25 母と子 ／ 2015年７月下旬
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ushigara_neko 2014年09月08日(月) 21:49:56履歴
セカンド・シングル『幸せな記憶』が発売された朝、雪菜は、キーボードの石川真矢とマネージャー二人を伴って、東亞テレビの朝のバラエティ番組に出演する等、プロモーション活動で忙しかった。東亞テレビでは『幸せな記憶』のアコースティック・ヴァージョンも演奏した。
どんな時でも低姿勢で、誰に対しても丁寧な言葉遣いを通す雪菜の人柄は、マスコミに好意的に受け取られていた。
峰城大学政経学部を上位で卒業した経歴も役立っていた。雪菜には、G8周辺を主に世界の政治・経済問題について、誰もが理解できるように咀嚼して簡素に説明する力があった。大学時代、春希同様、勉強以外の趣味を持っていなかったので、全般的にかなりの知識を持っていた。
それは、朋と互角と言って良かった。ただし、語学力の差で、雪菜に軍配が上がることは、朋も認めていた。付属高等部の頃から春希に勝る程の英語力を有していた雪菜は、大学時代に仏語を習得、卒業後に独語を習得した。
一方で、時折見せる、少し天然の入った破壊的な「大ボケ」も、場にほのぼのとした和みをもたらした。
こういうキャラクターを、バラエティ番組偏重の昨今のテレビ局が放っておく理由はないのだが、雪菜にとって、歌以外のことは趣味や余技でしかなく、また、事務所の方針もあって、テレビ出演の仕事は、音楽番組やプロモーション活動に制限されている。
物腰の柔らかさ、嫌みのない賢そうな物言い、豊富な知識、そして、清楚な美しさ。そして、いったん歌えば、誰もが一瞬にして引き込まれてしまうエモーションと、轟音ギター。そのギャップがまた、ファンを作って行く。
一週間前からファン・クラブのホームページで流しているPVが好評だった。PVは、峰城大キャンパスを散策する雪菜を追ったもので、それ程凝った作りではなかったが、雪菜の儚げな美しさが際立つ内容だった。
ジャケットの写真は、大学近くの、よく使った喫茶店でくつろぐ姿が使われたが、中に二つ折のミニ・ピンナップが入っていた。バブル時代のアメカジのようなピンク色のスカート姿で、SCHECTERを弾く姿が、ポップに可愛く写っていた。
少ししなを作って、軽く斜めに見た視線が、健康的なエロスを湛えていた。
その節度ある色気が、また、高年齢層のファンを開拓した。曰く、�爐海鵑別爾�いたらなあ�瓩箸�、�爐Δ舛量爾�こんなだったら�瓩任△襦�
…………。
だが、今日の雪菜は、営業中は何時もと変らないパフォーマンスを見せていたが、身内だけになると、疲れた顔を見せた。
「雪菜、その目、どうした？」
移動のワゴン・タクシーの中で、春希が訊く。
「ごめんなさい。ちょっと油断して、昨日、夜更かししちゃった」
「夜更かしにしては、ちょっと、アレだな」
「えーと……。テヘ」
「雪菜さん……、ダサ可愛い」と、石川真矢が言う。
春希が「ひょっとして」と言いかけた時、早百合が「私の責任です。ごめんなさい」と遮った。
「清水さん……」
「今日は、勘弁して下さい」
「ごめんね」雪菜は、小さく謝った。
�犧鯑�のかずさとの練習で、何かあったのだろうか��
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「さて『幸せな記憶』ですが、初刷り二十万枚に達しました。皆さんのおかげです。
二週間後のバンド名義のファースト・シングル発売、夏から秋のツアー、セカンド・アルバム録音、学園祭ツアーと、忙しさは停まる所を知りませんが、年末まで宜しくお願いします。
まあ、年末は年末で、新たな企画が入るかもしれませんけどね。国営放送の大晦日イベントとか」
夕刻、ツアー向けの練習のため集まったバンド・メンバーの前で、春希はそう言って、軽く頭を下げた。
「売れるとは思ってたけど、具体的な数字を聞くと、さすがに武者震いがするもんだな」と、松岡が言う。
「ツアー終了後に、どれだけ振り込まれてるか、楽しみだ」と、杉田が言う。
「練習は順調だと、清水さんから聞いていますが、何か問題はありますか？」
「そうだな。新曲が出てこないことくらいかな」と、松岡が言う。
「ごめんなさい。今日、終わり際になるけど、かずさが二曲、持って来るから」
雪菜は、努めて明るく言った。
「ホントですか。楽しみです」と、石川真矢が言う。
「遅くなって、ごめんね。それに、次の次の練習までには、もう三曲、渡せると思う」
「そりゃ良かった。
……にしては、浮かない顔だな、雪菜」
松岡は、雪菜のことに関しては、殊の外、鋭い。
「えっ。ごめんなさい」
「夏バテか？」
「そうそう。ちょっと、寝不足かな。最近、経営陣からの精神的プレッシャーがハンパなくて……。昨日の夜も、涙がほろりと」
「おいおい、それは穏やかじゃないなあ」
杉田が春希を睨んだ。
「ちょっと待て、雪菜。そういう真しやかな嘘を言うのは止めてくれ。それでなくても、俺は最近、社長の冗談の後始末とか、色々なトラブルに巻き込まれて困ってるんだから」
「ふふふ」
「もしも、北原さんが社長になったら、怖そうですよね」と、下川直美が言った。
「下川さん。うちの契約内容は、他社と比較して、かなりアーティスト寄りだと思いますが、何かご不満でも？」
「いえ！ 特にありません！」
「ご理解いただけて、嬉しいです」
「じゃあ、チーフ・プロデューサーが来るまで、練習に励もうか」
松岡の発声の下、メンバー五人はスタンバイした。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
『幸せな記憶』発売日の二日後、日曜日の朝。
「今日、行ってくるんだっけ」
朝食の席についた曜子は、かずさに声をかけた。
「うん」
「希子さんに、また夕食ご一緒しましょうって、言っといて」
「もう、普通に食べられるの？」
「和食なら、大丈夫だから」
「肉食系だった母さんが、自分から進んで、和食、とか言い出すとはね」
「春希君には内緒よ。あの子、とことん心配性で、洋食がキツい時があるとか言うと、こっちの承諾なしに食事制限するから、窮屈ったら、ありゃしない。
私だってね、食べたらしんどくなるかもと分かってても、お肉が食べたくなる時があるんだから」
「そうだな。でも、わがままは、意地じゃなくて、体調と相談してくれよ」
「はいはい」
……「じゃ、かずさ、行こうか」
「こんな早くからお邪魔して、ホントに迷惑じゃないんだろうな」
