23 二大コンチェルト録音 ／ 2015年７月中旬
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ushigara_neko 2014年07月18日(金) 10:08:37履歴
「今日は、体調が良いから、私も行くわね」
二大コンチェルト……、ラフマニノフの協奏曲第二番、チャイコフスキーの協奏曲第一番の録音の当日。
朝食を終えた後で、曜子は二人に言った。
「今年うちが出すCDの中では、一番大仕掛けで、一番お金のかかる録音になる訳だから、社長としては、見届けさせてもらうわ」
「もちろんです」春希は、曜子を迎えに来た美代子にコーヒーを渡しながら言った。
「雪菜も、来る予定です」
「あの子も来るの？」
「うん」かずさは、薄茶色の砂糖水を飲みながら言う。
「雪菜がいて大丈夫なの？」
「あたしは、あいつの録音に立ち会ってるのに、あいつがあたしの録音に立ち会えないのは、おかしい」
「あなたは、雪菜の作曲者兼チーフ・プロデューサーでしょう。でも、雪菜はあなたの録音に関係ないじゃない」
「関係、なくはない……。ともかく、あいつに聴いてもらいたいし、あいつも聴きたいと言ってる」
「良いけど。社運が傾くような演奏しないでよ」
「それは気にしなくて良い。
それよりも、母さんは、娘が自分を超えて行く瞬間を目の当たりにして、体調悪くしたりすんなよ」
「それだけ軽口が叩けるんなら、期待して聴かせてもらうわ」
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
録音会場は、帝都オペラシティ。
「当社のクラシック部門は、他社に比べて進んでいるとは確かに言えません。クラシックのハイレゾナンス録音と配給に関してもです。
ですが、希代のアーティスト・冬馬かずささんのCDを弊社が担当する以上は、必ず最高の録音を行ってみせますので、お任せ下さい」
ナイツ・レコードの営業本部長は、そう曜子に挨拶した。
「他にも結構、ナイツのお偉いさんが来てますよ」
美代子が、小声で説明する。
「うわ、ホント」雪菜が言った。
「事前に聞いてないなあ……。どうする、かずさ」
「別に関係ないよ」かずさは、言った。
「ただし、ホール内で立ち会う気なら、あくび一つ、咳一つするなと言っておけ。したら必ず蹴り殺す」
春希は、ナイツ・レコード側に、お偉いさん方のホール内での録音立ち会いを遠慮してもらうよう、要請した。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
予定された時間がやって来た。
マイクのセッティングが終わり、打楽器が置かれる。
従来の録音方法と異なるため、ミキサーその他、機材は持ち込まれ、客席にある。雑音排除のため、レコーディングスタッフを残して、ホールの中は演奏中立ち入り禁止にした。
次々と楽団員が入ってきた。かずさと、マエストロも配置に付く。
まず、チェックのため、第一楽章の展開部まで、演奏した。
その後、モニターして音質とバランスの最終チェック。
いよいよ、収録本番に移る。
「行って来るよ」さっぱりとした青いノースリーヴのワンピースに身を包んだかずさが、ステージに向かう。
「いってらっしゃい。上の調整室でモニターを聴いてるわ」曜子が言う。
「かずさ、今日は聴いてても良いかな」春希が確認する。
「ああ。今日は、ちまちま録音したりしない。全楽章、一回で終わらせる。コンサート聴いているつもりで、聴いてたら良い」
「かずさ、頑張って」雪菜が言う。
「うん……。雪菜、あの……」
「何……」
「…………」かずさは、雪菜の両手を軽く握る。
「どうしたの？」
「今から、あたしはラフマニノフを、弾く」
「うん……」
「録音すると決めてから、ずっと思っていたのだけれど」
「何、かな」雪菜は小首を傾げる。
「あたしは、このラフマニノフを、お前に捧げる」
「えっ」
「お前のことを想って弾く」
「そんな……、本当に？」
「ああ」
「光栄だよ。凄く嬉しい」
「でも、ひょっとしたら、お前を悲しませるかもしれない」
「何故？」
