は……。

「雪菜っ……」

 ライブハウスのステージで満面の笑みで歌っている、ステージ衣装の雪菜の笑顔。

「そ、そんな……」

 春希は曜子を振り向いたが、ショックから我に返ったばかりの曜子も無言で首を振った。
 曜子も雪菜の死を知らなかったことが、今の曜子の態度で春希にもすぐに伝わった。

「どうして、こんな……」

 当然浮かんだ春希の疑問に、武也が重い口調で説明した……。
 ひと月前の2月14日。今の春希にも忘れられない、雪菜の誕生日。
 今年もまた小木曽家でパーティーということになって、家族はもちろん、武也や依緒、朋も、孝宏の恋人も集めて盛大に行おうということになった。
 しかしこの日、高気圧がもたらした大寒波の影響で大雪になり、交通機関にも大きな打撃を与えた。そのせいで当日外回りだった雪菜の帰宅も大きく遅れ、会社からタクシーで直接帰ろうとしたのだ。
 そして会社の前でタクシーを捕まえようと道路に身を出して手を挙げタクシーを拾おうとした時、タクシーの進路変更に後ろから迫っていたバイクがハンドル操作を誤り、ブレーキを掛けるもスリップして横転し、そのままの勢いで歩道に乗り上げ……。

「……即死だったとさ」

 春希は言葉がなかった。まさか、雪菜までが……。

「なのに、冬馬が死んだことを雪菜ちゃんに伝えにきたって……この家の人たちには酷な話だぞ」
「知らなかったんだ。本当だ。雪菜が、雪菜までが死んだなんて……」
「しかも何の因果か、冬馬も同じ日に死んだなんてな」
「武也……」
「そんでもって、雪菜ちゃんの誕生日だなんてよ……」
「ったく、どこまで姉ちゃんを虚仮にすれば気が済むんだよ?」

 遺影の前で項垂れる春希に、孝宏が詰め寄った。

「そもそも、冬馬かずさが死んだってこと姉ちゃんに伝えて、どうするつもりだったんだよ!?」
「どうって……それだけだよ」
「それだけ?そんなどうでもいいこと伝えるだけでここに来たのか!?」
「どうでもいいなんて……かずさは雪菜にとっても大切な」
「うるせえっ!」

 孝宏の一括に春希は言葉を止める。それでも孝宏は止まらなかった。

「あんたは姉ちゃんを捨てたんだ!五年も前にな!いっそ勝ち誇っていちゃついてるのを見せつけてりゃあ良かったんだよ!」
「そんなこと……できる訳ないだろう?」
「あんたたちが姉ちゃんを裏切ったのは事実なんだ!あの女があんたを唆して姉ちゃんを!」
「かずさは……何も悪くない。悪いのは全部俺なんだよ。俺を責めるのは仕方ないけど、かずさを責めるのは止めてくれ」
「勝手なことばっか言いやがって……あの女のせいで、姉ちゃんがどれだけ苦しんだか」
「かずさだって……苦しんでたんだ。雪菜に、ごめんって、死の間際までずっと」
「姉ちゃんから幸せを奪ったあの女のどこに苦しむ権利があるってんだよ!姉ちゃんからあんたを奪ったことを棚上げして!」
「……もう止めてくれ。君の気持ちは分かるけど、かずさはもう死んだんだ。雪菜に謝り続けながら死んだんだ。これ以上死んだ人を罵るのは勘弁してくれ!」
「何だよそれ……あの女が謝ってたから許せってのかよ。あの女が死んだからあんたたちのやったことをチャラにしろって姉ちゃんに言うつもりだったのかよ!」
「君だって……死んだお姉さんを知らないところで罵られるのは嫌だろう?」
「くっ……」
「俺はただ、伝えたかっただけなんだよ。かずさが謝ってたことを、雪菜に」
「……」
「今更ヨリを戻そうなんて思ってなかったし、そんなことは許されないってことくらい分かってる」

 孝宏はガックリと項垂れ、口籠ってしまった。

「もういいだろ、孝宏」
「飯塚さん……」
「今のこいつには何を言っても無駄だ。こいつらのしたことは所詮、未熟な子供のままごとだ」

 そう言って武也は白い目で春希を見下ろす。春希は居た堪れなくなり、和室を出て曜子を促した。

「……お義母さん、そろそろお暇しましょう」

 だが、曜子の視線の先には新たな人物が。

「久しぶりだね、北原君」

 曜子の視線を受けて春希が見た人物は、小木曽家の主。
 たった今帰ってきた様子ではなく、春希が孝宏と口論している間に帰ってきたようだ。

「……君がなぜ、ここに?」
「それは……」
「わたしが説明します」
「お義母さん……」

 曜子が一通りの説明をした。かずさの死と謝罪の言葉を雪菜に伝えようとしたこと、そして、雪菜もまた鬼籍に入ったことを知ったこと。

「……二度とここへ来るなと言われていたことは覚えています。ですが、どうしてもかずさの最期の言葉を雪菜に伝えたくて、恥を忍んでここに来ました」

 小木曽氏はリビングのソファに座って二人の言葉を聞いていたが、夫人の方に向き直った。

「母さん、皆を集めなさい。飯塚君もいいかね?」
「はい、俺は構いません」
「どうやら、私が話すのが一番よさそうだな」
「あなた……」
「お前たちでは気持ちが先に立つだろう?」

