（最終回）Powder Snow　／　2015年12月末

　春希の背中には、手術痕が残ってしまった。
　雪菜の背中に残った傷跡と、同じような場所に、同じような痕が。

　…………。

　退院した日の夜、かずさと春希は、久しぶりの二人の夜を楽しむために、少し早めに寝室に入った。
　今、既に素肌の触れ合いを遮るものはない。
　「凄く、嫉妬するよなあ……」
　かずさは、春希の背後にいて、その傷を舐めた。
　かずさの右手は、春希の腰を撫でて前に回され、固くなったものを愛撫している。
　「あんまり、傷跡を刺激するなよ。ケロイドになって酷くなるから」
　「そうなのか……」
　「だから絶対、爪立てるなよ」
　「それは我慢するけど……。
　あたしも、この傷が欲しい……」
　「馬鹿なこと言うなよっ！」
　春希は、即座に振り返って真剣に怒った。
　「春、希……」
　「やめてくれよ……。お前が傷つけられるなんて……、お前の背中に傷が付くなんて……、やめてくれ。考えただけでも気が狂いそうになる」
　春希は、かずさの肩を抱いた。
　その腕は、かすかに震えていた。
　「ごめん、春希、ごめん、な。でも、でもさぁ……」
　かずさは、少ししょげた。
　「いや……」かずさの気持ちは分かる。
　「怒って悪かった……」
　「ううん」かずさは、首をぶんぶんと横に振る。
　「今のは、あたしが悪かったよ」
　「なあ、お前の命は、体は、お前だけのものじゃないぞ」
　春希の右手は、かずさの頭を撫でた。
　「俺と、曜子さん、雪菜、友人達……。それにお前の音楽を愛するファンがいるんだからな。だから、身体は大事にしてくれ」
　「うん……。そうだな。ホント、ごめん……。
　あれ……、一瞬にして小さくなった」
　「…………」
　「センシティブだな、お前のこれ」
　「ばか……。当たり前だろ。絶対に、もう二度と言うなよ。……できなくなるぞ？」
　「あは」かずさは、春希に抱きつく。
　「それは困る」
　春希のそれは、かずさに右手に愛撫され、また、固さと大きさを取り戻す。かずさは、春希とキスしてから、唇を離し、春希の首筋に唇を這わせ、言った。
　「ちょっと、痩せたんじゃないか」
　「ずっと寝てたから、筋肉が落ちた。あんな短時間のリハビリじゃ、体力が戻らないよ」
　「ここは、全然、変わらないけど……」
　「こっちは、目覚めてから退院するまで、この夜のことばかり考えて、十分リハビリに励んでいたからな」
　「えっ」かずさは、頬を赤らめる。
　「そんなの……、言ってくれたら、病室でも色々してあげたのに」
　「ばか……。個室と言えども、何時、看護師さんが入ってくるか分からないんだぞ。それに……」
　「それに……、何だ」
　「そんなシチュエーションでしてもらったら、めちゃくちゃ抱きたくなっちゃうだろ。そしたら、お前、声が出るかもしれないじゃないか」
　「我慢、したよ」
　ちょっと拗ねたように、かずさが少しぶーたれた。
　春希は、可愛い妻の頬を撫でて、いたずらっぽく笑った。
　「お前は絶対、無理」
　「なななな、何を言う。あ、あたしだって、それ位我慢できる」
　「絶対に無理」と言って、春希は自分の右手の中指を咥え、唾液で濡らす。
　かずさが、「でき」ると言おうとした瞬間、春希の唇がかずさの唇を塞ぐ。
　春希の右手の甲が、かずさの乳房の間と、腹を滑り降り、薄い茂みを通過して翻り、中指が、隠された小さな宝石に軽く触れる。
　「あっ、あん」思わず、かずさの声が漏れた。
　「きゃあ」かずさは、口を塞ぎ、顔を赤らめた。
　「な？　無理だろ」
　「お、お前って、ホント、ベッドの上では、意地悪だよな」
　「お前はホント、素直だよな」
　「ううう……、うるさい」
　〝誰が、凶悪に可愛いだって？〟
　春希は、かずさのピンクに染まった頬にキスをする。
　それから二人は、何時もよりも濃厚に、前技を楽しんだ。
　〝あんまりすると、胸元に跡が残っちゃうから〟という理由で、常にはしてもらうのを憚っている、かずさの必殺技に没入した春希は、前技の途中で、一度、いかされた。
　思わず、大きな声が出てしまった。
　かずさの、自慢げな顔に、艶かしい唇が光っていた。
　「飲んじゃった……」
　「言うなよ。興奮するだろ……」
　春希は、かずさの髪を撫で、唇にキスをした。
　「ありがと」
　「気持ち、良かったか？」
　「うるさい……。背中が、痛かっただけだよ」
　「ふふーん。そうなんだ……」
　「そうなの」
　「じゃあ、今日はあたし主導だな」
　「何言ってんだよ。背中が痛いんだから、下になれる訳ないだろ。当分は、俺主導だけだよ」
　春希は、かずさをゆっくりと横たわらせる。
　それから、とても愛おしむように、乳房を優しく揉んだ。
　「ただし、ちょっと、ゆっくりで良いか？」
　「ばか……」かずさは、頬を赤らめて横を向く。
　「あのな、春希。良い機会だから、教えてやる」
　「何だ？」
　「男はな、興奮すると速く動こうとするけど……、女はな、速ければ気持ち良い、という訳ではないんだよ。痛い場合だって、あるんだからな」
　「そうなのか……。ごめん……」
　「それに、えっと、あたしは……、ゆっくりの方が、ちょっとだけ、好みなんだよ」
　「そう、なの？」
　「そうなの」かずさは目を瞑って、恥ずかしげに言う。
　「だから、ゆっくり、じっくり、あたしを感じて。そして、優しく、突いて」
　かずさは、春希のそれに優しく触れた。
　それは既に、数分前の強度と大きさを取り戻していた。
　「ああ……、分かったよ」
　「えっと、もちろん、激しいのが嫌って訳じゃない。傷が痛くなくなったら、春希の好きにして良いんだよ。
　あたしは、お前が抱いてくれさえすれば……、それだけで、すっごく幸せなんだ」
　「かずさ……。お前なあ、そんな可愛いことを言うなよ」
　春希は、かずさにキスの雨を降らせる。
　「めちゃくちゃ、興奮するだろ」
　「興奮、して。いっぱい、いっぱい、愛してよ」
　「かずさ……」
　「春希は、あたしのものだ」
　「ああ、俺は、お前のものだ」
　……愛しいあなた。愛しい夜。
　ただただ甘い、濃厚なキス。
　春希の、几帳面で、一切手抜きをしない、丁寧で優しいキス。
　かずさの、奔放で、全力で甘えるような、激しく熱いキス。
　二人の唇は、舌は、時間をかけてお互いを求め合い、一つに融けていく。
　二人の指先は、お互いに絡み合っては離れ、お互いの身体を隅々まで愛撫する。
　こんなに幸せな夜が来るとは、思ってもみなかった。
　二人の間には、何の不安もない。二人の愛を傷つけるものは、何処にもない。
　……罪は、絶対に消えない。
　……後悔も、なくなりはしない。
　だが、それでも、二人は、幸せを望んで良い。それが、何処であっても、何があろうと、二人は、幸せになると決めた。
　全てを取りに行くと、決めた。
　「ああ……、春希、春希ぃ……。あたし達、幸せになろうな」
　「ああ……、幸せに、なろう」
　「二人で、思いっきり、幸せに、なって、あたし達に、引き摺られて、周りも、幸せに、なって、しまうぐらい、それ位、圧倒的に、幸せになろう？
　お前なら、してくれる、だろう？
　ん……、んっ……、はああ……」
　「ああ、できるさ……。んっ……、あああ、全部、なんとか、してみせる」
　「春希ぃ……」
　「かずさ……」
　……二人の想いは、一つになって、昇華していく。
　何度も、確認し合って、何度も、昇華していった。
　幸せな夜の中に……。