「聴けば、たぶん分かる。でも、あたしがどれ程お前のことを想っているかも、分かってもらえると信じている。
というか、お前が分かってくれなければ、この録音は失敗だ」
「そんな怖いこと言わないでよ」
「心配するな。あたしは、そこにいるピアニストの名盤を過去のものにしてしまうような演奏を、必ずする。
だから、どんな風に想っても、最後まで聴いててくれ」
「……分かったよ」
「春希。雪菜と、母さんを頼む」
「ああ」
「じゃ、行ってくるよ」
かずさは、ステージに向かう。
「冬馬かずささん、入られます」とスタッフの声が聞こえた。
続いて「マエストロ、入られます」の声とともに指揮者・鳴瀬望が入る。
「えらく、勢い込んでたけど、大丈夫かしら。自信満々の時程、空回りしそうで心配だわ」と曜子は言った。
恐らく、二年半前の凱旋公演の初日の演奏を思い出しているのだろう。
「今回に関しては、心配要りません」
「それじゃあ、お手並み拝見しましょうか」
曜子を先頭に、春希、雪菜、美代子は調整室に向かう。
「どんなラフマニノフになるか、楽しみだわ」
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
セルゲイ・ラフマニノフ、ピアノ協奏曲第二番。
難曲中の難曲として知られ、極めて高度な演奏技巧が要求される。
全曲初演は、彼が28歳の、1901年10月27日。ショパンのピアノ協奏曲第一番、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番と並び、最も人気のあるピアノ協奏曲の一つ。
ショパンの第一番と決定的に違うのは、オーケストラはピアノの添え物ではなく、互いに立場を入れ替えつつ、主題部と展開部を発展させて行くと言う点だ。
だから、オーケストラとの呼吸も非常に重要になる。
1897年、ラフマニノフが並々ならぬ情熱と労力を注いだ交響曲第一番の初演は、記録的な大失敗に終わった。彼は大きな精神的打撃を受け、極度の鬱に陥り、作曲は疎か演奏もままならなくなる。
だが、1899年、ロンドン・フィルハーモニック協会の招きでイギリスに渡った彼は、ピアノ協奏曲の作曲依頼を受ける。強度の精神衰弱に襲われながら、催眠療法により自信を回復して書き進めた結果、1901年に完成させた。
そのメランコリックな曲調、華やかなピアノ、重厚なオーケストレーションは、初演から大成功を収め、ハリウッドでは、映画音楽として何度も取り上げられた。当時の映画音楽のあり方も変えてしまった、と言われている。
なお、同時期に作られた名曲を見ると、1894年にブルックナーが交響曲第九番を三楽章まで完成させて死去し、1896年にシュトラウスが交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を、1900年にプッチーニが歌劇「トスカ」を、1902年にマーラーが交響曲第５番を、1903年にシェーンべルグが交響詩「ペアレスとメリザンド」を完成させている。
つまり、後期ロマン派の最後に属し、数年も経れば近・現代音楽の無調世界に突入する、そういう時代の音楽だ。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
第一楽章 Moderato ハ短調 二分の二拍子 自由なソナタ形式
�猴�鬱な、暗闇の世界に、粉雪が降っている
少しずつ、少しずつ、私を埋めて行く
寒いよ、歩き出せないよ
誰か、助けてよ
何も聴こえない、沈黙な世界
でも、小さな声で、私を呼ぶ声が聞こえた
何度も、繰り返し、私を呼ぶ
呼応して、私の心臓の鼓動が、耐えきれない想いが、微かに小さく鳴った
粉雪の中から、その鼓動は、ゆっくりと徐々に大きくなって行く��
「ツィマーマンより、遅い……」曜子が心配げに言う。
かずさの大きな手は、「始まりの鐘」の和音、十の鍵盤を、かなりゆっくりと、しっかりと重く、同時に鳴らした。
�犖歹阿蝋發泙蝓�光は訪れる
大きな音を立てて、扉は開かれた！
でも、そこは、猛吹雪の雪原
轟々と鳴り響く暴風の歌
私を打ちのめす、雪つぶて
でも、良い
私は外の世界に出たのだから
誰にも聴こえなくても、私は大声で歌う��
