彼と彼女の週末  前編


「よ、相変わらず不景気そうな顔してるな、春希」
 水沢依緒は軽い口調で悪びれもなく青年、北原春希に話し掛けた。春希は講義ノートを閉じながら息を吐く。
「言葉の通り世の中不景気なんだ。政経はそれを学ぶ学部だろ?」
「政経捨てた文学部がよく言う。少しはロマンチックな思考を身に付けたらどうなんだ?」
 そんなことを言いながら依緒は週末の講義を終えた学生達の顔を眺める。どの顔も学生らしい気楽さと気だるさと開放感に満ちている。
「偏見だな。そんな子供じみた夢なんてないのを学ぶのが文学部だ。むしろしっくりしてるよ、俺は」
 そしてそんなことを言う春希の顔を改めて眺める。溜め息の一つも吐きたくなる。
「言い直すよ。不健康そうな顔してるな、春希」
「・・・ほっとけ、顔は生れつきだ」
「まあね、月並みで面白みもなく、取り立てて挙げるようなかっこいい所もなし。・・・春希、あんた結構不幸な星の下に生まれたんだな」
「さっきからいちいち言葉の頭に『不』を付けるな。事実でも指摘されて嬉しいことじゃない」
 春希は憮然とした表情で言い返す。
「ん?気に障った?」
「障った。不平等で不公平な生まれを選べない人間の欠点を不幸だと言うなんてひどい侮辱だ」
「おお、確かに『不』って並べるとヤな気分になるね」
「分かってくれたなら良かった。そんな言葉を乱発しなくていい世の中作りを考えるのが政経学生の役目だからな」
「うん、分かった。言っておく。武也に」
 しかし、刺々しい春希の言葉に対する依緒はさらりとしたもので、言うほど気にしている様子はない。
 最も、春希も依緒とは知った仲だ。そんな彼女の振る舞いは特に気にならない。むしろ、鬱陶しい小言を手際よく流す手際は気持ちがいいと思っている。
「で、何の用だ?わざわざ畑違いの講義室にまで」
「ああ、春希と出掛けようと思って」
「は?」
 さらっと何でもないことのように出てきた言葉に間抜けな声を上げてしまう。
「何だって?」
「あたしこれから暇だし、偶には春希と街に出ようかと」
 聞き間違えでは無いその言葉に春希は眉間に指を当てる。そしてはた、と思い付くことがあった。
「依緒、お前また何か企んでいるんじゃないだろうな?」
「企む?・・・ああ」
 春希に疑いの瞳を向けられた依緒はややあって頷く。以前武也と申し合わせて飲み屋で『彼女』と春希を会わせたことがあった。春希は同じ轍を踏むのを警戒しているのだ。
「安心しなよ、他意はない。武也もあたしがここに来てるの知らないし」
「益々分からない。何が目的なんだ?」「だーかーらー、目的なんてないって」
 依緒は答えながら腰に手を当てる。
「最後に春希と二人で話したのっていつだっけって思っただけ。ほら、大体あたしか春希のどちらかに誰かが付いてたでしょ?」
「・・・それは、まあ」
 確かに春希には最後に依緒とゆっくり二人で話したのがいつだったのかよく思い出せない。依緒が一人ではないのは割りと昔からだが、春希が一人でなくなったのは・・・。
 ・・・そうか。付属の学園祭以後だ。それ以前は形式的にしろ帰りの電車で一緒になることもあった。
 だが、今の春希と依緒が話せば意図していなくても触れてしまう話題がある。
「悪いけど、今日の講義内容をまとめたいんだ。だから」
「不参加、はなしだぞ。否定の言葉は良くないってついさっき言ったのは誰だっけ?」
「ぐ・・・」
「ついでに、大学はロクでもない世の中を変える手段を考える為の場所だろ?試みもせずに最初から失敗と決め付けるのは良くないんじゃないのか、委員長」
「・・・、随分と弁が立つじゃないか、依緒」
「お前が語るに落ちたんだよ、春希」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 わずかな逡巡と黙考。やがて春希は大きく溜め息を零した。
「分かった。今日は付き合うよ」
 春希は頷いて席を立つ。依緒も首のマフラーを巻き直しながら答えた。