　＊　＊　＊　＊　＊

　「おはようございます。曜子さん」
　「起きて大丈夫なの？」
　「寝てても仕方ないですから。平常運転に戻ります」
　春希は、そそくさとキッチンに向かった。
　「まあ、大丈夫だろうけど……」
　「おはよう、母さん」
　かずさは、少し眠そうなとろんとした目を、曜子に向けた。
　「おはよう。……ふふ～ん」
　「何……」
　「色惚けた、つやつやの肌……。昨夜は、相当お盛んだったようね」
　「えっ」
　「とっても良い感じの声が聴こえたわ」
　「き、聴こえたのか？」
　「初めてよ」
　かずさは顔を真っ赤にして、「ごめん」と、蚊の鳴くように言った。
　「喜びに溢れた娘の嬌声を聴くのは、なかなか趣き深いものがあったわ」
　「趣味の悪いことを言うな」
　「ただし、春希君にはもうちょっと静かにするように言って」
　「えっ、春希の声も聴こえたの？」
　「婿殿の嬌声を聴くのは、女としてテンション上がるものがあったわ」
　「いやいや、上げる必要ないから……」
　かずさは、頭を抱えながら、〝寝室の扉、防音にしよう〟と決意していた。
　「ところで、雪菜の二枚目のラフ・ミックス聴いたんだけど」
　「……どうだった？」
　「一枚目より格段に上ね」
　「母さん……、ホントに？」
　「二枚目を買って気に入った人は、一生、雪菜とあなたの虜になるわ。
　ここまで良い仕事されたら、あなたのこっち方面の才能も、本気で認めなきゃならないわね」
　「ありがとう。……でもあたし、雪菜以外とは、J-Popの仕事をする気はないから」
　「もちろんそれが良いわ。来年は、ヨーロッパ・ツアーもあるし、当分はピアノに専念しなさい」
　「うん。それで……、向こうでの滞在が長くなるかもしれないけど、大丈夫？」
　「大丈夫よ。あなたが帰ってきてくれるって、分かってるから。それに、雪菜も、美代ちゃんもいるし、希子さんも気にかけてくれるから」
　「うん」
　「雪菜は、もう、私の娘みたいなものよ。雪菜とやる時は、しっかり彼女を支えてあげてね。あの娘は、稼げるわ」
　「そうだな。稼いでもらおう。実は、英語で録音ができないか、春希と相談してるんだ」
　「好きなように、やりなさい。あなた達三人なら、なんとかなるでしょ」
　「母さん……。ありがとう」
　「後は、私が元気なうちに、孫の顔でも見せて頂戴」
　「えっ」
　「すぐにとは言わないけど、考えといて。お盛んなうちに、仕込んどいた方が良いわよ」
　「……心配すんな。春希の場合、その勢いが下火になることは、当分、なさそうだから」
　「あら……。ごちそうさま。その勢い、私にも分けてもらおうかしら？」
　「なななな、何を言うっ」かずさは驚いて席を立つ。
　「冗談よ」
　「いい加減、あんたのそういう発言は、冗談に聴こえないんだって、理解してくれ……」
　会話の聞こえない春希は、「White Album」を鼻歌で歌いながら、パンにジャムを塗っていた。

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　春希の一件があったにもかかわらず、かずさによる、大バッハ作曲『ゴルドベルク変奏曲』の録音は、予定通り実施された。
　立ち会った曜子は、演奏内容に圧倒されたのか、呆れた顔をして、「あなた、私だけでなく、グールドにまで歯ぎしりさせる気なの？」と評した。
　12月20日・日曜日、帝都オペラシティ。冬馬かずさ＋鳴瀬望指揮＋帝都フィルによる「ラフマニノフ・ピアノ協奏曲第二番、チャイコフスキー・ピアノ協奏曲第一番」のコンサートが開催された。
　事件の影響も無く、満席の観客を前に、かずさとオケは圧倒的な演奏を行った。ラフ二は録音を忠実に再現するとともにより精度を高めて、チャイコンは甘さを排して実に威風堂々としたスケールで演奏された。
　演奏の映像はハイ・ビジョンに収められた。
　『ゴルドベルク変奏曲』のCDと、『ピアノ協奏曲集』のBlu-ray Discは、2016年3月、つまりヨーロッパ・ツアー直前に発売が予定された。

　＊　＊　＊　＊　＊

　12月26日、土曜日。
　夕方から、冬馬曜子オフィスの忘年会が、岩津町の冬馬邸で開催される。
　その日の朝10時。冬馬邸に、ラスボスが訪れた。
　「お待ちしてました」
　「お久しぶり、北原君」と小木曽晋が言う。
　「こんにちは」
　「……こんにちは」と、小木曽秋菜が言った。
　「リビングに、冬馬曜子と、北原希子がおります」
　「ありがとう」
　リビングのドアを開けた所で、曜子と希子は、二人の客に礼をした。
　「こんにちは」と言って、曜子は二人の目を交互に見据えた。
　「本日は、足をお運びいただき、ありがとうございます。
　小木曽さん、奥様……」と言って、希子は深々と頭を下げた。
　「こちらにどうぞ。春希君、お茶をお願いして良いかな」
　「はい」
　「北原さん」秋菜が、春希に声をかけた。
　「……はい」
　「ケーキを焼いてきました。持ってきてもらえますか？」
　「はい」
　「よろしくね」
　四人の親達は、リビング左奥の応接室に入って行った。
　「小木曽さん、どうぞ、お座りになって下さい」
　「いえ……、まず、こちらから、年末にあたり、お礼をさせて下さい」
　「何の、でしょうか？」
　「冬馬さんは、雪菜を強い女にする、と仰った。
　その言葉通りになったことを、ありがたく思っています」
　そう言って、晋と秋菜は軽く頭を下げた。
　「こちらこそ、ありがとうございました。今年は、雪菜さんに稼いでもらいました。当社としても、お礼申し上げます。どうぞ、お座り下さい」
　「しかし……、雪菜から聴いていましたが、凄いですね、このCDの数は」
　晋は、壁一面に整然と並べられたCDに驚いた。
　「お恥ずかしいです。まさか、音楽メディアとしてCDがなくなるかもしれないとは、思ってもいなかったものですから。当社のメディアの販売戦略も、今後は変わっていくだろうと思います。
　しかし、雪菜自身は、一曲ずつのバラ売りがあまり好きではないようですし、彼女のヴィジュアルを考えると、ダウンロードで音楽データだけを提供するのも、もったいない気がしますので、当面、当社としても、CDの発売は続けるつもりです」
　「そうですか」
　「握手券は付けませんけどね」
　「安全面からも、それは避けていただきたい」と、晋は真面目な顔で言った。
　「この度は、雪菜の危ない所を、……ご子息に助けていただいて、……ありがとうございました」
　秋菜は、希子の方を向いて、少し緊張したような声で言った。
　だが、それを聴いた希子は、顔を覆って、言った。
　「こちらこそ、息子の危機管理が至らぬばかりに、お嬢さんを危ない目に遭わせてしまって、本当に申し訳ありません。それに……」希子の声がつまった。
　「三年前……、春希が、お嬢様に、そしてご家族にご迷惑をおかけして、……傷つけてしまって、本当に、申し訳ありませんでした。
　本当は、いち早くお詫びに伺わなければならないところを、私が不甲斐ないばかりに……」
　「「…………」」晋と秋菜は視線を落とし、黙っていた。
　コンコン、と、ドアがノックされ、春希が紅茶とケーキを運んでくる。
　ロイヤルミルクティーの柔らかく甘い香りが、部屋に漂った。
　「曜子さん。僕も、同席させてもらいます」
　「しっしっ。親達の話に首突っ込むもんじゃないわ」
　「しかし……」
　「社長命令」
　「……失礼しました」春希は小木曽夫婦に黙礼して去る。
　晋はティーカップに口を付け、「うん。美味い」と言った。
　「そうね……」と、秋菜も言った。
　「二人で話し合ったのですが……」と晋は切り出す。
　「雪菜が、あの年齢では手に余る程の収入を得た上に、気持ちが落ち着いてきた今でも、私達は、北原君が雪菜にした過去の振る舞いを、許すことはできません。
　色々……、ありましたので」
　「それは……、当然のことだと思います」
　希子は、視線を落としたまま言った。
　「ですが、彼は雪菜にとって、仕事上の欠かせないパートナーのようですし、かずささんと三人、親友として心から結びついているようです。私達二人が、それを否定することは、できません」と、晋は指を組んだまま言った。
　「私は正直、雪菜が〝三人でいれば良い〟と言ってきた意味が、分かりませんでした。今でも、理解したわけではないんですが、私達が、雪菜を、彼とかずささんから引き離せない、見守るしか無い、ということは、分かったような気がします」と、秋菜はゆっくり言った。
　「娘を、身体を張って守ってもらった。その恩人を、恨み続けることは難しいですから」
　晋はそう言い、夫妻は共に頭を下げた。
　「小木曽さん……」
　希子は、両手で顔を覆い、涙声で言った。
　「色々なわだかまりがありましたし、未だに心配な点もありますけど、私達としては、もう雪菜の判断に任せよう、と思っています。
　……流石に、北原くんとかずささんに、祝福を述べることは出来ませんけどね」
　「十分です……。ありがとうございます……」
　そう言って泣いている希子の横に座った曜子は、訥々と話す晋を見ながら、美しく背筋を伸ばして、堂々と座っていた。そして……。
　「雪菜は、当社の主力商品ですから、うちのスタッフが命がけで守るのは当然のことです」
　曜子はきっぱりとそう言った。この発言に、三人の視線は釘付けになった。
　「ですが、娘さん、息子さんをお預かりしているにも関わらず、危機を察知できず、危険な目に合わせた上に、大きな怪我を負わせてしまいました。
　ご両親、お母様に、ご心配、ご負担をおかけしたことについて、社長として、心からお詫びします」
　そう言って、曜子は立ち上がり、明確な声で、「申し訳ありませんでした」と言い、初めて深々と頭を下げた。
　そして、一瞬の間の後、頭を下げたまま、「今後も、色々とご迷惑をおかけするかもしれませんが、うちの娘と娘婿のことを、どうかよろしくお願いします」と言った。