「しつこいな。お前の練習時間を削るんだ。この時間帯が一番良いんだよ。母さんも、お前の練習を尊重しろと、言っていた」
「ところで、親子で久しぶりのお昼ご飯は、嫁の手料理なんでしょうね」
「はぁ？」
�爐鵑覆發鵝△任�る訳ないだろ�瓩函△�ずさは思う。
「曜子さん、殺す気ですか？」
「誰、を？」
「誰って……、あれ？」
「春希ぃぃぃ」
春希は朝から、回し蹴りを見舞われた。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
二人はタクシーで、付属高等部まで春希が住んでいた、例のマンションに向かう。
「それ、やっぱり、よく似合ってるよ」
タクシーの中で、春希はかずさに言った。
かずさは、白いノースリーヴのワンピースを着ていた。胸元、肩口や、ふわっとしたスカートの裾に、上品にレースをあしらった、涼しげなデザインだった。
そして、ツバ広の白い帽子。真っ黒で豊かな髪との対比が、美しかった。
「ホントに？ ホントに変じゃないか？」
「良い感じだよ。一緒に避暑地へ行きたいくらいだ」
「雪菜が着た方が似合いそうな気がするけど」
「そういう言い方するな。
……俺が選んだんだぞ。お前が一番似合うんだよ」
「そうだな」
「お前、ひょっとして、緊張してるのか？」
「な、何を言う。あたしはなあ、これまでの人生で、どんなイベントの前だって、一度も緊張したことはないんだ」
「そういえば、何時も、ふてぶてしいか、ふてくされてる顔しか見たことないな」
「う、うるさい」
「何時もと同じ顔で頼むよ。何時もと違うと、俺も変に緊張する」
「春希……」
「実の母親とは言え、電話で年に数回話せば良い方で、もう、二年半以上、顔を会わせてないんだからな」
「ふてぶてしいとか、ふてくされた顔なんて、したくないよ。だってあたし、春希のお母さんに、好かれたいからな」
「……そろそろ、着くぞ」
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
……ガチャ。
「久しぶり、春希」
「久しぶり、母さん」
「初めまして、あの、その、……お母さん」
「かずさ、さん、初めまして。さあ、上がって」
春希は、本当に久しぶりに、実家に帰った。
このマンションは、母親が離婚の際に、父親から補償させたものだ。
当の母親は、春希が付属に入学した頃から、頻繁に家を空けた。広い訳ではないが、高校生が一人暮らすには、がらんとした、生活感のない空間だった。
二人はダイニング・キッチンに通された。春希が付属の頃、全く使われていなかったその場所も、今は使われているようだった。
だが、他の人間が出入りしている雰囲気は全く感じられなかった。
「母さん、最近はこの部屋で暮らしているのか？」
「そうよ。……あのマンションは、解約したわ。必要なくなったから」
「そう、だったのか」
「ええ」
キッチンで、背を向けて冷えた茶を入れている希子は言った。
「仕事は、今でも忙しいの？」
「言わなかったっけ。私、会社、辞めたのよ」
「えっ、そうだったの？」
「加わっていた新薬開発プロジェクトが中止になってね。私にとって、三回目の中止だったから、疲れてしまって。
会社の雰囲気もゴタゴタしてきたし、居辛くなってしまったこともあって。
私も、短気だから、きれいさっぱり、捨ててしまいたい気になってね。
今は、調剤薬局で働いてるの。ホント、気楽よ。
退職金も結構あるし、ここもあるし、至って健康だし。私一人なら、何の問題も無いわ」
「そうか」
�爐海譴蓮�不倫相手とは別れた、ということなんだろうな�瓩函⊇婀�は思った。�猗韻眄�めてないし��
春希の母親、希子は、美人だった。少なくとも、かずさには、そう思えた。
飾りっ気の無い人だった。黒髪を後ろで束ね、垢抜けないフレームの鏡をかけているが、きっと若い頃はもっと美しかったんだと思う。
「こんな狭い所に来てもらって、悪かったわね、かずささん」
「いえ、そんなことはありません」
「あまり引き止めて、練習の邪魔をしたら悪いから、率直に話すわね」
「はい」
「私ね、女としても、母親としても、全然ダメなのよね」
「えっ」と言ったのは、春希だった。
「春希の父親と別れたのってね、私が女として、可愛くなかったからなのよ」
「そういう言い方、しなくて良いよ」と、春希は言った。
「まあ、あの男は、そういう理由で、他に女を作ったの」
「それは、父さんが一方的に悪いと思ってる」
「そうね。私にも、あの男の本当の気持ちは、未だに分かんないのだけれど、とにかくあの男は、私に女としての魅力を感じなくなって、出て行った。
春希が中学校に上がる前あたりから、お互いに仕事が忙しくなってきてね。どっちが、春希と一緒に夕食を食べたり、家事をするのかで、もめることが多くなって」
�爐修Δ世辰拭Ｋ榲�に嫌だったな��
口論ばかりの夕食が続き、それから、母親か、父親か、どちらか一人しかいない夕食時が増えて行った。手作りが減って、出来合いの総菜が増えた。
そして二人とも、疲れた顔で春希と夕食を共にした。
どうせ出来合いのものを食べるなら、一人でも食べられる。自分が自立すれば、両親の負担は軽減され、諍いは減る。春希はそう思った。
「この子は、賢くて、気が利くから、自分は一人で食べられる、一人で洗濯もできる、と言い出した。中学になって、手がかからなくなったと喜んでいたのだけれど、本当は違ったのね。
春希は私達、両親と距離をとって行ったのよ」
「…………」その、通りだ。
「でもね、春希が一人で身の回りのことをやれるようになると、私とあの男の諍いのネタは、もっと身も蓋もないものになっていったの。お互いの欠点をあげつらって、ね。
で、あの男は私に愛想を尽かして、他に女を作ったの。
その頃から、私もさすがにちょっとおかしくなってきてね。今から思えば、母親として最低の姿を春希に晒していたと思う。
ごめんね、春希」
「母さん……」春希は、母親に謝られて、驚いた。
「そうすると、完全にあの男は私との決別を決意した。同時に、その時にしていた仕事に見切りをつけて、実家に帰って家業に参加するから別れてくれと言い出した。
彼への気持ちが完全に切れてしまった上に、収入に不安の無かった私は、春希の親権と、教育資金と、このマンションさえもらえるなら、好きにすれば良いと言って、離婚届に判子を押したのよ。
ね、かずささん。ダメダメでしょう？」
「えっ」かずさは、困った。
「よく、分かりません」
「冬馬さんは……、曜子さんは、自分の方が酷いと言っていたけれど、私にはそうは思えない。
