30　温泉回？　／　2015年９月

　8月31日、かずさと春希は、ツアー二日目の場所である、多賀城市に移動する。
　多賀城市は、仙台からJR仙石線で九駅。
　ホテルに荷物を降ろすと、例によって、かずさは〝会場が見たい〟と言った。
　多賀城市文化センターの客席数は千二百。
　「このホールも、良い感じだな。……ちょっとホワイエの配色がケバいけどな」と、かずさは言った。
　「何故、仙台じゃなくて、この街にしたの？」
　「いや……、別に。こっちの会場の方がキャパがあったから」
　「ふうん……」かずさは、三白眼で春希を見た。
　「キャパがねえ……」
　「それに、リハーサル室を練習に使えるんだ」
　「……了解。まあ、何処でもあたしは弾くんだけどな。リハ室は、今日から使える？」
　「うん」
　「なら、良い」
　「えっと、それとな、かずさ」
　「何？」
　「今日は俺、地元のお偉いさん方に挨拶回りするから、昼は一人で食べてくれ」
　「ふうん……」
　「何だよ」
　「良いけど。お前、なんだか、仙台駅に着いた時から、ちょっとおかしいぞ」
　「そんなこと……、無いよ」

　＊　＊　＊　＊　＊

　それから三時間半後、春希は岩手県・大槌町の防潮堤の上に立ち、静かな海を見ていた。
　四年半前の、2011年3月11日、東日本大地震が発生した。
　岩手、宮城、福島、茨城の沿岸部は津波による甚大な被害を受けて、多くの人命が失われた。
　大槌町も、大きな被害が出たところだ。
　〝あの日は、俺と雪菜が結ばれたヴァレンタイン・ライブの日から、一か月も経っていなかった。
　俺はその時、開桜社のオフィスにいて、バイト中だった。
　出版社という、紙媒体を扱っている会社は、地震に弱いものだ。
　書類は散乱し、パソコンは落ち、不安定な書籍棚は倒れた。
　一瞬の混乱の後、一番心配になったのは、雪菜のこと。オフィスの混乱なんか、全く目に入らなかった。無我夢中で雪菜に電話した。幸いなことに、安全が確認できて、安心したことを覚えている。
　その日は、家族の安否確認等が必要だろうということで、業務は終了、平社員以下、当然バイトも帰された。
　JR線沿いをひたすら歩いて、雪菜の家まで行って、雪菜と会って、泣きじゃくる雪菜を抱きしめたことを思い出す。
　だが、俺たちはお互いの暖かさと愛を確認し、微笑みさえ交わした。
　そして、次の日から、俺はもう日常の中にいた。
　オフィスの復旧を手伝ったりはしたものの、テレビの画面に流れている、東北の被害を横目で見ながら、納期の迫った仕事に忙殺されていたんだ。
　何も、出来なかった……。
　やっと得た、心の平安の中に浸って、何も考えていなかった。
　幸せを貪るのに、一生懸命だった。
　考える、余裕が無かったんだ。
　そのことを、後ろめたいとは思わない。
　その時、何かが出来たとも思えない。
　それに、その二年後、俺は日本を捨てた。
　かずさに、この国の自然と四季の魅力や、文化の素晴らしさを分かってほしいと思いながら、かずさ以外の全てを捨てて、この国から逃げた。
　今からでも、何かが出来るとは思っていない。
　だが、帰ってきてしまった。帰って、きてしまったんだ。
　だから、全ての心残りに、自分なりの決着を付ける必要がある。
　……そろそろ、時間だな〟
　春希は腕時計を見て、歩き出す。

　…………。

　「北原さんですか」
　「お願いしていたボランティアの方ですか」
　「はい」
　「ありがとうございます」
　春希は、旧赤浜小学校閉校記念碑前にいた。
　赤浜小学校は、町の避難場所に指定されている高台にあった。だが、津波は、高さ五メートルの防潮堤をあっという間に乗り越え、目の前に迫った。校長始め、教職員の適切な判断で、全児童三十六人、全教職員十一人が、五百メートル先の裏山の高台まで避難し、全員、無事だった。
　「ここ……、ですか？」
　「はい。ここに五本の桜が、ありました」
　旧赤浜小学校の校庭、蓬莱島を臨む高台に植えられた五本の桜は、樹齢百年を超えるソメイヨシノで、朝な夕な、登下校する児童たちを見守ってきた。
　もちろん、津波に襲われ、海水に浸かった。だから、その年の春、誰も咲くとは思っていなかった。
　だが、桜は咲いた。津波の一か月後の、４月半ばから、見事に咲き、地元の人々の心の支えとなった。翌年も、その翌年も、桜は咲いた。
　「ですが、復興事業の盛り土のために、伐採されることになりましてね」
　「そう、聞きました」
　「一昨年、最後の花は、凄かったなぁ……。別れを知っているかのように、最後の力をふりしぼって咲いていた。本当に美しい姿でしたよ。
　まるで奇跡のようでした」
　「…………」
　「伐採前に接ぎ木された五十本の苗木がすくすくと育ってましてね。いずれ復興後の赤浜地区に植樹されます」
　「そうなんですか」
　「また、あの桜の下で花見をしたいですね。……確かに、もう会えない人がたくさんいるし、二度と帰ることはないと言う人も多いんですが、ね」
　案内人は、微笑みながら、訥々と語った。