　…………。

　会談を終わり、小木曽夫婦、続いて、曜子、希子がリビングから出てくる。
　渡り廊下の地下スタジオ入口の前で、春希とかずさが待っていた。
　「お帰り、ですか？」
　「ああ。紅茶、美味しかったよ」
　「ありがとうございます」
　「北原君、かずささん」
　「はい」
　「私達は、君達ご夫婦の幸せを祝ってやることは、今後も出来ない。
　「はい」
　「だが、雪菜と、君と、かずささんが、お互いを尊敬し合い、良き友人であろうとしていることは理解できるし、尊重しようと思う」
　「ありがとうございます」
　「北原君……」
　晋は軽く、春希の腹に右手でパンチを入れた。
　「ぐっ」
　「君程の男なら、危機管理もしっかりしてもらわないと困る。君なら完璧に準備、対応できたはずだろう？
　何時でも身体を張って守ってもらうわけには、いかないのだから」
　「小木曽、さん」
　「ふっ。なにせ、今のところ、君やかずささんに万一のことがあったら、うちの娘がどうなるか、想像もつかないのでね。
　娘を、奥さんを、自分を、大事にしてくれ」
　「……はい」
　「では、今晩、雪菜がお世話になりますが、よろしくお願いします」
　「はい」
　「かずささんも、練習時間中なのに、ありがとう」
　そう言われたかずさは、一瞬、小木曽夫婦を見つめた後、髪がばさっと音をたてる程、深く礼をした。
　……二人を見送った後、かずさは、秋菜の焼いたケーキを食べた。
　「美味しい……。甘くないけど、本当に、美味しい……」
　そう言って、眦に涙を浮かべつつ、かずさは笑った。

　＊　＊　＊　＊　＊

　ピンポン。
　「すみません。カラオケと、机と椅子、持ってきました～」
　「はあい」ガチャ。「お待ちしてまし、た……」
　春希は一瞬、息を飲み……、そして、その名前を呼んだ。
　「孝宏、くん……」
　「お久しぶりです。北原さん。姉ちゃんに言われて、セッティングに来ました。お邪魔します」
　「……どうぞ」
　業者が機材を運び入れた後、小木曽孝宏は業者を帰らせる。そして、リビングの奥の窓際に置かれたカラオケを、セッティングし始める。
　「手伝おうか？」
　「ああ、大丈夫です。俺、やりますから」
　「……ごめん」
　「午前中、うちの両親が、お邪魔したんですか？」
　「うん」
　「やっぱり。俺だけ外されたか……」
　「孝宏君……。無理、させてるんじゃないか」
　「何がですか」
　「君が、望んでここに来たとは思えない」
　「いや、そうでもないっすよ」
　「でも……」
　「まあ、俺は、まだ、北原さんを許してないですよ」
　「そう……、だろうな」
　「でも、最近、姉ちゃんが、ちょっと吹っ切れたみたいな顔してるし、俺ばっかり北原さんを恨んでても仕方ないのかなあって」
　「…………」
　孝宏は手を動かしたまま、話す。
　「俺、園田亜子、っていう子と付き合ってるんです。杉浦とか、矢田とか、清水の友達なんですけどね」
　「そう、なんだ……」
　〝知ってる……。続いているんだな〟
　「きっと、結婚すると思います」
　「それは、良かった」
　「でも、俺達も、すんなり来た訳じゃないんです」
　「そ、そうなの？」
　「俺、本当は、杉浦小春のことが好きだったんです」
　「え？」
　「杉浦を好きでいながら、亜子と付き合っちゃたんです。
　何故だか、分かりますか？」
　「いや……」
　「俺、杉浦が、俺じゃない誰かさんを好きだったことを知っていたんです」
　そう言って、孝宏は一瞬、春希の目を見た。
　だが、すぐ、視線をそらし、配線に目をやる。
　「それでも、一度真っ正面から杉浦にぶつかれば良かったんでしょうけど。できなかった」
　「…………」
　「そんな俺なのに、亜子は昔っから、ずっと好きでいてくれたみたいで。
　俺は、杉浦を諦めたつもりになって、寂しい気持ちを抱えていた時に、亜子から優しくされて、何となく良い雰囲気になって、付き合い始めたんですよね。
　でも、やっぱり、中途半端だったんです、俺。
　亜子の話す杉浦の話に食いついたり、亜子から杉浦の話を聞きたがったりしてね。
　亜子は、大人しい女だけど、でも、それは感情が穏やかなんじゃなくて、実は、抱え込んでいたんです。
　ある日、とうとう言われてしまいました。
　〝自分は、小春と孝宏君の間に割り込んでしまったのかな……〟ってね」
　「そう……なのか」
　「そう言われて、悩みました。亜子と、会わない日が、三か月くらい続きました。
　誰かさん達の、冷戦期間、みたいに。
　で、亜子と別れて、杉浦に想いを伝えた方が良いのかって、思った時もあったんですよね。
　でも、俺には、そんな権利なんて、なかったんです」
　「どういう、意味かな……？」
　「卒業前に、一度、杉浦と二人で、会ったんです。
　気持ちを、ぶっちゃけて伝えようかと思って。
　で、その時、あいつの目を見て思いました。
　あいつが、あいつの想い人に抱いている想いと、俺があいつに抱いている想いの熱さは、まるで違う。
　俺の恋は、どう考えても、〝息が出来ない程の恋〟じゃなかった。
　亜子を捨てて、深く傷つけてまで、狂おしい気持ちに駆られるような、恋じゃなかったんです。
　俺は、自分の中途半端な気持ちを杉浦にぶつけるのを止めました。
　そして、杉浦への想いを終わらせました」
　「そう……なのか」
　「俺は、何時の間にか、亜子の優しさに包まれて、その方が大事になっていたんです」
　「そうか……。ごめんな……」
　「何がですか？」
　「いや……、その……」
　〝俺は、そこで、優しい雪菜を捨てた〟
　「北原さん、俺は、謝ってもらうためにこんな話をした訳じゃないです。
　俺も、冷戦期間中、亜子を傷つけてしまったと思うんです。そして、そういう想いは、俺も苦しめました。
　で、考えた訳です。
　姉ちゃんと北原さん、冬馬さんは、きっとこれよりきつい想いをしたのかなあ、って。
　そりゃ、うちの姉ちゃんが一番きついだろうけど、想いを通した北原さんや、冬馬さんも、かなりきつかっただろうな、って」
　「孝宏君……」
　「結果として、亜子を選んだ俺が、北原さんを理解できたとは言えないし、理解していますなんて、言いたくもないです。
　殴ったこと、謝る気もないです。
　でも、恋愛って、誰かが幸せになる時、その向こう側で、誰かが不幸になってしまう、……いや、場合によっては、みんな不幸になってしまうかもしれないんだな、って。
　想いを貫けば、それが、ありえるんだなってことは、分かったんです。
　……さて、これで良いかな」
　孝宏は、カラオケの電源を入れる。
　「試しに何か入れましょうか。えーと、姉ちゃんの曲入れようか……。はは。姉ちゃん、自分の曲も番号全部覚えてるんですよ」
　カラオケから『優しい嘘』が流れ出した。
　二人は、少し無言で、カラオケを聴いていた。
　「この歌、サイテーですよね」
　「…………」
　孝宏は、小さな声で歌った。画面を見ることもなく。

　〝♪　心から誰より……〟

　「って、なんなんだよ」
　「…………」
　「でも、この歌の本当の気持ちって……」

　〝♪　私の方がずっと嘘つきだった……〟

　「に、あるんですよね。
　ホントに、うちの姉ちゃんは、サイテーですよ……。
　なんで、聴く方も歌う方も、こんなにグサグサ刺される詩を書くかなあ」
　「すまない……」
　「北原さん。もう、姉ちゃんがこんな悲しい歌詞を書かずに済むように、してやって下さい。
　姉ちゃんの失恋の歌は、売れるかもしれないけど、弟として、聴いててやっぱり辛いです。
　一度は、みんな不幸になってしまったかもしれないけれど、でも、北原さんの力で、みんな幸せになれるようにして下さい。
　お願いします」
　「うん、頑張るよ……。ごめんな……」
　「もう、謝るの、なしです」
　二人は、『優しい嘘』を最後まで聴いた。
　その後、春希は孝宏を忘年会に誘った。だが孝宏は、「亜子に、北原さんと会ったって、報告しないといけないので」と言って、明るく笑って帰っていった。

　＊　＊　＊　＊　＊

　今日は12月26日、土曜日。夕方5時から、冬馬曜子オフィスの忘年会が、冬馬邸で開催される。
　参加者は、かずさ、雪菜、春希、朋、千晶、依緒、武也、小春、清水早百合、水野治彦、友近浩樹という、峰城大及び付属高等部のOG、OBに加え、松岡純夜、杉田三郎、石川真矢、下川直美のバンドメンバー、冬馬曜子、工藤美代子だった。
　当初、春希は、料理を全部自分で用意しようと張り切ってみたが、病み上がりなのと、〝お前の作る地味な料理ばかりじゃ打ち上げ気分もクリスマス気分も忘年会気分も味わえないじゃないか馬鹿野郎〟、という所属タレントの罵倒で……、パス。
　曜子の奢りで、そこそこの値段の料理がケータリングされることになった。
　リビングに十七人が座れるように、長机と椅子がセッティングされた。