 口籠りながらも春希がゆっくりと事情を話した。先程の曜子の話とほとんど同じだが、かずさを看取った数日の部分はより詳しい内容だった。

「……冬馬さんは、向こうで亡くなったのか」
「はい……雪菜――さんに、ごめんって、何度も……」

 春希の話を黙って聞いていた小木曽氏だったが、不意に一つ、大きな溜息を吐いて居住まいを正した。

「君たちの言いたいことは分かった」
「はい……ありがとうございます」
「しかし、私たちは君たちのその言葉を譜面通りに受け取る訳にはいかない」

 小木曽氏の言葉に、春希は目を見開いた。

「そ……そんな。どうしてですか!?絶対に間違いはありません!」
「仮に間違いないとしてもだ。君たちは過ちを正すことをしなかったんだ。本当に謝罪の意志があるのであれば、君たちはすっきりと関係を断ち切るのが筋ではないのかね?」
「そ、それは……」
「雪菜には申し訳ない、でも君たちは別れる意志はない。それでは結局何にもならない。冬馬さんは雪菜に対する罪悪感よりも、君を雪菜から奪うことを選んだんだ」

 春希は言葉がなかった。どう考えても小木曽氏の言い分が正しいのは分かったから。

「でも、わたしは感謝しています。わたしが病気になって一人ぼっちになったかずさを守ってくれたことには」
「……そうですか」
「だから、責任があるとすれば、この子たちではありません。わたしが原因なんです」

 曜子が春希の代わりに、小木曽一家に頭を下げた。

「……しかし、それも私たちには関係のないことです」
「……小木曽さん?」
「原因が何であれ、事実は変わらないんです」
「変わらないって……」
「では何ですか?彼らは悪くないと、間違ったことをしていないと、そう仰るのですか?」
「いえ、何もそこまでは」
「今の言い方ではそう聞こえますが。雪菜を裏切ったことは彼らのせいではないと」
「だから、わたしがこの子たちの代わりに背負うつもりでいました。親として」
「しかし、人様の教育方針に口を挟むつもりはありませんが、それはどうかと」
「親として娘たちを守りたいと思うのは当然では?」
「あなたが親としてするべきことは、子供の罪を庇うよりも、子供の過ちを正すことなのではないのですか?あなたの行為はただ甘やかしているだけとは思いませんか?子供の過ちを叱って、改めさせることこそが親としての正しい務めなのではないですか?」

 小木曽氏の言葉に、曜子もさすがに少し苛立ちを露わにした。

「それは仕方がないじゃないですか。結局彼はかずさを愛していたから、だから自分の手でかずさを守ろうと決めたんですよ。わたしがもうかずさを守ってあげられないから、だから彼は、かずさを……」
「確かに、最終的には北原君はあなたの娘さんを選んだ。彼が雪菜と婚約していても、本当に好きな人があなたの娘さんであればその人を選びたい……それが恋愛です」

 曜子の憤慨な態度にも、小木曽氏は決して態度を崩さずに応対する。

「ですがお母さん、彼らに本当に好きな人を選ぶ権利があるのであれば、我々にもあなた方の非道な裏切りを非難する自由があるんですよ」

 この言葉には、さすがに曜子も詰まった。

「北原君、先程君は冬馬さんを責めるのは止めてくれと息子に言ったが、その言葉さえも本来は許されないんだ。冬馬さんが雪菜を不幸にしたのは事実なんだからね。
 そして我々の言葉に対して、君たちには何も言い返す権利も資格もないんだ。何故なら先にわたしたちを裏切ったのは君たちの方だからだ」
「だから、それは……」
「君たちだって、自分たちのしたことが人の道から外れていることは充分理解しているとは思う。その上で、お母さんが病気だからだの、責任は自分だけにあるだの、そのような言葉をいくら並べても何の説得力もないんだよ」

 もはや、春希達は何も言えない。

「犯罪を実際に犯した者も、加担した者も、見て見ぬふりをして黙認した者も、皆同罪なんだ。
 それと同じだ。雪菜を裏切った君も、冬馬さんも、君たちを庇ったお母さんも。わたしたちにとっては雪菜の幸せを壊した者として、罪を犯した同じ罪人なんだよ」
「あ……」
「君たちの話からすると、君たちは最後まで過ちを正さぬままだったようだね。雪菜から離れるよう頼んだ私が言うのも何だが、君たちは犯した過ちを二人で許し合って、お互いに甘やかし合っただけではないのかね?
 飯塚君が先程君たちがしたことを未熟な子供のままごとだと評していたが、私もそう思う」

 小木曽氏の隣で夫人は唇を噛み締めながら涙を堪え、孝宏は拳を固めて肩を震わせ。武也は腕を組んでただ黙って話を聞いている。

「まあ、最後に雪菜に線香でもあげていきなさい」

 それが終了の合図だった。小木曽氏はソファから立ち上がり、自室へ下がっていった。


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