　＊　＊　＊　＊　＊

　「それで、今日、お前は何処に行ってたんだ？」
　ホテルのベッドの中で、かずさは春希に声をかけた。
　「えっ、と……」
　「春希、お前、あたしに何か隠し事ができると、思ってるの？」
　「かずさ……」
　「あたしを置いて、被災地を見に行ってるの、分かってるんだぞ」
　「バレてたか……」
　「妻に隠し事するなら、もっと上手くやれよ」
　「そうするよ。……いや、違った。
　ごめん。お前には隠し事はできない、だったな」
　「ばか……。それで、どう、だった？」
　「何も無いよ」
　「何も無いって、どういう意味？」
　「そのまんまの意味だ。四年半も過去の話だ。町は消え、がれきは撤去され、雑草の生えた、平坦な土地が広がっている。
　……静かな、海の前に」
　「……そうか」
　「……うん」
　「春希、お前が今日、見て、聞いてきたことを、全部教えてくれるか？」
　「うん。あのな……」
　春希は、かずさに腕枕して、腰を抱きながら、ゆっくりと話した。
　かずさは、春希の胸に顔を埋め、時々質問しながら聴いていた。
　一通り、話終えた春希は、ベッドから出て、鞄から例のノートを取り出した。
　「それで……、その桜の話をもとに、札幌のアンコールで、お前が歌ってた曲に、詩を、付けてみたんだ」
　春希は、ノートを開け、かずさに見せる。
　かずさは、歌詞を食い入るよう見つめた。
　「どう、思う。こんな歌詞、書いても、良かったんだろうか。
　雪菜に歌わせて、良いんだろうか……」
　「お前な……、この歌詞、あの曲の主旋律にちゃんとはまって無いじゃないか。
　ごつごつして、まるで数式みたいだ」
　「馬鹿言うな。数式はもっと機能的で美しい。
　で、どう思うんだよ」
　「あたし、言ったよな。想いを貫いて書けって」
　「ああ」
　「もしもお前が、今日の体験のせいで、自分の想いから離れて、広い視野から、とか、高い観点から、とか、そんな偉そうな気持ちで歌詞を書いてたら、きっとあたしはお前を蹴り飛ばし、このノートをお前に叩き付けていた」
　「かずさ……」
　「あたしの持論はな……」
　「自分達の商売は、個人的な体験や考えを、芸術を通して作品に昇華する、因果な商売」
　「……お前、札幌の楽屋の外で、立ち聴きしてたのか？」
　「まあな」
　「性格悪いな、お前」
　「お前に言われたくないよ」
　「そんな性格の悪い奴だろうが、どんなにヘタクソだろうが、それができてるなら、それで良いんだよ」
　「良い、のか？」
　「ああ。雪菜なら、ちゃんと分かってくれる。ちょっと待って。今、符割をやり直すから。えっと、五線譜出して」
　かずさはそう言って、ベッドから起き上がり、ガウンを羽織った。
　「ありがとう、かずさ」
　かずさは、机の前に座った。そして、背中を向けながら言った。
　「それとな、春希。明日、少しの時間で良いから、あたしを連れて行ってくれないか。
　その……、被災地に」
　「結構時間がかかるから、遠くには連れて行ってやれない。だが、明日、この町を、見に行こうか」
　「えっ……」かずさは振り返る。
　「この多賀城市の、駅より南側は、津波の被害に会ってる」
　「この街が、か……」
　かずさは、立ち上がり、窓の外を見た。
　その窓から見えるはずの海は、既に暗闇に隠されていた。

　＊　＊　＊　＊　＊

　9月3日・木曜日、多賀城市文化センター。
　会場はもちろん満杯。札幌での成功を知る観客達の熱気が、コンサートの始まる前から会場に充満していた。
　かずさは、札幌に負けず劣らずの高いパフォーマンスで、その期待に応えた。
　アンコールでは、また『リスト・超絶技巧練習曲集』の中から「風景」と「第十番」をやった。
　「……さて、じゃあ、二回目のアンコールに応えてきてくれるか」
　「うん。……じゃあ、ちょっと喋ったら、呼ぶから、ちょっと待ってて」
　「分かった」
　かずさは、マイクを持って舞台に出て行く。
　「再度のアンコールありがとうございます。
　あたしは、生まれて初めて宮城に来ました。それで、これから友達と会って、牛タンを食べに行く予定にしているので、アンコールは次の曲で最後になります。
　今日は本当にありがとうございました」
　だが、かずさはピアノに向かわず、そのまま、視線を少し下げ、マイクを口元に近づけた。
　「あたしは、一昨日、塩釜港に行きました。
　海は……、静かで、美しかったです。
　長い間、海の美しさに見とれました。
　でもあたしは、この海の本当の姿を、知らないのだ、とも思いました」
　それから、少し、かずさは、沈黙した。
　「海を見ながら、マネージャーが、この街の震災の被害について、教えてくれました。
　2008年に日本の高校を卒業してから、あたしは日本を離れ、七年間、ウィーンで暮らしていました。
　向こうに行ってからは、師匠に付いて本格的なピアノの練習を再開して、コンクール、演奏活動などに一生懸命で、日本のことや、日本に残してきた友達のことを、考えるのを避けていました。
　ですが、一回だけ、日本の友達のことを気にかけたことがあります。
　それは、2011年の春……」
　かずさは、少し、言い淀む。
　「震災の時です。あたしは、ウィーンで震災のニュースを知りました。
　あたしは、友達に電話しようと思いました。
　でも、出来なかった……。
　もしも、友達に何かあったら……、どうしよう……」
　〝春希と、雪菜に、何かあったら、あたしは、気が狂うかもしれない……〟
　「何もなかったとしても、声を聞いてしまったら、どうしよう……」
　〝こんな気持ちで、二人の声を聞いてしまったら……〟
　「もしも、ウィーンでの生活を全て捨ててでも、日本に帰りたくなってしまったら、どうしよう……。
　全てが怖くて……、怖くて何も出来なかった」
　かずさは、暫く言い淀んだ。
　「……あたしは、母に頼んで、友達の安否について、直接ではなく、探偵を雇って調べてもらいました。
　そして、恐る恐る、安否を確認したんです。
　そして、安心して……」
　〝安心しながら、それを知ってしまったことで、少し、戸惑ってしまった〟
　「そして、そのまま、過ぎてしまったんです」
　〝それ以上、考えてしまったら、あたしの知らない間に、二人がどうなったか、知りたくなる。
　だから、弱い心が捕まる前に、そっと二人への想いを遠ざけた〟
　「かずさ……」舞台袖に立つ女は、つぶやいた。
　「こんなちっぽけで、無力なあたしが、被害に遭われた方々に、何かをできる訳がありません。
　あたしができることは、ピアノに向かうことだけ」
　かずさは前を向く。
　「あたしは、日本のファンの方々に対して、不義理をしてきたと思います。
　今回のツアーで、皆さんにお会いできて、本当にありがたいと思っています。
　これからも、皆さんに、もっと良い音楽を提供できるよう、頑張ります」
　かずさは、一礼した。
　少し戸惑った観客から、まばらな拍手が起こった。
　だが、それは次第に大きくなり、かずさを包んだ。
　かずさはにっこりと微笑む。
　「さて、札幌公演のアンコールでご披露したあたしの曲に、歌詞がつきました。
　岩手県大槌町の〝奇跡の桜〟の物語にインスピレーションを得て書いたそうです。
　この再生の物語に、あたしは救われました。今のあたしの気持ちにぴったりですので、この時間をいただいて、最後にお届けしたいと思います。
　じゃあ、歌ってくれる親友を紹介します。
　我らが日本一のアイドル、小木曽雪菜～」
　プラダの赤い膝丈のワンピースに身を包んだ、アイドル体型の美女が舞台中央に歩み出る。
　観客は一瞬どよめき、そして大きな拍手で迎えた。
　身長百六十センチの小さな身体が、舞台では大きく映える。
　「ちょっとぉ、恥ずかしい呼び出し方しないでよ。
　あっ、どうも、こんにちは。小木曽雪菜です。
　本日は、あたしの親友のコンサートにおいでいただき、ありがとうございました。
　最後に一曲、歌わせていただきます。
　昨日、メールでピアノのカラオケデータをもらって、数回一人で練習しただけなので、上手く歌えるかどうか分からないですけど……」
　「お～い、プロが内輪ネタばらすなよ」
　かずさが三白眼で注意し……、観客は失笑する。
　「あっ、ごめん。でもでも、とっても良い曲なので、頑張って歌います。
　曲の題名は、……『時の魔法』です」
　軽いため息の後、顔をほころばせて、かずさはピアノに向かう。
　流れ出す、ショパンの「二十四のプレリュード」の第一番。
　コードが落とされ、かずさが作った曲らしい、印象的なイントロが流れる。
　雪菜が、落ち着いて歌いだした。