　＊　＊　＊　＊　＊

　「えっと、みんな、集まったかな？」
　首元が広く開いた濃い赤のブラウスに、もこもこの白ニットを合わせ、オレンジとピンクの小さな花柄のショート丈のスカートを着た雪菜が言った。
　「そうね」
　予定者名簿を見ながら、レギュラー丈の淡い紫のワンピースを着た朋が言った。
　「それでは、冬馬曜子オフィス、2015年の忘年会を開催したいと思います～。
　パチパチパチ～」
　パチパチパチパチ……。
　「まず、簡単に、社長の冬馬曜子から、ご挨拶、申し上げます」
　雪菜は、濃い紫のスーツを着た曜子にマイクを渡した。
　「今晩は。今日は、集まってもらって、ありがとうございます。
　今年は、小木曽雪菜のファースト・アルバムの発売と冬馬かずさのコンチェルト発売、そして二人の日本ツアーの実施など、従来とは違った事業に乗り出して、成功を収めました。
　雪菜と、かずさが、才能を発揮して、良い作品を提供できるのも、オフィス全員の努力と、支えて下さる皆さんのおかげだと思っています。
　まあ、一番素晴らしいのは、金は出すけど口は出さない私の度量だと思うけど」
　雪菜は「あはは」と笑った。
　かずさは、「嘘つけ。あたしには口出しまくりじゃないか」と言った。
　「それはさておき、うちのオフィスは長年、忘年会なんか開いたことはなかったの。私と美代ちゃん、二人で食事に行く位だったかな」
　黒い襟付きブラウスにグレーのスーツを着た美代子は、うんうんと頷く。
　「それが、今日は、こんなに若い人が集まって、うちでパーティーをしてくれるなんて……。
　去年の年末には、想像もできなかった。
　かずさと、春希君が帰ってきて、そして、お友達がこうして、集ってくれること……、これらは全て、雪菜が頑張ってくれたからだと、私は思ってる。
　ありがとう、雪菜」
　「……そんなこと、ないです」
　俯いて、小声でそう言った雪菜の肩を、横にいた、かずさが抱いた。
　「雪菜のセカンド・アルバムが2月にリリースされます。リリース直後、東京と大阪でレコ発のコンサートがあります。これは、オーケストラを入れた、ゴージャスなものになる予定です。春以降、雪菜はバンドの方の曲作り、録音を進めます。
　それから、かずさの『ゴルドベルク変奏曲』と、先日のラフ二、チァイコンのライブのBlu-Rayが3月にリリースされます。その後、春にはかずさのヨーロッパ・ツアーがありますし、実はベルリン・フィルとウィーン・フィルからの共演依頼があります。
　来年以降、うちのオフィスは、名実共に冬馬かずさ、小木曽雪菜の二人を中心に商売していくことになるでしょう。
　ということで、私は、明後日の月曜日、マスコミ各社を通じて、引退を表明しようと思います。
　病気のことも、発表しちゃうつもりです」
　これは既に、オフィス内部では周知されていることだった。
　「今後は、実質的な会社運営を、北原春希マネージャーに任せたいと思っています。なので、皆さん、今後とも、かずさ、雪菜、北原君……、三人のこと、よろしくお願いします」
　そう言って、曜子は軽く礼をした。
　「……では、乾杯しましょうか。みなさん、グラスにシャンパンを注いで下さい。乾杯の発声は、冬馬かずさがします」と雪菜は言った。
　白いピッタリした襟付きブラウスに、ドッグ・トゥース・チェックのカシミアのミニスカートを履いて、太く赤いベルトを斜めにかけた、かずさが前に出る。
　「えっと、皆さん……」
　それから、少し間があった。
　「なんて、言ったら良いのか……。言いたいことがありすぎて……」
　「グラスの泡が消えるまでだよ～」と、依緒が言った。
　「それじゃ、伝えきれないよ、依緒……」
　かずさの目は、少し泳いでいた。
　だが、唇を軽く噛むと、すぐに前を力強く見据えた。
　「でも、よく考えたら、言いたいことは全部、言ってしまった気もする。
　それにあたし達は、何時も音楽で会話しているから」
　〝そうね〟と、雪菜は思った。
　「だから、一言だけ。
　ここまで、あたし達に付き合ってもらって、どうもありがとう。
　来年以降も、心配かけると思うけど、よろしくお願いします。
　じゃあ……」かずさは、グラスを掲げる。「乾杯！」
　「「「かんぱ～い」」」
　「後は適当に食べて、適当に飲んで下さい」
　曜子からクリスマス・プレゼントとして送られた、ジバンシーの濃いグレーのスーツを着た、春希がそう言った。
　「ご覧の通り、カラオケ借りてあるから、勝手に歌ってね～」と、雪菜。
　「何言ってんの。どうせ、あなたがオン・ステージするために借りたんでしょ」と、朋が言った。
　「そんなことないよ。今日は十曲位に、制限するんだから」
　「十曲だあ？」
　「じゃあ……、十二曲？」
　「増やさないでよっ」
　「むー」
　「あんまり、暗いの歌ったらダメよ」
　「分かってるよ」

　…………。

　「しかし、このリビングのだだっ広さは一体なんなんだ」
　酒の飲めない杉田は、アップルタイザーを持って言う。
　「確かに。この前、北原がぼやいてたよ。光熱費がばかにならないって」
　明るいグレーチェックのイザイアの細身のスーツを着こなした松岡が、赤ワインを片手に言った。
　「それにちょっと俺、服装間違えたかな。場違いな感じがする……」
　リーバイスのジーンズに、コロンビアのネルシャツを着た杉田は、小声で言った。
　「そんなこと気にしなくて良い。あれ見てみろよ」
　松岡は、曜子の隣で日本酒を飲んでいる天才女優にグラスを向けた。
　千晶は、ビンテージ・ジーンズに、体にピッタリした縦縞のタートルネックのセーターを合わせている。
　「あの、何処であろうと堂々と寛いだオーラ……。あれで良いんだよ」
　「確かに」
　「服は着るもんだ。どんなに良い服でも、着られてちゃだめ。
　まあ、来年は、雪菜に色々なところに連れ出されるだろうから、良いスーツ、何着か買っといたら」
　「そうするわ」
　「下川さんに付き合ってもらえよ」
　「なんで、下川さん？」
　「彼女、おしゃれだから」
　松岡は、ウインクして言った。

　…………。

　「千晶、このボトム、俺が送ったやつか？」
　「そうだよ」
　「うん。良い感じで履けてると思う」
　「ホント、ピッタリなんだよね……」
　「そうだろ」
　「あたし、あんたの部屋で寝てしまった時、色々、さわさわと測られちゃったのかなあ？」
　そう言って、千晶は上目遣いで春希を見る。
　「いやいや、そんなことは絶対にない」
　「ふーん……」
　「と、ところでそのセーターはちょっと地味じゃないか」
　「派手だよ。だって、胸のところ、開くんだもん」
　千晶はそう言って、左手の脇の当たりに隠れていたファスナーを一気に引いた。
　レースを使ったワインレッドの少し透けたブラに包まれた、白く深い谷間が大きく露わになり、春希の目が釘付けになった。
　テーブルの向こう側で松岡が口笛を吹き、杉田がアップルタイザーを吹いた。
　「ねっ」
　「ねっ、じゃねーよっ。ちょ、お前、これ、例のセーターじゃないかっ」
　「そのファスナー付き」
　「は、早く閉めろよ」
　「春希が閉めてよ。春希なら、何時でも開閉してくれて良いんだよ～」
　そう言って千晶は、ファスナーを繰り返し開閉した。
　ジージージージーと音をさせているところに、かずさが飛んできた。
　「お前な、いい加減にしろ！」
　春希の後頭部を叩くと、首根っこを掴んで連れて行った。

　…………。

　「それじゃ～、そろそろ、わたし、歌いますね～」
　ほんのり、顔を染めた雪菜が、白いラベルのCDをプレイヤーに入れて、カラオケマイクをとった。
　「じゃあ、前の方で聴きましょう、水野先生」
　「そうですね、友近議員」
　雪菜に恋する男二人が、グラスを持ったまま、カラオケの側に移動する。
　パチパチパチパチ……。
　「じゃあ、最初の曲は、わたし達の出会いの歌、『White Album』（live at campus fes）～」

　♪　タラララン、タン、タ、タラララン……

　人懐っこい、優しくて、甘酸っぱいイントロが流れ出す。

〝♪　すれ違う毎日が……〟

　〝ね、分かるかな。春希くん。
　この曲の一番ね。わたしの失敗を書いているだなって、思う。
　わたし、二人会えなくても、全然、平気じゃなかった。
　全然、平気じゃなかったよ。
　なのに、強がり言って、本当は、溜め息まじりで……。
　かずさの凱旋コンサートから逃げて、あなたが大阪出張中のわたしを訪ねてくれた時、簡単に決壊してしまった。
　あなたに、強く抱かれて、かずさから目を背けようとした。
　わたし、覚悟が足りなかった。
　あの時、絶対に、あなたに甘えちゃいけなかった。
　かずさを支えるあなたを、しっかり支えなければならなかったのに。
　もしも、恋に、勝ち負けがあるとするなら……。
　わたしは、大阪であなたに抱かれた夜、かずさに負けたんだ、ね〟

〝♪　降り積もるさびしさ……〟

　〝かずさ……。
　あなたは、何で、あんな嘘だらけの汚くて卑怯な男を好きになったの？
　ううん……。そうじゃない。
　あなたには、春希くんの、わたしを思ってつく嘘や、あなたの前でする強がりは、それが全部嘘でも虚構でも、どうでも良かったのよね。
　言葉の嘘なんて、あなたには関係なかったんだわ。
　だって、あなたは春希くんを愛して、信じていた、から。
　あなたはきっと、彼の、匂いを感じているのね。
　甘くて、優しい、愛しい、魂の匂いを嗅ぎ分けていたんだわ。
　わたしには、それが出来なかった。
　だから、降り積もるさびしさに負けてしまったんだね〟

〝♪　過ぎていく季節に……〟

　〝でも、もう、わたしは、かずさには、負けないよ。
　わたしは、強くなったもん。
　そして、これからもっともっと、強くなる。
　そして、心の空白を埋めていくの。
　だから、覚悟して側にいて、かずさ〟

