26 返歌 ／ 2015年８月上旬
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ushigara_neko 2014年09月14日(日) 23:58:40履歴
「そうかー。友達に同居してもらいたかっただけなんだけどなぁ」
夕食後のまったりとした一時に、曜子は言った。
春希が母親と和解したことを、曜子は、自分のことのように喜んだ。
曜子は、部屋が余っている冬馬邸に、希子を迎え入れられないか、と、春希に言った。
将来的には、それが選択肢に入っていた春希は、母親に打診して見たが、予想通り、希子は丁重に断った。
身の回りのことは全く不自由していないし、ちょっと寂しかっただけで、春希との確執が無くなった以上、春希が近くに住んでいて、時々会えるだけで十分。冬馬邸には、遠慮なく遊びに行かせてもらう。後二十年位経って、立ち居振る舞いに自信が持てなくなったら、その時は、甘えさせてもらうかもしれない。その代わり、入居費用は払う、と言ってきた。
「うちの母親も気が強いですから」
「希子さんが私の側にいてくれて、今の美代ちゃんの仕事をやってくれたら良いなって、思ったのよ。私から美代ちゃんを解放して、あの子をオフィスの仕事に専念させようと思ってね」
「僕の母親には向いてない仕事だと思いますよ。
それに、美代子さんの能力は凄いですよ。曜子さんの部屋からでも、パソコン一つでウチの業務全般に見渡せるくらいの神の眼ですから」
「それは、春希君の資料作成、お膳立て、根回し、追い込み、事後報告がしっかりしてるからでしょ」
「いや追い込みはしませんけど……。清水さんも戦力として十分計算できますし、今のままで、大丈夫です」
「まあ、春希君がそういうなら……。じゃ、希子さんの件は諦めるわ」
「その代わり、曜子さんが外出しなければならなくて、少し不安がある時は、できる限り付き添いたい、と言ってました。なので、これから毎月、母のシフト表をもらうことにしています。
あの人は薬剤師で、少なからず医学の知識があるので、適任だと思います」
「それは助かる。それだけで、美代ちゃんの負担が大分減る。じゃあ、そういう時は、日当払うから、できるだけお願いしたいって、言ってくれる？」
「お金は、受け取らないと思いますよ？」
「私は、彼女と対等でいたいから。哀れみは受けたくないしね」
「……なかなかタフな交渉になりそうです」
「うっくくく」と、かずさは笑い出す。
「頑張ってくれ、春希」
「楽しそうだな、かずさ」
「お前は、女のわがままに対処するのが、上手いからな。安心して見てるよ」
「……変な所で安心するんじゃない」
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「春希、今日は仕事行かないのか？」
「今日の午前中はオフだ……。というよりも、曜子さんからレクチャーを受ける約束を、すっぽかされた」
「そう言えば、希子さんとどっか行くって言ってたな」
「早速、な」
「じゃあ、午前中、春希と一緒に依緒の所に行けば良かったなぁ」
「お前、夜にジャケットの打合せあるの、忘れてるな。練習時間、確保できないだろ」
「う……。そうか」
「練習しておいで。お昼になったら、呼んであげるから」
「じゃあ、今日の昼は、電子レンジと格闘しなくても済むという訳だ」
「素麺で良いか？」
「あたしは病人じゃないんだぞ。肉を出せ、肉を」
「フルーツトマトと、バジルと、生ハムのカッペリーニでどうだ？」
「まあ、生ハムがあるなら、妥協してやろう。……ちょっとで良いから蜂蜜かけてくれよ」
いい加減、頬を薄く染めて強がるのは止めてくれないか。可愛過ぎるだろ。
「さて」
かずさを地下スタジオに送り出した春希は、キッチンに丸椅子を置いて、籐製のマガジンラックから例のノートを取り出す。
「やっぱり、この詩は、雪菜に渡せないな」
春希は、十四ページ目に書いた詩を見ながら呟いた。
�爐�ずさはきっと、「良いじゃないか」と言って微笑むだろう。だが、その時、瞳は悲しい涙を堪えているはずだ。そして、何も言わず、自分の中に俺への不安や、雪菜への複雑な嫉妬や、嫉妬してしまう自分への嫌悪を抱え込んで、自分を追いつめる。心を凍らせる。
あいつは、そういう奴だ。
雪菜はきっと、「ありがとう」と言って微笑むだろう。その時、瞳は静かな喜びの涙を湛えているはずだ。だが、心の中には、熱い悲しみと嫉妬が渦巻いて、彼女を容赦なく焼き尽くしている。
雪菜は、そういう女だ。
二人が最近作った二曲、『Closing』と『After All』。
良い曲だと思う。自分が当事者の一人でなければ、手放しで誉めることができる。だが、俺にとっては、痛過ぎる。
そして、きっと二人は、お互いにもっと痛い思いをしている。
お互いにかなり無理している、と思う。
俺は、二人が心配でならない。
最近のかずさの、俺に対する無意識の甘えっぷりと、時々垣間見える不安げな表情。
最近の雪菜の、物憂げな雰囲気と、時々、ちらちらと俺を見上げる視線の悲しい色。
この詩を二人に渡したら、二人の関係が、また、壊れてしまうかもしれない。
二人とも、この綱渡りから落ちてしまうかもしれない。
憎しみと、嫉妬の奈落へ。
やっぱり、絶対にこの詩は渡せない。
でも……�瓩判婀�は考える。
�狎禳擇棒橘未�ら向き合わないで、どうやって根本的に関係を変えて行くんだろうか？
雪菜から、雪菜と俺の物語から、俺が逃げて、どうやって、かずさを守って行けるというのだろうか？
雪菜の幸せを願うことができると言うのだろうか？
俺は、どうしたら良いんだ……。
「一曲は去年までのわたし達のことを、もう一曲はこれからのわたし達のことを、書いてほしい」という雪菜のリクエストを、俺は叶えてやれないかもな……��
春希は、かなり悩んでいた。そして、もう一枚、ページをめくる。
書いては消し、書いては消し、を繰り返し、ぐちゃぐちゃになった断片が散乱していた。
「これもダメだな。やっぱり、俺は才能無い」
中程に、�犒�に出会わなければ辛くなかったのに�瓩箸いκ源�だけはっきり読み取れる。
�犲掲�前、かずさを見送りに行った成田エクスプレスの中で、雪菜は「わたし達、出会わない方が良かったのかな」と問い、俺は「雪菜に出会わなかった未来なんて、絶対に嫌だよ」と言った。
それは、今でも俺の本心だ。だが、辛い。
そして、俺以上に、雪菜は辛い思いをしている。
「あいつの孤独を考えると、どうしても、いたたまれない気持ちになる」と、かずさは言った。
俺も、同じ気持ちなんだよ、かずさ。
ウィーンにいた時、俺とかずさは、一生、罪人でいると心に決めた。
誰にも許しを請わない代わりに、罰を受けない代わりに、黙って一生、二人っきりで、重い罪を背負って生きていこうと決めた。
だが、その二人っきりの閉じた世界は、雪菜によってこじ開けられた。
雪菜は、辛くなるのが分かっていて、俺達が側に居ることを求めた。
かずさも、辛くなるのが分かっていて、雪菜の側に居ることを決意した。
俺は、辛そうな二人を見れば辛くなるのが分かっていて、それでも、二人の側で、二人を支えたいと思った。
三人で一緒に居たいと思った……。
でも、やっぱり、雪菜の気持ちを思うと、いたたまれない……。
雪菜は、一人で居る時、どうしているのだろうか……��
最近、春希は一人で居る時、三色ボールペンを右手指に挟んだまま、十四ページから十六ページの間を行きつ戻りつしてばかりいた……。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「春希〜」
「千晶、誕生日、おめでとう」
8月6日の昼前。春希は、千晶に電話した。
「嬉しいんだけど、君達ね。順番に一人ずつ電話してくるんじゃないの」
「順番て、何だ」
「雪菜、かずさ、春希の順番だよ。プレゼント、送ってくれて、ありがとう。
このビンテージ・ジーンズ、高かったんじゃないの？」
「それ程でもない。お前は、そういうのよく似合うから」
「よくサイズ分かったね」
「えっ、まあ、何となく」
�爐箸いΔ�、そういうのは、得意だ��
「ふ〜ん。このスケベ」
「うるさい」
「ねえねえ。FaceTimeに移行してよ」
「えっ」
「顔、見せてくれても良いでしょ。それとも、近くにかずさがいる？」
「いや、いないけど」
「じゃあ、ちょっとくらい良いじゃん。顔見せて」
「ああ。ちょっと待て」
�爐�ずさとも、したことないんだけどな��
「えっと、これで良いか。うわっ。ち、千晶、なんだよその格好」
千晶は、胸元の大きく空いたタンクトップを着ていた。なおかつ、ノーブラのようで、チラリと小さな乳首のシルエットが写った。
「何って、何時もの格好じゃん」
「iPhone越しに見ると、ちょっと強烈だから、なんとかしてくれ」
「なになになに。春希、ひょっとして欲情した〜。良いんだよ、見ながら、見えないところで、色々してくれても」
「ああ、分かった分かった。すっごく欲情した。後で思い出して色々するから、だから、早く隠せよ」
「はいはい。しかし、春希も言うようになったね。昔の純な春希くんは何処に行っちゃったんだろ。お姉さん、少し寂しいわ」
「ところで、最近はどうだ？ 仕事は順調なのか？」
「順調だよ。というか、何よ。この前の芝居見に来た時の感想。あまりの素っ気なさに、深く傷ついちゃったよ〜。え〜ん」
「えっ、本当か。最後のどんでん返しが余りにも強烈で、呆気にとられてしまって……。良かったよ。凄く面白かった。お前って、ああいう推理劇もやるんだな」
「妄想食って生きてる天才劇作家舐めんな」
「舐めてないよ。親友として、本当に誇らしいよ。お前は最高の芸術家だよ」
「な、なに言ってんの。ホント、春希って狙撃手だよね。予期せぬ所から、予期せぬ言葉で相手を撃ち抜くんだから」
「そうか？ よく分からないけど。
それより、無理すんなよ。この前の東亞テレビの23時枠のニュース、ちょっと疲れた顔してたぞ」
「あっは〜。ばれてた？
あの収録、二徹の後だったんだよね〜」
「そういうの、止めろ。心配になる」
「というか、春希。そんなにあたしのこと好きなのな。そんなによく見てくれているのな」
「親友としてだぞ」
「さあ、本当の愛に目覚めて、あたしの胸に飛び込んでらっしゃ〜い」
そう言って、千晶は胸元にレンズを寄せる。プルルんと乳房が揺れた。
「や、やめろって」
春希は顔を背けつつ、横目で見る。
「わはははは。春希って、本当、オッパイが好きっしょ」
春希は横を向いて、困った顔をしていた。
「あたしのことよりさ、最近、三人はどうなの？」
「忙しい、な」
「そりゃ、そうだろう。二人ともツアー前だもんな。そうじゃなくて、雪菜とかずさ、なんかしんどそうにしてないか」
「お前には分かるのか？」
「うーんとねー。そうだなー。この前、かずさにおねだりして、ツアーの練習を見学させてもらったんだ」
「ああ、かずさから聴いてる」