彼女は、自分がかずささんと一緒にいると、かずささんの良い所を殺してしまうかもしれないと思った、だから自分から離れた、と言っていたわ」
「……そういうこと、みたいです」
「でも、フランスにいても、常にかずささんのことは、チェックしていた。お手伝いさんとか、探偵さんから、ずっと情報は得ていた、と言っていたわ。
それに引き換え、私は、ただただ、春希から逃げたのよ」
「逃げた、って……、どういう、意味」
春希の声は、震えた。
「お金さえ渡せば、あなたは一人でも十分生活できると思った。だから、近くに居ながら、あなたを遠ざけた。
……顔つきが、目線が、声が、仕草が、若い時の、あの男に、段々似てきた、あなたの側にいるのが、辛くなってきたのよ」
希子の声が、詰まる。
「自分の若い時の、楽しげな思い出が、美しい思い出が、私を、逆に追いつめる……、から。
だから、私も、他の男に、逃げてしまった。
ごめんなさい、春希。あなたを一人にしてしまって、ごめんなさい。最低の母親で、ごめんなさい」
希子は、泣き崩れた。
「母さん……」
春希は知った。彼女はもう、自分が知っていた、あの気の強い母親ではないと。色んなものを失い続けてきた、一人で寂しく暮らしている、五十歳代の、か弱い女なのだ。
「春希、お母さんの側に……」かずさは、静かに言った。
春希は席を立ち、希子の横の空いた席に座る。
「母さん、俺こそ、放ったらかしにして、ごめんな」
「あなたは、謝らなくて良い……。私は、馬鹿な女よ。取り返しのつかないことをしてしまった。あなたと過ごす、明るい時間を失ってしまっただけでなく、あなたの青春に影を落としてしまった。
私は今、後悔ばかりしている」
「母さん、もう良いよ。もう良い。
俺、母さんに嫌われているとばかり、思ってた。俺なんか邪魔な存在だって」
「そんなことはない！
親権を守るために、あの男と、どれだけ争ったか」
「うん……。ありがとう」
「何時も、気になっていたの。電話したかった。声を聴きたかった。
でも、あなたは私を嫌っている。生活費も要らないという程、嫌っているんだと。私を捨てて、関係を絶ちたいんだと思って。
そして、もし安易に連絡して、あなたの口から、私を嫌っていることを、私を捨てることを、決定的に確認してしまったらどうしようかと。……そう考えると、怖くて連絡できなかった。……耐えられなかったのよ。
だから、あなたから、ずっとずっと、逃げていたの」
「同じだよ。僕もだ、母さん」
「春希……」
「母さんから、無視され続けるなら、離れた方が良い。そう思って、ここを出たんだよ。母親に嫌われているのに、縋って生きて行くのは辛かったから。
ごめんな……」
「そうなの？ 本当にそうだったの？」
「素直な子供じゃなくて、ごめんな」
「もう、謝らないで……」
「俺は、日本に帰ってきた。今の家だって、ここからすぐ近くだ。これからは何時でも会えるんだよ」
春希は、母の肩に手を置く。
「嬉しいわ」
希子はそういって、春希の肩に泣き崩れた。
母親の髪は、相変わらず豊かだが、白いものが目立っていた。そういえば、春希が、母親を遠ざけたのは、彼女が長い黒髪を切って、明るい色に染めたころからだった。
春希は、母親の肩を抱く。その細い肩を、悲しく、愛おしく思った。
�爐�そっ、俺は馬鹿だ。プライドばっかりで、母さんの何も見ていなかった。
何故、一人の人間として、弱い所もひっくるめて、見てやれなかったんだ��
春希の目にも、後悔の涙が浮かんだ。
心に、�猜貎討鯊嵯匹任�ないような男は、一人の女も幸せにすることはできないわよ�甅犲掲�も経てば、お母さんにだって、色々なことがあったに違いないわ。あなたは、それを思いやることのできるべき年齢なのよ�瓩箸いΑ⇒忙劼慮斥佞�浮かんだ。
ふと見ると、かずさが春希を見て、微笑んでいた。
「お母さん、あたしも春希も、今のところ、日本から離れる気はないんです。
今の企画が一段落したら、ヨーロッパと北米の仕事にも力を入れて行きますけど、向こうに行ったきりには、なりません。
あたしの、わがままな母親が、あたしを離してくれませんから。だから、お母さんも、これからは、春希にどんどん、甘えて良いんですよ。
わがまま言っても、良いんですよ」
「お前な、これ以上、俺の周りにわがままな女を増やすつもりか」
春希は、苦笑しながら言った。
「何を言ってんだ。女達に振り回されることを、楽しんでいるくせに」
かずさは、目に涙を溜め、微笑んで言う。
「馬鹿言うな。お前だけでも、大変なのに」
「ふふふ。曜子さんの言う通り」
希子は、頭を起こして、涙を拭う。
「何が」
「ホントに楽しそうに、痴話喧嘩するのね。かずささんて、可愛いわ」
「ああ、そうだろ。めちゃくちゃに可愛い嫁だろ」
「は、春希っ。恥ずかしいことを言うな」
「ありがとうな、俺を生んでくれて。母さんのおかげで、かずさに会えた」
�爐修靴董∪禳擇鵬颪┐伸�
「春希……」
「うちの母も、夕食をご一緒したいと言ってました。近いうちに、四人で、ご飯食べに行きましょう」
「ありがとう、かずささん。これからも、宜しくね」
希子は、泣き笑いの顔で、そう言った。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「もうこんな時間か。キッチン、使わせてもらうよ」
春希は、持参のクーラーボックスから、ごそごそとパックを取り出す。
「お昼、俺が作るよ」
「お前、料理できるの？」
「最近、必要に駆られてね」
「心配しないで下さい。大したものはできませんから」
「大したものじゃなくて悪かったな。ここの親子は、楽器はなんでもできるけど、料理は破壊的なんだよ」
「ふふふ。曜子さんから聞いてるわ」
「放っておくと、糖分過多のオーバーカロリー、おまけに野菜不足で便秘になりやすいから、俺がやるしか無いんだよ」
「何を言う。食事についても、お手伝いさんに頼むことはできるんだぞ」
「柴田さんの後釜に、次から次へとダメ出ししたのは二人だろ」
「あー、えーと、そうだったっけ」
「目玉焼き一つまともに焼けないんだから」
「うるさいなあ。
えっと、すみません。あたしは、料理、家事は全くできないし、これから勉強する気も無いので、一般的な嫁としては、何も期待しないで下さい。
ということで、春希。お昼ご飯、任せたよ」
「了解」
「あたしは、お母さんと二人っきりで話があるから、お母さんの部屋に行かせてもらう。言っておくが、覗くなよ。聴き耳も立てるなよ」
「分かった分かった」
「じゃあ、お母さん、ちょっと良いですか」
希子とかずさは、ダイニングキッチンの隣の、希子の和室に入って行った。