〝♪　人は苦しみも……〟

　雪菜の優しい、明るい声が会場に広がって行く。
　かずさのふくよかなコーラスが包み込んで行く。
　……「詩については、一曲は去年までのわたし達のことを、もう一曲はこれからのわたし達のことを、書いてほしいんだ。どうかな？」と、雪菜は言った。
　〝ご依頼の曲、やっと、一曲だけ、出来たよ、雪菜。
　さすがに、ゼロからonce again、は、無理かもしれないけれど、できればそんな気持ちで、君と、みんなと、かずさと向き合いたい。
　今、俺はそう思っている。
　俺達は帰ってきた。日本に、帰ってきたんだから、な〟
　春希は、舞台袖で二人の演奏を聴きながら、自分の決心を確認した。

　＊　＊　＊　＊　＊

　「うわー、良い部屋だね～。松島がよく見える～」
　「さすが春希のチョイス。ちょっと、エロいよな」
　「エロいって……、どこでそんな言葉覚えたの？
　お姉さんは寂しいわ」
　「誰がお姉さんだ。誕生日はあたしの方が九か月くらい早いだろ」
　９月７日、月曜日。かずさ、雪菜、春希の三人は松島温泉の高級旅館にいた。
　「それにしても、良い景色だわ」
　「まあ、景色は確かに良いけれど、でも、付いてる露天風呂がちょっと狭い」
　「色々探したんだけど、松島温泉の宿は、どこも個室に付いてる露天風呂が小さいんだよ。でも、貸し切りの露天風呂があるから、予約しといた。
　今から二人で入ってきたら」
　「春希は、どうすんの？」
　「いや、俺は、ちょっと処理しなきゃいけない仕事があって」
　と言いつつ、春希は鞄からパソコンを取り出す。
　「それ……、夕食までには終わるんだろうな」
　「終わらせたいな。だから、今は俺を一人にしてくれ」
　「なんだよ、それ……」
　「まあまあ。かずさ、二人で行こうよ」
　「ホント、冴えない奴……。雪菜と入ってくるから、早く終わらせろよ」
　「はいはい」
　〝というか、三人で一緒の風呂に入る訳にはいかないだろ。あの頃とは違うんだし〟
　二人が部屋を出て行ったのを確認して、春希はノートパソコンの画面を閉じ、一人、寝転がった。
　……かずさは、多賀城市での自分のコンサートの後、雪菜を交えて食事をしながら、アレンジについて意見交換した。そして、雪菜を見送ると、部屋に帰ってから五線譜に向かい、『時の魔法』をバンド用にアレンジして、春希に渡した。
　春希はホテルから、それを松岡にファックスした。
　そして、昨日、９月５日・土曜日、仙台サンプラザホールの雪菜のコンサートで、アンコールの三曲目として、披露された。
　もちろん、ピアノは、ゲストのかずさが弾いた。
　雪菜は笑い、かずさは微笑んだ。
　〝上手く行ってる。怖い、位に。
　こんなに幸せを感じてしまってて、良いんだろうか。
　分かっていることは、不安を感じていても、仕方ないということ。
　前を向くしか無い。そのためにも……〟
　春希は起き上がり、例のノートを取り出す。
　〝去年までの俺達について、いや……、自分の気持ちにケリをつけないとな。
　雪菜に、ちゃんと「さよなら」を言わないと、な……〟