「新曲の『Closing』と『After All』って、めちゃめちゃ良い曲だよね。だけど、他の曲を演奏してる時より、二人はピリピリしてたね」
「…………」
「まあ、あのくらいのピリピリは、舞台では日常茶飯事だから、あたしにとっちゃあ、屁でもないけど、あの二人には、きっつそうに思えたよ」
春希は�爐�前もそう思うか�瓩反屬�たかったが、言えなかった。
「なあ、春希。ちゃんと、二人とも、愛してやれよ」
「二人ともって、何だよ」
「春希の妻は、確かにかずさだけど、春希が日本にいる以上、寝室以外では、二人に対して平等に接する必要があると思うよ」
「それは無理な注文だろう……」
「雪菜が、春希以外の運命の男を見つけるまでは、同じだけの情愛を注いであげてよ。そうでなければ、バランスが崩れるよ。どちらかが傷ついて、そのせいで、後の二人が傷付くよ」
「……………」
「もっとも、雪菜とかずさが共倒れしてくれて、春希があたしの胸に転がり込んでくれれば、あたしはそれで良いけどね。お姉さん、画策しちゃおうかな〜」
「ふっ」春希は笑う。
「よく言うよ。めちゃめちゃ心配してるくせに」
「……ピンポン。正解」
「お前なあ、変なタイミングで、雪菜になるなよ」
「わはは。とにかく、二人をちゃんと愛して、守れよ。
それと、できたら、あたしもね〜」
「ああ、分かってるよ。愛している」
「え。もう、ばか……。春希のばか……」
「何だよ……」
「ううん。……最高の誕生日プレゼント、ありがとう」
「えっ、うん。じゃあ、切るぞ」
「また電話してね。あたしは、雪菜とかずさには負けるかもしれないけど、飯塚とか、依緒に負けないくらいには、あんたの親友のつもりなんだからね」
「ああ。こっちこそ、頼りにしてるよ。二人が俺に言えないことは、千晶が聞いてやってくれ。
ただし、勝手に書くなよ」
「分かってるよ。んじゃ、次回のFaceTimeでは、極小ビキニ着てやるかならな」
「楽しみにしてるよ。腹冷やすなよ」
「わはは。じゃあね〜」
千晶はウインク&投げキッスをして、画面から消えた。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
雪菜のセカンド・シングル『幸せな記憶』が出た二週間後、ファンクラブのホームページに、例の魔女っ娘ものアニメの主題歌のPVの前半部分が載った。バンド名義の新曲『Distiny＊Surfactant』は、およそ小木曽雪菜が関与したとは思えないぶっ飛んだ曲だったし、少し露出度高めの、黒い魔女の衣装を身にまとった雪菜が、恐ろしく神秘的に動くCGを見ても、それが雪菜だとはにわかには信じられなかった。
だが、その歌声の美しさは、やはり雪菜独特のものだった。その歌詞も良く聴けば、重なるはずの無い二つの運命が、不思議な触媒によって解け合う瞬間を書いていた。
バンドの方としては、学園祭ツアー向けの、バンドとしての新曲を、何曲作れるか、という問題があった。
十曲程度しか演奏しないことは決まっているので、新曲を作る必要は無いのだが、ソロ名義のツアーの焼き直しをしたくない、ソロとは違ったカラーを出したい、という、メンバーの思いをどれだけ実現するか。
これに関しては、ソロ名義のツアーの練習、打合せ、その他諸々の仕事を抱えた上に体調管理に気を使わなければならない、雪菜の空き時間をどれだけ確保するのかが、一番大きな問題だった。
ソロ名義のツアーの後、学園祭ツアーまでに一か月程の間があるが、その期間で、来年2月14日発売予定のセカンド・アルバムの曲を数曲録音する予定にしてあるため、この期間を新曲創作に当てる余裕はなかった。
何をやるにも、雪菜には時間が足りなかった。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
8月29日、土曜日、札幌市民ホールから始まる雪菜のコンサート・ツアーへの布石は全て打たれた。ステージデザイン、衣装、機材運搬、警備、その他全て、準備は整った。
後は、曲目、曲順を決定するだけ。
かずさは、雪菜のファースト・アルバムに収録されている全ての曲について、アレンジを細かく見直した。特に『Twinkle Snow』はギター・ソロをカット、切々と降る雪のようなアレンジに変更した。ツアーでは、ヴァイオリン二、ヴィオラ二、チェロ二、コントラバス一の、生ストリングスが加わることになっている。全ての曲について、ストリングスが活きるように手を入れた。
かずさが高校時代に録り貯めた曲に雪菜が歌詞を付け、曜子と一緒に修正を加えて作る手筈だった三曲は、予定より少し遅れたが出来上がった。
『愛する心』、『心はいつもあなたのそばに』は、雪菜には珍しく柔らかい感じの暖かいラヴ・ソングだった。『Winter Vacation』は雪菜が予め言った通り、三年のクリスマスに三人で行った温泉旅行がテーマになっていた。ただし、明るい曲調の中には、暗い影が書き込まれている。
コンサートに間に合わせるべく、かずさは�犹篝験茵憤嫐�深）�瓩了�間を削ってアレンジした。
リハーサル自体は、順調に進んでいた。
後は、雪菜とかずさの共作一曲と、春希が詩を書く予定の二曲が、全く未定の状態として残った。雪菜は、アマチュア時代にボーカルをしていたバンド「Routes」に連絡して、『あなたを想いたい』と『舞い落ちる雪のように』をカバーさせてもらいたいと申し出て、快諾を得た。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
8月27日、木曜日、札幌サンプラザコンサートホールから始まるかずさのツアーの準備の方が、遅れがちだった。
まず、自治体の後援を取るのに時間がかかり、ポスターの印刷が遅れた。チケットの発売も遅れた。
だが、チケットの売れ行きは上々で、全ての会場で発売とほぼ同時に売り切れた。
遅れ気味に張り出されたポスターが、次々剥がされ奪われたのには困った。
問題は演目で、かずさは、少し悩んだ末に、全体を三部構成にして、第一部でリスト『ラ・カンパネラ』、ラヴェル『亡き王女のためのパヴァーヌ』、ドヴィッシー『ベルガマスク組曲』を、第二部でショパンのソナタ第二番『葬送』と幻想即興曲を、第三部でベートーヴェンのソナタ第二十三番『熱情』を弾くことにした。
極めてポピュラーかつ大盤振る舞いとも言える選曲だ。
かずさは、今回のツアーを、日本のファンへの改めての顔見せだ、と考えていた。だから、自分のベストとも言うべきこの選曲で行くと決めた。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「ホントに、この曲を、やる気なんですか」
「早百合ちゃんは、この曲は嫌い？
というか、早百合ちゃんにしか聴かせてないけどね」
ギターの調弦をしながら、雪菜は振り返らずに言った。
「嫌いじゃありません。むしろ大好きです。でも……」
早百合は言い淀んだ。
「でも、何かな？」
「三人にとって、あまりにも辛過ぎる曲じゃないですか？」
「そうだね」
「もっと、三人が落ち着いてからでも、良いじゃないですか？」
「そうだね。その方が、良いだろうね」
「なら、何故……」
「それは、ね」雪菜は振り返った。
「きっとわたし達三人が、落ち着く、なんてことは、一生ないと思うから」
「雪菜さん……」
「わたし達は、きっと一生、三人のお祭りを続けていくの。ううん……、わたしは一生、三人のお祭りを続けたい。
だから、落ち着くなんてことは、ないんだよ。
だって、お祭りを続けるためなら、わたしは、なんでもするんだから。
妥協はしない。一瞬でも妥協したら、わたしはまた、二人を失ってしまう。
そんな気がするの」
「それなら逆効果じゃないんですか」
「わたし達はビジネス・パートナーじゃないの。同級生で、親友で、同じバンドのメンバーで、作品の共作者。
そして……、端から見たらドロドロに見えるかもしれない恋愛関係にある男と女達なの。
今更、仮面を被って付き合いを続けて行くなんて、できないよ。
だから、三人の本当の気持ちを、三人の目の前に置く。それをしっかり見つめて、それでも、わたし達三人が三人のままで、お祭りを続けられるようにする」
「でも、下手したら、お二人の秋のコンサートの企画自体が、飛んじゃうかもしれませんよ」
「わたしは、多分、大丈夫」
「でも、かずささんが」
「かずさはわたしに『お互いに気兼ねなく、行き着く所まで行って、そして突き抜けよう』と言ったの。
言ったからには、かずさには突き抜けてもらう。
そして、何時迄も煮え切らず、わたしを悲しそうな目で見続ける春希くんにも……。
さて、じゃあ、録ろうかな」
雪菜は、アンプにシールドを差し込み、ヴォリュームを上げる。
「雪菜さん。どうなろうと、私は、雪菜さんの味方ですからね」
「ありがとう、早百合ちゃん。よろしくね」
雪菜は、呼吸を整えた。
iPhoneを、簡易三脚に固定し、録画ボタンに触れる。
「……だから、ごめんなさい。こんな形で、お聴かせすることになりました。
聴いて下さい。タイトルは……、『Answer』です」
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「おはよう。あれ、今日はかずさだけ？」
その日の朝、忙しい合間を縫って、スポーツ・クラブで軽く身体を動かしていたかずさに、依緒はそう声をかけた。
「ああ。雪菜は無断欠席」
「ふうん。雪菜にしては、めずらしい」
雪菜も同じ曜日のはずだが、今日は来ていない。
�爐修Δい┐弌∩阿領�習の日、帰り際に「じゃあ、次はクラブでな」と挨拶したのに、あいつは何時ものように「うん」とは言わず、何か寂しそうに笑って帰っていった。
疲れているんだろうな、くらいにしか思わなかったんだけど。
その時から、今日来るつもりは無かったんだろうか��
「あんた、一人でも地道にメニューこなせるんだ」
「何時も一人で練習してるからな。一人は慣れてる」
「……ごめん」
「何が」
「何時も春希が側にいるような気がしてた」
「練習の時に、あいつに側にいられるのは苦手なんだ。恥ずかしいからな。
まあ、ここになら春希と来ても良いんだけど」
「ふーん。ねえ、かずさ。そろそろ上がり？」
「ああ。そうだな」
「じゃあ、もしも時間があれば、お昼、一緒しないか？
ここの所長から、お前を一度接待しておけと言われているんだ」
「血だ……。血が足りねえ……」
「え……」
「肉が食えるなら、付き合っても良いぞ」
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「あたしはなあ、すき焼きだけは誰にも負けないぞ」
かずさと依緒は、以前、一緒に入った高級料亭と同じホテルの上階にあるすき焼き屋にいた。京都に本店のある、老舗の支店だ。席は個室の座敷。
「ほほう。それだけ言うなら、やってもらおうじゃないか。ただし、その肉、百グラム五千円相当だからな。しくじったら承知しないぞ」