……「ということで、お母さん。春希の子供の頃の写真や、お母さんの若い頃の写真を、見せてほしいのですが」
「そう、言われると思っていた。
雪菜さんから、聴いたの？」
「はい」
「用意してあるわ」
希子は、分厚いアルバムを三冊、取り出した。
かずさは、一冊目をめくる。若い頃の希子が、春希の父親と写っていた。
「ははは」かずさは、思わず笑った。
確かに、あたしに似ている。
春希……、このツンデレの超マザコンめ。
この前の飲み会で、千晶の口から漏れそうになって、雪菜が塞いだ言葉。
後からこっそり、千晶に聞いた。
�狃婀�はね、ただのマザコン。全ての女に母親を求めている��
�猖榲�に、そうだな。
春希は、あたしの顔に一目惚れしたと言った。
そして、雪菜の家庭的な暖かさ、母性的な芯の強さに惚れた、はずだ。
……困った奴だ��
「やっぱり、その、似てるかしら」
「そう、ですね」特に目元が似ている。
「あの子、その……、分かってるのかしら」
「どうでしょう？ まあ、指摘しても、否定すると思いますけど」
「そうね。あの、ごめんなさいね。私みたいなつまらない女が、その……」
「いいえ、お母さんみたいな美人の方と、似てるなんて言われると、嬉しいです」
「何を言ってるの。かずささんのような凄い美人に、そんなこと言われたら、恥ずかしくて死にたくなるわ」
「あたしは、自分のことは、良く分からないです。どのパーツとっても大作りで、雑で……。自分が女としてどうだとか、思ったことはないんです。
でも、春希が、好いてくれるから……、何時も美しいと言ってくれるから……。それだけで良いんです」
「春希を愛してくれて、ありがとう。その……、色々あったとは、曜子さんから聴いているのだけれど」
「雪菜のことも、知ってるんでしょう？」
「ええ。二年半前、突然、婚約すると言われた時に、春希から少し話を聞いたから。でも、雪菜さんと直接話をしたのは、最近よ」
「あたしと、春希と、雪菜には、色々なことがありました。そして、これからも、色々なことがあると思います。
傷つくことや、傷つけることがあるかもしれませんけど、それでも、春希と、雪菜と一緒に、乗り切って行きたいと思います。
ですから、あたし達三人のことを、宜しくお願いします。お母さん」
かずさは、膝を揃えて座り直し、手をついて頭を下げた。
「かずささん」希子も膝を揃えて座り直す。
「こんなに素晴らしいお嬢さんが春希のお嫁さんだなんて、本当に嬉しいわ。こちらこそ、宜しくお願いします」
希子も、同じように頭を下げた。
そして二人は笑い合い、昼食の準備が整うまで、春希の子供の頃の写真を見て、楽しんだ。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
帰る間際、かずさと春希は、春希の部屋を覗いた。
春希は、このマンションを出て行く時、自室の家具を殆ど持ち出した。
だから、高校三年生の冬を思い出すものは、何も無いのだが、二人の心には、甘くて痛い感情が溢れてきた。
かずさは、春希の手を握り、ベランダに出る。
二人は並んで、外を見た。
「夏、だな」「ああ、夏だ」
かずさと、春希は、恥ずかしそうに言った。
「ふふ。あたしは馬鹿だな。確かに、公園が丸見えじゃないか」
かずさは、春希と初めて結ばれた、峰城大付の卒業式の夜のことを思い出していた。今とは真逆の、雪の振る寒い夜だった。
あの夜、公園から携帯電話をかけてきたかずさを、春希は、このベランダから発見した。そして、気取られぬように、逃げられないように会話を続けて近づき、春希への想い、別れの悲しみ、過去への後悔、雪菜への気遣いと自己嫌悪でぐちゃぐちゃになったかずさを捕まえた。
そしてこの部屋で、お互いの�狃蕕瓩騰瓩鮹イ辰拭�
二人は、雪菜を絶対的に裏切った。
それが最初の裏切り。
「何が『遠い所、お前が絶対に手が届かない場所』だよ」
「あの時、使っていた携帯な」かずさは、手を離し、振り向いて、春希の首に両手を回す。
「今でも、残してあるんだ」
「俺もだ」
「あの夜のことを、忘れたことはない」
「俺もだ」
「あの痛みの愛おしさを、忘れたことはない」
「かずさ……」
「でも、あたし達は、遠い所まで、来ちゃったんだなあ」
始まりの場所に立ちながら、かずさはそう言って、春希にキスをした。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「さて、じゃあ、録ろうかな……」
雪菜は、呼吸を整えた。
iPhoneを、簡易三脚に固定し、ボタンを押す。
少しぴたっとした白の襟付きのノースリーブに、濃いピンクのキュロットスカートを合わせ、SCHECTERを持った雪菜の姿が録画される。場所は、何処かの練習スタジオ。
「かずさ、春希くん、こんにちは。
お世話になっています。
えっと、新曲ができました。
曲自体はね、今、かずさからもらっている曲じゃなくて、昔、かずさが作って、残して行った曲の中で、わたしが前から好きだった曲を、ちょっとアレンジして、使わせてもらいました。
それで、あの、何故、次の練習に持って行かないのか、こんな回りくどいことをするのかと言うとね。
詩がね、わたしの詩じゃないの。
ううん。半分はね、わたしが書いたんだけど、厳密には、そうじゃないというか……。
ごめん、訳が分かんないよね。
つまり、春希くん、ごめん。あの『届かない恋』が載っているノート、勝手に見せてもらいました。
十四ページ目に載ってた詩に、わたしが二番を付け加えて、勝手に曲を付けました。
そうしたら、とっても良い曲になりました。
そんな曲だから、いきなりかずさに聴かせるのが、難しくって。
だから、ごめんなさい。こんな形で、お聴かせすることになりました。
聴いて下さい。タイトルは……」
目次 ／ 前回 ／ 続き）
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
どんな時でも低姿勢で、誰に対しても丁寧な言葉遣いを通す雪菜の人柄は、マスコミに好意的に受け取られていた。
峰城大学政経学部を上位で卒業した経歴も役立っていた。雪菜には、G8周辺を主に世界の政治・経済問題について、誰もが理解できるように咀嚼して簡素に説明する力があった。大学時代、春希同様、勉強以外の趣味を持っていなかったので、全般的にかなりの知識を持っていた。
それは、朋と互角と言って良かった。ただし、語学力の差で、雪菜に軍配が上がることは、朋も認めていた。付属高等部の頃から春希に勝る程の英語力を有していた雪菜は、大学時代に仏語を習得、卒業後に独語を習得した。
