「おお、エアフォースの新作だ。・・・思ってたより軽いな」
 依緒はシューズを片手にふむ、と頷く。シューズ全般を扱う総合ショップには大学生だけでなく、家族連れも多くそこかしこで店員が対応に追われている。
「けどこれ涼しいかな。なあ、春希はどう思う?」
「・・・どう思うも何も、依緒がいいと思ったものがいいんじゃないのか?」
 一方の春希は人の多さに中てられているのか曖昧に返事をする。
「ぶっぶー、0点だ。良いとも悪いとも言わないのはNGだぞ、春希」
「だって依緒はいつも買った靴を最後には履き潰すだろ。どんなものが長持ちするのかどうかに関しては俺は門外漢だ」
 しかも今回はバスケをする為に新しいバッシュが欲しいとの宣言からこの店へ来ている。大学の部活に入っていなくても趣味として友人と汗を流すことが多いらしい。
「そんなのどうでもいいんだよ。春希の意見が欲しいんだ。こんな靴が良いんじゃないかって気持ちを聞きたいのさ」
「・・・まあ、そうだな、良い靴って言うんなら膝と腰に負担の来ないのはどうだ?」
「なるほど。その心は?」
「俺も長時間の立ち仕事をしているからな。靴底の作りが甘いものだと良くない疲れが溜まって安心して動けない」
「うん。的を得た意見だ。軽さについてはどう思う?」
 ふむ、と春希は手を口元に当てて少し考える。
「依緒はスポーツをする時かなり激しく動くからな。軽いだけだと踏ん張りが効き辛いと思う。重心にそこそこ重みのあるものを選ぶといいんじゃないか?」
「・・・あたし、そんなに動くか?」
「自覚がないなら今まで履き潰した靴を数えるんだな。捨てずに持っているんだろ?」
「へー、よく分かったな」
 依緒はちょっと驚いたように目を瞬かせる。
「俺も自前のノートは捨てないからな。・・・どんなに内容の酷いものでも」
「うわー、執念こもってそう」
 思わず依緒は苦笑する。
「青は藍より生じるも、藍より青しだ。最初はどうあれ依緒が頑張って使い込んだのなら、それは大切なものだろ?」
「・・・・・・」
「それに依緒が道具をちゃんと大切にして使っているのも知ってる。付属の時からそうだった。あれが大切なものじゃなかったら、何が本当に大切なものだと言えるんだ?」
 その言葉に依緒は目を丸くして春希を見つめる。
「何だ?」
「いや、やればできるじゃないかと思って。なかなか説得力があったし、結構嬉しかったぞ。いつもそうならいいのに」
「こっちは靴、って聞いてもう少し違う店を想像してたからな。喰らった肩透かしの衝撃がようやく抜けたんだろ」
 今度は依緒が意地悪な笑みを浮かべる。
「ほー、違う店。どんな店を思い浮かべていたんだ?そこはキラキラしていたのか?文学部」
「やかましい。考えても費用対効果で妥協する元政経生だ。依緒の期待するような夢はない」
「考えもしないような奴の方が論外だ。そうやって夢と現実の間をフラフラしてるのがお前なんだよ」
「・・・悪かったな、中途半端で」
「中途半端の全てが悪いとは言わないよ」
 依緒は返答しながら近くの椅子に腰を下ろし、シューズの履き心地を確かめる。次に一度靴紐を全て解き、最初から丁寧に締め直す。やがて立ち上がり、軽くジャンプする。背を向けて春希に表情は見せない。
「ちょっと背伸びして飛んで跳ねてみてもさ、視界が広がるのはちょっとの間だけ。自分の立ち位置にすら迷ってる奴もいる」
「・・・・・・」
「そして、中途半端な奴の意見を聞いて、ようやく自分の立っている場所や姿が見えてくることもある。・・・以前より、藍が青になりつつあるんじゃないかって思えることがある。こういうのはさ、一人じゃ無理なんだよ」