「ああ、よろしく。文学部で学んだ子供じみた夢の話、期待してる」
 春希は呆れたような表情で言い返す。
「だから、そんなものはないって」
「そう思うに至るまでの話をよろしく」
 悪びれも無く言って口元で小さく笑う。
「・・・」
 つくづく、語るに落ちたと思う。
 揚げ足を取り、屁理屈で詰めて、相手に自分の要求を飲ませる。
 それは自分が一番得意としていた手段のはずだった。それがこんなに鈍ったのは・・・。
 春希は目を閉じて弱気の虫を深呼吸して自ら中から追い出す。
 そして、それは今考えるべきことではなく、これからも思いを巡らすべきことではないと自分に言い聞かせた。
「意固地な奴」
「ほっとけ、わざわざ聞こえるように言うな」 



「やっ、雪菜ちゃん。講義お疲れ」
 同日同刻、別棟で飯塚武也は小木曽雪菜に声を掛けた。
「あ、お疲れ様、武也君。この講義取ってたんだ」
 そんな武也に雪菜は余所行きではない笑顔で振り向く。
「ああ。偶にはいつもと違うことをやってみようと思ってさ。で、講義が始まってから気が付いたんだ。そう言えば俺、ノートとシャープペン持って大学来たのっていつ振りだったっけって」
「あ、あはは・・・」
 呆れ半分の雪菜を傍らに武也は話す。小木曽雪菜を知る学生の鋭い視線を全身で感じながら。
「思い出そうとしている間に講義が終わっちゃったよ。半分位話も聞いてたけどさ、全然分からないし、面白くもなかった」
「それは・・・続けて出ていればきっと面白さが分かるんだよ」
「そんなもんかな。ま、俺にとって一番分からないのは付属と違って出席取るわけでもないのに好んで出続ける奴の心境だよ」
「あはは、それはちょっと分かるかも。試験前にはやっぱり憂鬱になっちゃうんだよね」
 雪菜はそう答えながらちょっと悪戯っぽい笑顔を見せる。視線の針が刃に変わった気がした。
「だよなあ!流石雪菜ちゃん、話が分かる!俺なんて死にたくなるもんなあ。・・・と言うわけで」
「ノート?」
 ぱん、と武也は顔の前で手を合わせる。
「恥を忍んでお願いします。依緒もこの講義取ってなくてさ」
「あれ?でもいつもは誰か女の子に頼んでいなかった?」
「ぐっ、色んなイミで突き刺さる質問・・・。白状しちゃうけど、この講義に限って頼めるコが誰もいないんだ」
「わたしはいいけど、依緒に怒られるよ?ちゃんとしろって」
 その言葉に武也は笑って胸を張る。
「大丈夫、大丈夫。もう言われた後だから。『知るか、馬鹿』って」
 なぜか得意げな様子の武也に雪菜はぱちくりと目を丸くし、やがてくすっと小さく笑った。
「そっか、もう怒られたんなら大丈夫だね。うん、任せて。言ってくれれば貸すよ」
「サンキュー、雪菜ちゃん、恩に着る。・・・ところでさ」
「ん?」
「俺、ちょっと喉渇いてきちゃって。場所変えない?」
「あ、そうだね。そろそろ次の講義が始まっちゃうし」
「そうそう。と、その前に」
 武也はそう言って背中越しに一度だけ視線の主達へ振り向く。ややあって、ふっ、と優越感を滲ませる笑みを口元に浮かべてみせる。
 一気に氷点下を思わせる冷気が講義室を満たした。
「どうしたの?」
 ノートをバッグへ仕舞っていた雪菜が顔を上げる。
「いや、涼しくて気持ちがいいなぁと思ってさ」
 そう答える武也の笑顔は悪戯好きの子供のようでとても楽しそうだ。
「涼しい?今、冬だよ?」
「役得の話だよ。そろそろ、行こっか」
「?うん」
 首を傾げながらも雪菜は席から立ち上がろうとする。がつん、と音がした。
「い、いったぁ・・・」
「ど、どうしたの?雪菜ちゃん」
 先程の表情はどこへやら、本当に戸惑った様子で武也が声を掛ける。
「バッグが引っかかって机に膝、ぶつけちゃった」
「え・・・?」
 思わず呆気に取られる。そんな武也の表情に雪菜は羞恥に顔を赤らめた。
「も、もう、恥ずかしいなあ。わたしってどうして変な所でドジ踏んじゃうんだろ」