　＊　＊　＊　＊　＊

　「おほん。それでは、前回から、かなり年月が経ってしまいましたが、峰城大付軽音楽同好会の第一回目の同窓会を開催したいと思います。
　それでは、乾杯！」
　「か、乾杯……」
　「乾杯……」
　浴衣を着た三人は、シャンパンの入ったグラスを軽く合わせた。
　「ぷはぁぁっ。一仕事終えた後の一杯は美味しいわね～」
　「お前……、心なしかちょっとおっさん臭くなったよな」
　かずさはグラスを少し嘗めただけで、酸っぱそうな顔をして言った。
　「むー、日本一のアイドルに、おっさん臭いとは何を言う」
　雪菜は少し三白眼でこれに応える。
　「自分で言うか……。しかし、雪菜って、お酒、強くなったよな」
　「まあ、飲まなきゃやってられない日々が続いたからかなあ……」
　「「…………」」
　「冗談だよ、冗談」
　「お前な……」
　「わたし、お酒に逃げる、とか、そういうのは出来ないみたい」
　「そう、なんだ……」
　「独りで飲んでても、たくさんは飲まないし、やっぱり独りよりは、友達と飲んでた方が美味しいしね。今日は、かずさと春希くんが一緒だし、ほっこりして、とっても美味しく感じるよ」
　「そりゃ、良かった……」
　かずさは、ほっとしたような顔で言った。
　「俺も、独りだとあまり飲みたいと思う方じゃないな」
　春希はグラスを見つめながら言った。
　「へえ、お前、かなり強いから、独り酒とか、好きなんだと思ってた」
　「飲める、というのと、美味しい、と思うのは違う。確かに、独りだとあまり美味くは感じないな」
　〝大学時代は、独りでも飲んでたけど……。俺も酒では何も忘れられないタイプだしな。独りだと、酔えば酔う程、醒めてきて、かえって自虐的になって、疲れてたっけ〟
　「かずさは、お酒好き？」
　「あたしは、好きというわけじゃないな。殆どの酒が、あたしの口に合わないし。高校時代、不良ぶって時々飲んでたのだって、甘口ポートワインだったし。このシャンパンだって、あたしの口にはちょっと酸っぱく感じる」
　「えっ、このテタンジェのノクターンって、少し甘口じゃない？」
　「蜂蜜入れなくて良い限界の酸っぱさだな」
　「あはは……。でも、この前、わたしと飲んでた時は、赤ワイン、結構飲めたじゃない？」
　「熟成した赤ワインなら、少しは大丈夫なんだ。この辺りは、母さん似なのかな。でも、蜂蜜とか柑橘系フルーツを入れて温かくした方が好きだな」
　「ふーん……。じゃあ、ビールは？」
　「ビールなんて苦行だよ。苦いし、お腹は脹れるし、良いこと無いよな」
　「苦みを美味しいと思えるのは、大人になってからだしな」と、春希は茶々を入れる。
　「うるさいな。分かったよ。ホップの苦みが美味しく感じられるまで練習してやろうじゃないか。でもあたしがビール腹になって、……客が減ったらお前責任取れよ」
　「まあまあ。かずさったら極端だよ。
　でも、わたしもビールは苦手。赤ワインが一番良いかな。
　そういえば、何時から赤ワインを美味しいと思えるようになったのかなあ……。
　最初は、渋く感じてたのになぁ。
　きっと、喜んだり、悲しんだりした時に、背伸びして飲んでいるうちに、飲めるようになったんだろうね」
　雪菜は、伏せ目がちにグラスを見つめた。
　かずさの記事が『開桜グラフ』に掲載された時、雪菜と春希は、電話越しにささやかなお祝いをした。
　そういえばあの時、雪菜は一人で赤ワインを飲んでいた。
　あの頃までに、何日、一人で酒を飲んだ日々があったのだろうか、雪菜には。
　「ふふっ。そう言えば、高三のクリスマスの温泉旅行の時、かずさが持ってきてくれたシャンパンって、銘柄は何だったの？」
　「ドン・ペリだったと思う」と、春希は言った。
　「ドン・ペリかあ。高校生がクリスマス・パーティーで飲むには、ちょっと背伸びし過ぎたお酒だよね」
　「まあ、美味かったよな。でも、今飲んでいるテタンジェの方が、美味しく感じるよ」
　春希は、グラスを掲げて言う。
　「それは、銘柄の違い？」
　雪菜が、グラスに口を付けてから言った。
　「いや、お酒の味が分かるようになったんだろうなぁ」
　春希は、一口飲んでから言った。
　「ふー。そうか」かずさは上を向く。
　「歳、とったなあ」
　「そうね」雪菜は、かずさを見つめながら笑った。
　「七年だもんね……」
　「感慨はその辺りにして、鍋の肉食べろよ。固くなるぞ」
　春希は、一言、声をかける。
　「もう……、お父さんみたいなこと言わないで。
　かずさ、食べよう？」
　「そうだな。じゃあ、本格的に同窓会を楽しむか」
　「ああ、そうしよう」

　…………。

　「ところで、前も思ったんだけど、同窓会っていうなら、武也は呼ばなくて良いのか？」
　「せっかく良い感じにDTMで打ち込みしてくれたのにな。今から考えると、部長が一番割を食ってるよな」
　「どの口が言ってる。お前がそういう配役にしたんだろ」
　「だって、半年も練習してたくせに、何時まで経ってもド下手くそのギタリストじゃなきゃ、お姫様が納得しそうになかったから」
　「まあまあ。でも、例え誘ったとしても、武也くんは来なかったと思うよ」と、雪菜は言った。
　「それは、仕事以外の理由？」と、かずさは訊く。
　「実はね。最近、武也くん、依緒にもう一度アプローチしてるみたいなんだ。そっちが忙しかったんじゃないかな」
　「本当か？」と、かずさは言った。
　「武也のやつ、はっきりと言わないんだが、納涼会の後、酔っぱらった武也を、依緒に送らせただろ。その時に、何かあったみたいなんだ」
　「何かって……、何？」と、かずさは問う。
　「ふふ……、何だろうね」と、雪菜は言う。
　「あたしだけ蚊帳の外かよ……。酷いぞ、お前ら」
　〝そうか……、ツアー前にスポーツクラブで依緒に会った時、何か気まずそうな顔してたのは、すき焼きを奢らせた日のこと以外にも、理由があった訳だ〟
　「でも、どうしてそうなったんだ？」と、かずさは問う。
　「どうしてかな……。強いて言えば、かずさと、春希くんのせいかな」
　「「えっ」」春希とかずさは、同時に声を上げる。
　「それは、どういう意味？」と、かずさは問う。
　「かずさが依緒に、春希くんが武也くんに、色んな想いを伝えちゃったからじゃないかな」
　「「…………」」
　「あのおせっかいな二人の距離が開いたのは、……わたし達のことがあったから」
　「雪菜……」かずさは呟き、春希は視線を落とす。
　「本当はね、依緒のこと、ずるいな、って、思う時もあるんだ。
　だって、関係ないじゃない、わたし達のことは、あなた達に、って。
　自分では、何も選択できないくせに、わたしには、わたし達には求めて。
　その結果に、自分のことのように、一喜一憂して、影響されて、口実にして。
　ずるいな、って」
　「「…………」」
　「なんてね」と言って、雪菜は小さく舌を出した。
　「それでもわたしは、依緒には幸せになってほしい。あの二人には、幸せになってほしいよ」
　「そうだな……。高一のころから見てきた俺にとっては、そろそろいい加減にしてくれと思うよ」
　「ふん。だいたいだなぁ……、依緒の性格は、ややこしすぎるよ。あたし達の回りで、一番ツンデレなのは、あいつだと思うぞ」と、かずさは力説する。
　〝お前が言うな、お前が〟と、春希と雪菜は心の中で突っ込んだ。
　「そうだな。依緒のツンツンのとばっちりが俺達に向くんではなく、デレデレが武也に降り注ぐことを祈ろうか」
　「ふふふ。そうだね」雪菜はグラスに口を付けた。