 いつもは見せない依緒の少し弱気な発言に春希は少しからかうような口調で答えた。
「二人でようやく一人前ってことか。俺の助言が欲しいなんて、依緒にも弱気の虫が付くんだな」
 そこまで話してようやく依緒は振り返った。唇を尖らせ、不満そうに眉根を顰めている。
「ほっとけ。大体、春希に求めたのは意見であって、助言じゃない」
「そうかい」
 そんなことを言いながら、結局依緒は今試し履きしているバッシュを購入した。



「ね、武也君。これとかどうかな?」
 同刻、同じ街の違う場所にて、雪菜はプルオーバーのセーターを自分の身体に当てて見せる。
「んー、難しい。パステルも良いけど、フーシャも捨てがたい」
 顎に手を当てて武也は唸る。気取る必要のない相手だが、エスコートを約束した女の子に曖昧な返答をするのはポリシーに反する。
「確かにこっちの色もいいよねー。目移りしちゃうなあ」
「こっちのライラックかローズのストールと合わせるのはどう?明るさに差を付ければ映えるんじゃないかな」
「そうなの?」
 雪菜は言われるがままセーターとストールを合わせる。
「わ、本当だ。不思議と目が引かれちゃう」
「雪菜ちゃんって暖色が似合うみたいだし、特にピンク系統ならシンプルな構成で良いじゃないかな?」
 雪菜は何度も姿見の前で、様々な色の組み合わせを試してはうんうんと頷いている。
「すごいね、武也君。わたしも服を買うときは考えて選ぶけど、武也君の方が色んな角度から見てる気がする」
 その言葉に武也は苦笑する。
「はは、お褒めのお言葉ありがとう。けど俺なんて雑誌で読んだ知識で喋ってるだけさ。色の種類なんて大きく分けちゃえばそんなにたくさんあるものでもないし」
「そうなの?」
「そ。さっき言ったみたいに同系統の色なら明るさの差をはっきりさせること。アクセサリーで補色するならあまり差を付けない、とかね。特に雪菜ちゃんは素材がいいからそれ程着飾る必要ないし」
「もう、うまいこと言うなあ。武也君と出掛けるのって確かに初めてだけど、そうやっていつも女の子をおだててるんだ〜」
 雪菜は楽しそうに悪戯っぽく笑う。
「あ、分かる?」
 思わず武也も乗っかって笑顔を浮かべた。
「さっき聞いたもん。快適空間と癒しがモットーだって。悪い人だなあ。こんな風に何人の女の子をそそのかしたのかな?」
「そそのかすなんて人聞きの悪い。最後まで気付かれてないよ?」
 嘘を付くなら騙されたことにも気付かれないようにする。事実にほんの少しの嘘とおかしみを込めるのがコツだ。
 今だってそうだ。武也に友人の彼女に手を出す趣味はない。増して、親友の彼女であればもはや言葉にするまでもない。どんなに近くにいても超えるべきでない一線は絶対超えないように振舞っている。
「でも、女の子が本気になればなるほど、一番隠したいことはバレちゃうんだよね?」
「・・・、雪菜ちゃん、それは」
 武也は一瞬心を過ぎった名前を掻き消す。
「あ・・・」
 雪菜も失言に気が付き、慌ててフォローの言葉を探す。
「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃ・・・」
 だが武也はすぐに苦笑してウィンクしながら自身の口に人差し指を当てる。その行為が言外に語った。
『今日はゴメンはなしで行こう、お姫様』と。
 そして身を竦め、両手を開いておどけて見せる。
「それに、そんな痛いすねを蹴られたら、俺泣いちゃうよ?」
 そう言いながらも武也の表情に陰りはない。そんな顔をされたら謝罪の言葉など出る余地はなかった。
「わ、武也君泣いちゃうの?それはそれでちょっぴり見てみたいかも。男の人の涙って、実はすごく女の子にとっては魅力的に映るんだよ?」