「任せとけ」
「…………」
「えっと、火を付けてくれる？」
「はあ？」
「それと、火加減は任せる」
「……はいはい」
「まず、鍋を熱して、牛脂を全面に溶かす」
「まあ、誰がやっても最初はそうするわな」
「……」
「何時まで溶かしてんだよ」
「さて、十分溶けたので、鍋に少々砂糖を敷く」
「わあああああ。何が少々だてめーっ」
かずさは、豪快に砂糖を鍋にぶちまけた。
「狼狽えるな。まあ見てろ。砂糖に火が通った所で、肉を砂糖の上に置く」
上白糖が油に溶けていった鉄鍋に、かずさは肉を豪快に敷いた。
「そして、醤油を程良くかける」
鍋がジブジブと音を立てた。
「わ、割り下は入れないのか」
「教えてやろう。割り下を入れる関東風のやり方はなあ、あれはすき焼きじゃなくて、すき煮、だ。すき焼きはなあ、肉を焼くんだよ」
かずさは、さも自慢げに胸を張った。
「ひっくり返して、肉を砂糖になじませて……。さあ、もう良いかな。
食ってみろ」
「……不味かったら、殴るぞ、お前。
はふはふ。はふはふ。……って、美味い。くそ程甘いけど、美味い」
「はふはふ。はふはふ。ほうだろう。砂糖が肉の旨味を引き出すんだよ」
「はふはふ。美味いな……。美味いけど、病気になりそう」
「はふはふ。大丈夫だよ」
そう言いながら、かずさは再び鍋に砂糖を投入し、溶けてジブジブというのを見計らって肉を敷いた。
二人は取り憑かれたように食べた。
「美味い……。確かに美味い。でも、そろそろ野菜を入れないと、肉がなくなっちゃうよ」
「何を言う。すき焼きはなあ、肉を食うための食べ方なんだ。野菜なんて食わなくて良いんだよ。さて、お代り頼もっと」
かずさは、嬉々として内線から同じ肉をもう二人前注文する。
ここに至って、依緒は普通の人間の感覚を取り戻した。
「おい。いい加減にしろ。砂糖取り過ぎだ。これ以上、甘いものはあたしの胃が受け付けないよ。肉の旨味が残ってる間に、野菜を入れるからな」
「だ、ダメだよ。肉だけ食べようよ。なっ」
「あたしが、春希に怒られちゃうじゃないか」
「なっ、頼むよ。あいつと一緒だと、こんな美味しい食べ方できないんだよ。もうちょっと堪能させてくれよ」
「やっぱり、そういうことか……」
「あいつの作るすき焼きは、完全にすき煮なんだよっ。野菜の薄甘辛い煮物と我が物顔の豆腐の中に、アクセント程度に肉が入ってるだけなんだ……。
あんなのは、肉の食べ方じゃないっ。
なっ、頼む。ツアーの前祝いだと思って」
「かずさにここまで言わせる春希の飯って、一体……」
かずさは久しぶりの�爐垢�焼き�瓩魎�能した。
…………。
「はぁ。何とか野菜も食わせることができた。ホント、手がかかるったら、ありゃしない」
依緒は、粗方片付いた鍋を見て、ため息をついた。
「何だよ。ちゃんと美味しかっただろ」
「それは認めるけど……。一週間分の糖分を採った気がするわ。あたしとしては、醤油だけとかの方が良かった」
「そんな塩辛いもの食ってると、高血圧になるぞ」
「あんたが糖尿にならないのが不思議でならない」
二人は、皿を下げてもらい、お茶を頼んだ。
……「で、最近、あなた達三人は、どうなの？」
「……忙しいな」
「忙しいのは、分かってるわよ。人間関係は、問題ないの？って言ってるの」
「上手く行ってるよ。ツアーの準備も、リハーサルも、CDの録音も、順調極まりないよ」
「ふーん。それなら良いけど」
「何か気になることでもあった？
雪菜が、なんか相談でも？」
「いや、外野のあたしが余計なことを言った」
「まあ……、その……、新曲が予定通りできなくて、ほんのちょっと困ってるくらいかな」
「そうなんだ」
「それ位だよ」
「『幸せな記憶』ね。凄く良い曲だな」
「ありがとう」
「雪菜の声も良いけど、しっとり寄り添ってる、あんたのピアノも良かった」
「そうだろ」
「カップリングのスウィート・ソウルっていうの？
あんな曲を歌う雪菜も初めてで、ぐっと来たし、あんたのピアノがよく歌ってた気がするよ」
「なんだなんだ。ここは奢らないぞ」
「でもね。同時に、あの歌詞をあんたの前で歌う雪菜の気持ちと、あの歌詞を受け止めながらアレンジして、ピアノを弾いて、プロデュースしているあんたの気持ちを想像すると、ちょっと心配にもなった」
「……大丈夫だよ」
「きっと二人は微笑んでいる。録音もスムーズに行ったんだろうと思う。
でも、内面では、お互いを切り刻んでるんじゃないの？」
「何言ってんだ、依緒」かずさの声が震える。
「馬鹿なこと言うの止めろ」
「いや、違うな。相手に向けた刃を相手に振るえずに、自分を切り刻んでる。血みどろになった手を振って、お互い、�狢臂翩廚世茘瓩辰董�言ってるんだ」
「止めろって言ってんだろっ！」
「落ち着けよ」
「…………」
「かずさ、あんた、その叫び出したくなる気持ちを、春希にも、雪菜にも、伝えたこと無いんだろ」
「うるさい」
「きっと、雪菜だって、あんたと同じ想いだと、思うよ」
「……知るか」
「だから、やっぱり、ちょっと心配なんだ」
「……例え、少し位、わだかまりがあったとしても、そんなことは、大した問題じゃない」
「そうかな」
「あのなあ、依緒。あたし達はアマチュアのサークル活動やってんじゃないんだ。高校生の同好会やってるんでもない。お互いプロなんだぞ」
「でも、クールな契約関係でもない。友達で、親友で、その……、色々あった仲だろう？」
「色々あった仲だからこそ、お互いの緊張感が、創造力につながるんだよ」
「The BeatlesのJohn LennonとPaul McCartneyとか、The Rolling StonesのMick JaggerとKeith Richardsみたいに」
「えらく古いな……」
「The SmithsのMorrisseyとJohnny Marrとか、OasisのGallagher兄弟みたいに」
「それも古い……」
「方向性や、趣味が違ってても、一緒にやったらケミストリーが発生して、凄いもんができちゃうとか言う話だな」
「まあ、そうだ」
「二人の女が一人の男を巡ってゴタゴタした場合の話じゃないだろ」
「お前……、死にたいのか？」
「あんたと雪菜はさあ、本当はもっと、私生活の面で、ぶつかり合った方が良いんじゃないの？
その……、音楽を通して、だけじゃなくてさ。もっと本音で、さ」
「その必要は無い。あたし達には音楽があって、音楽の場所で本音をぶつけてるだけで、それで良いんだよ」
「それは、おかしいんじゃないか」
「お前、今日はえらく突っかかるな」
「これがあたしだよ。あんたは、知ってるはずだろ」
「……おかしくないよ。一緒に音楽を作ることが、雪菜の言うお祭りに参加することが、あいつとの約束なんだから」
「色恋沙汰の三角関係を引き摺った、ただの友達関係なら、保たないからなもしれないからな」
「いい加減にしろ。これ以上、戯れ言を聴かされるなら、あたしは帰る」
「あんた、誕生日会で、雪菜に謝ったんだろ。
朋から聴いたよ」
「…………」
「あたしは、朋からあんたの言った台詞を聴いて、ちょっと感動したんだよ」
「…………」
「なあ、その時の二人は、今、どうなってるんだ？」
「…………」
「あたしは、不安なんだよ。雪菜が傷つくのも、……あんたが傷つくのも。
そして、春希が傷ついて、……武也が傷つくのも」
「そんなことにはならない。ならないようにする」
「信用して良いのか？」
「…………」
「あんたは、もう雪菜から逃げないって、ちゃんと最後までとことん雪菜と付き合うって、信用して良いのかよ」
「とことん付き合うよ。それがあいつとの約束だ」
「それなら、何であたしにそんな不安そうな顔を見せるんだよ」
「不安？って、何……。無いよ、そんなの」
「嘘付くな。あたしはなあ、あんたが去年出した『リスト・超絶技巧練習曲集』を持ってるし、付いてたDVDのスタジオ・ライブ映像だって見てるんだよ。
あんたが自信を持って弾いている時の表情が、どんなに輝いているか、それ位は分かっているんだよ」
「そりゃ……、ありがと……」かずさの声が、震える。
「でも、今は全然違うじゃないか。
あたしが見てる限り、あんた、雪菜の前じゃ、付属の時と、全然変んないじゃないか」
「なん、だって……」
かずさは、作り笑顔を依緒に向ける。
「精一杯、強がっていても、何か怖がってる。尻尾が下に垂れ下がっているんだよ。
三人でいることがどれだけ楽しくても、気がついたら雪菜を怖がっている。雪菜をどれだけ好きであっても、春希と一緒にいる、春希とじゃれてる雪菜を、絶対に許せないんだよ。だから、不安が降り積もって行くんだ」
「黙れ……」
「雪菜だってそうだ。かずさと音楽を続けたい、ずっと三人でいれば良い、なんて言ってるけど、凄く切羽詰まってると思う。
あたし達は、三人でいたいって言う、雪菜の目的を尊重して、協力してきた。
でも、それが叶ったのに、あたしには、前より辛そうに見える時がある」
「言うな……。そんなこと、言うなよ」
「あたしは不安なんだよ。雪菜がまた傷つかないか、また、あいつの身に何か起きないか、不安なんだよ」
「……雪菜の身に、って、何のことだよ」
「二年前半の2月28日、あんたは雪菜と会って、春希を奪うことを宣言した。その時、あんた、コップを割って、それで左手を潰そうとしたんだってな」
「…………」
自分の弱さと、卑しさを呪い、春希を奪う、その代償に、ピアノを捨てる決意をした瞬間のことだ。
「その時、雪菜は、自分がその餌食になるかもしれないのに、あんたの右手にあった割れたコップを振り払ったらしいな。
その時、雪菜は、何を考えていたと思う？」
「雪菜は……、壊れそうなほど、傷ついていた……」
「雪菜は、壊れなかったんだ。壊れなかったからこそ、深く傷ついたんだ。壊れることができない自分と、春希のためなら他の全てを捨てることを瞬時に決断したあんたを比較して、激しい自己嫌悪に襲われたんだよ。
それで、あいつは、頭が真っ白になって、信号に気づかず車道に出て、事故に遭った」
「えっ」かずさが目を見開いた。「なん、だと？」
「あっ」
「ちょ、ちょっと待て、依緒！
雪菜が事故に会ったのは、あたしと会った2月28日だっていうのか」
「しまった……」
「あたしは、翌日の29日だと、雪菜から聴いて……。
春希と雪菜が有海で会って、その後に、って」
「ああ、そうだよ」と言って、依緒は開き直る。
「有海で雪菜がぶっ倒れて救急車で運ばれた、その日じゃないよっ。お前と会って、別れた直後だっ」
「それじゃ、雪菜の怪我の理由は、わたしのせいじゃないか……」
�狃婀�、お前、日付をごまかしたのか……。
あたしのせいだと思わせないために、背追い込んだのか？��
「事故に遭ってなお、雪菜の心は壊れなかった。雪菜は、お前のコンサートへの影響を恐れて、事故に会ったことを隠すために、行方を眩ましたんだ。
真冬の有海を、凍えながら徘徊したんだ。
あたしは、雪菜がまた、そんな風にならないか、心配なんだよ」