　「雪菜……、ますます良い声になったなあ……」
　モエのネクターを右手に持って、かずさは雪菜の声をうっとりと聴いていた。
　「ああ」
　横にいた春希も感心した顔で聴いていた。
　「付属の頃よりしっとりと滑らかで、ファースト・アルバムの頃よりほんのりと華やかで……」
　「圧倒的に上手くて、そして、何時もより明るいな」と、春希が言った。
　〝明るい、声？　……ホントだ〟と、かずさは確認する。
　〝雪菜……、ひょっとして、あたしを、許してくれる、のか？
　良いのか？
　ごめん、あたし、ごめん、勝手に、許されちゃうぞ？
　良いのかなぁ、雪菜……〟
　雪菜はかずさの目を見て、微笑んだ。
　かずさは笑って返す。そして、体が熱くなって、涙が出そうになる。
　雪菜の声が明るい表情を帯びて、一層、魅力を増した。
　それが、聴いている、みんなにも伝わった。
　「おっと……、こりゃかなり、吹っ切れたね」
　小春に「東洋美人」を注いでもらいながら、千晶が言った。
　「ホントですね。雪菜さん、前にも増して良い声……」
　「そうだね。……もう次を見据えてるんだな、雪菜は」
　「はい。もっと大好きになりました」

　…………。

　「じゃあ、次は、あたしが歌う」
　歌い終えた雪菜に抱きついていた、かずさが言った。
　「何を歌うのかな～」
　「『Sound of Distiny』（live at campus fes）～」

〝♪　愛という形無いもの……〟

　〝ホントに、良い声だよ、かずさ〟
　雪菜は、低いトーンのかずさの声の、素直さ、暖かさにうっとりする。
　〝やっぱり大好きだよ、かずさ。
　きっとあなたは、愛という形に、とらわれてないんだろうな。
　ただ、心臓がとまるような恋があることを、本能的に知っていたのね。
　そして、春希くんを信じて、愛し続けてきたんだろうね。
　ホント、この歌は、あなたそのもの。
　ラクをせず、尽きることのない情熱そのものよ、あなたは。
　ホント、熱すぎるよ〟

　かずさは、雪菜のセカンド・アルバムの収録の軽い打ち上げで、ナイツ・レコードの担当者から、ボーカル・アルバムを出しませんかと、持ちかけられていた。
　だが、かずさは丁重かつ即座に断った。
　〝自分が声で伝えたいことの全ては、雪菜が一番上手く伝えてくれるから〟と。
　……実はたった一枚だけ、誰にも内緒で、十曲入りのプライベートなボーカルCDを作成した。
　春希に強くせがまれたからだ。
　「あたしはピアニストだ。もう歌わないぞ。……そ、そんなに悲しそうな目で見るな！」
　結局根負けしたかずさは、その一枚を春希だけのために作成し、クリスマス・プレゼントにした。

〝♪　傷ついて……〟

　二番の歌詞を聴く時、春希は、雪菜は、かずさは、それがあまりにも真実すぎて、心に迫った。
　歌うかずさを並んで見ていた、雪菜と春希は、一瞬、見つめ合った。
　雪菜は笑い、春希は、少し困った笑いを返す。

〝♪　ララ　星がいま……〟

　かずさは、そう歌って、雪菜に手を伸ばした。
　雪菜はかずさに導かれ、前に出ると、カラオケの裏側に立てかけてあった青いSCHECTERを手に取り、ギターアンプの電源を入れた。

　♪　タラ、タタタタタ……

　そして、雪菜の左手の指が、フレットの上を舞う。
　右手のピックが、強く弱く、熱く冷たく、弦を弾いていく。
　SCHECTERが高速で太い音を鳴らした。

　「うわ何、雪菜さん。何時の間に、こんな速弾きを……」
　後ろの方で聴いていた下川直美が驚いた。
　「この人はホントに、見えない所で、どれだけ努力してるんだろう」
　隣で聴いてた石川真矢も呆れた様な声で言った。
　「これは……、負けらんないね」
　「うん……」

　…………。

　「まあまあだな」と、かずさは雪菜に言った。
　「今の段階で、かずさの〝まあまあ〟がもらえるなら、十分かな」
　「そうだな」
　「うふふ。じゃあ、もう一曲行こうか」
　「ああ。次の曲は？」
　「『届かない恋』（live at campus fes）～」

　春希は、横にあったマイクスタンドを持ってきて、雪菜の前にセットして、マイクを付けてやる。
　シンセサイザーが鳴り、スネアがタン、と落とされる。
　雪菜が、キレ良く、ギターをカッティングする。
　そして、音程が低く、少し入るのが難しい歌い出しにも、難なく入っていく。
　二コーラス目を終わって、ブリッジを経た後の、ギターソロ。
　ここでも雪菜は、果敢に弾いた。
　それも、松岡が弾いた、16年ヴァージョンで。
　かなり無茶ぶりの、狂気をはらんだようなソロのため、雪菜は何回かミスをした。それでも雪菜は、楽しそうに、弾き切った。
　その弾き姿が格好良すぎて、可愛らしすぎて、みんな、惚れ惚れしてしまう。
　朋は、真ん前に横座りで座り込み、雪菜を見つめて、一心不乱に聴いていた。
　「おい、春希、お前、泣きそうになってんだろ」
　かずさが、春希に耳打ちする。
　「なってないよ」
　「嘘付け」
　「嘘だよ。そうだよ。悪いか……」
　春希は、目尻を拭った。
　「いや、悪くない。良い、感じだよ」
　かずさは、軽く春希の尻を叩いた。
　〝雪菜は、本当に凄い。こんなに嬉しいのに、こんなにちょっと寂しくさせられて、俺は、困る〟と春希は思っていた。

　＊　＊　＊　＊　＊

　パチパチパチパチ……。
　「ありがとうございました～。じゃあ、引き続き飲んで下さい～」
　雪菜は、ギターをケースに仕舞った後、水野や、友近と話し、それからキッチンに向かった。
　待っていた春希が、雪菜に冷えた水を渡す。
　「お疲れ様。凄く、良かったよ」
　「ありがとう～」
　「ギター、上手くなったよな」
　「うん。かなりね、練習した」
　「もう、俺が弾く必要は、ないな」
　「……そう、だね」
　「……そう、だな」
　「春希、雪菜」
　「かずさ」
　「どうしたの……。なんか、あった、か？」
　「ううん」
　雪菜が、キッチン入口を出て、かずさの横を通り過ぎようとした時、後ろから春希が声をかけた。
　「雪菜、大事な話があるんだ。どうしても、聞いてもらわないといけない……」
　かずさは、春希の方に顔を向けて、凝視した。
　雪菜は、かずさの横で立ち止まり、春希に背を向けたまま、「……うん。わたしも」と言った。
　そして、かずさの方を向いて、「こっちで、話そうか」と言った。
　「良い、のか」と、春希は言う。
　「良いんじゃ、ないかな？　かずさも、来て」
　三人は、キッチンの前に移動させておいたソファーに、雪菜、春希、かずさの順に座った。
　参加者全員、三人の雰囲気が変わったことを察知して、気にしないフリをしながら、何が始まるのか、息を飲んで聴いていた。
　特に、一番近くに座っていた曜子は、視線を隠しもせず、三人を見ていた。
　その横で、千晶は落ち着いた顔をして、酒を飲んでいた。
　朋が、背中を向けて聴いていた。
　「…………」
　「先に言っても、良いかな」と雪菜が言った。
　「ああ……」
　「『さよならのこと』のことなんだけど……。って、なんだか変な言い回しだね」
　「ああ」
　「あなた達が日本に帰ってくるまでの二年間、わたしがあなた達を連れ戻すために頑張ってきた二年間、わたし、色んなことを考えてた」
　「うん……」
　「もう、殆どのことは伝えてしまったし、歌ってしまったから、改めて話すことは、もうないけれど」
　「うん」
　「わたし、『さよならのこと』を歌いながら、ずっと考えてた。
　ひょっとしたら、あなた達を待っている二年間、その中で、少しずつ〝さよなら〟を言うための作業をしていたのかもしれないって……」
　「雪菜……」
　かずさの声が震えた。
　「わたしは、愛情を憎悪に変えることができなかった。
　だから、情愛に変えるよう、努力したの。
　わたしも、春希くんが書いてくれたように、あなたに、かずさに、出会えない未来なんて嫌だよ。
　だから、あの時のわたし達がたどり着けなかった場所に、答えを見つけようとして、必死に藻掻いて、ここまで来たんだと思う」
　「うん……、あの、雪菜……」
　「もう、謝るのは、なしだよ」
　「ありがとう……、とは、言っても良いんだろ？」
　「うん」
　「じゃあ、次は俺が話しても良いか」
　「……うん」
　「『Answer』の中で、『何時か、あなたが温めてくれると、私は信じている』って、君は歌ったけれど、俺は、もう、それを、愛情で温めてやることはできないんだ。
　俺は、君がどれだけ、求めてくれたとしても、もう決して、振り返ることはできないんだ」
　「……うん」
　「かずさを、愛してるから」
　「……うん」
　「かずさを、愛して、る」
　春希の声が、震えて行く。
　両手の爪が、掌の肉に食い込んでいく。
　「……う、ん」
　雪菜の声も、震える。
　「かずさを、愛して、る」
　「やめてくれ、春希！　もう、止めてくれ！
　雪菜も、もう、頼むから、止めてくれ……」
　かずさは、春希の背中側から、叫んだ。
　「かずさ、もう少しだから。もう少しだけ、春希くんを貸して」
　雪菜は、震える声のまま、かずさに言う。
　「愛して、いるんだ」
　「う、ん……。よく分かってる、よ……」
　「だから、俺は、君の愛する俺には、戻れない。
　君を愛する俺には、戻れない。
　なれるとしたら、俺が君の何かになれるとしたら、君の親友にしか、なれないんだ」
　「そう、だね……」
　「でも、もし君が、それを許してくれるなら、俺は、もう二度と、雪菜を一人にはしない。君にもし、嫌われてしまったとしても、君が他の誰かと結ばれたとしても、俺からは絶対に雪菜の側から離れない。
　ずっとずっと、三人で、親友でいる。
　愛情で温めることができないなら、情愛と友情で、温めたい。
　それでも、良いか？
　側にいても、良いか？」
　「……ピンポン。正解」
　「ばか……。なんでこんな時に、チャラけるんだよ」
　「だってだって、凄く凄く嬉しいんだよ。
　そして、凄く凄く、寂しいんだよ。……悲しいんだよ。
　それしかないって、分かっていたのに、あなたにそう言わせるために、頑張ってきたのに、でもでも、凄く凄く、寂しくて、悲しいんだよ。
　冗談でも言わないと、心が折れそうなんだよ」
　「ごめん……、雪菜……」
　「もう……、春希くんのばか。もう謝らないでって、言ったじゃない」
　「ごめん……」
　「もう、わたしを一人にしないで。ずっと、そばにいて。
　ただ、そばにいて、聞かせて欲しいの。
　……あなたのお説教を」
　ふっと、雪菜は小さく笑った。
　「分かってる、雪菜。俺とかずさは、二度と、お前を一人にはしない。お前を離しはしない」
　「やっと、〝お前〟って呼んでくれたね、春希」
　雪菜は、小首を傾げて、そう言った。
　「雪菜……」
　「あなたがわたしを、お前って、呼んでくれるなら、わたしも、あなたを、親友のあなたを、春希って、呼び捨てにしてあげる。
　大好きだよ、春希……。凄く、凄く愛している」
　「雪菜……」
　春希は〝俺も愛している、雪菜〟という言葉を飲み込んだ。
　「でも、わたし、春希をふってあげる。
　二人の、無理矢理引き剥がした、抉り取られた傷跡に、三人の情愛と友情が、満たされたと信じて、わたしは、春希をふってあげる」
　「うん……」
　「雪菜ぁ。雪菜ぁ……。ごめん……、ごめん、な……」
　かずさが堪えきれず、立ち上がり、二人の間に割り込んで、雪菜に抱きついて、泣きだした。
　「ずるいよ、かずさ。そんなに泣かれたら、わたしが泣けなくなっちゃうでしょ」
　「う、うるさい」
　「春希、わたし達を、抱っこしてくれないかな」
　「ああ、喜んで」
　春希は、かずさと雪菜を抱きしめる。
　春希は、少し苦い、幸せを噛み締めていた。
　回りの人々は、三人の時計が動き出したことを知り、杯を傾けた。