「雪菜ちゃ〜ん、それは勘弁して・・・」
「ふふ、冗談だよ。でも良かった」
 いつもの悪戯っぽい笑顔を取り戻した雪菜が嬉しそうに言う。
「良かったって、何が?」
 雪菜は満面の笑みで答える。
「武也君は、やっぱりわたしの知っている通りの人だって。こうして一緒にいてもちゃんと友達のことを思いやっていて、一途に想う人のことを忘れない、素敵な男の子だって」
「・・・・・・」
 思わず言葉に詰まり、感嘆の息が零れる。
 素敵なのは悲しい気持ちを胸に抱いていても、そんな風に感じることのできる心だと武也は思う。だが、武也はそんな気持ちを口にせず、安っぽく考えの浅い言葉で彼女に答えた。
「なるほどね。こんな風に雪菜ちゃんは何人も男達をそそのかしてきた訳だ」
 一瞬、その言葉にぱちくりと目を丸くした雪菜だがやがて少しむくれて言葉を返した。
「ひどいなあ。そそのかしてなんてないよ。確かに今まで何人か男の子に告白されたけど・・・」
「・・・それ、両手の指で足りる?」
「え?ええと・・・」
 途端に雪菜は視線を逸らして慌て始める。
「そっかあ、足りないかあ。やっぱりなあ・・・。雪菜ちゃん可愛いから」
「可愛くなんてないよ・・・。不器用だし、すぐ落ち込むし、みんなに心配ばかりかけて、可愛いところなんて何処にも・・・」
 ぽつぽつと本音を零しながらしょぼん、と肩を落とす。ややあって、何かに気が付いたように顔を上げた。
「あ、今日は落ち込むのなしだったね」
 雪菜は少し強がりの笑顔を浮かべて、こつん、と自分の頭にゲンコツする。
「ん、ああ、別に気にしてないよ」
 そんな雪菜に武也は心中の想いを隠し、いつもの自分で答える。
「そっか、ありがと。それでさ、こっちのスカーレットとルビーのストールも素敵な色だと思うんだけどどっちがいいかな?」
 様々な色を合わせては感想を聞いてくる雪菜を見ながら武也は心の中で呟く。
『可愛いさ、充分に』
 結局、最初から最後まで武也に心配をさせない為に自分の想い人の名は出さず、それでも最初から最後までその人に対してどんな服が似合っているかだけを気にしていたのだから。



 夕暮れのオレンジ色に染まった都市公園の東屋に座っていた依緒に春希は買ってきた缶コーヒーを手に歩み寄る。
「ほら、コーヒー。エスプレッソでいいんだよな?」
「ん、さんきゅ」
 差し出された缶コーヒーを凍えた手で受け取る。
「うあっち。んー、夏にスイカ、冬にミカン、冷えた頬に缶コーヒーっと。すっかり風物詩になりつつあるね」
 どこか感じ入った様子で依緒は呟く。
 彼らのいる都市公園は『首都圏から緑の街を』というスローガンを掲げて年2号が昭和の頃に設けられたもので、敷地面積も広く多くの市民に開かれている場所だ。
 依緒は缶コーヒーに口を付けながら呟く。
「この風雨と雪に晒された椅子なんか良い味出してるよな。少し色褪せて、場所によっては剥がれた箇所もあるのに不思議と安心できる所とかさ」
 そう言いながらベンチを手の平で撫でる。
「それを言うなら向こうのブランコも素晴らしいぞ。点検はしてるんだろうけど、所々鎖に赤錆が見えてる。スリル満点だ」
 ベンチには座らず、公園を見渡してブラックの缶コーヒーに口を付けていた春希が呟く。
「いや、それ、スリルは満点だろうけど、万が一があったらただの変則バンジーだ。違う遊具になる」
「絵的には面白いと思うけどな。・・・あ、今ふと思い出したんだけど依緒に一つ頼みがある」
「ん?何?」
「この間推理小説を読んだんだけどさ」
「ほお、面白かったの?」