そして、ドアをバン！と外へ開くように、第一主題に移る。
「かなり重い……。でも、良い……」雪菜が呟いた。
「良いわ……。第一主題の裏のピアノのアルペジオは、結構大事なパートなのに、左手に気を取られて、右手が何となくの人が多いのよね。
あの子、ちゃんと歌えてる」
�犁╂瓩和紊錣蝓�寒さは和らぎ、吹雪は止む
私は自由に歌を歌える
明るい春の歌も歌える
春風が心地よく、私にまとわりつく��
第一主題がピアノに移ると、ピアノは少しテンポを上げ、クレッシェンドでフォルテシモまで盛り上がって行く。
そして、テンポを元に戻し、ヴィオラに導かれて第二主題に移る。第二主題は深い憂いを湛えた思い切りメランコリックなメロディで、ピアノが歌う。
「うん、良いわ。第二主題を上手く歌えたわね。第一楽章の一番大事な所は、やっぱり第二主題のピアノ・ソロよ。かずさはしっかり歌ってる」
�犹笋蓮⊇佞北�かな恋を、晩夏に心地良い二人のまどろみを知った
大好きな人の声を
でも、また、秋がくる
そして、再び、雪が降る��
展開部へ向かうファンファーレが鳴り響く。
展開部は、短いながら、息吐く暇もないジェットコースター。ピアノとオケは掛け合いを繰り返す。かずさとオケは、容赦なくお互いに切り付け、そして、共に歌う。
そして、再現部に雪崩れ込んで行く。より重厚に、情熱的に第一主題が奏される。だが、提示部とは異なり、ピアノはオブリガードを伴ってより激情的に、オケが奏でる重厚な第一主題に対して抗おうとし、最後は一人になる。
�狎磴蓮�何故、私に降り続くの？
何故、私から離れていかないの？
何故、私を抱きしめて離さないの？
何故、私の想いを隠そうとするの？��
�狎禳據帖帖⊃匹い茘�
「かずさ？」雪菜は、かずさの声を聴いた気がした。
続いて、美しいホルンが第二主題を奏でるが、今度は、それが変奏されて、再び重い雲が立ちこめる。
ピアノは諦念したような美しいフレーズを奏でる。しかし……。
�爐泙拭∋笋鰐埒畧磴寮禪兇砲い�
轟々と鳴り響く暴風の歌
私を打ちのめす、雪つぶて
でも、私は、倒れたりしない
どんなに私を打ちのめそうとも
どんなに私を凍えさせようとしても
私の心は、静かに、熱く、あの恋を忘れないから��
ピアノは、決意したかのように、オケを従え、クレッシェンドしながらエンディングに突入して行く。正確かつ攻撃的に、意志強く突っ走る。
第一楽章が、終わった。
「どうですか」
ディレクターがオケに尋ねる。
かずさは、鳴瀬氏と、意見交換している。
二人は、少しだけ言葉を交わした後、ディレクターに対して、頷いた。
「問題ないですね。了解しました。第一楽章は録音終了です。少し休憩しますか。……はい、了解です。二十分、休憩ですね」
かずさは、調整室を見上げた。
春希は、遠くにいるかずさに対して、頷いて応えた。
かずさも、それが見えたのか、ピアノに向かって座り直す。
目を閉じて、精神統一しているようだ。
曜子は……、黙っている。
「曜子さん……、如何でしょうか？」
春希は思わず声をかけた。
「黙ってて」曜子は、少しピリピリしていた。
「……はい」
「録り直すところは何処もないでしょうよ。そりゃ……」
雪菜が、曜子の横に立ち、肩を抱いた。
美代子は、ハラハラした顔をして三人を見ていた。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
第二楽章 Adagio sostenuto ホ長調 序奏つきの複合三部形式
「第二楽章は、四分の四拍子で始まり、二分の三拍子と四分の四拍子を行ったり来たり……。
上手くやれば、深遠な森の中を揺蕩うような、少し不安で幻想的な世界を作れるけど、下手すれば安酒を飲んだ酔っぱらいの千鳥足になる。
あなたは、どっちかな、かずさ」
曜子は、誰に問うでもなく、独り言ちた。
……オケは全員席に着き、かずさは、丁寧に座り直す。
寒く、深い夜の帳が落ちるように、暗い弦楽合奏が奏でられる。
そして、夢の世界に……。
�猴�鬱な、暗闇の世界に、粉雪が降っている。
ここが何処か、分からない
側にいるのは、粉雪だけ
私は、ゆっくりと彷徨う