「あたしのコンサートを成功させるために、雪菜は……」
「ボロボロになったんだよ」
�狎禳擇里个�……、春希のばかやろう……。あたしのせいじゃないか……。
雪菜の背中の傷は、あたしのせいじゃないか……。
雪菜の、嘘つき……。こんな優しい嘘……、知りたくなかった……�瓠�
「雪菜、ごめん……。お前に怪我させたのは、傷をつけたのはあたしなのに、あたしは、春希との愛と絆だけを信じて、一人でやり遂げた気になっていた……。
あたし、馬鹿だ……」
「そうよ、あんたは馬鹿な女よ」依緒はかずさを睨む。
「雪菜……、雪、菜……、雪菜ぁ、ごめん、ね。あたし、あたし、馬鹿な女だ」
個室に、かずさの慟哭が続いた……。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
ふと、気付くと、かずさは自宅のスタジオのソファーの上で横たわっていた。
どうやって帰ってきたのか、何故、ここにいるのか、すぐには思い出せなかった。時計を見ると、午後5時を示していた。
どうやら、帰ってから引き籠って、泣きつかれて眠ってしまったらしい。
気付いたのは、かずさのiPhoneに、メールが届いたからだ。ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番、第二楽章の主旋律が流れた。
「雪、菜？」
それは、彼女からの着信を示す、個人設定だ。
かずさは、メールをチェックする。
題名も、本文もなく、そこには、動画が添付されていただけだった。
かずさは、その「ビデオ・レター」を再生した。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
かずさと雪菜のCDに関する、東アジア圏での販促の件で、ナイツ・レコードで打合せをしていた春希のiPhoneにも、雪菜の�爛咼妊�・レター�瓩脇呂韻蕕譴拭�
仕事を終えた春希は、セルフ・カフェに入り、イヤフォンをしてそれを視聴して、激しく抉られた。
飲みかけのラテを残したまま、春希は事務所に向かった。
�犁△訌阿法∪禳擇楼貪戞∋�務所に寄るはずだ��
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「しまったなぁ」
そそくさと帰ろうとしていた雪菜は、事務所の入口で春希に捕まった。
「何が、しまったなぁ……、だよ」
白い半袖のブラウスと、上品なピンク色のスカートを履いた雪菜は、少しはにかんで言った。
「やっぱり、寄らなきゃ良かった。今日は、会いたくない気分だったのに」
「雪菜……、話があるんだ。とても大切な話が」
雪菜の顔は、こわばった。
「嫌っ！
春希くんの�狢臉擇箆鱈瓩蓮△發κ垢�たくない！」
「どうしても、聴いてもらわないといけないんだ」
「嫌よ……。嫌って言ったら嫌っ！」
「あの、歌は……、『Answer』を歌うのは、諦めてくれ」
「へっ……。ああ……」
雪菜は、驚いた目を、閉じた。
「はぁ……、怖かった。
それは、無理な注文だよ、春希くん」
「どうして」
「だって、あの歌詞は、あなたがわたしを愛してくれていた、証なんだもの」
「雪、菜……」
「分かってるよ。この歌詞を読まなくたって、春希くんがわたしのこと、愛してくれているのは。
わたしを傷つけたことで、ずっと傷ついている程、わたしを想っていてくれることは。
かずさが埋められない、抉り取られた場所があるってことは」
「…………」
「ありがとう、春希くん。この歌詞は、わたしにとって、最高の贈り物だよ。
こんな大切な贈り物、本当は、誰の目にも触れさせずに、大切に包んで、大事に保管しておくべきかもしれない」
「雪菜……、どうか、そうして、くれないか。頼む」
「でもね、春希くん。わたしは、歌手なんだよ。千晶が芝居バカであるように、わたしは歌バカなんだよ。歌うことが好きで好きでたまんないんだよ。
この歌詞を読んでしまったからには、歌わないといけないんだよ」
「雪菜、何、言ってるのか、分からない、よ」
「歌手はね、歌を買ってもらうんだよ、春希くん。
わたしはね、偽物の歌を売るつもりはないの。わたしは、わたしの真実を歌うことでしか、歌を買ってもらうことはできないの。
わたしは、わたしの真実をぶつけることでしか、かずさの前に立つことはできないの。
少なくとも、わたしはそう、信じている。
だから、わたしにとって、こんなに大事な詩を、見なかったことにしたり、うやむやにしたりは、できないんだよ。
ねえ、春希くん、考えてみて。わたしが、もし、かずさの曲でなく、他の人の作った曲を、他の人の書いた歌詞を歌っていたら、二人は日本に帰ってきたかな？
きっと帰っては来なかったよね」
「…………」
「きっと、二人は、わたしのことを『ああ、雪菜は元気にやってるんだな』くらいにしか思わなかったはず。
それじゃあ、帰ってこないよね」
「…………」
「沈黙は、肯定とみなすね。
だから、そういうことなんだよ、春希くん。
わたし達は、『傷ついて傷つけられて 疲れてもまだ 息ができないほどの恋に 落ちて行く』しかないんだよ」
「でも、この歌だけは、ダメだ。かずさが傷つく。あいつを、俺のせいで泣かせる訳にはいかないんだよっ」
「かずさにも、メールは送ったよ。もう、かずさは、聴いてくれたはずだよ」
「だとしても、だ。あの曲を、あいつがアレンジしたり、演奏したり、そんなことは、させられないんだ。
だから、少なくとも、あの歌詞を、俺が書いたという話は、嘘だったことにしてくれ。そして、あの歌を聴いたことは忘れてくれと、かずさに言ってくれ」
「そんな嘘は絶対に嫌っ！」
「頼むっ、雪菜」
春希は、雪菜に、にじり寄った。
「来ないで……」
「頼むよ」
「嫌っ」
「どうしても、ダメなんだよ」
「嫌だったら、嫌っ」
雪菜は、春希を振り切って、逃げようとした。その瞬間、事務机の椅子に足を引っかけた。
「あっ」
「雪菜っ」
……春希は、とっさに、雪菜を抱き寄せてしまった。
「大丈夫か、雪菜。……えっ」
そして、春希は見てしまった。
雪菜のブラウスの襟元から、出てしまったものを。
プラチナのネックレスに通してある、春希からもらった指輪二つを。
「雪菜、これ……」
「しまったなぁ……」雪菜は、春希から目を逸らす。
「もう、処分したと思ってた……」
「わたしが、この二つの指輪を、手放す訳ないでしょ」
「だって、ウィーンではしてなかった」
「かずさに分かっちゃうところで、着けられる訳ないでしょ。
……というか、離して」
「雪菜……」
右手で抱いた、雪菜のウエストのしなやかな感触は、二年半前と全く変らなかった。
抱えた右手を離すことができない。
こんなに近くで、雪菜を感じたことはなかった。
こんなに近くで、雪菜の潤んだ目を見たことも無かった。
こんなに近くで、雪菜の薫りを嗅いだこともなかった。
春希の心に、色々な思いが交錯する。
雪菜の瞳の中にも、色々な感情が交錯した。
「雪菜……」
「春希くん、ダメ……」
雪菜は、春希の瞳を見据えたまま言う。
「…………」
「…………」
「春希ぃ、雪菜ぁ。お前達……、何、してるの？」
二人は、事務所の入口を見た。
「かずさ！」
「かず、さ……」
かずさの顔が一瞬でくしゃくしゃになり、涙が溢れる。
「う、う、う……。うあああああぁぁぁぁぁー」
そして、かずさは、踵を返して、走り逃げて行く。
「かずさ、違うっ」
「離してっ」
雪菜は、春希の横っ面を思いっ切り叩いた。
春希は、雪菜を離す。
そして、雪菜の目から、涙が溢れ出た。
「何が違うのよ……。何が、違うのよおっ！」
「…………」
「春希くん……、今、わたしに揺れたでしょう……？
何で、何で春希くんがわたしに揺れるのよっ。
わたしが、こんなに我慢してるのに。
抉られても抉られても、我慢してるのに。
どうして、どうしてそんな優しい顔をしたのよっ。
わたし……、そんな……、わたし……。
最低……。最低だよ、春希くん……。
そして、わたしも……」
「…………」
「北原春希の大馬鹿野郎ーっ」
雪菜は大声で叫び、踵を返した。
「雪菜っ」
「ついて来ないで！
かずさのことはわたしがなんとかする。
春希くんは帰ってて！」
雪菜は、かずさを追い、春希は膝から崩れ落ちた。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
雪菜は、かずさを見失った。
電話してみたが、意図的に切られた後、電源を落とされたようだ。
「あの女……、また、逃げやがった」と、雪菜は独り言ちた。
�爐�ずさは小心者だから、大それたことはしないはず。
でも、放っとく訳には、いかないな……。
気持ちを抱え込んで、キレてしまわれたら……。
また、ウィーンに逃げられたら、面倒なことになる。
春希くんの、ばか……。
ウィーンに帰るって言い出すのかと思った。
春希くんは頑固だから、一旦口にしたこと、変えさせるの難しいから。
困ったな。何とかするとは言ったものの、わたし一人で探すのは、難しい。
依緒にも、朋にも相談できないし、ましてや、千晶なんか、危なすぎて話なんかできないし。
武也くんとか、孝宏に頼むのも、面倒な気がする。
早百合ちゃんに頼むのは、恥ずかしすぎる。
やっぱり、あいつに頼むしかないか……��
雪菜は、iPhoneを取り出す。
「もしもし」
「今日は、雪菜さん。飲みのお誘いですか。今日はホントにたまたま、仕事が早く終わりそうだから、空いてますけど」
「丁度良かった。ごめん。ちょっと、人探しを、手伝ってくれないかな」
「誰を、です？」
「冬馬かずさ、を」
「ふふふ。小木曽雪菜を、ではなくて、冬馬かずさを、ですか？」
「あなた以外の人に頼むのは、ちょっとややこしい気がするのよ」
「わたしだって、ややこしいですよ。
マスコミ屋は、スキャンダルが、大好物なんですよ？」
「でも、事情をよく分かっている上に、ちゃんと距離はとってくれるでしょう？」
「分かりました。手伝います。じゃあ、今から雪菜さんの所に向かいますね。
その代わり、全部済んだら、わたしにも北原先輩を、説教させて下さいね」
「何で春希くんを？」
「冬馬かずさが逃げたってことでしょう？
ということは、雪菜さんと、北原先輩の間で、何かあったって、ことですよね。
これは説教しなきゃ、いけないでしょう」
「ホントに喰えないわね。あなたは。
分かった。一度、冬馬邸に連れて行くし、わたしの代わりに春希くんを説教させてあげる。
だから、すぐに御宿郵便局前まで来て。小春ちゃん」
目次 ／ 前回 ／ 続き
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
夕食後のまったりとした一時に、曜子は言った。
春希が母親と和解したことを、曜子は、自分のことのように喜んだ。
曜子は、部屋が余っている冬馬邸に、希子を迎え入れられないか、と、春希に言った。
将来的には、それが選択肢に入っていた春希は、母親に打診して見たが、予想通り、希子は丁重に断った。