　…………。

　「ところで今回のツアー、二人にとって、日程はどうだ」
　食事が済んで、食器が引き上げられた後、飲み会を続けながら、春希は二人に尋ねた。
　「あたしはちょっとした小旅行も兼ねてるくらいの贅沢な気分で回ってるから、良いんだけどな」と、かずさは言った。
　「雪菜は？」
　「実際始まってみると、余裕があるかな」
　「やっぱり……。二人とも、もっと日程を詰めておいた方が良かったのかな。オフィスとしては、余裕持ちすぎて、経費が多くて、利益率が低くて……。
　思ったより儲かってないんだよ。だから、本当はこんな豪勢な旅館に泊まる余裕は無いんだよな」
　そう言って、春希はため息をついた。
　「ホントにお前は冴えない奴だな。自費で泊まってるんだから良いだろ」
　「そうだそうだ～」
　「俺は二人みたいに収入多くないんだからな」
　「もっと歌詞書いて著作権料で稼げば良いじゃないか。良い歌詞なら、何曲でも書いてやるよ」
　「わたしも、春希くんの書いた歌詞なら、何曲でも歌っちゃうよ。なんなら、カラオケ行っちゃおうか。
　そう言えば、『届かない恋』一曲歌ったら、幾ら位の著作権料が入るのかなあ」
　「二円から七円」
　「そんなに少ないのか」
　「この中で一番効率よく稼いでるのは、かずさだよ。一人で、千人前後の会場でコンサートして、当日の経費は会場代と受付の人件費程度だもんな」
　「まあ、身一つで良いし、気楽だよな。困ることがあるとすれば、ピアノは担いでいけないっていうことだけかな」
　「ということは、わたしも弾き語りとかしたら儲かるの？」
　「まあ、そうだな」
　「うーん、全然自信ないなあ……。アコギはまだ全然弾けないしなあ……。
　そうだ。うん。やっぱりこれしかない」
　「何？」
　「春希くんがギター弾いてくれれば良いんじゃない！」
　「ぶっ」
　虚を突かれた春希は、少しシャンパンを吹いた。
　「ちょっ、雪菜、何を言いだすんだよ」
　「春希くんがギターを弾いて、かずさがピアノを弾いて、わたしが歌って……。
　三人で、アコースティックな形で、コンサート・ツアーすれば、全て解決するじゃない」
　「そうだな。春希の理屈で言えば、それが一番儲かる」
　かずさはにやりと笑って、生暖かい視線を春希に向けた。
　「無茶言うな。もう何年も弾いてないんだぞ。
　それに、俺の音楽センスが壊滅的だって、よく分かってるだろ」
　「おっと、自覚してたか」
　かずさは、きょとんとした目で言った。
　「あたりまえだ。
　最近になって、雪菜のファーストを冷静に聴けるようになって、改めてボーナストラックに入ってる、高三の時の自分の演奏を聴いてみて、はっきり自覚したんだよ。恥ずかしくって、身悶えするぞ、全く……」
　「春希くん……」
　「だから、冗談でも、そんなこと言うなよ」
　「ふーん。じゃあ、冗談じゃないことを言ってやる」
　かずさはグラスを置いて立ち上がり、春希を見下ろした。
　「このツアーが終わったら、雪菜のセカンド・アルバムの録音に入る。その中には、『届かない恋』の2016年ヴァージョンが入ることは知っているな」
　「知ってるもなにも……」
　〝なんだか嫌な予感が……〟
　「チーフ・プロデューサー冬馬かずさとして、『届かない恋』のギター奏者に、北原春希を指名する」
　「え、えぇぇぇぇぇぇえっ！」
　「きゃー、来たこれーっ」
　「ちょっ、ちょっと、待て。じょ、冗談、だよな？」
　「冗談じゃない。あたしは本気だ」
　「む、無理に決まってるだろ」
　「無理じゃない。今回は、リード・ギターまで弾けとは言わない。リフとバッキングだけだよ。コード・アレンジはそのままにしておくから」
　「ダメだダメだダメだ。いくら練習したって、俺のギターなんて、お金をもらえるようなものにはならないよっ」
　「ああ、そうさ。ならないよ、普通はな」
　「じゃあ、なんで無理を言う」
　「あたしは、『届かない恋』が持っている、素人っぽい、荒っぽさを無くしたくないの。そのためには、お前の下手なギターが、荒っぽいリフが必要なの」
　「そんな、ばかな……。松岡さんが弾いた方が良いに決まってる」
　「もちろん、良いに決まってる。だから、松岡さんのギターも重ねるよ。
　でも、あたしのアレンジでは、お前の〝想い〟先攻の、痛い、痛すぎる、としか言いようの無い、下手クソな、ガサツなギターの音も必要なの。
　そのド下手だけど甘酸っぱいヘタレな音と美しいストリングスが重なった時に生まれるエモーションに期待しているの」
　「お前……、そこまで貶めておきながら弾けとか……、鬼か、鬼なのかあっ」
　「東京に帰ったら、黙って練習に励め。今回もあたしが、許されるギリギリのラインまでは、弾けるようにしてやる。
　ひょっとするとワイルドだとか、カッコいいとか、間違った妄想を抱かれるかもしれないレベルのギターが弾けるようにしてやるよ、春希」
　「ワイルドって、死語だぞ……」
　「うるさい。言っておくがな、あたしは、お前がギターを弾かないなら、この曲を雪菜のアルバムから引き上げるからな」
　「お前、無茶言うな。既に収録曲は企画に上げて、ナイツ・レコードにも回してるんだぞ」
　「これは、あたしのこだわりだ。ところで、雪菜に異存はないな？」
　「もちろん！　うん！　楽しみだね」
　雪菜は、屈託なく言った。
　「いいか、収録は後ろの方に回してやるから、絶対に弾けるようにしろ」
　「全く……、お前は俺に無理ばかり言う」
　「ふふん、あたしはなぁ」
　かずさは、両手を腰に当てて言った。
　「お前に無理を言うために生きてるんだよ。気付けよ、ばか」
　「あ、あはは……」
　流石に、雪菜も苦笑いをせざるを得なかった。