一方で、時折見せる、少し天然の入った破壊的な「大ボケ」も、場にほのぼのとした和みをもたらした。
こういうキャラクターを、バラエティ番組偏重の昨今のテレビ局が放っておく理由はないのだが、雪菜にとって、歌以外のことは趣味や余技でしかなく、また、事務所の方針もあって、テレビ出演の仕事は、音楽番組やプロモーション活動に制限されている。
物腰の柔らかさ、嫌みのない賢そうな物言い、豊富な知識、そして、清楚な美しさ。そして、いったん歌えば、誰もが一瞬にして引き込まれてしまうエモーションと、轟音ギター。そのギャップがまた、ファンを作って行く。
一週間前からファン・クラブのホームページで流しているPVが好評だった。PVは、峰城大キャンパスを散策する雪菜を追ったもので、それ程凝った作りではなかったが、雪菜の儚げな美しさが際立つ内容だった。
ジャケットの写真は、大学近くの、よく使った喫茶店でくつろぐ姿が使われたが、中に二つ折のミニ・ピンナップが入っていた。バブル時代のアメカジのようなピンク色のスカート姿で、SCHECTERを弾く姿が、ポップに可愛く写っていた。
少ししなを作って、軽く斜めに見た視線が、健康的なエロスを湛えていた。
その節度ある色気が、また、高年齢層のファンを開拓した。曰く、�爐海鵑別爾�いたらなあ�瓩箸�、�爐Δ舛量爾�こんなだったら�瓩任△襦�
…………。
だが、今日の雪菜は、営業中は何時もと変らないパフォーマンスを見せていたが、身内だけになると、疲れた顔を見せた。
「雪菜、その目、どうした？」
移動のワゴン・タクシーの中で、春希が訊く。
「ごめんなさい。ちょっと油断して、昨日、夜更かししちゃった」
「夜更かしにしては、ちょっと、アレだな」
「えーと……。テヘ」
「雪菜さん……、ダサ可愛い」と、石川真矢が言う。
春希が「ひょっとして」と言いかけた時、早百合が「私の責任です。ごめんなさい」と遮った。
「清水さん……」
「今日は、勘弁して下さい」
「ごめんね」雪菜は、小さく謝った。
�犧鯑�のかずさとの練習で、何かあったのだろうか��
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「さて『幸せな記憶』ですが、初刷り二十万枚に達しました。皆さんのおかげです。
二週間後のバンド名義のファースト・シングル発売、夏から秋のツアー、セカンド・アルバム録音、学園祭ツアーと、忙しさは停まる所を知りませんが、年末まで宜しくお願いします。
まあ、年末は年末で、新たな企画が入るかもしれませんけどね。国営放送の大晦日イベントとか」
夕刻、ツアー向けの練習のため集まったバンド・メンバーの前で、春希はそう言って、軽く頭を下げた。
「売れるとは思ってたけど、具体的な数字を聞くと、さすがに武者震いがするもんだな」と、松岡が言う。
「ツアー終了後に、どれだけ振り込まれてるか、楽しみだ」と、杉田が言う。
「練習は順調だと、清水さんから聞いていますが、何か問題はありますか？」
「そうだな。新曲が出てこないことくらいかな」と、松岡が言う。
「ごめんなさい。今日、終わり際になるけど、かずさが二曲、持って来るから」
雪菜は、努めて明るく言った。
「ホントですか。楽しみです」と、石川真矢が言う。
「遅くなって、ごめんね。それに、次の次の練習までには、もう三曲、渡せると思う」
「そりゃ良かった。
……にしては、浮かない顔だな、雪菜」
松岡は、雪菜のことに関しては、殊の外、鋭い。
「えっ。ごめんなさい」
「夏バテか？」
「そうそう。ちょっと、寝不足かな。最近、経営陣からの精神的プレッシャーがハンパなくて……。昨日の夜も、涙がほろりと」
「おいおい、それは穏やかじゃないなあ」
杉田が春希を睨んだ。
「ちょっと待て、雪菜。そういう真しやかな嘘を言うのは止めてくれ。それでなくても、俺は最近、社長の冗談の後始末とか、色々なトラブルに巻き込まれて困ってるんだから」
「ふふふ」
「もしも、北原さんが社長になったら、怖そうですよね」と、下川直美が言った。
「下川さん。うちの契約内容は、他社と比較して、かなりアーティスト寄りだと思いますが、何かご不満でも？」
「いえ！ 特にありません！」
「ご理解いただけて、嬉しいです」
「じゃあ、チーフ・プロデューサーが来るまで、練習に励もうか」
松岡の発声の下、メンバー五人はスタンバイした。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
『幸せな記憶』発売日の二日後、日曜日の朝。
「今日、行ってくるんだっけ」
朝食の席についた曜子は、かずさに声をかけた。
「うん」
「希子さんに、また夕食ご一緒しましょうって、言っといて」
「もう、普通に食べられるの？」
「和食なら、大丈夫だから」
「肉食系だった母さんが、自分から進んで、和食、とか言い出すとはね」
「春希君には内緒よ。あの子、とことん心配性で、洋食がキツい時があるとか言うと、こっちの承諾なしに食事制限するから、窮屈ったら、ありゃしない。
私だってね、食べたらしんどくなるかもと分かってても、お肉が食べたくなる時があるんだから」
「そうだな。でも、わがままは、意地じゃなくて、体調と相談してくれよ」
「はいはい」
……「じゃ、かずさ、行こうか」
「こんな早くからお邪魔して、ホントに迷惑じゃないんだろうな」
「しつこいな。お前の練習時間を削るんだ。この時間帯が一番良いんだよ。母さんも、お前の練習を尊重しろと、言っていた」
「ところで、親子で久しぶりのお昼ご飯は、嫁の手料理なんでしょうね」
「はぁ？」
�爐鵑覆發鵝△任�る訳ないだろ�瓩函△�ずさは思う。
「曜子さん、殺す気ですか？」
「誰、を？」
「誰って……、あれ？」
「春希ぃぃぃ」
春希は朝から、回し蹴りを見舞われた。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
二人はタクシーで、付属高等部まで春希が住んでいた、例のマンションに向かう。
「それ、やっぱり、よく似合ってるよ」
タクシーの中で、春希はかずさに言った。
かずさは、白いノースリーヴのワンピースを着ていた。胸元、肩口や、ふわっとしたスカートの裾に、上品にレースをあしらった、涼しげなデザインだった。
そして、ツバ広の白い帽子。真っ黒で豊かな髪との対比が、美しかった。
「ホントに？ ホントに変じゃないか？」
「良い感じだよ。一緒に避暑地へ行きたいくらいだ」
「雪菜が着た方が似合いそうな気がするけど」
「そういう言い方するな。
……俺が選んだんだぞ。お前が一番似合うんだよ」