　＊　＊　＊　＊　＊

　「終わった、のかな」依緒が呟いた。
　「ああ、あいつ等なりの結論は出たみたいだな」
　武也が呟いた。
　「こんな終わり方で良いのか……。本当に雪菜は、春希とかずさの恋愛を受け入れて、あの二人と付き合っていけるのか」
　「そんなこと、分かるかよ。……でも、あの三人がいて、俺たちがいて、物語が平穏に進む訳がない」
　「そんな無責任な」
　「俺は無責任だよ。そうじゃなけりゃ、こんな最低の男が、お前みたいな身持ちの固い女に、何時迄も交際を迫ったりしない」
　「武也……」
　「なあ、依緒。高校受験の時の約束、覚えているか」
　「峰城大付に受かったら、何でも一つだけ命令を聴くっていう、あの話？」
　「俺、今、その命令をしたいんだけど」
　「な、なんだよ。い、言ってみろ」
　「俺と結婚しろ、依緒」
　「え……。う、嘘だろ」
　「本気だよ」
　「う……、そ……、こんな所で、言うのかよ」
　「お前、中三の時、〝受かったら、あたしを好きにして良い〟って、言ったよな。
　俺は本気だ」
　「……良いのか？　あたしなんかで」
　「何言ってんだよ。お前じゃなきゃ、ダメなんだよ」
　「…………」依緒の目尻に、涙が染出た。
　「依緒？」
　「……じゃ、じゃあ、あたしの命令も聴くんだよな？」
　「俺の命令をチャラにしろっていう命令は、なしだぞ」
　「武也……。あたしを、幸せにしろ。結婚、するなら」
　「依緒……、本当か？」
　「命令、だぞ」
　「当たり前だっ。絶対っ、絶対に、遂行するよっ。
　おい、春希っ」
　「ばっ、ばかっ。武也、何するつもりだよっ」
　「なんだ？」と、春希は言う。
　「俺達、結婚することにした！」
　歓声が上がり、「おめでとう！」の声が聞こえた。
　「悪りぃ。お前ら、全員証人になってくれっ。
　依緒の気が変わらないうちに！」
　武也が上気した声で言った。
　雪菜が、依緒の元に駆け寄って、抱きしめる。
　「依緒っ、依緒っ。おめでとう！」
　「あ、ありがとう……」
　「雪菜ちゃん、ありがとう」
　「な、何言ってるのよ、武也くん。わたしはなんにもしてないよ」
　「違うよ、雪菜」と、依緒が言った。
　「雪菜が、頑張ってくれたから、なんだ。全部、雪菜が頑張ってくれたからなんだよ。ありがとう、雪菜」
　「ううん……。依緒、おめでとう」
　雪菜はそう言って、依緒を強く抱きしめていた。
　武也と春希は握手し、その後ろで、かずさと朋が、笑い合っていた。

　…………。

　「あ～あ……。終わっちゃったよ」
　千晶が、諦めたような目をして、独り言ちた。
　「寂しい？」
　隣に座り、貴腐ワインを舐めていた曜子が、声をかけた。
　「そうですね。でも、だいぶ、遊ばせてもらいました」
　「これからも、あの娘達の親友でいてくれる？」
　「もちろん」
　「ありがとう。千晶ちゃんが、タイミング良く雪菜を助けてくれたから、雪菜は強くなれたし、あの二人も帰って来れたのよ」
　「いや～。雪菜は元から強いですよ」
　「ねえ、千晶ちゃん、うちの事務所と契約しない？」
　「えっ」
　「春希君、そっち方面の興業にも、関心があるみたいよ」
　「そうなんですか～。いや～、ありがたい話だなあ～」
　「それにあなた、圧倒的に歌が上手いし。歌手業でも、雪菜のライバルになれるんじゃない？」
　「えっ。まぁ、歌にも、それなりに自信ありますけど」
　「活動に関しては、あなたの好きなように企画してくれたら良いし……。
　どう？　考えてくれない？」
　「えっと……」千晶は、ぐいっとグラスを空けた。
　「今は、ちょっと無理です」
　「何故？」
　「ミイラ取りのミイラのお姉さんも、そろそろ、違う男を探さないといけないので……」
　「あら、そう来たか」
　「はい。あたしは一旦、あたしの世界に帰ります」
　「そうなの……。でも、私はあなたを気に入ってるから、また声をかけるわよ。その時まで、考えておいてね」
　「はい」
　〝次の芝居にのめり込もう。全くやったことのない、違うタイプの役を演じてみたい。この寂しいような、嬉しいような、むず痒い想いは、きっとあたしを、もっと高めてくれるはずだ〟
　「そうでなきゃ、ならない」と、千晶は独り言ちた。

　…………。

　「小春も、さすがに諦めついたんじゃない？」
　ワイングラスを傾けながら、清水早百合は言った。
　「諦めって、何」
　少しぶすっとした声で、同じ赤ワインを飲んでいた、小春は言った。
　「ホント、素直じゃないなあ。可愛くない」
　「どうせ可愛くないですよ」
　「可愛いわよ」
　「どっちなのよ」
　「雪菜さんに遠慮して、意地張ってウジウジうろうろしてるあんたは可愛くない。でも、北原さんに恋するあんたは可愛いわよ」
　「ななななな、何言ってんのっ」
　「ばか、大声出さないの」
　……「はは。な、何でもありません」
　「あんたは……。乙女か？　乙女なのか？」
　「うるさい……。知ってるくせに」
　「ねえ、あのトライアングルは鉄壁だよ」
　「……分かってるわよ」
　「あの雪菜さんでさえ……、なんだよ？」
　「…………」
　「諦めなって」
　「早百合……、もう少しの間、わたしには片思いの誰かさんがいる、ってことにしておいてくれないかな」
　「何言ってんの。そんなこと言ってたら、何時迄も他の人と恋愛できないよ」
　「そんなに、長い間じゃないから」
　「って、何時まで」
　「そうね……。亜子が結婚するまで、かな」
　「あんた、やっぱり、おぎ……」
　「ストップ！」
　「小春……」
　「ね。いいでしょ。もうちょっとだけ、夢を見させてよ」
　「……分かった。じゃあ、あいつ等には早く片付いてもらおう」
　「うん。ありがと、ね」