　＊　＊　＊　＊　＊

　「寝た、のか……」
　「うん」
　ばか騒ぎの時間は過ぎて、少し飲み過ぎたかずさは、寝てしまった。
　雪菜は、柱にもたれて、かずさに膝枕をしてやる。
　「やっぱり雪菜、酒、強くなったよな」
　「お酒が強いと言われるのは、あまり可愛くはないよね」
　「いや……、そんなことないけど」
　「……波の音が、気持ちいいね」
　「うん」
　「海からの風が、気持ちいいね」
　「そうだな」
　「かずさって、可愛いよね」
　「え……」
　「春希くん、高三のクリスマスの温泉旅行でね、わたしが、かずさの膝に頭を乗せて、先に寝ちゃった時のこと、覚えてる」
　「古い話だな」よく覚えてるよ。
　「わたしね、本当はあの時、起きてたんだ」
　「え……」
　「わたしね、ごはん食べてる時、かずさが、〝次のクリスマスなんて、約束できない。来年は自分に彼氏がいるかもしれないから〟、って言った時に、一瞬、春希くんが血の気の引いた顔になって、かずさを見つめてたの、見逃してなかったんだ」
　「…………」
　「だから、本当は、二人がどういう気持ちでいるのか、知りたかった。
　それで、ちょっと飲み過ぎたふりをして、寝たふりをしたんだよ。
　実はわたし、中学生の頃から、お父さんの晩酌の相手、ちょくちょくしてたんだ。だから、結構、鍛えられてるんだよ」
　「そう、だったのか……」
　「あの時、かずさは、わたしのことを、可愛いと言ってくれた。
　自分が男だったら、春希くんになんか渡さないって、言ってくれた。
　わたしを親友だって……言ってくれた」
　「そうだったな」
　「わたしは、こんなに愚かで、黒かったのにね」
　「そんな言い方するなよ」
　「誰が可愛いですって……、本当に可愛いのは、あなたよ、かずさ。
　わたしは、何もかも、あなたにはかなわない……」
　雪菜はそう言って、左手で、かずさの髪を撫でた。
　「ねえ、春希くんは、こんなわたしでも、一緒にいてくれる？」
　「雪菜……」
　「もちろん、恋人だった頃に戻ってほしい、なんて言わない。……言えないって、分かってる。でも、これからも、ずっと、三人でいたい。
　三人でいる時、春希くんは大事な親友だよ。三人でいる時、かずさはかけがえのない親友だよ。そういう関係に、もう一度、戻れないかな？
　確かに、わたしの身勝手だけど、わたし一人が思い描いている、夢かもしれないけど……。
　ダメ、かなあ……。
　わたしは、何時迄も、三人で、一晩中歌って、弾いて、作っていきたい。三人で、ドキドキしながら、幕が開くのを待っていたい。三人で、歓声を浴びていたい。
　何度でも、二人の歌詞と、曲と、演奏で、歌いたい。
　その気持ちが変わらないんだよ。
　それじゃあ、ダメかなぁ……」
　雪菜は、そう言って、かずさの髪を、優しく撫で続けた。
　「ダメ、じゃない……、ダメじゃないよ、雪菜。
　ただ、答える前に、新しい歌詞を見てくれないか」
　「新曲が、出来たの？」
　「うん」
　春希は、立ち上がり、鞄の中から、例のノートを取り出し、開けて、雪菜に渡した。
　「『さよならのこと』？」
　「うん……」