 そんなことを言いながら雪菜は片足で歩く。髪を揺らし、けんけん、と歩を進め、ぱ、両足で立って笑顔を見せた。
「うん、大丈夫。さ、行こっか。武也君」
「・・・・・・」
「武也君?」
「う、え?あ、ああ、飲み物だっけ?ゴメンゴメン、ちょっとぼーっとしてた」
「そうなの?あ、それと」
 雪菜は一旦句を切る。
「ゴメンは一回だよ。気にしないも一回。あ、そう言えば大丈夫も二回言ってた」
「え?あー、そうだった・・・っけ?」
 正直な所、指摘されていることとは全く違うことが気になって武也は反芻ができない。
 雪菜は、ぱ、の笑顔のまま言葉を続ける。
「小さい頃から何度もお母さんに言われたの。ちゃんと一度で反省しなさいって」
「・・・・・・」
 改めて、理解に苦しむと思った。
 欠かさず講義に出席し、この笑顔を独り占めできるのに、そうしない男がこの世にいることを。




 講義室を出ると夕刻に差し掛かった空は茜色に染まり、肌にやや冷たい風が通り過ぎて行く。春希は少し身体を震わせながら依緒に問いかけた。
「で、どこへ行く当てはあるのか?」
「ん?ないよ?」
 腕時計を眺めながらしれっと答えた依緒の言葉に春希は溜め息交じりの息を吐く。
「誘うんなら何か考えてくるのが礼儀ってもんだろ」
「何を今更。無計画の気楽さってあるだろ?ノーハドルオフェンスってかっこいいじゃないか」
「作戦確認なしの攻撃ね。依緒の好みだな」
「そ、相手に考えさせる時間を与えないところとか好きだな。マニュアル重視の堅物はこれで意外に崩せるし」
「・・・誰の話だ?」
「一般的な話さ。誰の話でもない」
「あ、そ」
 適当に頷いて二人はキャンパス内を歩く。
「なあ」
「ん?」
「文学部って政経とは結構雰囲気違うんだな。何て言うか、あー・・・」
「のんびりしている感じがするか?」
「別に悪い意味じゃないけど」
「心配するな、その認識はあながち間違いでもない。政経基本の三要素、統計、理論、政策で回す学部じゃないからな」
「・・・お前、可愛くない文学部だな、つくづく」
「最初から可愛くなろうなんて思ってない。欲しかったのは文章作成スキルだからその点に不足はないし」
「・・・煙たがられないか?その認識」
「煙たがられても実践力の必要さをどの学部よりも認識してるのは文学部だって最近思う。自由が過ぎると我が身に皺寄せが来ることをよく知っているんだよ」
「うわ、夢がないなあ」
「最初にそう言った」
「春希、お前こっちに転部しても色んな所からノート剥奪されてるだろ?」
「・・・どうして分かる?」
「たった今、一つ確信したからさ。お前はどの学部へ行っても同じ憂き目に合うって」
「・・・それは褒めてるのか?」
「どう聞こえたのかは春希に任せるさ。さて、そろそろキャンパスの出口だ。とりあえず街へ出て買い物に付き合ってもらうよ」
「買い物?何か欲しいものでもあるのか?」
「別にないけど。靴や服でも見て回ろうと思ってる」
「・・・とてもじゃないが、俺の適役じゃないだろ、それ」
 それならよく一緒にいるもう一人の男の方がよっぽど詳しいに違いない。
「ああ、いいのいいの。春希は付いて来て何か適当に喋っていれば。多分それなりに面白いと思うし」
「何だそれ」
 やや不服そうな春希に依緒は、んーっと一つ大きな背伸びをして答える。
「言ったろ、さっき確信したって。春希はどこへ行っても変わらないって。お、バスが来た。ほら、走るぞ」
 その言葉だけを残して依緒は軽快に走り出す。
「だからそれ、褒めてるのか?」
 はぁ、と何度目かの溜め息を付いて春希も依緒の後を追って走り出した。



 大学近くのあるコーヒーストア。そこはビジネス街とのアクセスもよく、大通りに面した立地の為、多くのサラリーマンや大学帰りの学生達で賑わっている。
 そんな中で雪菜と武也はコーヒーを飲みながら最近の出来事などを話していた。
「で、いい加減レポートも行き詰ってきたから気晴らしにゲームでもするかって話になったんだ」