森を抜け、廃墟で遊び、川の畔で佇む
誰もいない
でも、あなたが側にいる
一番深い所に
だから、私は一人じゃない
それに、粉雪が着いて来るから
私を優しく抱くように
私を優しく傷つけるように��
「夜の妖精……」
「廃墟の幽霊……」
雪菜と曜子は、小さく呟いた。
「第二楽章は、アルペジオにアクセントをつけちゃダメなのよね。何処で変ったかが分かるようじゃダメ。
それでいて、主題はちゃんと歌わなきゃならないから、厄介な曲だわ」
そして、ピアノのカデンツァへ。
�猜汗磴蓮�何時も私を凍えさせる
でも、それは憎しみではないと分かっている
粉雪は、私を包んで、側にいたいだけ
私とずっと遊んでいたいだけ��
�爐佑─∧�かる？
私は温かいでしょ
あなたの全てを奪ってしまう程に、熱いでしょ
ごめんね
お互いに全く違うのに
裏切り合って、傷つけ合って
それでも、お前と側にいる��
「……よく帰って来たわね」
曜子は、ぽつりと言った。
カデンツァの終わりから第一主題に帰るところ、かずさは、全休止するのかと思うくらい、間を開けてから、ゆっくりと帰って来た。
そして、オケは、より幻想的に、感情を押さえて歌う。
�爐修靴董∋笋呂泙拭¬襪涼罅∧汗磴吠�かれてる……��
最後にピアノは、本当にゆっくりと、一人着地した。
オケは、余韻を楽しむように、黙り続けた。
マエストロは頷き、かずさは、ピアノから手を離す。
「…………」ディレクターは、何も言わない。
優しいため息の合奏が、暖かくホールを包む。
かずさと指揮者は、お互いに頷いただけだ。
「了解しました。第二楽章は録音終了です。少し休憩しますか？」
かずさは、上を見上げ、そして、春希はまた見えるように頷く。
……「ふん」曜子は鼻を鳴らした。
「どう、ですか」春希は再度小声で尋ねた。
「聴きたい？」
「できれば」
「あなたが今、頷いた通りの出来よ。
完璧だわ。全体の管理と細部への拘りを、いとも簡単にやり通した。
それでも、ここまでやるとは驚いた……。
前からリズム感が良いとは思っていたけれど、あの子のリズム感は天性のものね。誰かさんがロックなんかやらせなかったら、意識してコントロールできるようになったかどうか、分からないけど」
曜子は少し険しい目つきで言った。
そして、春希は気づく。
横に立つ、雪菜の肩が震えていたことを。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
第三楽章 Allegro scherzando ハ短調〜ハ長調
思春期の恋愛の駆け引きのような、甘いオケのイントロに誘われて、ピアノが走る。スケルツォのような、勢いのある第一主題。恐ろしい程の速弾きで疾走してく。
束の間の逡巡の後に、第一主題とは真逆の、ゆったりとした美しい旋律の第二主題へ……。まずオケが歌い、ピアノが受け継いて、歌を発展させる。
�犹笋呂發Α�帰れない
今では幸福と言える、あの一人の世界には
ここで、生きて行く
分かる？
それは決意……、じゃない
お前の仕掛けた、蜂蜜のような罠……
どうしても愛してしまう絶望……��
そして、展開部へ。第一主題、第二主題が変奏される。
ピアノは、オケをリードして進んで行く。ピアノがオケを歌わせる。
�犹笋�何処からやってきたのかは、分からない
でも、私が何処に向かっているのかは、分かる
お前もそうだろう？
でも、もう、何も考えなくて良い
私達は、出会うべくして出会った
運命なんて、知らない
でも、私達は、出会ったんだ
分かる？
この出会いの
甘美と苦渋が
解放と束縛が
喜悦と苦痛が
信頼と疑惑が
希望と後悔が
友情と裏切りが
愛してしまうという、絶望が……
例え罠だとしても、落ちていく甘い絶望が��
「雪菜に捧げるって、そういう意味か。あからさまだわ」
曜子は、側に立つ、雪菜を見る。
雪菜は、目を見開きながら、震えながら、聴いていた。
だが、大きく「ふうー」とため息を付くと、目を細め、肩の力を抜いた。
「曜子さん……、かずさは、開き直った、んですか？」
「そうね。私達の想いが、本当に届いたみたいよ」
「そうですね……」
「あの子はもう、あなたから逃げない。逆に、これから大変よ。かずさは、あなたを離してくれないわよ」