「面白い、と言っていいのか判断に迷ってる。折角だからレポートの題材にしようと思ってるんだけど、それでいいのか意見を聞きたい」
「いいよ。さっきの礼とは言わないけどその位なら幾らでも」
「ん」
 春希は頷いて少し黙考する。頭の中で展開を整理しているようだ。
「主人公は冴えない殺し屋だ。自室のドアチェーンに少しずつヤスリで傷を付けておいて、ピンチの時には蹴破っていつでも進入・脱出できるようにしておくって程用心深い小心者」
「何下らない三文小説に手を出してるんだ、お前は」
「真面目も突き詰めあるとどんどんバカバカしくなっていくのが面白かったんだ」
「まあ分かる気はする」
「で、その主人公への依頼はある政府要人の暗殺。全く隙のないターゲットに苦悩しながら行き着いた結論は、目標が恋人へ会いに行く時を狙うこと」
「なるほど、隙が出来そうな瞬間だ」
「結局失敗するんだけどな」
「何で?良心の呵責にでも駆られたのか?」
「明確にその言葉を使ってはいなかったけど、そうなのかもしれないな。どんなに利己的な人間でも目の前で誰かが不幸になっていく様子を黙って見ていられなかった。長く迷った割りに、最後に辿り着いた結論は平凡なものだったよ」
 依緒は缶コーヒーを手の中で弄びながら少し声を潜めて答えた。
「そっか。シンプルな構成に、シンプルな答えだな」
「ああ」
 その単純さが三文小説の三文たる理由だろうと納得はできたし、そんなバカバカしさが心地よかったのかもしれないとは思う。
「それに、妙にシンクロしてたし。・・・その主人公と」
「・・・あー」
 春希の言葉に依緒は少し考えて納得したように頷く。なるほど、石頭の迷走は確かに彼と重なる部分がある。プロフェッショナルな青が自身の生真面目さ故に素人以下の藍となり、振り出しへ戻ったのだ。
「今、結構失礼なこと考えなかったか?依緒」
「いや、そんなことはないぞ。半分位は褒めてる」
「・・・で、依緒の意見は?」
 依緒は促されて腕を組み、うーむと唸る。
「いいんじゃないか、それを題材にして。春希ならレポートの体裁を整える位ならできるだろうし」
「中身はスッカスカだけどな」
「けどあたしが教授なら単位出すよ。あの北原春希がこんなバカバカしいテーマを選んだってだけでもレアだから」
「教授は誰に対しても平等だ。個人の性格を評価に加味したりしない」
「かもね。けど、物語も論文も面白みの要素は大事だろ?読み手の興味を引かないならどっちもただの紙だ」
「む、それは・・・」
 したり顔で依緒は笑う。
「真理だろ?」
 逆に苦虫を噛み潰したような顔で春希は答える。
「単位、落としたら責任取れよ」
「へえ、春希、お前題材が三流だからって上げるレポートも三流になるのか?」
 その指摘がプライドに触れたのか春希はやや鼻に掛ける口調で答えた。
「まさか。三流の題材を一流へ成長させる為に批判するのが俺のポリシーだ。良い所は褒めるけど、悪い所は徹底的に指摘させてもらう」
「つくづく可愛くない奴だな、お前は」
「ほっとけ。生まれ持った性格だ」
「うーん、それを踏まえると春希ってさ、やっぱり相当に不幸な星の下に生まれたんじゃないか?」
「ま、この際一つ位の『不』は認める。多分それは変わらないと思うし。ただ」
「ただ?」
 春希は一旦言葉を切って、空になった缶をゴミ箱へ投げる。オレンジ色の空に長い弧を描いてカラン、と収まった。
「俺の『不幸』は変わらなくても、誰かの『不幸』を変えることはできる。北原春希は一生『不幸』だったけど、関わった『誰か』が世界の誰よりも幸せになったなら、俺の一生には充分価値があるんだと思う」
 冬空に沈む冷たい夕日を眺めながら春希はそんなことを呟いた。
 その『誰か』は誰?