「そうだな」
「お前、ひょっとして、緊張してるのか？」
「な、何を言う。あたしはなあ、これまでの人生で、どんなイベントの前だって、一度も緊張したことはないんだ」
「そういえば、何時も、ふてぶてしいか、ふてくされてる顔しか見たことないな」
「う、うるさい」
「何時もと同じ顔で頼むよ。何時もと違うと、俺も変に緊張する」
「春希……」
「実の母親とは言え、電話で年に数回話せば良い方で、もう、二年半以上、顔を会わせてないんだからな」
「ふてぶてしいとか、ふてくされた顔なんて、したくないよ。だってあたし、春希のお母さんに、好かれたいからな」
「……そろそろ、着くぞ」
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
……ガチャ。
「久しぶり、春希」
「久しぶり、母さん」
「初めまして、あの、その、……お母さん」
「かずさ、さん、初めまして。さあ、上がって」
春希は、本当に久しぶりに、実家に帰った。
このマンションは、母親が離婚の際に、父親から補償させたものだ。
当の母親は、春希が付属に入学した頃から、頻繁に家を空けた。広い訳ではないが、高校生が一人暮らすには、がらんとした、生活感のない空間だった。
二人はダイニング・キッチンに通された。春希が付属の頃、全く使われていなかったその場所も、今は使われているようだった。
だが、他の人間が出入りしている雰囲気は全く感じられなかった。
「母さん、最近はこの部屋で暮らしているのか？」
「そうよ。……あのマンションは、解約したわ。必要なくなったから」
「そう、だったのか」
「ええ」
キッチンで、背を向けて冷えた茶を入れている希子は言った。
「仕事は、今でも忙しいの？」
「言わなかったっけ。私、会社、辞めたのよ」
「えっ、そうだったの？」
「加わっていた新薬開発プロジェクトが中止になってね。私にとって、三回目の中止だったから、疲れてしまって。
会社の雰囲気もゴタゴタしてきたし、居辛くなってしまったこともあって。
私も、短気だから、きれいさっぱり、捨ててしまいたい気になってね。
今は、調剤薬局で働いてるの。ホント、気楽よ。
退職金も結構あるし、ここもあるし、至って健康だし。私一人なら、何の問題も無いわ」
「そうか」
�爐海譴蓮�不倫相手とは別れた、ということなんだろうな�瓩函⊇婀�は思った。�猗韻眄�めてないし��
春希の母親、希子は、美人だった。少なくとも、かずさには、そう思えた。
飾りっ気の無い人だった。黒髪を後ろで束ね、垢抜けないフレームの鏡をかけているが、きっと若い頃はもっと美しかったんだと思う。
「こんな狭い所に来てもらって、悪かったわね、かずささん」
「いえ、そんなことはありません」
「あまり引き止めて、練習の邪魔をしたら悪いから、率直に話すわね」
「はい」
「私ね、女としても、母親としても、全然ダメなのよね」
「えっ」と言ったのは、春希だった。
「春希の父親と別れたのってね、私が女として、可愛くなかったからなのよ」
「そういう言い方、しなくて良いよ」と、春希は言った。
「まあ、あの男は、そういう理由で、他に女を作ったの」
「それは、父さんが一方的に悪いと思ってる」
「そうね。私にも、あの男の本当の気持ちは、未だに分かんないのだけれど、とにかくあの男は、私に女としての魅力を感じなくなって、出て行った。
春希が中学校に上がる前あたりから、お互いに仕事が忙しくなってきてね。どっちが、春希と一緒に夕食を食べたり、家事をするのかで、もめることが多くなって」
�爐修Δ世辰拭Ｋ榲�に嫌だったな��
口論ばかりの夕食が続き、それから、母親か、父親か、どちらか一人しかいない夕食時が増えて行った。手作りが減って、出来合いの総菜が増えた。
そして二人とも、疲れた顔で春希と夕食を共にした。
どうせ出来合いのものを食べるなら、一人でも食べられる。自分が自立すれば、両親の負担は軽減され、諍いは減る。春希はそう思った。
「この子は、賢くて、気が利くから、自分は一人で食べられる、一人で洗濯もできる、と言い出した。中学になって、手がかからなくなったと喜んでいたのだけれど、本当は違ったのね。
春希は私達、両親と距離をとって行ったのよ」
「…………」その、通りだ。
「でもね、春希が一人で身の回りのことをやれるようになると、私とあの男の諍いのネタは、もっと身も蓋もないものになっていったの。お互いの欠点をあげつらって、ね。
で、あの男は私に愛想を尽かして、他に女を作ったの。
その頃から、私もさすがにちょっとおかしくなってきてね。今から思えば、母親として最低の姿を春希に晒していたと思う。
ごめんね、春希」
「母さん……」春希は、母親に謝られて、驚いた。
「そうすると、完全にあの男は私との決別を決意した。同時に、その時にしていた仕事に見切りをつけて、実家に帰って家業に参加するから別れてくれと言い出した。
彼への気持ちが完全に切れてしまった上に、収入に不安の無かった私は、春希の親権と、教育資金と、このマンションさえもらえるなら、好きにすれば良いと言って、離婚届に判子を押したのよ。
ね、かずささん。ダメダメでしょう？」
「えっ」かずさは、困った。
「よく、分かりません」
「冬馬さんは……、曜子さんは、自分の方が酷いと言っていたけれど、私にはそうは思えない。
彼女は、自分がかずささんと一緒にいると、かずささんの良い所を殺してしまうかもしれないと思った、だから自分から離れた、と言っていたわ」
「……そういうこと、みたいです」
「でも、フランスにいても、常にかずささんのことは、チェックしていた。お手伝いさんとか、探偵さんから、ずっと情報は得ていた、と言っていたわ。
それに引き換え、私は、ただただ、春希から逃げたのよ」
「逃げた、って……、どういう、意味」
春希の声は、震えた。
「お金さえ渡せば、あなたは一人でも十分生活できると思った。だから、近くに居ながら、あなたを遠ざけた。
……顔つきが、目線が、声が、仕草が、若い時の、あの男に、段々似てきた、あなたの側にいるのが、辛くなってきたのよ」
希子の声が、詰まる。
「自分の若い時の、楽しげな思い出が、美しい思い出が、私を、逆に追いつめる……、から。
だから、私も、他の男に、逃げてしまった。
ごめんなさい、春希。あなたを一人にしてしまって、ごめんなさい。最低の母親で、ごめんなさい」
希子は、泣き崩れた。
「母さん……」
春希は知った。彼女はもう、自分が知っていた、あの気の強い母親ではないと。色んなものを失い続けてきた、一人で寂しく暮らしている、五十歳代の、か弱い女なのだ。