「ふふっ」雪菜は冷たく笑った。
「望む所、です」
ピアノは、派手で難易度の高いカデンツァに雪崩れ込んで行く。
完璧にコントロールされた両手の指が、確実に、強烈な存在感で、鍵盤を打ち込んで行く。
�犹笋蓮△海海砲い�
でも、気をつけろ
私の熱い想いは、お前を溶かしてしまうから��
オケは全力で第二主題を鳴り響かせる。ピアノは華麗なオブリガードで飾り付ける。
春希はここに来て、緊張を解放して、音を浴びた。
�爐茲Δ笋�、ここまできたな、かずさ。
日本に帰って来た選択が、本当に正しかったか、未だに分からないけれど、お前は、雪菜に再会して、みんなに再会して、吹っ切れたんだな。
俺も、開き直らないとな……��
ピアノはエンディングに向かって疾走して行く。オケが速度を増して、追いかける。
集結部へ雪崩れ込んで行く。
ラフマニノフが集結部に使う常套句は、ちょっと余裕を持って鳴らされた。
……マエストロはタクトを下ろし、かずさはピアノから手を離す。
暫くの間の後、プロデューサーが「如何ですか」と尋ねた。
無論、問題があるという者はいない。
かずさは、すっと立ち上がり、オケにお辞儀した。
マエストロはかずさに近づき、握手する。ある者は楽器を置いて拍手し、ある者は足を鳴らして、かずさを讃えた。ブラボー、と叫ぶ者もいた。録音に対するオケの印象は極上のようだ。
「ラフマニノフは終了です。昼食休憩に入りましょうか」
かずさは、調整室を見上げて、モジモジしたかと思うと、照れくさそうにアッカンベーした。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「春希くん、知ってたら教えてほしいのだけど。かずさは、他の人の演奏を、誰か、聴いてた？」
「名演と呼ばれるものは、一通り聴いています。アシュケナージ＋ハイティンク、ツィマーマン＋小澤、ワイセンベルク＋カラヤン、ジルベルシュテイン＋アバド……、どれも良く聴いていました。
嫌われたのはグリモー＋アシュケナージですね……。こんな揺れ揺れでピンボケのラフマニノフは認めない、と言って、ゴミ箱に直行でした」
「あの子らしいわ……。グリモーは美人だけど、それだけだものね」
「でも、今回の録音が決まってから聴いていたのは、もっぱら二枚です。一枚は、ラフマニノフ本人とストコフスキー＋フィラデルフィア管」
「1929年の自作自演版？ あんな音の悪いＳＰ盤起しの演奏を」
「かずさは、ラフマニノフ自身のピアノの、次の展開に移る際の、淀みないきっぱりとした決意が好きだと言ってました。意図が明確に理解できると」
「確かに。テンポが自在に変るんだけど、前の展開を引きずらず、もったいぶらず、場面展開がパンパン、と変るのよね。モーツァルト的な潔い哀愁を感じると言うのかな」
「そして、もう一枚は、冬馬曜子＋アバド＋ベルリン・フィル」
「私の……」
曜子のキャリアに燦然と輝く、名演中の名演だ。
「ラフマニノフ版の対局にある、曜子さんのロマンティシズム溢れる演奏が大好きだと……。華麗な装飾音の中に作者が忍ばせたフレーズを汲み取り、意図を浮かび上がらせ、細部まで歌わせる繊細さと再現力は、他の追随を許さないと」
「あの子……」
「その両極端な演奏を同時に実現した上で、オーケストラの力を借りて、第二番が持っている、望郷のメランコリックなイメージではなく、運命に抗い、新天地で羽ばたく、力強いロマンティシズムを構築したいと言ってました。
そして、聴いてもらう人が正確に聴いてくれるように、ピアノの音に拘ると」
雪菜は、静かに語る春希を見て、歯噛みした。
そして、「春希くん、クラシックについて分からないって、言ってたの、嘘だったんだね」と、努めて明るく言った。
「雪菜、俺は、クラシックについては、未だに殆ど分からないよ。マネージャーとして、かずさに何度恥をかかせたか分からない……」
春希は苦笑する。
「でも、冬馬かずさがどういうピアノを弾きたいと思っているかは、世界で一番理解しているつもりだ」
「……言ってくれたわね」曜子が春希を睨んだ。
「え、あの、ごめんなさい……」
「ごめんで済むか」