 答えは分かっているのにそう問いたい気持ちを、依緒はエスプレッソを喉へ流し込んで口にはしなかった。
 随分久しぶりにお人好し委員長の北原春希を見たような気がしたのだ。
 ・・・つまらない問いの為にその心を忘れて欲しくはなかったのだ。そんなことを考えていると春希が唐突に口を開いた。
「なあ、実は話した小説にはまだ話していない登場人物がいるんだ」



「ありがとう、武也君。今日は良い買い物ができたし、とっても楽しかったよ」
 同刻、同じ都市公園の別の出入り口から足を園内へ踏み入れた雪菜が嬉しそうに微笑む。
「いやいや、こんなことでよければいつでも付き合うよ。俺も楽しかったしさ」
 そう言いながらも武也は『じゃあ次はもっと大人数で』とは口にしない。
 他の女の子に反故にされたから仕方なく誘われた『小木曽雪菜』は今日限りの存在で、きっと同じ理由で雪菜は街へ出ない。そんなことをすれば、彼女が今日一日ずっと避け続けた誰かの名前を口にすることになる。
 きっと、自分を今日のよう騙し続けられなくなる。
 だから今目の前にいる『小木曽雪菜』は十二時で魔法の解けるシンデレラだ。・・・最も、門限が十時の庶民派シンデレラだが。
「貴重な体験だったよ。こんな時間を過ごしたいと思ってる男はキャンパスに何人いるのやら。それこそ桁は二つで足りるのかって位」
「え、え〜、やだな〜、そんなの大げさだよ・・・。買い物に行って、おしゃべりして。それだけで楽しいって思う安い女だよ?」
「・・・自覚がないのが玉に瑕って言うけど、この場合は毒だよなあ。今の言葉、大学で口にしたらダメだよ、雪菜ちゃん。どれだけの男が群がって来るか予想もできないし、したくない」
「あ、あはは、気を付ける・・・」
 そんなことになった時の状況を思い浮かべたのだろうか、雪菜はちょっと引き気味に笑った。
「さってと、もう日が沈むな。大分寒くなって来たし、少し公園を歩いて解散にしよっか」
「うん」
 武也の言葉に雪菜は頷いて公園を歩く。雪菜はキャッチボールをする親子やジャングルジムと取っ組み合う少年などを見掛けては安らかな笑顔を浮かべている。
 そこにかつて自分のいた思い出があるのだろうか?きっとあったのだろうと武也は思う。小木曽一家はそういう家族だ。
 だから、どんな思い出があったのかは聞かない。それは自分の役目ではない。
 そんな風にゆったりと時間を過ごしながらやがて二人は入った場所とは反対側の出入り口へ辿り着く。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか。・・・雪菜ちゃん?」
 武也が口を開いた時、雪菜がある一点を眺めたまま足を止めていることに気が付いた。武也が歩み寄る。
「どうしたの雪菜ちゃ・・・」
 訊ねながら視線の先を追った武也の言葉が途切れる。
「あれは・・・依緒と春希か?」
 意外な場所に、意外な取り合わせの二人組みがいて流石に驚く。それと同時に自分達も人のことを言えない事実に思い当たり、妙に納得し、口を噤んだ。
「あ、あのね、武也君」
「ん?」
 一方の雪菜は目に見えて動揺していた。春希と依緒が一緒にいることにではない。別にあの二人が街を歩いていたとして、武也と依緒の関係を知っているから誤解のしようもないのだ。
 彼女が慌てている理由はただ一つ。
「ぐ、偶然だよね?わたし達、偶然ここを歩いていたら二人を見付けちゃっただけだよね?・・・話し掛けても変じゃないよね?」
 今日一日、ずっと口にするのを避け続け、しかし毎日会いたいと願っている相手と鉢合わせた現実に動揺しているのだ。
 つい先程まで誰もを魅了する明快で快活なシンデレラであった彼女が、家では貧しい衣服に身を包み、人の目に触れることを極端に恐れる臆病な本当の自分に戻ってしまっていた。
「ま、本当に偶然だし、話し掛けない方が不自然かな」
 だからそんな武也の言葉にすら、すがるような表情を覗かせてしまう。
「そ、そうだよね。おかしくなんかないよね。・・・うん」
 大きく息を吸い、決心を固めたのか雪菜が二人のいる東屋へ一歩踏み出す。
 その瞬間、春希と依緒の会話の端々が聞こえてきた。
『なあ、実は話した小説にはまだ話していない登場人物がいるんだ』
『ん?冴えない殺し屋と政府要人、とその恋人だっけ?それ以外にまだいるのか?』
 一歩、一歩と東屋の中にいる二人へ歩み寄る。幸いに彼らはこっちに全く気が付いていない。だが、
『本当は殺し屋には自分のことを好いてくれてる女の子がいたんだ。普通の家庭に生まれ育った普通の優しい女の子が』
 その一言で、足が止まった。