「春希、お母さんの側に……」かずさは、静かに言った。
春希は席を立ち、希子の横の空いた席に座る。
「母さん、俺こそ、放ったらかしにして、ごめんな」
「あなたは、謝らなくて良い……。私は、馬鹿な女よ。取り返しのつかないことをしてしまった。あなたと過ごす、明るい時間を失ってしまっただけでなく、あなたの青春に影を落としてしまった。
私は今、後悔ばかりしている」
「母さん、もう良いよ。もう良い。
俺、母さんに嫌われているとばかり、思ってた。俺なんか邪魔な存在だって」
「そんなことはない！
親権を守るために、あの男と、どれだけ争ったか」
「うん……。ありがとう」
「何時も、気になっていたの。電話したかった。声を聴きたかった。
でも、あなたは私を嫌っている。生活費も要らないという程、嫌っているんだと。私を捨てて、関係を絶ちたいんだと思って。
そして、もし安易に連絡して、あなたの口から、私を嫌っていることを、私を捨てることを、決定的に確認してしまったらどうしようかと。……そう考えると、怖くて連絡できなかった。……耐えられなかったのよ。
だから、あなたから、ずっとずっと、逃げていたの」
「同じだよ。僕もだ、母さん」
「春希……」
「母さんから、無視され続けるなら、離れた方が良い。そう思って、ここを出たんだよ。母親に嫌われているのに、縋って生きて行くのは辛かったから。
ごめんな……」
「そうなの？ 本当にそうだったの？」
「素直な子供じゃなくて、ごめんな」
「もう、謝らないで……」
「俺は、日本に帰ってきた。今の家だって、ここからすぐ近くだ。これからは何時でも会えるんだよ」
春希は、母の肩に手を置く。
「嬉しいわ」
希子はそういって、春希の肩に泣き崩れた。
母親の髪は、相変わらず豊かだが、白いものが目立っていた。そういえば、春希が、母親を遠ざけたのは、彼女が長い黒髪を切って、明るい色に染めたころからだった。
春希は、母親の肩を抱く。その細い肩を、悲しく、愛おしく思った。
�爐�そっ、俺は馬鹿だ。プライドばっかりで、母さんの何も見ていなかった。
何故、一人の人間として、弱い所もひっくるめて、見てやれなかったんだ��
春希の目にも、後悔の涙が浮かんだ。
心に、�猜貎討鯊嵯匹任�ないような男は、一人の女も幸せにすることはできないわよ�甅犲掲�も経てば、お母さんにだって、色々なことがあったに違いないわ。あなたは、それを思いやることのできるべき年齢なのよ�瓩箸いΑ⇒忙劼慮斥佞�浮かんだ。
ふと見ると、かずさが春希を見て、微笑んでいた。
「お母さん、あたしも春希も、今のところ、日本から離れる気はないんです。
今の企画が一段落したら、ヨーロッパと北米の仕事にも力を入れて行きますけど、向こうに行ったきりには、なりません。
あたしの、わがままな母親が、あたしを離してくれませんから。だから、お母さんも、これからは、春希にどんどん、甘えて良いんですよ。
わがまま言っても、良いんですよ」
「お前な、これ以上、俺の周りにわがままな女を増やすつもりか」
春希は、苦笑しながら言った。
「何を言ってんだ。女達に振り回されることを、楽しんでいるくせに」
かずさは、目に涙を溜め、微笑んで言う。
「馬鹿言うな。お前だけでも、大変なのに」
「ふふふ。曜子さんの言う通り」
希子は、頭を起こして、涙を拭う。
「何が」
「ホントに楽しそうに、痴話喧嘩するのね。かずささんて、可愛いわ」
「ああ、そうだろ。めちゃくちゃに可愛い嫁だろ」
「は、春希っ。恥ずかしいことを言うな」
「ありがとうな、俺を生んでくれて。母さんのおかげで、かずさに会えた」
�爐修靴董∪禳擇鵬颪┐伸�
「春希……」
「うちの母も、夕食をご一緒したいと言ってました。近いうちに、四人で、ご飯食べに行きましょう」
「ありがとう、かずささん。これからも、宜しくね」
希子は、泣き笑いの顔で、そう言った。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「もうこんな時間か。キッチン、使わせてもらうよ」
春希は、持参のクーラーボックスから、ごそごそとパックを取り出す。
「お昼、俺が作るよ」
「お前、料理できるの？」
「最近、必要に駆られてね」
「心配しないで下さい。大したものはできませんから」
「大したものじゃなくて悪かったな。ここの親子は、楽器はなんでもできるけど、料理は破壊的なんだよ」
「ふふふ。曜子さんから聞いてるわ」
「放っておくと、糖分過多のオーバーカロリー、おまけに野菜不足で便秘になりやすいから、俺がやるしか無いんだよ」
「何を言う。食事についても、お手伝いさんに頼むことはできるんだぞ」
「柴田さんの後釜に、次から次へとダメ出ししたのは二人だろ」
「あー、えーと、そうだったっけ」
「目玉焼き一つまともに焼けないんだから」
「うるさいなあ。
えっと、すみません。あたしは、料理、家事は全くできないし、これから勉強する気も無いので、一般的な嫁としては、何も期待しないで下さい。
ということで、春希。お昼ご飯、任せたよ」
「了解」
「あたしは、お母さんと二人っきりで話があるから、お母さんの部屋に行かせてもらう。言っておくが、覗くなよ。聴き耳も立てるなよ」
「分かった分かった」
「じゃあ、お母さん、ちょっと良いですか」
希子とかずさは、ダイニングキッチンの隣の、希子の和室に入って行った。
……「ということで、お母さん。春希の子供の頃の写真や、お母さんの若い頃の写真を、見せてほしいのですが」
「そう、言われると思っていた。
雪菜さんから、聴いたの？」
「はい」
「用意してあるわ」
希子は、分厚いアルバムを三冊、取り出した。
かずさは、一冊目をめくる。若い頃の希子が、春希の父親と写っていた。
「ははは」かずさは、思わず笑った。
確かに、あたしに似ている。
春希……、このツンデレの超マザコンめ。
この前の飲み会で、千晶の口から漏れそうになって、雪菜が塞いだ言葉。
後からこっそり、千晶に聞いた。
�狃婀�はね、ただのマザコン。全ての女に母親を求めている��
�猖榲�に、そうだな。
春希は、あたしの顔に一目惚れしたと言った。
そして、雪菜の家庭的な暖かさ、母性的な芯の強さに惚れた、はずだ。
……困った奴だ��
「やっぱり、その、似てるかしら」
「そう、ですね」特に目元が似ている。
「あの子、その……、分かってるのかしら」
「どうでしょう？ まあ、指摘しても、否定すると思いますけど」
「そうね。あの、ごめんなさいね。私みたいなつまらない女が、その……」
「いいえ、お母さんみたいな美人の方と、似てるなんて言われると、嬉しいです」