身の回りのことは全く不自由していないし、ちょっと寂しかっただけで、春希との確執が無くなった以上、春希が近くに住んでいて、時々会えるだけで十分。冬馬邸には、遠慮なく遊びに行かせてもらう。後二十年位経って、立ち居振る舞いに自信が持てなくなったら、その時は、甘えさせてもらうかもしれない。その代わり、入居費用は払う、と言ってきた。
「うちの母親も気が強いですから」
「希子さんが私の側にいてくれて、今の美代ちゃんの仕事をやってくれたら良いなって、思ったのよ。私から美代ちゃんを解放して、あの子をオフィスの仕事に専念させようと思ってね」
「僕の母親には向いてない仕事だと思いますよ。
それに、美代子さんの能力は凄いですよ。曜子さんの部屋からでも、パソコン一つでウチの業務全般に見渡せるくらいの神の眼ですから」
「それは、春希君の資料作成、お膳立て、根回し、追い込み、事後報告がしっかりしてるからでしょ」
「いや追い込みはしませんけど……。清水さんも戦力として十分計算できますし、今のままで、大丈夫です」
「まあ、春希君がそういうなら……。じゃ、希子さんの件は諦めるわ」
「その代わり、曜子さんが外出しなければならなくて、少し不安がある時は、できる限り付き添いたい、と言ってました。なので、これから毎月、母のシフト表をもらうことにしています。
あの人は薬剤師で、少なからず医学の知識があるので、適任だと思います」
「それは助かる。それだけで、美代ちゃんの負担が大分減る。じゃあ、そういう時は、日当払うから、できるだけお願いしたいって、言ってくれる？」
「お金は、受け取らないと思いますよ？」
「私は、彼女と対等でいたいから。哀れみは受けたくないしね」
「……なかなかタフな交渉になりそうです」
「うっくくく」と、かずさは笑い出す。
「頑張ってくれ、春希」
「楽しそうだな、かずさ」
「お前は、女のわがままに対処するのが、上手いからな。安心して見てるよ」
「……変な所で安心するんじゃない」
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「春希、今日は仕事行かないのか？」
「今日の午前中はオフだ……。というよりも、曜子さんからレクチャーを受ける約束を、すっぽかされた」
「そう言えば、希子さんとどっか行くって言ってたな」
「早速、な」
「じゃあ、午前中、春希と一緒に依緒の所に行けば良かったなぁ」
「お前、夜にジャケットの打合せあるの、忘れてるな。練習時間、確保できないだろ」
「う……。そうか」
「練習しておいで。お昼になったら、呼んであげるから」
「じゃあ、今日の昼は、電子レンジと格闘しなくても済むという訳だ」
「素麺で良いか？」
「あたしは病人じゃないんだぞ。肉を出せ、肉を」
「フルーツトマトと、バジルと、生ハムのカッペリーニでどうだ？」
「まあ、生ハムがあるなら、妥協してやろう。……ちょっとで良いから蜂蜜かけてくれよ」
いい加減、頬を薄く染めて強がるのは止めてくれないか。可愛過ぎるだろ。
「さて」
かずさを地下スタジオに送り出した春希は、キッチンに丸椅子を置いて、籐製のマガジンラックから例のノートを取り出す。
「やっぱり、この詩は、雪菜に渡せないな」
春希は、十四ページ目に書いた詩を見ながら呟いた。
�爐�ずさはきっと、「良いじゃないか」と言って微笑むだろう。だが、その時、瞳は悲しい涙を堪えているはずだ。そして、何も言わず、自分の中に俺への不安や、雪菜への複雑な嫉妬や、嫉妬してしまう自分への嫌悪を抱え込んで、自分を追いつめる。心を凍らせる。
あいつは、そういう奴だ。
雪菜はきっと、「ありがとう」と言って微笑むだろう。その時、瞳は静かな喜びの涙を湛えているはずだ。だが、心の中には、熱い悲しみと嫉妬が渦巻いて、彼女を容赦なく焼き尽くしている。
雪菜は、そういう女だ。
二人が最近作った二曲、『Closing』と『After All』。
良い曲だと思う。自分が当事者の一人でなければ、手放しで誉めることができる。だが、俺にとっては、痛過ぎる。
そして、きっと二人は、お互いにもっと痛い思いをしている。
お互いにかなり無理している、と思う。
俺は、二人が心配でならない。
最近のかずさの、俺に対する無意識の甘えっぷりと、時々垣間見える不安げな表情。
最近の雪菜の、物憂げな雰囲気と、時々、ちらちらと俺を見上げる視線の悲しい色。
この詩を二人に渡したら、二人の関係が、また、壊れてしまうかもしれない。
二人とも、この綱渡りから落ちてしまうかもしれない。
憎しみと、嫉妬の奈落へ。
やっぱり、絶対にこの詩は渡せない。
でも……�瓩判婀�は考える。
�狎禳擇棒橘未�ら向き合わないで、どうやって根本的に関係を変えて行くんだろうか？
雪菜から、雪菜と俺の物語から、俺が逃げて、どうやって、かずさを守って行けるというのだろうか？
雪菜の幸せを願うことができると言うのだろうか？
俺は、どうしたら良いんだ……。
「一曲は去年までのわたし達のことを、もう一曲はこれからのわたし達のことを、書いてほしい」という雪菜のリクエストを、俺は叶えてやれないかもな……��
春希は、かなり悩んでいた。そして、もう一枚、ページをめくる。
書いては消し、書いては消し、を繰り返し、ぐちゃぐちゃになった断片が散乱していた。
「これもダメだな。やっぱり、俺は才能無い」
中程に、�犒�に出会わなければ辛くなかったのに�瓩箸いκ源�だけはっきり読み取れる。
�犲掲�前、かずさを見送りに行った成田エクスプレスの中で、雪菜は「わたし達、出会わない方が良かったのかな」と問い、俺は「雪菜に出会わなかった未来なんて、絶対に嫌だよ」と言った。
それは、今でも俺の本心だ。だが、辛い。
そして、俺以上に、雪菜は辛い思いをしている。
「あいつの孤独を考えると、どうしても、いたたまれない気持ちになる」と、かずさは言った。
俺も、同じ気持ちなんだよ、かずさ。
ウィーンにいた時、俺とかずさは、一生、罪人でいると心に決めた。
誰にも許しを請わない代わりに、罰を受けない代わりに、黙って一生、二人っきりで、重い罪を背負って生きていこうと決めた。
だが、その二人っきりの閉じた世界は、雪菜によってこじ開けられた。
雪菜は、辛くなるのが分かっていて、俺達が側に居ることを求めた。
かずさも、辛くなるのが分かっていて、雪菜の側に居ることを決意した。
俺は、辛そうな二人を見れば辛くなるのが分かっていて、それでも、二人の側で、二人を支えたいと思った。
三人で一緒に居たいと思った……。
でも、やっぱり、雪菜の気持ちを思うと、いたたまれない……。
雪菜は、一人で居る時、どうしているのだろうか……��
最近、春希は一人で居る時、三色ボールペンを右手指に挟んだまま、十四ページから十六ページの間を行きつ戻りつしてばかりいた……。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「春希〜」
「千晶、誕生日、おめでとう」
8月6日の昼前。春希は、千晶に電話した。
「嬉しいんだけど、君達ね。順番に一人ずつ電話してくるんじゃないの」
「順番て、何だ」
「雪菜、かずさ、春希の順番だよ。プレゼント、送ってくれて、ありがとう。
このビンテージ・ジーンズ、高かったんじゃないの？」
「それ程でもない。お前は、そういうのよく似合うから」
「よくサイズ分かったね」
「えっ、まあ、何となく」
�爐箸いΔ�、そういうのは、得意だ��
「ふ〜ん。このスケベ」
「うるさい」
「ねえねえ。FaceTimeに移行してよ」
「えっ」
「顔、見せてくれても良いでしょ。それとも、近くにかずさがいる？」
「いや、いないけど」
「じゃあ、ちょっとくらい良いじゃん。顔見せて」
「ああ。ちょっと待て」
�爐�ずさとも、したことないんだけどな��
「えっと、これで良いか。うわっ。ち、千晶、なんだよその格好」
千晶は、胸元の大きく空いたタンクトップを着ていた。なおかつ、ノーブラのようで、チラリと小さな乳首のシルエットが写った。
「何って、何時もの格好じゃん」
「iPhone越しに見ると、ちょっと強烈だから、なんとかしてくれ」
「なになになに。春希、ひょっとして欲情した〜。良いんだよ、見ながら、見えないところで、色々してくれても」
「ああ、分かった分かった。すっごく欲情した。後で思い出して色々するから、だから、早く隠せよ」
「はいはい。しかし、春希も言うようになったね。昔の純な春希くんは何処に行っちゃったんだろ。お姉さん、少し寂しいわ」
「ところで、最近はどうだ？ 仕事は順調なのか？」
「順調だよ。というか、何よ。この前の芝居見に来た時の感想。あまりの素っ気なさに、深く傷ついちゃったよ〜。え〜ん」
「えっ、本当か。最後のどんでん返しが余りにも強烈で、呆気にとられてしまって……。良かったよ。凄く面白かった。お前って、ああいう推理劇もやるんだな」
「妄想食って生きてる天才劇作家舐めんな」
「舐めてないよ。親友として、本当に誇らしいよ。お前は最高の芸術家だよ」
「な、なに言ってんの。ホント、春希って狙撃手だよね。予期せぬ所から、予期せぬ言葉で相手を撃ち抜くんだから」
「そうか？ よく分からないけど。
それより、無理すんなよ。この前の東亞テレビの23時枠のニュース、ちょっと疲れた顔してたぞ」
「あっは〜。ばれてた？
あの収録、二徹の後だったんだよね〜」
「そういうの、止めろ。心配になる」
「というか、春希。そんなにあたしのこと好きなのな。そんなによく見てくれているのな」
「親友としてだぞ」
「さあ、本当の愛に目覚めて、あたしの胸に飛び込んでらっしゃ〜い」
そう言って、千晶は胸元にレンズを寄せる。プルルんと乳房が揺れた。
「や、やめろって」
春希は顔を背けつつ、横目で見る。
「わはははは。春希って、本当、オッパイが好きっしょ」
春希は横を向いて、困った顔をしていた。
「あたしのことよりさ、最近、三人はどうなの？」
「忙しい、な」
「そりゃ、そうだろう。二人ともツアー前だもんな。そうじゃなくて、雪菜とかずさ、なんかしんどそうにしてないか」
「お前には分かるのか？」
「うーんとねー。そうだなー。この前、かずさにおねだりして、ツアーの練習を見学させてもらったんだ」
「ああ、かずさから聴いてる」
「新曲の『Closing』と『After All』って、めちゃめちゃ良い曲だよね。だけど、他の曲を演奏してる時より、二人はピリピリしてたね」
「…………」
「まあ、あのくらいのピリピリは、舞台では日常茶飯事だから、あたしにとっちゃあ、屁でもないけど、あの二人には、きっつそうに思えたよ」
春希は�爐�前もそう思うか�瓩反屬�たかったが、言えなかった。
「なあ、春希。ちゃんと、二人とも、愛してやれよ」
「二人ともって、何だよ」
「春希の妻は、確かにかずさだけど、春希が日本にいる以上、寝室以外では、二人に対して平等に接する必要があると思うよ」
「それは無理な注文だろう……」