『・・・へえ。ま、何でそれを先に言わなかったのかは聞かないよ。それで?』
『冴えない上に人を傷つけることを仕事にしていたから主人公は女の子を避けた。けど、女の子は信じられない位にいい娘で主人公の仕事を知っても、どんなに傷付けられても、避けられても主人公の傍にいようとした』
 雪菜の止まった足は地面に縫い付けられたかのように動かない。武也は隣でその様子と、春希の言葉を聴いていた。春希と依緒の話題は簡単に口を挟めるものではないことはすぐに分かった。
 春希の言葉は続く。
『だから主人公は仕事にのめり込もうとした。無理な依頼を受けて自分を追い込んだ。ターゲットの政府要人は飛び切りガードが固いことも知っていてその仕事を請けた』
『春希、そいつは最初から破綻してるよ。どうしてそっちへ向かってしまったんだ?そんな仕事を請けずに足を洗って、女の子の傍にいることもできただろ。なのにどうして、普通の幸せを求めようとしなかったんだ?』
『主人公には普通の幸せも、自分を好いてくれる女の子も眩し過ぎた。幸せになりたいっていうのは誰もが持つ感情だけど、主人公にとってはその感情程無くしてしまいたいものはなかった』
『だとすると、ターゲットに隙がなかったって言うのは自分を追い込む為の嘘だな。わざと失敗したようなもんだ。・・・バカな奴。根が生真面目な癖に出口のない方向へ自分を追い詰めれば破滅するのは分かり切っていただろうに』
『そして目的は果たせず、女の子を突き放す為に失敗する方法を選んで終わった』
 得られたものはあった。だが、それは自分だけの為の一人ぼっちで辿り着く答えだった。
『春希、お前その三文小説をレポートにするって言ってたな。ついでに三流を一流へ変える為に批判してやるって』
『・・・・・・』
『どう結論付けるつもりなんだ?その救いようのないバカ主人公を幸せにする為に何を言う?』
『・・・・・・』
 春希は黙り込む。同じように雪菜も息を呑み、立ち竦んでいた。武也は神妙な表情でその二人を見ている。
 そんな時間がどの位続いたのだろうか。春希は重い口を開く。
『全部その娘にあげてしまえって思う』
 出てきた答えは短く、端的なものだった。
『全部って?』
 言葉の意味を依緒は問う。
『自分のできることも、できないことも。全部』
「・・・っ」
 その言葉に何を感じたのか。雪菜は息を呑む。
『ははっ、それ、矛盾してるだろ春希。できないことまであげてどうする?』
 その指摘に春希は目を丸くして、やがて、ああ、と頷く。
『そ、そうか、それもそうだよな。何言ってるんだ、俺。できないことまでもらっても迷惑だな』
 自分の言葉のおかしさに気が付いたのか春希は慌てて自分に弁解する。だが、そんな春希に聞こえない小さな声で依緒は言葉を付け足した。
『バカ、それだけ大事ってことだろ。本心が筒抜けだよ、お前』
 やがて武也は俯き、抱き締めた膝に顔を埋めて動けなくなっている雪菜に声を掛けた。
「行こっか雪菜ちゃん」
 春希と依緒のいる場所とは反対側の出口を指差す。雪菜は膝を抱いたまま小さく頷いた。



 そして夜が来る。
 彼は出版社の急な呼び出しを受けてアルバイトへ向かい、彼女は付き合っている彼と街へ出てきた体を家族へ装う。
 彼も彼女もいつものように自分に嘘を付いて週末を過ごす。
 彼は友人と出掛けて色々と話し過ぎた自分を悔い、戒める為により多くの仕事を要求する。彼にとってこの週末はずっと目を背けていた本心と出会い、変わらない意固地な自分に僅かな安堵と情けなさを感じるものだった。自身の気持ちと行動が如何に噛み合っていないのかを思い知らされただけだった。
 一方の彼女は真っ暗な部屋のベッドの上で購入したセーターとストールの入った手提げ袋を抱きしめて、声を殺して泣いていた。彼女にとってこの週末はずっと見えていなかった彼の本心と出会い、自分の気持ちが少しも変わっていないこと、逆に彼の言葉に触発される形で、よりはっきりと想う気持ちが強くなっていることを確認した。
 この週末は彼に自戒と自責を、彼女には悲痛と恋慕をもたらした。
 王子にシンデレラを求めて晩餐会を開く勇気はなく、シンデレラには王子と結ばれるきっかけとなるガラスの靴がない。
 だが、そんな何もかもがすれ違っている二人に共通している願いが一つだけあった。
 ただ、お互いが自由で幸せであること。
 その気持ちだけは誰に向かっても誇れる本心であり、やがて、藍を青く染める魔法となることを二人はまだ知らなかった。
 


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