「ふふ、それでそのまま研究室で徹夜しちゃったんだ?」
 雪菜は小さく笑いながら武也の話に相槌を打つ。
「後一戦、もう一戦と伸ばす内に気が付いたら外が明るくなっててさ。びっくりしたよ、夜ってこんなに短かったっけって」
「それは楽しい時間だったからじゃないかな?」
「そうなんだろうなあ。その後教授から大目玉だったけど。飯塚、遊び道具を持ち込んだのはまたお前か!って」
「う〜ん、それは流石に武也君が悪いかも」
「いやいや、癒しと快適空間の提供をモットーとしている俺としては電話帳みたいな本が並んでるだけの部屋ってのは殺風景に見えちゃってさ〜。ここは一つ清涼剤を、と」
「もう・・・」
 そんな子供じみた武也の主張に雪菜は困ったように苦笑する。
「あ、でも少し分かるかも。わたしも友達と電話で話してて楽しくなってきたらずっと続けちゃうことあるし」
「さっすが雪菜ちゃん。違いが分かる〜。あの堅物教授にその半分でも遊び心があればなあ」
「ん〜、でもそれだと残った融通の利かない半分が武也君に回ってくるかも」
 その雪菜の言葉に武也は目に見えてがっくりと肩を落とす。
「勘弁してよ、雪菜ちゃん。そんな俺は俺の皮を被った別の生き物だ。考えるだけでぞっとする」
「そうだね。武也君はいい加減で、だらしがなくて、女の子が大好きで」
「あの〜、雪菜ちゃん?流石の俺も面と向かって言われると傷つく言葉ってあってさ」
 涙目になった武也を傍に雪菜は言葉を紡ぐ。
「でも、本当はとっても友達想いで、一途な男の子なんだよね」
 そう言って雪菜は人懐っこく笑う。
 今の雪菜には無遠慮で向き合える存在が少ない。また、時には自ら孤立してしまうこともある為、気を許せる一時にふと本来の小木曽雪菜がこんな風に顔を出すことがある。
 武也は少し面食らった様子で、やがていつもとは違う少し力のない笑顔で言葉を返す。
「はは、雪菜ちゃんに言われると本当に自分はそうなのかもって思えてきちゃうな」
 彼女の笑顔にはそんな風に相手の気持ちを解きほぐす力が確かにある。
「そうだよ。本当の武也君はそんな男の子だよ?・・・わたしとは違って」
「・・・・・・」
 ただ、今はそんな相手に向かっての気持ちが自分へは向かわない。本来なら、まず自分へ向けるべき優しさがするりと自身の心をすり抜けて他の人間へ向いてしまう。
 辛い思いをしているのは自分ではないと傷付いた自身の心を無視してしまっている。武也にはそんな気持ちを抱いたまま生きている『二人』がどこへ向かおうとしているのかが全く分からなかった。
 そういう時は、
「あ、ごめんね、わたし変なこと」
「よし、雪菜ちゃん、今日は俺と遊びに行こっか?」
 武也は雪菜の言葉を途中で断ち切って笑顔を浮かべる。
「え?」
「思えば雪菜ちゃんと二人で出掛けたことってなかったしさ。退屈はさせない自信はあるし」
「え?で、でも、武也君は・・・」
「気にしない、気にしない。週末だし、色んなコに声かけたんだけど全員に袖にされちゃってさ。仕方がないから今一緒にいるコを口説いてるだけ」
 一瞬目をぱちくりとさせた雪菜だったが、やがて表情を和らげ、ちょっと怒ったような様子で答える。
「あ〜、それはひどいなあ。みんなに断られたから最後に仕方なくわたしを誘うんだ?」
「そ。もっと可愛くて気になるコがいるけど、今日は仕方なく目の前の女の子をエスコートしようかな、と」
 言いながら武也は他の女の子に反故にされたから、仕方なく声をかける対象が小木曽雪菜とはどう言う道理だと苦笑する。順序が逆ではないのかと。
「仕方ないなあ。週末に予定のない寂しい武也君の為にちょっとだけお付き合いしようかな」
 そんな口説き文句としては失礼で、遊びに誘うには気取った言葉が気に入ったのか、雪菜はちょっと楽しそうな口調で頷いた。

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