「雪菜が、春希以外の運命の男を見つけるまでは、同じだけの情愛を注いであげてよ。そうでなければ、バランスが崩れるよ。どちらかが傷ついて、そのせいで、後の二人が傷付くよ」
「……………」
「もっとも、雪菜とかずさが共倒れしてくれて、春希があたしの胸に転がり込んでくれれば、あたしはそれで良いけどね。お姉さん、画策しちゃおうかな〜」
「ふっ」春希は笑う。
「よく言うよ。めちゃめちゃ心配してるくせに」
「……ピンポン。正解」
「お前なあ、変なタイミングで、雪菜になるなよ」
「わはは。とにかく、二人をちゃんと愛して、守れよ。
それと、できたら、あたしもね〜」
「ああ、分かってるよ。愛している」
「え。もう、ばか……。春希のばか……」
「何だよ……」
「ううん。……最高の誕生日プレゼント、ありがとう」
「えっ、うん。じゃあ、切るぞ」
「また電話してね。あたしは、雪菜とかずさには負けるかもしれないけど、飯塚とか、依緒に負けないくらいには、あんたの親友のつもりなんだからね」
「ああ。こっちこそ、頼りにしてるよ。二人が俺に言えないことは、千晶が聞いてやってくれ。
ただし、勝手に書くなよ」
「分かってるよ。んじゃ、次回のFaceTimeでは、極小ビキニ着てやるかならな」
「楽しみにしてるよ。腹冷やすなよ」
「わはは。じゃあね〜」
千晶はウインク&投げキッスをして、画面から消えた。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
雪菜のセカンド・シングル『幸せな記憶』が出た二週間後、ファンクラブのホームページに、例の魔女っ娘ものアニメの主題歌のPVの前半部分が載った。バンド名義の新曲『Distiny＊Surfactant』は、およそ小木曽雪菜が関与したとは思えないぶっ飛んだ曲だったし、少し露出度高めの、黒い魔女の衣装を身にまとった雪菜が、恐ろしく神秘的に動くCGを見ても、それが雪菜だとはにわかには信じられなかった。
だが、その歌声の美しさは、やはり雪菜独特のものだった。その歌詞も良く聴けば、重なるはずの無い二つの運命が、不思議な触媒によって解け合う瞬間を書いていた。
バンドの方としては、学園祭ツアー向けの、バンドとしての新曲を、何曲作れるか、という問題があった。
十曲程度しか演奏しないことは決まっているので、新曲を作る必要は無いのだが、ソロ名義のツアーの焼き直しをしたくない、ソロとは違ったカラーを出したい、という、メンバーの思いをどれだけ実現するか。
これに関しては、ソロ名義のツアーの練習、打合せ、その他諸々の仕事を抱えた上に体調管理に気を使わなければならない、雪菜の空き時間をどれだけ確保するのかが、一番大きな問題だった。
ソロ名義のツアーの後、学園祭ツアーまでに一か月程の間があるが、その期間で、来年2月14日発売予定のセカンド・アルバムの曲を数曲録音する予定にしてあるため、この期間を新曲創作に当てる余裕はなかった。
何をやるにも、雪菜には時間が足りなかった。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
8月29日、土曜日、札幌市民ホールから始まる雪菜のコンサート・ツアーへの布石は全て打たれた。ステージデザイン、衣装、機材運搬、警備、その他全て、準備は整った。
後は、曲目、曲順を決定するだけ。
かずさは、雪菜のファースト・アルバムに収録されている全ての曲について、アレンジを細かく見直した。特に『Twinkle Snow』はギター・ソロをカット、切々と降る雪のようなアレンジに変更した。ツアーでは、ヴァイオリン二、ヴィオラ二、チェロ二、コントラバス一の、生ストリングスが加わることになっている。全ての曲について、ストリングスが活きるように手を入れた。
かずさが高校時代に録り貯めた曲に雪菜が歌詞を付け、曜子と一緒に修正を加えて作る手筈だった三曲は、予定より少し遅れたが出来上がった。
『愛する心』、『心はいつもあなたのそばに』は、雪菜には珍しく柔らかい感じの暖かいラヴ・ソングだった。『Winter Vacation』は雪菜が予め言った通り、三年のクリスマスに三人で行った温泉旅行がテーマになっていた。ただし、明るい曲調の中には、暗い影が書き込まれている。
コンサートに間に合わせるべく、かずさは�犹篝験茵憤嫐�深）�瓩了�間を削ってアレンジした。
リハーサル自体は、順調に進んでいた。
後は、雪菜とかずさの共作一曲と、春希が詩を書く予定の二曲が、全く未定の状態として残った。雪菜は、アマチュア時代にボーカルをしていたバンド「Routes」に連絡して、『あなたを想いたい』と『舞い落ちる雪のように』をカバーさせてもらいたいと申し出て、快諾を得た。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
8月27日、木曜日、札幌サンプラザコンサートホールから始まるかずさのツアーの準備の方が、遅れがちだった。
まず、自治体の後援を取るのに時間がかかり、ポスターの印刷が遅れた。チケットの発売も遅れた。
だが、チケットの売れ行きは上々で、全ての会場で発売とほぼ同時に売り切れた。
遅れ気味に張り出されたポスターが、次々剥がされ奪われたのには困った。
問題は演目で、かずさは、少し悩んだ末に、全体を三部構成にして、第一部でリスト『ラ・カンパネラ』、ラヴェル『亡き王女のためのパヴァーヌ』、ドヴィッシー『ベルガマスク組曲』を、第二部でショパンのソナタ第二番『葬送』と幻想即興曲を、第三部でベートーヴェンのソナタ第二十三番『熱情』を弾くことにした。
極めてポピュラーかつ大盤振る舞いとも言える選曲だ。
かずさは、今回のツアーを、日本のファンへの改めての顔見せだ、と考えていた。だから、自分のベストとも言うべきこの選曲で行くと決めた。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「ホントに、この曲を、やる気なんですか」
「早百合ちゃんは、この曲は嫌い？
というか、早百合ちゃんにしか聴かせてないけどね」
ギターの調弦をしながら、雪菜は振り返らずに言った。
「嫌いじゃありません。むしろ大好きです。でも……」
早百合は言い淀んだ。
「でも、何かな？」
「三人にとって、あまりにも辛過ぎる曲じゃないですか？」
「そうだね」
「もっと、三人が落ち着いてからでも、良いじゃないですか？」
「そうだね。その方が、良いだろうね」
「なら、何故……」
「それは、ね」雪菜は振り返った。
「きっとわたし達三人が、落ち着く、なんてことは、一生ないと思うから」
「雪菜さん……」
「わたし達は、きっと一生、三人のお祭りを続けていくの。ううん……、わたしは一生、三人のお祭りを続けたい。
だから、落ち着くなんてことは、ないんだよ。
だって、お祭りを続けるためなら、わたしは、なんでもするんだから。
妥協はしない。一瞬でも妥協したら、わたしはまた、二人を失ってしまう。
そんな気がするの」
「それなら逆効果じゃないんですか」
「わたし達はビジネス・パートナーじゃないの。同級生で、親友で、同じバンドのメンバーで、作品の共作者。
そして……、端から見たらドロドロに見えるかもしれない恋愛関係にある男と女達なの。
今更、仮面を被って付き合いを続けて行くなんて、できないよ。
だから、三人の本当の気持ちを、三人の目の前に置く。それをしっかり見つめて、それでも、わたし達三人が三人のままで、お祭りを続けられるようにする」
「でも、下手したら、お二人の秋のコンサートの企画自体が、飛んじゃうかもしれませんよ」
「わたしは、多分、大丈夫」
「でも、かずささんが」
「かずさはわたしに『お互いに気兼ねなく、行き着く所まで行って、そして突き抜けよう』と言ったの。
言ったからには、かずさには突き抜けてもらう。
そして、何時迄も煮え切らず、わたしを悲しそうな目で見続ける春希くんにも……。
さて、じゃあ、録ろうかな」
雪菜は、アンプにシールドを差し込み、ヴォリュームを上げる。
「雪菜さん。どうなろうと、私は、雪菜さんの味方ですからね」
「ありがとう、早百合ちゃん。よろしくね」
雪菜は、呼吸を整えた。
iPhoneを、簡易三脚に固定し、録画ボタンに触れる。
「……だから、ごめんなさい。こんな形で、お聴かせすることになりました。
聴いて下さい。タイトルは……、『Answer』です」
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「おはよう。あれ、今日はかずさだけ？」
その日の朝、忙しい合間を縫って、スポーツ・クラブで軽く身体を動かしていたかずさに、依緒はそう声をかけた。
「ああ。雪菜は無断欠席」
「ふうん。雪菜にしては、めずらしい」
雪菜も同じ曜日のはずだが、今日は来ていない。
�爐修Δい┐弌∩阿領�習の日、帰り際に「じゃあ、次はクラブでな」と挨拶したのに、あいつは何時ものように「うん」とは言わず、何か寂しそうに笑って帰っていった。
疲れているんだろうな、くらいにしか思わなかったんだけど。
その時から、今日来るつもりは無かったんだろうか��
「あんた、一人でも地道にメニューこなせるんだ」
「何時も一人で練習してるからな。一人は慣れてる」
「……ごめん」
「何が」
「何時も春希が側にいるような気がしてた」
「練習の時に、あいつに側にいられるのは苦手なんだ。恥ずかしいからな。
まあ、ここになら春希と来ても良いんだけど」
「ふーん。ねえ、かずさ。そろそろ上がり？」
「ああ。そうだな」
「じゃあ、もしも時間があれば、お昼、一緒しないか？
ここの所長から、お前を一度接待しておけと言われているんだ」
「血だ……。血が足りねえ……」
「え……」
「肉が食えるなら、付き合っても良いぞ」
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「あたしはなあ、すき焼きだけは誰にも負けないぞ」
かずさと依緒は、以前、一緒に入った高級料亭と同じホテルの上階にあるすき焼き屋にいた。京都に本店のある、老舗の支店だ。席は個室の座敷。
「ほほう。それだけ言うなら、やってもらおうじゃないか。ただし、その肉、百グラム五千円相当だからな。しくじったら承知しないぞ」
「任せとけ」
「…………」
「えっと、火を付けてくれる？」
「はあ？」
「それと、火加減は任せる」
「……はいはい」
「まず、鍋を熱して、牛脂を全面に溶かす」
「まあ、誰がやっても最初はそうするわな」
「……」
「何時まで溶かしてんだよ」
「さて、十分溶けたので、鍋に少々砂糖を敷く」
「わあああああ。何が少々だてめーっ」
かずさは、豪快に砂糖を鍋にぶちまけた。
「狼狽えるな。まあ見てろ。砂糖に火が通った所で、肉を砂糖の上に置く」
上白糖が油に溶けていった鉄鍋に、かずさは肉を豪快に敷いた。
「そして、醤油を程良くかける」
鍋がジブジブと音を立てた。