　〝忘れられない〟

　「前、見せてもらった時に、書きかけだった詩ね」
　「そうだよ」
　〝やっぱり、そのページも、見てたのか。
　ペンで引っ掻き回した、俺の葛藤の、全てを……〟
　「春希くんはっ」
　雪菜は春希を凝視する。
　そして、左手が、かずさの髪の上で、握られる。
　「わたしと出会って、辛かったの？」
　「辛くはなかった、といえば、嘘になる」
　「…………」
　「でも、高等部三年生の秋の、あの夕暮れの屋上で、君に出会わなかった未来なんてない」
　学園祭にエントリーするには、もう時間がない。もう諦めようとして、名残惜しく第一音楽室で『White Album』を弾いていた〝学年主席〟。それに合わせてピアノを弾いてくれた第二音楽室の〝お隣さん〟。その二人に誘われるように歌い出した、屋上の〝ミス峰城大付〟。
　三人が初めて一緒に音楽を奏でた、あの夕暮れ。
　「雪菜に、目を、耳を、一瞬で奪われて、どうしても、一緒にバンドをやりたいと思った、あの瞬間を、避ける選択なんてなかったんだよ」
　「わたしが、あなた達に割り込んだことを、責めているの？」
　「そうじゃない……、そうじゃないよ、雪菜。
　雪菜に出会わなかった未来なんて、俺は絶対に嫌だよ」
　「じゃあ、なんでこんな歌詞を書いたの？
　春希くんは……、やっぱり、わたしと、さよなら、したいの……」
　「したい、ではなく、しなくちゃ、ならない」
　「春希くんっ」
　「高三の冬の、雪菜の誕生日。俺は君に嘘をついて、かずさを迎えに行った。
　その時に、かずさに言われたんだ。
　『言いたいことも言えない奴の、何処が友達だ』って。
　でも、俺達は、本当の気持ちを伝え合った。
　伝えたからこそ、かずさは、『友達になった瞬間、絶交、しちゃったけどな』と言ったんだ」
　「…………」
　「俺と雪菜の場合は、逆なんだよ。
　俺は、三年生の冬、確かに俺の彼女だった、小木曽雪菜っていう女の子に、〝さよなら〟をしていないって、思ったんだ。
　俺は、あの高校三年生の冬に、そして二人の思い出に、ちゃんと〝さよなら〟をしないと、先に進めないんだよ。
　そうしなければ、君の側に、いられないんだ」
　〝もう二度と、君に揺れることは、できないから〟
　「春希、くん……」
　「ごめん……」
　「わたしね。本当は、分かってた。
　大学三回生のクリスマス。有海のホテルに、独り残された時、『夢からもう覚めているのに』って、分かってた。
　春希くん……、曜子さんの大晦日のコンサートに、かずさが来てたって、知ってるよね」
　「うん」
　「いるかもしれないって、分かってて、行かなかったのよね」
　「うん」
　「本当は、あの時に二人が出会っていれば、そこで、わたし達三人のお話は、終わっていたの」
　「雪菜……、その選択肢は、選べなかったんだよ」
　「そう……。あなた達は出会わなかった。
　だから、まだ、夢は続いているって、わたしは思っちゃった。
　『まだ夢の中で　そう信じたくて』、あなたの嘘を、あなたの優しさを信じたくて、毎晩、毎晩、夢の世界へと誘われるように、ギターをねだったの」
　「雪菜……」
　「でも、夢から覚めたわたしがすべきだったのは、大晦日のコンサートに春希くんを連れて行って、かずさに会わせて、三人の決着を付けることだったのよ。
　わたしが、しっかり夢から覚めていれば、どんな結論だろうと、みんな、こんなに傷つかなくて済んだ」
　「…………」
　「そうよ……、この歌詞の通り、『たどり着けない場所に答えがあった』のかもしれないね」
　「雪菜、俺は君を責めるつもりで、この歌詞を書いたんじゃない。
　全部……、俺の責任だよ。全部……、俺が悪いんだ」
　「春希くんは、悪くない。ううん。誰も、悪くないよ。
　みんな無邪気だったから……。
　あまりにも、素直だったから……。
　だから、『傷ついて傷つけられて、疲れてもまだ、息ができない程の恋に落ちていった』んだよ」
　「雪菜……」
　「分かってた……。分かってたよ……。
　でもね、やっぱり、言わせて……」
　「何、を……」
　「春希くんは、酷いよ……。酷すぎるよぉ……。
　好きに書いても良いって、言ったよ。言ったけど……、酷い、よぉ……。
　わたしに、何回、〝さよなら〟と言えば気が済むの？
　ねえ、何回、わたしに別れを告げれば気が済むのよっ？
　あんまり、だよ……、あんまりだよっ」
　「ごめん、な……。でも、俺は、『君に出会えないなんてイヤだと気付いた』んだ。あの『冬』に。
　だから、君と一緒にいるために、君の親友として、ずっと一緒にいるためには、どうしても、あの時の君に〝さよなら〟を言う必要があるんだ。
　ごめんな、雪菜。俺が馬鹿だったから、ごめんな……」
　「酷いよ……、春希くんの、春希くんの、バカぁ……。嫌いよ、大嫌いよっ。うわーあああああ、バカぁ……」
　雪菜は、想い余って、大声で泣きだした。
　雪菜の左手は、かずさの浴衣を握る。
　春希は、雪菜の横に正座して、雪菜の右手を両の手で挿んで、黙って頭を垂れていた。
　〝雪菜……、ごめんな……〟
　かずさは、途中から、起きていた。
　だが、寝たふりを続けたまま、雪菜の太腿に抱きつきながら、雪菜の浴衣を、静かに濡らしていた。