「何を言ってるの。かずささんのような凄い美人に、そんなこと言われたら、恥ずかしくて死にたくなるわ」
「あたしは、自分のことは、良く分からないです。どのパーツとっても大作りで、雑で……。自分が女としてどうだとか、思ったことはないんです。
でも、春希が、好いてくれるから……、何時も美しいと言ってくれるから……。それだけで良いんです」
「春希を愛してくれて、ありがとう。その……、色々あったとは、曜子さんから聴いているのだけれど」
「雪菜のことも、知ってるんでしょう？」
「ええ。二年半前、突然、婚約すると言われた時に、春希から少し話を聞いたから。でも、雪菜さんと直接話をしたのは、最近よ」
「あたしと、春希と、雪菜には、色々なことがありました。そして、これからも、色々なことがあると思います。
傷つくことや、傷つけることがあるかもしれませんけど、それでも、春希と、雪菜と一緒に、乗り切って行きたいと思います。
ですから、あたし達三人のことを、宜しくお願いします。お母さん」
かずさは、膝を揃えて座り直し、手をついて頭を下げた。
「かずささん」希子も膝を揃えて座り直す。
「こんなに素晴らしいお嬢さんが春希のお嫁さんだなんて、本当に嬉しいわ。こちらこそ、宜しくお願いします」
希子も、同じように頭を下げた。
そして二人は笑い合い、昼食の準備が整うまで、春希の子供の頃の写真を見て、楽しんだ。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
帰る間際、かずさと春希は、春希の部屋を覗いた。
春希は、このマンションを出て行く時、自室の家具を殆ど持ち出した。
だから、高校三年生の冬を思い出すものは、何も無いのだが、二人の心には、甘くて痛い感情が溢れてきた。
かずさは、春希の手を握り、ベランダに出る。
二人は並んで、外を見た。
「夏、だな」「ああ、夏だ」
かずさと、春希は、恥ずかしそうに言った。
「ふふ。あたしは馬鹿だな。確かに、公園が丸見えじゃないか」
かずさは、春希と初めて結ばれた、峰城大付の卒業式の夜のことを思い出していた。今とは真逆の、雪の振る寒い夜だった。
あの夜、公園から携帯電話をかけてきたかずさを、春希は、このベランダから発見した。そして、気取られぬように、逃げられないように会話を続けて近づき、春希への想い、別れの悲しみ、過去への後悔、雪菜への気遣いと自己嫌悪でぐちゃぐちゃになったかずさを捕まえた。
そしてこの部屋で、お互いの�狃蕕瓩騰瓩鮹イ辰拭�
二人は、雪菜を絶対的に裏切った。
それが最初の裏切り。
「何が『遠い所、お前が絶対に手が届かない場所』だよ」
「あの時、使っていた携帯な」かずさは、手を離し、振り向いて、春希の首に両手を回す。
「今でも、残してあるんだ」
「俺もだ」
「あの夜のことを、忘れたことはない」
「俺もだ」
「あの痛みの愛おしさを、忘れたことはない」
「かずさ……」
「でも、あたし達は、遠い所まで、来ちゃったんだなあ」
始まりの場所に立ちながら、かずさはそう言って、春希にキスをした。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「さて、じゃあ、録ろうかな……」
雪菜は、呼吸を整えた。
iPhoneを、簡易三脚に固定し、ボタンを押す。
少しぴたっとした白の襟付きのノースリーブに、濃いピンクのキュロットスカートを合わせ、SCHECTERを持った雪菜の姿が録画される。場所は、何処かの練習スタジオ。
「かずさ、春希くん、こんにちは。
お世話になっています。
えっと、新曲ができました。
曲自体はね、今、かずさからもらっている曲じゃなくて、昔、かずさが作って、残して行った曲の中で、わたしが前から好きだった曲を、ちょっとアレンジして、使わせてもらいました。
それで、あの、何故、次の練習に持って行かないのか、こんな回りくどいことをするのかと言うとね。
詩がね、わたしの詩じゃないの。
ううん。半分はね、わたしが書いたんだけど、厳密には、そうじゃないというか……。
ごめん、訳が分かんないよね。
つまり、春希くん、ごめん。あの『届かない恋』が載っているノート、勝手に見せてもらいました。
十四ページ目に載ってた詩に、わたしが二番を付け加えて、勝手に曲を付けました。
そうしたら、とっても良い曲になりました。
そんな曲だから、いきなりかずさに聴かせるのが、難しくって。
だから、ごめんなさい。こんな形で、お聴かせすることになりました。
聴いて下さい。タイトルは……」
目次 ／ 前回 ／ 続き）
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
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春希と母親との和解ですが私はあっさりしすぎだと感じましたね。
かずさと雪菜の間に嫉妬や憎しみが横たわっているように、春希にも親には「言葉にできない」ほどの鬱屈した思いを抱いていたということが『届かない恋、届いた』で示されています。
春希の母親も息子がいきなり外国に旅立っても曜子さんのように追いかけようともしていない。
そんな冷めた、本当に冷めている親子が会っただけであっさり和解なんて、ご都合すぎじゃありませんか、と。
tuneさま、何時もありがとうございます。
WA2の三大謎、春希の母親、かずさの父親、依緒と武也のうち、何とか二つについて書いてみました。
春希がかずさの顔に一目惚れ、というのと、マザコン、というのは、確定的な情報なので、その二つから邪推するに、やっぱり春希の母親はかずさに似ているのではないか、という、安易な設定が浮かびました。ちなみに、巨乳まで似ているかどうかは、分かりませんでした。
雪菜さんは…、どんどん面白くなって行きますね。この人は、ホント、面白いです。やっばり、雪菜もメチャメチャ可愛いですね。
次も読んでいただけるよう、頑張って妄想します。
春希とその両親との事は原作でも深くは触れていないので、WA2のssの作者の方々はこの事について書くことは腕の見せ所という感じでしょうか?今回の場合でいえば世界的な有名人を母に持ち、誰に対しても堂々としている様に見えるかずさが一般人である春希の母に対して緊張し捲りな所が(夫の母親に初めて会うのだから当たり前ですが)微笑ましいですね。このssの世界ではこれで北原親子の仲も良くなって行きそうです。
雪菜はやはり春希のノートを活用してきましたね。この曲がこの後波乱を起こすのでしょうか?次回も楽しみにしています。