そういって、曜子は春希の頬を力なく叩く。
殆ど、触るかのように。
「曜子さん……」雪菜が言う。
「何よ……」
「わたしより先に叩いたらダメです。わたしだって、叩きたかったのに……」
「うるさい……。くそ、悔しいわ」
「そうですね……」
「雪菜……」「曜子さん……」
二人は抱き合って泣く。
……だが、次第に笑い声になっていく。
春希には、何が何だか分からない。
「あ〜あ。ホントに腹立つわね。でも、やっぱり嬉しさが勝つ。
認めてあげるわ。このラフマニノフに限っては、冬馬曜子以上だと……」
「えっ」
「曜子さん以上かどうかまでは分からないけれど、凄過ぎるよ……。同じくらい凄い。わたしも何枚か聴いたけど、贔屓なしで一番良い。
ホント、酷く抉られて、そして、熱く癒される。
腹が立つけど、喝采するしかないよ……。凄いわ、さすが、わたしの……」
「直接言ってやってくれ。あいつ、絶対に喜ぶよ」
「…………」
�爐△譟帖帖���
曜子は、目を細めて、冷たく、「春希君、そういうことは、雪菜のやり方に任せなさい。言いたいことと、言いたくないことがあるんだから」と言った。
「……ごめんなさい」
「さて、それじゃ、たった今、世紀の名演をやり終えた女を冷やかしに行きましょうか」
曜子は、そう言うと、出口に向かった。
春希は、この一件について、かずさには黙っておこうと思った。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
かずさと、その他四人は、かずさの楽屋で春希の持参した弁当を食べた。
「それで、その……、ラフマニノフはどうだった？」と、かずさは曜子に聴いた。
「最初にしちゃ、上出来だったんじゃない。後はジャケ写ね」
「ジャケ写なんかで評価が変るかよ！」
「変るわよ〜。ちゃんと演奏と奏者のイメージが合わないと、戸惑って評価できなくなるじゃない。
折角、冬馬曜子を超えるラフマニノフを弾いたんだから、ちゃんとした評価をもらわないとね」
「えっ、母さん……、ホントに？」
「さっきのドヤ顔はどうしたの？ 十分、自覚あったんでしょ？」
「それはそうだけど……。そんな風に言ってもらえるなんて……」
「娘の演奏、貶めてどうするのよ。本当に良かったわよ」
「ありがとう、母さん。
それで、えと、雪菜は、どう、だった？」
「良かったわ」雪菜は、努めて明るく言った。
「本当か？」
「えっとね」
「あいたっ」
雪菜は席を立つと、かずさの頭に軽く手刀を落とした。
「こいつめ。やりやがったな。本当に、メチャメチャ感動したよ。こんなに凄い演奏を捧げてくれて、ありがとう」
「雪菜ぁ……」
「あーあ、また遠くに行っちゃった気がするよ」
雪菜は座り直し、微笑んだ。
「ありがとう、雪菜」
「こちらこそ、だよ」
「午後のチャイコフスキーも気を抜かずに全力で取り組みなさい。カップリング曲でコケたら、目も当てられないから」
「分かってるよ」
「このCDは売れるわよ。だから、売れるように、しっかりしたパッケージングを考えましょう」
「ジャケ写は、練習の最終日に、演奏風景の撮影を終えていまして、その写真から、今、デザイナーが選定中です」春希は言いながら、iPadに保存されてい写真を示す。
曜子はスクロールしながら、「こんなの、ダメダメ。全く色気がないじゃない。せめてグリモーよりは美人に写ってるのにしてほしいわ」と言った。
「あんなナルシスティクなジャケ写はごめんだ」
「何言ってるの。春希君、この盤って、CDだけだったかしら」
「最近、中高年層におけるアナログ媒体の再人気が凄いので、LPの販売も視野に入ってますが……」
「LPで出すのが前提なら、余計よ。写真が大きくなるから、凝ったジャケットにしないとね。
そうねえ……。第二楽章が、お化けでもでそうな雰囲気だったから、溺死するオフィーリアみたいなのはどう？
ワンピースが水で透けて、レースのエロい下着が見えるみたいなのが良いわ」
「ははは」かずさは、冷めた笑い声を出す。「ふざけるな」
「じゃあ、雪原で行き倒れている感じとかは？
雪の白さと黒髪の対比とかでキレイだと思うんだけど」
曜子は悪ノリを止めない。