「わ、割り下は入れないのか」
「教えてやろう。割り下を入れる関東風のやり方はなあ、あれはすき焼きじゃなくて、すき煮、だ。すき焼きはなあ、肉を焼くんだよ」
かずさは、さも自慢げに胸を張った。
「ひっくり返して、肉を砂糖になじませて……。さあ、もう良いかな。
食ってみろ」
「……不味かったら、殴るぞ、お前。
はふはふ。はふはふ。……って、美味い。くそ程甘いけど、美味い」
「はふはふ。はふはふ。ほうだろう。砂糖が肉の旨味を引き出すんだよ」
「はふはふ。美味いな……。美味いけど、病気になりそう」
「はふはふ。大丈夫だよ」
そう言いながら、かずさは再び鍋に砂糖を投入し、溶けてジブジブというのを見計らって肉を敷いた。
二人は取り憑かれたように食べた。
「美味い……。確かに美味い。でも、そろそろ野菜を入れないと、肉がなくなっちゃうよ」
「何を言う。すき焼きはなあ、肉を食うための食べ方なんだ。野菜なんて食わなくて良いんだよ。さて、お代り頼もっと」
かずさは、嬉々として内線から同じ肉をもう二人前注文する。
ここに至って、依緒は普通の人間の感覚を取り戻した。
「おい。いい加減にしろ。砂糖取り過ぎだ。これ以上、甘いものはあたしの胃が受け付けないよ。肉の旨味が残ってる間に、野菜を入れるからな」
「だ、ダメだよ。肉だけ食べようよ。なっ」
「あたしが、春希に怒られちゃうじゃないか」
「なっ、頼むよ。あいつと一緒だと、こんな美味しい食べ方できないんだよ。もうちょっと堪能させてくれよ」
「やっぱり、そういうことか……」
「あいつの作るすき焼きは、完全にすき煮なんだよっ。野菜の薄甘辛い煮物と我が物顔の豆腐の中に、アクセント程度に肉が入ってるだけなんだ……。
あんなのは、肉の食べ方じゃないっ。
なっ、頼む。ツアーの前祝いだと思って」
「かずさにここまで言わせる春希の飯って、一体……」
かずさは久しぶりの�爐垢�焼き�瓩魎�能した。
…………。
「はぁ。何とか野菜も食わせることができた。ホント、手がかかるったら、ありゃしない」
依緒は、粗方片付いた鍋を見て、ため息をついた。
「何だよ。ちゃんと美味しかっただろ」
「それは認めるけど……。一週間分の糖分を採った気がするわ。あたしとしては、醤油だけとかの方が良かった」
「そんな塩辛いもの食ってると、高血圧になるぞ」
「あんたが糖尿にならないのが不思議でならない」
二人は、皿を下げてもらい、お茶を頼んだ。
……「で、最近、あなた達三人は、どうなの？」
「……忙しいな」
「忙しいのは、分かってるわよ。人間関係は、問題ないの？って言ってるの」
「上手く行ってるよ。ツアーの準備も、リハーサルも、CDの録音も、順調極まりないよ」
「ふーん。それなら良いけど」
「何か気になることでもあった？
雪菜が、なんか相談でも？」
「いや、外野のあたしが余計なことを言った」
「まあ……、その……、新曲が予定通りできなくて、ほんのちょっと困ってるくらいかな」
「そうなんだ」
「それ位だよ」
「『幸せな記憶』ね。凄く良い曲だな」
「ありがとう」
「雪菜の声も良いけど、しっとり寄り添ってる、あんたのピアノも良かった」
「そうだろ」
「カップリングのスウィート・ソウルっていうの？
あんな曲を歌う雪菜も初めてで、ぐっと来たし、あんたのピアノがよく歌ってた気がするよ」
「なんだなんだ。ここは奢らないぞ」
「でもね。同時に、あの歌詞をあんたの前で歌う雪菜の気持ちと、あの歌詞を受け止めながらアレンジして、ピアノを弾いて、プロデュースしているあんたの気持ちを想像すると、ちょっと心配にもなった」
「……大丈夫だよ」
「きっと二人は微笑んでいる。録音もスムーズに行ったんだろうと思う。
でも、内面では、お互いを切り刻んでるんじゃないの？」
「何言ってんだ、依緒」かずさの声が震える。
「馬鹿なこと言うの止めろ」
「いや、違うな。相手に向けた刃を相手に振るえずに、自分を切り刻んでる。血みどろになった手を振って、お互い、�狢臂翩廚世茘瓩辰董�言ってるんだ」
「止めろって言ってんだろっ！」
「落ち着けよ」
「…………」
「かずさ、あんた、その叫び出したくなる気持ちを、春希にも、雪菜にも、伝えたこと無いんだろ」
「うるさい」
「きっと、雪菜だって、あんたと同じ想いだと、思うよ」
「……知るか」
「だから、やっぱり、ちょっと心配なんだ」
「……例え、少し位、わだかまりがあったとしても、そんなことは、大した問題じゃない」
「そうかな」
「あのなあ、依緒。あたし達はアマチュアのサークル活動やってんじゃないんだ。高校生の同好会やってるんでもない。お互いプロなんだぞ」
「でも、クールな契約関係でもない。友達で、親友で、その……、色々あった仲だろう？」
「色々あった仲だからこそ、お互いの緊張感が、創造力につながるんだよ」
「The BeatlesのJohn LennonとPaul McCartneyとか、The Rolling StonesのMick JaggerとKeith Richardsみたいに」
「えらく古いな……」
「The SmithsのMorrisseyとJohnny Marrとか、OasisのGallagher兄弟みたいに」
「それも古い……」
「方向性や、趣味が違ってても、一緒にやったらケミストリーが発生して、凄いもんができちゃうとか言う話だな」
「まあ、そうだ」
「二人の女が一人の男を巡ってゴタゴタした場合の話じゃないだろ」
「お前……、死にたいのか？」
「あんたと雪菜はさあ、本当はもっと、私生活の面で、ぶつかり合った方が良いんじゃないの？
その……、音楽を通して、だけじゃなくてさ。もっと本音で、さ」
「その必要は無い。あたし達には音楽があって、音楽の場所で本音をぶつけてるだけで、それで良いんだよ」
「それは、おかしいんじゃないか」
「お前、今日はえらく突っかかるな」
「これがあたしだよ。あんたは、知ってるはずだろ」
「……おかしくないよ。一緒に音楽を作ることが、雪菜の言うお祭りに参加することが、あいつとの約束なんだから」
「色恋沙汰の三角関係を引き摺った、ただの友達関係なら、保たないからなもしれないからな」
「いい加減にしろ。これ以上、戯れ言を聴かされるなら、あたしは帰る」
「あんた、誕生日会で、雪菜に謝ったんだろ。
朋から聴いたよ」
「…………」
「あたしは、朋からあんたの言った台詞を聴いて、ちょっと感動したんだよ」
「…………」
「なあ、その時の二人は、今、どうなってるんだ？」
「…………」
「あたしは、不安なんだよ。雪菜が傷つくのも、……あんたが傷つくのも。
そして、春希が傷ついて、……武也が傷つくのも」
「そんなことにはならない。ならないようにする」
「信用して良いのか？」
「…………」
「あんたは、もう雪菜から逃げないって、ちゃんと最後までとことん雪菜と付き合うって、信用して良いのかよ」
「とことん付き合うよ。それがあいつとの約束だ」
「それなら、何であたしにそんな不安そうな顔を見せるんだよ」
「不安？って、何……。無いよ、そんなの」
「嘘付くな。あたしはなあ、あんたが去年出した『リスト・超絶技巧練習曲集』を持ってるし、付いてたDVDのスタジオ・ライブ映像だって見てるんだよ。
あんたが自信を持って弾いている時の表情が、どんなに輝いているか、それ位は分かっているんだよ」
「そりゃ……、ありがと……」かずさの声が、震える。
「でも、今は全然違うじゃないか。
あたしが見てる限り、あんた、雪菜の前じゃ、付属の時と、全然変んないじゃないか」
「なん、だって……」
かずさは、作り笑顔を依緒に向ける。
「精一杯、強がっていても、何か怖がってる。尻尾が下に垂れ下がっているんだよ。
三人でいることがどれだけ楽しくても、気がついたら雪菜を怖がっている。雪菜をどれだけ好きであっても、春希と一緒にいる、春希とじゃれてる雪菜を、絶対に許せないんだよ。だから、不安が降り積もって行くんだ」
「黙れ……」
「雪菜だってそうだ。かずさと音楽を続けたい、ずっと三人でいれば良い、なんて言ってるけど、凄く切羽詰まってると思う。
あたし達は、三人でいたいって言う、雪菜の目的を尊重して、協力してきた。
でも、それが叶ったのに、あたしには、前より辛そうに見える時がある」
「言うな……。そんなこと、言うなよ」
「あたしは不安なんだよ。雪菜がまた傷つかないか、また、あいつの身に何か起きないか、不安なんだよ」
「……雪菜の身に、って、何のことだよ」
「二年前半の2月28日、あんたは雪菜と会って、春希を奪うことを宣言した。その時、あんた、コップを割って、それで左手を潰そうとしたんだってな」
「…………」
自分の弱さと、卑しさを呪い、春希を奪う、その代償に、ピアノを捨てる決意をした瞬間のことだ。
「その時、雪菜は、自分がその餌食になるかもしれないのに、あんたの右手にあった割れたコップを振り払ったらしいな。
その時、雪菜は、何を考えていたと思う？」
「雪菜は……、壊れそうなほど、傷ついていた……」
「雪菜は、壊れなかったんだ。壊れなかったからこそ、深く傷ついたんだ。壊れることができない自分と、春希のためなら他の全てを捨てることを瞬時に決断したあんたを比較して、激しい自己嫌悪に襲われたんだよ。
それで、あいつは、頭が真っ白になって、信号に気づかず車道に出て、事故に遭った」
「えっ」かずさが目を見開いた。「なん、だと？」
「あっ」
「ちょ、ちょっと待て、依緒！
雪菜が事故に会ったのは、あたしと会った2月28日だっていうのか」
「しまった……」
「あたしは、翌日の29日だと、雪菜から聴いて……。
春希と雪菜が有海で会って、その後に、って」
「ああ、そうだよ」と言って、依緒は開き直る。
「有海で雪菜がぶっ倒れて救急車で運ばれた、その日じゃないよっ。お前と会って、別れた直後だっ」
「それじゃ、雪菜の怪我の理由は、わたしのせいじゃないか……」
�狃婀�、お前、日付をごまかしたのか……。
あたしのせいだと思わせないために、背追い込んだのか？��
「事故に遭ってなお、雪菜の心は壊れなかった。雪菜は、お前のコンサートへの影響を恐れて、事故に会ったことを隠すために、行方を眩ましたんだ。
真冬の有海を、凍えながら徘徊したんだ。
あたしは、雪菜がまた、そんな風にならないか、心配なんだよ」
「あたしのコンサートを成功させるために、雪菜は……」
「ボロボロになったんだよ」
�狎禳擇里个�……、春希のばかやろう……。あたしのせいじゃないか……。
雪菜の背中の傷は、あたしのせいじゃないか……。
雪菜の、嘘つき……。こんな優しい嘘……、知りたくなかった……�瓠�
「雪菜、ごめん……。お前に怪我させたのは、傷をつけたのはあたしなのに、あたしは、春希との愛と絆だけを信じて、一人でやり遂げた気になっていた……。
あたし、馬鹿だ……」
「そうよ、あんたは馬鹿な女よ」依緒はかずさを睨む。
「雪菜……、雪、菜……、雪菜ぁ、ごめん、ね。あたし、あたし、馬鹿な女だ」