　＊　＊　＊　＊　＊

　「さて、そろそろ遭難者が出てきましたので、お開きにしようかなと思います」
　雪菜が、カラオケのマイクで言った。
　遭難者とは、武也のことだ。よっぽど嬉しかったのか、飲み過ぎて、ソファーで寝てしまった。もちろん、依緒の膝枕付きだ。
　「最初の挨拶で社長も言ってましたが、来年の春、かずさと春希くんは、ヨーロッパ・ツアーに行っちゃいます。
　きっと、寂しくて困っちゃうと思うんですけど、その間に、バンドの方の曲作り、録音、イベント参加なんかをやっていくつもりです。
　で、うちのバンドの四人は、ホントに曲作りに才能があって、わたしが一番、ビリッケツなんですけど、でも、わたしも頑張って、曲を作っていくつもりです。
　ということで、最近作った曲をご披露して、それで今日は終わりたいと思います。
　春希、椅子を二つ、くれないかな？」
　「了解」
　地下スタジオから持ってきていたパイプ椅子を、春希は二つ置いた。
　雪菜と松岡が、用意していたアコースティック・ギターを抱えて、座る。
　……雪菜の持ってきたギターは、春希が使っていた、あの安物のギターではなかった。
　〝Taylorっていう、メーカーなんだよ。女の子にも、弾きやすいんだ。
　あのギターは、ちゃんとお葬式、したからね〟
　「純夜さん、結構飲んでましたけど、行けます？」
　「雪菜よりはましだよ」
　「では、歌います。題名は『恋のような』」
　雪菜は、ギターのボディを、コン、コン、コン、コンと叩いた。
　♪　タラララン、タラララン、タララ……、と、松岡がイントロを弾く。
　そして、雪菜のTaylor 612が、明るいストローク音を響かせる……。

〝♪　選ぶ色も服も違って……〟

　「うわ……、なんて歌作るんだよ、雪菜。
　恥ずかしい……」
　一番と二番の間で、かずさが言った。
　「嬉しいくせに」と、春希が背中をポンと叩く。
　「そうだけどさあ……」
　かずさは、両手で顔を覆った。

〝♪　もしあなたが男の子だったら……〟

　〝なんだよ、雪菜……。
　この歌の中、俺、全然いないじゃないか。
　完全に追い出されちゃったな……。やられたよ〟
　春希は、かずさを見て、少し嫉妬する。
　かずさは、頬を染めて、雪菜が歌うのを見ていた。
　本当に、嬉しそうに……。

　＊　＊　＊　＊　＊

　「じゃあね、かずさ」
　玄関で、雪菜はかずさに言った。
　「ああ」
　武也は依緒と、千晶は小春と、それぞれ帰って行った。
　美代子は、まだ、曜子と飲んでいる。
　「わたし達、今からもうちょっと飲みに行くけど」
　「いや、あたしは止めとく」
　「そう……」
　かずさが、雪菜の右手をとる。
　「お前こそ、もうちょっと残らないか」
　「ううん。今日は、帰るよ」
　「そうか」
　「うん……」
　かずさは、両腕を雪菜の背中に滑らせて、抱きしめる。
　「えっと……。かずさ」
　雪菜も、両腕をかずさの背中でクロスする。
　……二人は、深く抱き合った。計算も、虚勢もなく。
　ただ、お互いを愛おしく思う、無垢な心で。
　「雪菜、まだなの……、おっと取り込み中か」
　朋が玄関のドアを少し開けて、すぐ閉めた。
　「お前ら、明後日、ミックスダウンで会うだろ」と春希は言う。
　「「分かってるよ」」と二人は答え……、顔を見合わせて笑った。
　「じゃあ、気をつけてな」
　「うん。お休み」
　そして、雪菜と、朋と、早百合と、バンドメンバーと、水野と友近は、タクシーに乗った。
　かずさと、春希は、玄関先まで出て、車を見送った。
　車の姿が見えなくなると、かずさは、春希の手を握った。
　「雪菜、帰っちゃったな……」
　「寂しいのか」
　「ちょっとだけ……。ちょっとだけだぞ」
　「明後日、会えるじゃないか」
　「そうだな……」
　「俺達は、何時だって会える」
　「うん……」
　「お前、そんなんじゃ、来春のヨーロッパ・ツアー中、寂しくて困るぞ」
　「雪菜、ツアーに同行してくれないかな？」
　「同行は無理だとして、英、仏、独語ができるんだから、三カ国くらいなら、雪菜もツアーできるんじゃないか」
　「やろう！
　おい、春希。あたしのツアー日程に合わせてよ」
　「お前のツアーに合わせるのは無理かな……。
　時期が違うんだが、5月下旬のデュッセルドルフの『Japantag』とか、7月上旬のパリの『Japan Expo』でライブできないかな。10月のロンドンの『Japan Matsuri』はちょっと外れてるけど……」
　「良いじゃないか。一緒に、回りたいな……」
　「ああ……」
　「あ、春希……、雪だ」
　「ホントだ」
　「Powder Snowだな……」
　「うん……」
　「春希、あたし、お前に言っとくことがある」
　「何だ」
　「あたしは、絶対、雪菜から離れたりしない。絶対に、絶対にだ」
　「分かってる。俺だって雪菜から離れたりしない。約束だからな……」
　「お前、覚悟しておけよ」
　「何を」
　「雪菜が、他の男と素敵な恋愛をして、お前の側で幸せを見せつけても、あたしは絶対、雪菜から離れたりしないからな」
　「…………」
　「お前が、身悶えするような嫉妬にかられて、雪菜から離れて暮らしたいと思っても、あたしから離れて暮らしたりできない以上、無理なんだぞ」
　「分かってるよ」
　「どんなに、雪菜に恋焦がれても、あたしを愛することしか、できないんだからな」
　「ああ、分かった。覚悟しておくよ」
　「ふん。その時が楽しみだ」
　かずさは、憎らしく笑う。
　だが、その笑みを、春希は本当に可愛く思った。
　「愛してるよ、かずさ。ダメな俺を、助けてくれよな」
　「何言ってるんだ、春希。
　『ダメなままでいてくれ。俺が頑張れるように』って言ったのはお前だろ。お前はしっかりしてろ。ばか……」
　「そうか……。そうだったな」
　春希は苦笑した。
　「あたしはもっと、ダメな女になるんだからな。
　説教好きで、マザコンで、黒髪ロングが好きで、おっぱいフェチで、何時迄も少年のような可愛い顔をした夫に、ダメダメに甘えて、デレデレと人生を過ごす予定なんだからな。
　近いうちに、子供だって、作るんだからな」
　「えっ」
　ちょっと驚いた顔をした春希に、かずさは抱きついて、キスをする。
　春希は、かずさを抱きしめる。
　閑静な住宅街に一際目立つ豪邸の玄関で、二人は、強く抱き合い、長い長いキスをした。
　優しく降る、粉雪に見守られながら……。

