夕食後、入浴も済ませた雪菜は、自室でようやく落ち着いてきた。
本当にびっくりした。初めは何が起こったか分からなかった。
屋上に現れたのは「実行委員さんのお手伝いさん」…そして、ほぼ間違いなく「ギターさん」。
あろうことか、同一人物だったとは、全くの予想外だった。
その彼が、自分たちのバンドのボーカルにならないかと言ってくれた。一緒に学園祭に出ようと…。

学園祭なんてどうでも良かった。
正直、たくさんの人の前で歌うなんて考えられなかった。出来ないと思った。
これまでの『小木曽 雪菜』のイメージとも違う。やっちゃいけないと思った。
でも、彼らの演奏で……歌いたい!
仲間になりたい!
同じ時を過ごしたい!

これまで雪菜は、自分からは目立つ行動はして来なかった。あくまで清楚で、おとなしく、自己主張も抑えて、『箱入りのお嬢様』を演じてきた。
バンドのボーカルなんて、派手で、活発で、自己主張の塊…。
何よりも、歌いだしたら自分を抑えられない。歌うことだけは、譲れない。
本当の自分をさらけ出してしまうだろう。
そんな自分を「ギターさん」はどう思うだろう。これまでの『小木曽 雪菜』を知っている「実行委員さんのお手伝いさん」は…?
いろいろな考えがぐるぐると頭を巡り、ようやく結論を出した頃には時計の針は深夜2時を指していた。
「仕方ないな、今回はお断りしよう……」
彼らの演奏で歌えるという誘惑は、非常に強力だったが、そのためにこれまでの自分のイメージを変える勇気は無かった。
まわりの皆にうその自分を見せてきたと思われるのが怖かった。
ただ、雪菜にはひとつ気づいている事があった。
『彼』に対する気持ち。
「ギターさん」に対する気持ちに「実行委員さんのお手伝いさん」に対する気持ちが上乗せされて好感度は『8』。紛れも無く最上位。
しかも、目の前に実在して、会話も、そして望めばそれ以上の事も可能かもしれない存在。
胸の中に熱い想いが込み上げてくる。まだ、『恋』とは言えないかもしれないけれど、いずれそうなるだろうことは予想できた。
できることなら、これからもっと距離を縮めたい。
「お断りする時に、フォローしよう…」
返事を1日待ってもらったけれど、明日はバイトの日だから、放課後に話をする時間は無い。
「昼休みまでに彼のクラスに行って……って!私って…ばか!!」
突然気づいた衝撃の事実!
「私、彼の名前もクラスも何も知らない…!どうしよう!!」
必死になって思い出してみる。インタビューに来た彼に、何人か呼びかけていたその名前を…。なにか手がかりになるような事を…。
でも、思い出せない……

まわりの音が夜明けを感じさせる頃にようやく一つの光明が見えた。
「そうだ!依緒。彼女に聞けばいいんだ」
どうしてもっと早く気づかなかったのか。落ち着いて考えればすぐに思いつきそうな考えに至るまで、焦っていたからなのか何時間もかかった。
階下では母が朝食の支度をする音が聞こえる。結局徹夜してしまった。鏡を見ると目が少し赤くはれっぼったくなってしまっている。
「一生懸命、参加の検討をしていたら朝になってたって言ったら、少しは印象いいかなぁ…」
そんな事を考えながら、着替え始めた。


「おはよう! あれ?雪菜…今日は早いね。どうしたの?」
「おはよう、依緒。実はね、依緒にちょっと聞きたいことがあって…」
普段より30分近く早く教室で待っていた雪菜は、早速聞いてみた。
「あぁ、あいつ『北原春希』っていうんだ。クラスは『3−E』。で?なになに?どうしたの?あいつまさか…」
「あ…別に特別なことじゃないんだけど、ちょっと今日、北原君にお返事しなくちゃいけない事があって……でも、放課後は私、用事があって…」
「ん…あーあー。そういう事か!しっかし、あいつがねぇ。まぁ、返事は決まってるんでしょ?じゃ、さっさとケリ着けてきますか」
具体的な事は何も言っていないのに、依緒は全て分かったというふうに答えた。
「それにしても、自分のクラスも名前も言わないなんて、なんてドジなやつ… とにかく行こうか?」
依緒はあきれたように笑うと、雪菜を先導して歩き始めた。
雪菜も慌てて依緒についていった。これからの話の展開を頭の中でおさらいしながら。

依緒が彼を呼びに教室へ入っていくと、一人廊下に取り残された雪菜は急に緊張してきた。
これからの話の進め方は何度も頭の中で繰り返してきた。大丈夫……目を閉じて深呼吸する。
そっと目をあけるとちょうど彼が、『北原春希くん』が視界に入った。というよりも、彼の方向しか目に入らなかった。
「よし!」雪菜は気合を入れると、彼の方へ歩み寄った。

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