個室に、かずさの慟哭が続いた……。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
ふと、気付くと、かずさは自宅のスタジオのソファーの上で横たわっていた。
どうやって帰ってきたのか、何故、ここにいるのか、すぐには思い出せなかった。時計を見ると、午後5時を示していた。
どうやら、帰ってから引き籠って、泣きつかれて眠ってしまったらしい。
気付いたのは、かずさのiPhoneに、メールが届いたからだ。ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番、第二楽章の主旋律が流れた。
「雪、菜？」
それは、彼女からの着信を示す、個人設定だ。
かずさは、メールをチェックする。
題名も、本文もなく、そこには、動画が添付されていただけだった。
かずさは、その「ビデオ・レター」を再生した。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
かずさと雪菜のCDに関する、東アジア圏での販促の件で、ナイツ・レコードで打合せをしていた春希のiPhoneにも、雪菜の�爛咼妊�・レター�瓩脇呂韻蕕譴拭�
仕事を終えた春希は、セルフ・カフェに入り、イヤフォンをしてそれを視聴して、激しく抉られた。
飲みかけのラテを残したまま、春希は事務所に向かった。
�犁△訌阿法∪禳擇楼貪戞∋�務所に寄るはずだ��
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「しまったなぁ」
そそくさと帰ろうとしていた雪菜は、事務所の入口で春希に捕まった。
「何が、しまったなぁ……、だよ」
白い半袖のブラウスと、上品なピンク色のスカートを履いた雪菜は、少しはにかんで言った。
「やっぱり、寄らなきゃ良かった。今日は、会いたくない気分だったのに」
「雪菜……、話があるんだ。とても大切な話が」
雪菜の顔は、こわばった。
「嫌っ！
春希くんの�狢臉擇箆鱈瓩蓮△發κ垢�たくない！」
「どうしても、聴いてもらわないといけないんだ」
「嫌よ……。嫌って言ったら嫌っ！」
「あの、歌は……、『Answer』を歌うのは、諦めてくれ」
「へっ……。ああ……」
雪菜は、驚いた目を、閉じた。
「はぁ……、怖かった。
それは、無理な注文だよ、春希くん」
「どうして」
「だって、あの歌詞は、あなたがわたしを愛してくれていた、証なんだもの」
「雪、菜……」
「分かってるよ。この歌詞を読まなくたって、春希くんがわたしのこと、愛してくれているのは。
わたしを傷つけたことで、ずっと傷ついている程、わたしを想っていてくれることは。
かずさが埋められない、抉り取られた場所があるってことは」
「…………」
「ありがとう、春希くん。この歌詞は、わたしにとって、最高の贈り物だよ。
こんな大切な贈り物、本当は、誰の目にも触れさせずに、大切に包んで、大事に保管しておくべきかもしれない」
「雪菜……、どうか、そうして、くれないか。頼む」
「でもね、春希くん。わたしは、歌手なんだよ。千晶が芝居バカであるように、わたしは歌バカなんだよ。歌うことが好きで好きでたまんないんだよ。
この歌詞を読んでしまったからには、歌わないといけないんだよ」
「雪菜、何、言ってるのか、分からない、よ」
「歌手はね、歌を買ってもらうんだよ、春希くん。
わたしはね、偽物の歌を売るつもりはないの。わたしは、わたしの真実を歌うことでしか、歌を買ってもらうことはできないの。
わたしは、わたしの真実をぶつけることでしか、かずさの前に立つことはできないの。
少なくとも、わたしはそう、信じている。
だから、わたしにとって、こんなに大事な詩を、見なかったことにしたり、うやむやにしたりは、できないんだよ。
ねえ、春希くん、考えてみて。わたしが、もし、かずさの曲でなく、他の人の作った曲を、他の人の書いた歌詞を歌っていたら、二人は日本に帰ってきたかな？
きっと帰っては来なかったよね」
「…………」
「きっと、二人は、わたしのことを『ああ、雪菜は元気にやってるんだな』くらいにしか思わなかったはず。
それじゃあ、帰ってこないよね」
「…………」
「沈黙は、肯定とみなすね。
だから、そういうことなんだよ、春希くん。
わたし達は、『傷ついて傷つけられて 疲れてもまだ 息ができないほどの恋に 落ちて行く』しかないんだよ」
「でも、この歌だけは、ダメだ。かずさが傷つく。あいつを、俺のせいで泣かせる訳にはいかないんだよっ」
「かずさにも、メールは送ったよ。もう、かずさは、聴いてくれたはずだよ」
「だとしても、だ。あの曲を、あいつがアレンジしたり、演奏したり、そんなことは、させられないんだ。
だから、少なくとも、あの歌詞を、俺が書いたという話は、嘘だったことにしてくれ。そして、あの歌を聴いたことは忘れてくれと、かずさに言ってくれ」
「そんな嘘は絶対に嫌っ！」
「頼むっ、雪菜」
春希は、雪菜に、にじり寄った。
「来ないで……」
「頼むよ」
「嫌っ」
「どうしても、ダメなんだよ」
「嫌だったら、嫌っ」
雪菜は、春希を振り切って、逃げようとした。その瞬間、事務机の椅子に足を引っかけた。
「あっ」
「雪菜っ」
……春希は、とっさに、雪菜を抱き寄せてしまった。
「大丈夫か、雪菜。……えっ」
そして、春希は見てしまった。
雪菜のブラウスの襟元から、出てしまったものを。
プラチナのネックレスに通してある、春希からもらった指輪二つを。
「雪菜、これ……」
「しまったなぁ……」雪菜は、春希から目を逸らす。
「もう、処分したと思ってた……」
「わたしが、この二つの指輪を、手放す訳ないでしょ」
「だって、ウィーンではしてなかった」
「かずさに分かっちゃうところで、着けられる訳ないでしょ。
……というか、離して」
「雪菜……」
右手で抱いた、雪菜のウエストのしなやかな感触は、二年半前と全く変らなかった。
抱えた右手を離すことができない。
こんなに近くで、雪菜を感じたことはなかった。
こんなに近くで、雪菜の潤んだ目を見たことも無かった。
こんなに近くで、雪菜の薫りを嗅いだこともなかった。
春希の心に、色々な思いが交錯する。
雪菜の瞳の中にも、色々な感情が交錯した。
「雪菜……」
「春希くん、ダメ……」
雪菜は、春希の瞳を見据えたまま言う。
「…………」
「…………」
「春希ぃ、雪菜ぁ。お前達……、何、してるの？」
二人は、事務所の入口を見た。
「かずさ！」
「かず、さ……」
かずさの顔が一瞬でくしゃくしゃになり、涙が溢れる。
「う、う、う……。うあああああぁぁぁぁぁー」
そして、かずさは、踵を返して、走り逃げて行く。
「かずさ、違うっ」
「離してっ」
雪菜は、春希の横っ面を思いっ切り叩いた。
春希は、雪菜を離す。
そして、雪菜の目から、涙が溢れ出た。
「何が違うのよ……。何が、違うのよおっ！」
「…………」
「春希くん……、今、わたしに揺れたでしょう……？
何で、何で春希くんがわたしに揺れるのよっ。
わたしが、こんなに我慢してるのに。
抉られても抉られても、我慢してるのに。
どうして、どうしてそんな優しい顔をしたのよっ。
わたし……、そんな……、わたし……。
最低……。最低だよ、春希くん……。
そして、わたしも……」
「…………」
「北原春希の大馬鹿野郎ーっ」
雪菜は大声で叫び、踵を返した。
「雪菜っ」
「ついて来ないで！
かずさのことはわたしがなんとかする。
春希くんは帰ってて！」
雪菜は、かずさを追い、春希は膝から崩れ落ちた。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
雪菜は、かずさを見失った。
電話してみたが、意図的に切られた後、電源を落とされたようだ。
「あの女……、また、逃げやがった」と、雪菜は独り言ちた。
�爐�ずさは小心者だから、大それたことはしないはず。
でも、放っとく訳には、いかないな……。
気持ちを抱え込んで、キレてしまわれたら……。
また、ウィーンに逃げられたら、面倒なことになる。
春希くんの、ばか……。
ウィーンに帰るって言い出すのかと思った。
春希くんは頑固だから、一旦口にしたこと、変えさせるの難しいから。
困ったな。何とかするとは言ったものの、わたし一人で探すのは、難しい。
依緒にも、朋にも相談できないし、ましてや、千晶なんか、危なすぎて話なんかできないし。
武也くんとか、孝宏に頼むのも、面倒な気がする。
早百合ちゃんに頼むのは、恥ずかしすぎる。
やっぱり、あいつに頼むしかないか……��
雪菜は、iPhoneを取り出す。
「もしもし」
「今日は、雪菜さん。飲みのお誘いですか。今日はホントにたまたま、仕事が早く終わりそうだから、空いてますけど」
「丁度良かった。ごめん。ちょっと、人探しを、手伝ってくれないかな」
「誰を、です？」
「冬馬かずさ、を」
「ふふふ。小木曽雪菜を、ではなくて、冬馬かずさを、ですか？」
「あなた以外の人に頼むのは、ちょっとややこしい気がするのよ」
「わたしだって、ややこしいですよ。
マスコミ屋は、スキャンダルが、大好物なんですよ？」
「でも、事情をよく分かっている上に、ちゃんと距離はとってくれるでしょう？」
「分かりました。手伝います。じゃあ、今から雪菜さんの所に向かいますね。
その代わり、全部済んだら、わたしにも北原先輩を、説教させて下さいね」
「何で春希くんを？」
「冬馬かずさが逃げたってことでしょう？
ということは、雪菜さんと、北原先輩の間で、何かあったって、ことですよね。
これは説教しなきゃ、いけないでしょう」
「ホントに喰えないわね。あなたは。
分かった。一度、冬馬邸に連れて行くし、わたしの代わりに春希くんを説教させてあげる。
だから、すぐに御宿郵便局前まで来て。小春ちゃん」
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このページへのコメント
tune様、ありがとうございます。
一応、予定通り、なのですが、ちょっと唐突でしたでしょうか？
そろそろ、「転」にさしかかります。
この間、『お疲れ様』本の発売等で、アニメ第２期は無いかもしれないな…、という、個人的にはファンとして心抉られる出来事がありました。
アニメで動く、千晶、小春、麻理さんとの出会いは、もう無いのだろうか…、と寂しく思っています。
動く、大人の、かずさに会いたかったなあ…とか、真剣寂しいです。
2chのかずさスレは、何故か最近ちょっと盛り上がっていて、少し嬉しいのですが…。
ちょっと燃料に乏しくて、妄想力に支障があるのですが、何とか、「決」まで行きたいと思います。
今後とも、宜しくお願い致します。
更新お疲れ様です。
何かいきなりな展開になったので少々驚いています。これまで三者三様に溜め込んでいた物が一気に吹き出した感じですね。正直この後の展開は読み辛いですが、その方が楽しみがあって良いですね。