　暗　転

（『愛する心』が流れる）

〝♪　本当に油断していた……〟

出　演

冬馬　かずさ
小木曽　雪菜
北原　春希

和泉　千晶
柳原　朋

水沢　依緒
飯塚　武也

松岡　純夜
杉田　三郎
石川　真矢
下川　直美

水野　治彦
友近　浩樹

工藤　美代子
清水　早百合

北原　希子
小木曽　晋
小木曽　秋菜
小木曽　孝宏

山口エンジニア

鳴瀬　望
（友情出演　from テレビドラマ「それが答えだ！」）

高柳　憲正

杉浦　小春
風岡　麻理

冬馬　曜子

（エンドロール後）

　冬馬邸を後にした、雪菜、朋、早百合、石川真矢、下川直美と、松岡、杉田、水野、友近は、雪菜の隠れ家、例のジャズ喫茶で飲んでいた。
　「しかし、ああは言ったものの……、やっぱり、気が晴れないなあ。
　なんだか、だんだん腹が立ってきたというか」
　赤ワインの入ったグラスを見つめている、雪菜の目は座っていた。
　そろそろ、危なっかしい酩酊状態になってきたようだ。
　「やっぱり、付き合ってた時に、春希を説得して、思い切って産んじゃえば良かったなあ……」
　その雪菜の発言に、一同、目が点になった……。
　「へ、へぇ～、危ない時、あったの？」
　朋が、意地悪っぽく訊く。
　「危ないなあ、と思った時はあったけど、結局、そうはならなかった……」
　「そ、そうなんだ～」
　「ねえ、水野先生、質問があります」
　雪菜は、とろんとした目を水野に向けた。
　「なんでしょうか」
　「春希の精子で、わたし、人工授精することはできませんか？」
　男四人、飲んでた酒とコーヒーを吹き出す。
　「ごほっ、ごほっ。せ、雪菜、お前、何言い出すの」と、松岡は咳き込みながら言った。
　「あ～も～、みんな、お行儀が悪いなあ」と言って、雪菜は布巾でテーブルを拭いた。
　「そ、それじゃあ、水野先生のお力を借りて、生んじゃいますか」と、早百合が言った。
　「そうだね、それくらいのことはさせてもらわないとね」と、朋。
　「出産予定日は何時頃にしますか」と、石川真矢。
　「つわりの時期はツアー無理ですからね」と、下川直美。
　「雪菜さんも、君達も、ムチャクチャなこと言わないで」と、水野は狼狽えた声で言った。
　「なんでですか～。無理なんですか～」
　雪菜は、色っぽい目で水野を見た。
　「いや、合意があれば無理じゃないけど」
　「わたしね、もう彼氏とか、セックスとかは、今んところ、ちょっといらないかなあ、って感じなんですよ～。
　心と身体、両方開くことのできる男には、もう会えそうにないし」
　「雪菜さん、ここに結構良い男が何人か並んでますけど」と、早百合。
　雪菜を狙う男達は、全員沈黙している。
　特に松岡は、苦々しい顔をしていた。
　「そうですよね。皆さん、良い男ですよね……。
　でもでも、今の所は、ちょっと、本当に、ごめんなさい」
　雪菜は、ぺこりと頭を下げた。
　これは、結構、酔っている。
　「でも、子供は欲しいんですよ～。
　ねえ、水野先生。春希に合意を取るのは難しそうだし、かずさを泣かせるのも嫌だから、なんとか騙して、精子をとってきてもらえませんか。
　それで、人工授精させて下さいよ～」
　「えと、そこまでいうなら、やれないことはないけど。
　例えば、向こうのカップルが子供を欲しがってるなら、一度、検査した方が良いとか、脅して、北原さんを病院に連れて来て、そこで採精して、その……、人工授精するとか」
　「水野先生、危ないことに加担するんじゃないの。全く、あんた雪菜さんに甘過ぎるよ」と、友近。
　「ただ甘いだけじゃないよ。ばれたら医道審議会にかけられそうなくらい、危ない橋を渡るんだから、僕にも見返りがほしいな」
　「どんな見返り？」
　雪菜は、とろんとした目で、水野を見つめた。
　「かずささんを傷つけないためには、自分が赤ちゃんの父親だと、名乗る人が必要だよね？」
　「確かに……」
　「僕は将来的には街の開業医だから、そんなには裕福な生活はさせてあげられないけど、雪菜さんと、子供数人なら、充分養っていけるよ。
　もちろん、アーティストの活動は続けても良いから」
　「えっと、水野先生、今のプロポーズですか？」
　雪菜は、少し驚いた目をして言った。
　「いや、それ程、正式なものじゃないけれど。
　もしも、今日で一区切り付いたなら、正式に雪菜さんのパートナー候補に、参戦させてもらっても良いのかなと」
　「本当に、こんなわたしで良いんですか？」
　「もちろんです。あなたの子なら、あなたと一緒に愛せる自信があります」
　「ありがとうございます。……じゃあ、作戦成功の後で考えさせてもらいます」
　「こらこら、水野先生、一人で売り込まないで下さいよ。俺だって、頑張って養うよ。どうですか。将来の首相夫人て言うのは」と友近が言う。
　「ええと、ありがとうございます。でも、友近くんは、まず友達からね」
　「ふふん。当選への道は遠いですね、友近先生」と、朋は毒づいた。
　「純夜さんと、杉田さんは口説いてくれないの？」
　調子に乗った雪菜は軽口を叩いた。
　「あの、雪菜ちゃん、この中では俺が一番不利だとは思うだけど、歌手としての君は、俺が一番古くから見てきたんだからね。俺も、君に好きになってもらえるように、頑張るよ」と杉田は言った。
　「ありがとうございます。わたしは、杉田さんの作曲の才能、凄いと思ってるし、わたしの先生だし……。
　それに、わたしは、杉田さんのこと、大好きですよ。
　友達として、ですが」
　「今は、それで良いよ」
　「うー、やっぱり雪菜さんがライバルなのは厳しいなあ……」と、下川直美は独り言ちた。
　「えっと……、純夜さんは？」
　むふふん、とした顔で、雪菜は松岡に話を振る。
　三人のアプローチを苦々しい顔で聞いていた松岡は、右手で雪菜の頭に手刀を入れる。
　「あいたっ。何するんですか」
　「お前な、煙幕張って、寂しさを誤魔化すな。本当に口説いて欲しかったら、平常心の時に言え」
　「純夜さん……」
　「その時なら、こいつらがぐうの音も出ない位、ロマンチックに口説いてやる」
　「純夜さん、かっこいい……。惚れ惚れする……」
　雪菜は、蕩けそうな瞳で松岡を見つめた。
　「えっ……」
　「けど、似合わない～。あはははは」
　「……こいつは、本当に酒癖悪いな」
　「はぁ。雪菜さんがライバルじゃ、ホント、困っちゃいますよね……」と、石川真矢はため息をついた。
　「えーと」雪菜はふらふらと立ち上がる。
　「わたしは、見ての通り、酒癖の悪い、諦めの悪い、失恋を引きずった、ややこしい性格のへんてこりんな女です。
　こんなわたしでよかったら、また一緒に遊んでやって下さい。
　水野先生、友近くん、ありがとう。これからも、小木曽雪菜を宜しくお願いします。
　純夜さん、杉田さん、ありがとう。これからも、音楽を教えて下さい。そして、いっぱい、良い音楽を作りましょう。宜しくお願いします。
　早百合ちゃん、真矢ちゃん、直美ちゃん、ありがとう。これからも宜しくね。一緒に頑張っていこうね。
　それと、朋……。本当にありがとう。あなたと、千晶と、小春がいなければ、わたしは今でも、嫉妬と憎しみの夜を独りで彷徨っていたかもしれない……。
　これからも、頼りにしてます……」
　そういうと雪菜は、座り直して、ゆっくりと机にうつ伏せになった。
　どうやら、寝落ちしたらしい……。
　すっと、鼻筋を涙が伝った。だが、口元は微笑んでいた。
　「雪菜、酒癖、悪過ぎ……」と、朋は呟いた。
　だが、その瞳は優しい。
　「人工授精の話、何処まで本気なのかなぁ」と、杉田は言った。
　「さあ……、明日になったら、忘れてるかも」と、朋は言った。
　「というか、本気じゃない方が良いんだけど」と、水野は言った。
　「さて、今、飲んでるグラスが空いたら、帰るか」と、友近は呟いた。
　「困った女だ」
　そう言った松岡の声は、穏やかに笑っていた。

　…………。

　「松岡さん、雪菜さんを起こさないと、そろそろ今日の門限です。
　私、晋さんに怒られるのは、嫌です」と早百合が言った。
　「そうだな、俺も嫌だ。おい、雪菜、起きろ、起きろ。門限過ぎるぞ」
　「うーん、良いじゃない、春希くん。もうちょっと、こうしていたい」
　……男四人は、苦々しい顔を見合わせた。
　「あーあ、やっちゃった」と、朋は言った。
　「じゃあ、宴会の最後に、面白いものをお見せしましょう」
　良い感じに酔ってきた早百合が立ち上がり、雪菜の背後に回って、少し荒く両胸を揉んだ。
　「もう、そんな乱暴なの、ダメ。春希くんの、エッチ。ちょっと、待って……」
　雪菜は、一瞬起き上がり、服の上から自分でブラのホックを外し、また、眠りに落ちた……。
　「これ……、悪い癖ですよね。ははは」
　男四人は、唖然として、しばし沈黙した。
　「やっぱり、一度、北原を闇討ちすべきじゃないか」と、友近が言った。
　「全くだな」と、松岡も同調する。
　「何でしたら、最近の北原さんの予定を確認しましょうか？」
　雪菜のブラのホックを留め直しながら、早百合が言う。
　「私も襲撃に参加させて下さい」
　「じゃ、このメンバーで一度集まって、作戦を練りますか」
　水野が右手中指で眼鏡を持ち上げ、光が反射した。
　「僕の車に押し込んで、何処かに連れ込みますかね」
　杉田がニヤリとした。
　「お祭りだぁ」「ウェーイ」
　石川真矢と下川直美は、ワイングラスを掲げて同調した。
　「私も参加するわよ」
　朋の目が光った。
　「最近、ボクササイズ始めたから、次はかなり重いパンチをお見舞いできるわ」
　不穏な約束が取り交わされる中、雪菜は微睡む。

　〝　かずさ、わたし、春希くん。

　三人でいれば良いの。

　わたしは、三人のお祭り騒ぎを永遠に続けたい。

　だから、わたしの生きている一瞬一瞬に、わたしの全力を賭けて、全てを取りに行く。
　掴んだら、もう絶対に離さない　〟

暗　転

終　劇

　目次　／　前回

　♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡

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コメント（31）

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このページへのコメント

悪女さま、お読みいただいて、ありがとうございました。ちょこちょこ書き換えているので、また何かご意見をいただけるとありがたいです。

Posted by ushigara_neko 2016年11月28日(月) 23:50:01 返信

めっちゃ面白かった

Posted by 悪女 2016年05月10日(火) 06:48:56 返信

通りすがり様
コメントありがとうございます。
リアルでは、通りすがりの方から急にきついこと言われたら面食らって無視するか逃げるか反撃するかしかしないものでしょう。
別に反撃する気はしないので、無視します。

目的があるから手段があるのです。
僕がこのSSを書いたのは目的があったからです。
そのために用いた手段に不十分さ、不慣れさ、もっといえば才能が足りなかった、時間も足りなかったと思います。
でも、自分なりには目的は達したので、あとは、メンテナンスくらいしかやることはありません。
以上です。

Posted by ushigara_neko 2016年01月24日(日) 17:14:25 返信

Twitterってどこですか？
どんな事書いてるのか興味ある

Posted by ？？？ 2016年01月24日(日) 15:29:17 返信

Twitter見た限りどうやら全く理解されてないようで
別に雪菜ageを問題視してる訳ではなくてその為にキャラ崩壊するようなご都合展開や春希かずさを踏み台にするだけで終わってることを批判してるんですが

Posted by 通りすがり 2016年01月23日(土) 19:33:40 返信

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