「それ、良いかも」と、雪菜は同調する。
「何処で撮るんだよ。今夏だぞ」
「じゃあ、降雪機でも借りましょうか」
「曜子さん、もうあまり時間がなくてですね……」
「それと、若いうちは、適度なお色気サービスも必要よ。雪菜の一枚目みたいに、中に何枚かピンナップ風の大判写真入れちゃったら」
「あのな、あたしは脱がないぞ」
「お前、論点はそこか？」
雪菜のファーストに対する対抗意識か……。
「えっ、いや、と、とにかく、絶対に脱がないぞ。お、お色気とかないんだからなっ」
�爐修Δ�……。そんなに脱ぎたいのか……。困ったな��
「ふう」春希はため息を付く。
「では、僕の方から、提案があります」
「春希。お前、まともな提案なんだろうな」
「着物を着て、ピアノを弾く姿はどうだ。黒を主体にした着物と、白を主体にした着物で、凄く和風を意識した感じにしたらどうかな」
「良いわね！」曜子は賛同する。
「Japanese Beautyか」
「……勝手にしろ」かずさも肯定するが、はたと気づいたように、「ただし、赤い着物だけは絶対に止めてくれよ」と言った。
「お菊人形……」雪菜が呟く。
「う、うるさい！」
「マエストロ鳴瀬に帯解かれて、畳に転がされているショットは？」と曜子は言った。
「ないない……」
「まあ、それは良いか。じゃあ、春希君。マエストロとのショットも欲しいから、彼の日程を押さえるのと、雪菜、あなたも一緒に写っちゃいなさい」
「わたしも、ですか」
「あなた達二人の着物姿、見ておきたいから」曜子は、静かに言った。
�犹�々そういうこというの、反則だよな�瓩函△�ずさは思った。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番は1875年10月25日、アメリカのボストンで初演され、大成功を収めた。当時、彼は三十五歳。モスクワ音楽院教授の職にあり、既に作曲家として相当に知られていた。
ロシア的で色彩豊かなオーケストレーションと独奏ピアノの華やかさで、彼の出世作といえる。最もポピュラーなピアノ協奏曲の一つであり、ヴァン・クライバーンが弾いた同曲は、ビルボードのポップアルバムチャートで一位、それも七週連続を獲得した唯一のクラシック作品である。
同年代の名曲といえば、1874年にワーグナーが「神々の黄昏」を、同年ムソルグスキーが組曲「展覧会の絵」を、1976年にブラームスが「交響曲第一番」を完成させている。
ステージに向かうかずさを見送り、四人は調整室に上がる。
かずさは、今度はなんだか、春希に何か言いたそうだったが、もじもじして埒が開かなかった。
……「春希君は、この曲を好きかな？」曜子は訊く。
「正直、申し上げると、取っ付きにくいですね」
「どういうところが？」
「第一楽章ですけど、有名な冒頭の部分と第一主題が、その後全く出て来ないので、途中から違う曲を聴いている気がして、困惑するんです」
「正解。第一主題の再現を待ってると、第二主題と第三主題による展開部が退屈に感じて、もや〜っとするのよね。
だから、聴き方としては、第一主題からピアノ・ソロに移るでしょ、そこで小カデンツァを挟んで第一主題が再現されたら、第一楽章が終わった。第二主題以降は次の曲、くらいに思って聴けば良いのよ。そうすると、ロシア民謡の踊りみたいな第二主題と、子守唄みたいな第三主題による展開部を楽しめると思うわ。
それから、第二主題以降はあまり一体感が無くて、オケが提示する主題をピアノが展開する形が主になるから、ピアノの華麗な演奏を中心に聴けば違和感が少ないと思うわ」
「なる程……。そう思えば、第二楽章、第三楽章もおまけじゃなくて、違和感無く聴けそうですね」
「それそれ。私の趣味から言うと、第一楽章より、第二楽章、第三楽章の方が良い曲なのよね」
「そうなんですか」
「ちゃんと聴いたこと無いでしょう？」
「はい……。曜子さんの演奏した盤が無いので」
春希は、冬馬かずさの熱烈なファンであるのと同時に、冬馬曜子の熱烈なファンだった。
「何故、無いんですか？」
「だって、私の人生に、こんなに楽しい掛け合いは無かったもの」
「え……」
「さっき、かずさ、あなたの前でもじもじしてたでしょう」