　＊　＊　＊　＊　＊

　「ふう……」
　深夜2時。
　泣きつかれて寝た雪菜と、かずさを布団に入れて、自分も布団に入ったものの、寝付かれない春希は、一時間ほど悶々とした後、部屋に付いている露天風呂に向かった。
　明かりを落とし、静かに入った。
　松島に吹く海風は、涼しいを通り越して、既に寒さを感じた。
　月明かりに照らされた海は、静かだった。
　遠くに船の明かりが見えて、幻想的だった。
　〝言って、しまった。
　そして、雪菜を、また、泣かせてしまった〟
　春希は、顔を洗った。
　〝もう二度と、あんな悲しそうな涙を見るのは嫌だ〟
　春希は心底思った。
　ガラッ。
　「おー、月に照らされて、海がきれいだなあ」
　「か、かずさ」
　開けられた扉から、素っ裸のかずさが入ってきた。
　「お前、運び方が雑なんだよ。起きちゃったじゃないか」
　「悪い……」
　「仕方ないから、寝たふりしたまま、眠たくなるの待ってたけど、目がさめちゃったからな。あたしも入るよ」
　淡い月明かりに照らされたかずさの裸体は、妖しく、美しかった。
　「んしょっと」かずさは、そう言って湯船に入り、春希の右隣に並んだ。
　「うーん。ちょうど良い湯加減だなぁ」
　「こんなとこ、雪菜に見られたらどうするんだよ」
　春希は小声で言った。
　「気にする必要は無い。ほら」
　「おおー、なかなか風情があるわね」
　かずさが指差した先に立っていた雪菜も、素っ裸だった。
　ちょっと間、びっくりして凝視してしまった春希は、慌てて横を向く。
　「ちょっ、ちょっと待て雪菜！」
　「何……。隠したって仕方ないでしょ、今更……」
　「な、何を言ってんのっ」春希は狼狽えた。
　「そりゃ、確かに今更かもしれないが……、はぁー」
　かずさはため息を付く。
　「まあ、良いか」
　「こ、こら、かずさ、納得するなよ」
　「しかし、開けっ広げだよな……。昔のあたし達には、恥じらいがあったのにな」
　「お、俺は今でもあるよ！」
　「ふうん……」
　かずさの視点は、湯船の中の、春希の一部に集中する。
　「お前、今でもあるのは、恥じらいじゃなくて、リビドーだろ？」
　「ななな、なっ」
　「それ……、お前は一応、隠しとけよ」
　かずさは、少し困ったような声で言った。
　「うわっ。み、見るな！　見ないで……」
　春希は、股間を隠す。
　「それは一応、こっちの台詞だ」
　「うふふ」雪菜は頬を染めながら、〝変わらない、逞しさね〟と思う。
　「お前らも隠せよ。贅沢にも、限度ってものがある」
　春希は、横を向きながら言う。
　「まあ、良いじゃない。今回は、背中合わせじゃなくて、並んで入りましょうよ。お月様と、海を見ながら、ね」
　雪菜は、湯船に近づく。
　「そうだ。のんびり、手足を伸ばしてな」
　「ええっと……、わたしは、春希くんの横で良いのかな」
　「何処でも、好きにしろ」
　「お、前らなぁ」
　雪菜は春希の左隣に入った。
　三人は、海に向かって、並んで、湯船に入っていた。
　海風は涼しく、三人の髪にそよぎ、そして、湯の表面に波紋を作る。
　月明かりが、美女二人の肢体を妖艶に映し出す。
　春希は、本格的に、目のやり場に困った。雪菜を見る訳には絶対にいかないし、かずさの方ばかり向いている訳にもいかない……。
　「うーん、気持ちいい～」
　かずさは、両腕を上に伸ばして、伸びをする。大きく張りのある美しい乳房が、より上向きに反って、ますますその美しさを強調する。
　「おお～、流石ね～」雪菜は、見惚れた。
　「揉むなよ」
　かずさは、伸びをした体制のまま、雪菜に釘を刺した。
　が、少し遅かった。
　雪菜の左手が、かずさの右の乳房を揉んでいた。
　「う～む……、温泉で湿った胸も、手に吸い付いてなかなかのものじゃのぅ～」
　雪菜の乳房が春希の胸に当たった。
　「せ、雪菜、止めろ」
　春希は激しく動揺した。
　「お前、何時もされるがままのあたしだと思うなよっ」
　かずさの右手が、雪菜の乳房を狙う。
　「きゃー、なにすんのよ」
　バシャ。
　「お前の弱いところは、何処だっ、白状しろ」
　「いやよ、もう、言う訳無いでしょっ」
　バシャ、バシャ。
　「ここかっ、ここなのかぁ」
　「なにすんのよ、もう、かずさのエッチ。えい、ここでしょ、かずさの急所はここでしょっ」
　バシャバシャ、バシャバシャ。
　「や、やめ、ちょっ、やめろよ。くそ～」
　「きゃははは。うわん、だめ、そこ触っちゃ」
　「やっぱり、ここかあ～」
　「と、見せかけて、こいつめ～」
　バシャバシャバシャバシャ、バシャバシャバシャバシャ。
　「ちょっ、お前ら」
　〝えっ、どっちだ、今、「俺の」を握ったの？〟
　「ちょっ、止めろよっ」
　「「うるさあーい！」」
　ザバザバザバザバァ……。
　春希は、四つの手で一度に浴びせられた湯のせいで、溺れかけた。
　淡い月明かりの下、裸の男を間に、裸の女達は嬌声を上げながら、無邪気な攻防を繰り返した。
　いや……、ひょっとすると無邪気ではなかったかもしれないが。
　春希は、地獄のような、天国のような時空間にはまり込んだ代わりに、酷い湯当りに見舞われた。
　そして、風呂から出て這々の体で布団に辿り着いた瞬間、朝まで意識を失った。

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dynaさま、ご指摘、ありがとうございました。
本当に、ありがたいご指摘です。
何処かで勘違いしちゃったんだろうなあ、と思います。
多分、ご示唆いただいているみたいに、ウィーンを拠点にしていた経緯から、誤解しちゃったんだろうなあ、と思います。
修正できそうなら、修正を試みたいと思います。
またお気づきの点がありましたら、お教え下さい。

Posted by ushigara_neko 2015年01月04日(日) 03:57:31 返信

はじめまして
いつもよく練られた文章で、ホントいつも時間をかけて書かれていらっしゃるのがわかります。大のかずさファンとしてこのSSにはいつも楽しませてもらっています。
しかし小言といってはなんですが、かずさ、ひいては冬馬親子がひいきにしてるピアノメーカーはスタインウェイサンズだと思います。確かに三大メーカーのうちオーストリアで作られているのはベーゼンドルファーなんですが、原作や先日配送されたミニアフターを見てみると、冬馬邸の地下のピアノにはスタインウェイらしきロゴがついてます。SSには全然関与しない話なんですけど…
僕自身不足ながらスタインウェイの音を近くで聴いたことがありますが、低音から高音まで安定した力強さがあってかずさは置いといて曜子が好きそうな音色だと思います。肝心のベーゼンドルファーは珍しくて生で聴いたことないです。申し訳ないです。
長々とすいません…

Posted by dyna 2015年01月04日(日) 00:24:57 返信

tuneさま、今年もよろしくお願いします。
もうちょっとです。上手く書ききれるかどうか分かりませんが、最後まで頑張って妄想します。

Posted by ushigara_neko 2015年01月03日(土) 21:35:17 返信

3人はもう学祭の時の3人には戻れない、皆がそれを分かっているからケジメを付けて新しい3人の関係を築いて行こうとしていますが、新しい関係への道のりは険しそうですね。
1番劇的に変わるとしたら雪菜に恋人が出来る事かもしれませんが、それが一番可能性が低そうですし、次回以降3人が新しい関係をどう築いて行くのか楽しみにしています。

Posted by tune 2015年01月03日(土) 19:40:20 返信

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