「え、ええ」
「きっと、チャイコンはあなたに捧げる、と言いたかったのよ」
「えっ」雪菜が声を出して曜子を見た。
「だって、ラフマニノフを雪菜に捧げると言ったのよ。カップリング曲にも思い入れをしてない訳ないじゃない？」
「そんな雰囲気は全くなかったのですが……」
「聴いててごらんなさい。直ぐに分かるわ」
「分かり、ました」
「それとね、春希君。あなた、クラシックに関する基礎知識とか、音楽全般の基礎知識が欲しいなら、私が講義してあげても良いわよ。
雪菜にしたのと同じカリキュラムなら」
「それは、嬉しいです」これは本当にありがたい。
「そう？じゃあ、一週間に二回位、午前中にでも、時間とりましょうか」
「ありがとうございます」
「ただし、私と二人で過ごす時間と同じだけ、あなたのお母さんと過ごす時間を作ること」
「えっ……」
春希は、予想もしていなかったことを言われた。
「春希君、あなた、私の言ったこと無視して、全然、お母さんと連絡とって無いでしょう？」
「…………」
「全く……。あなたの、お母さんに対する感情は本当に捻れてるわね」
雪菜も、振り返って、春希を見た。自分もそう思う、と言わんばかりに。
「お母さんに連絡とって、会いに行くこと。私があなたに教えてあげるのは、それが条件よ。これが終わったら、かずさと一緒に行ってらっしゃい」
「いえ……。これは僕の問題です。僕だけで行きます」
「ふーん、そうかな？」
雪菜が、舞台を見下ろしながら言った。
「雪菜……」春希は情けない声を出した。
「さて、そろそろ、録音が始まりそうよ」
曜子は、話題を打ち切った。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
第一楽章 Allegro non troppo e molto maestoso - Allegro con spirito、変ロ長調。
マエストロがタクトを振り下ろすと、ホルンが力強く鳴り響く。
強烈なオーケストラヒットに続いて、壮大なスケールの、例のテーマが流れ出す。
ピアノは、オケに負けじと強く跳ねる。
そして、最初の見せ場のソロ。かずさは、ゆっくり大らかに弾く。
「珍しい……。あの子、笑ってる」
第一主題が帰った後は、雰囲気は一転。ロシア民謡のような、せわしなく細かい第二主題へ。そして、打って変わったように、美しい第三主題がピアノによって奏でられ、展開部に入って行く。
協奏曲とは銘打てど、ピアノ・ソロの部分が多く、難易度は高い。
だが、かずさは、臆せず、楽しそうに弾いている。
全く乱れなく、みじんの不安も感じない。オケとの息もぴったりだ。
最後の、再現部の長大なカデンツァも、甘いロマンティシズムを湛えながら、余裕で弾き切った。
「よし。良くやった」曜子は、素直に誉める。
かずさは、今回は、調整室を見上げない。相当、余裕を感じる。
「今まで聴いたCDと全く違った印象です」
春希は楽しそうに言った。
「初めて、良いなあ、と思いました」
「うふん。そうでしょう、そうでしょう」
�爐泙襪如⇒漆�後の、あなた達の痴話げんかそのものでしょ�瓩藩忙劼聾世い燭�て仕方がなかったが、雪菜の手前、さすがにそれは口に出さなかった。
「休みなしで、次の楽章に行きそうですよ」
雪菜は、振り返りもせず、淡々と言った。
…………。
第二楽章 Andantino semplice - Prestissimo - Quasi Andante、変ニ長調→ヘ長調→変ニ長調。
弦楽器のピチカートに乗って現れる、牧歌的なメロディがフルート、ピアノ、オーボエに引き継がれていく。展開部では、ピアノが高速で踊り狂う。
その後、主題が戻り静かな雰囲気になって終わる。
「はん」曜子は、コンソールに肘を付いたまま言った。
「まるで好きな男と踊るかのように楽しげに弾いたわね」
…………。
第三楽章 Allegro con fuoco、変ロ短調→変ロ長調。
突然、ティンパニが一撃を加え、スラブ舞曲のような第一主題を、ピアノが華麗に歌う。続いて、弦楽器による家謡風の美しい第二主題が奏された後、オケとピアノによる第一主題を変奏した掛け合いが始まる。
ピアノは速度を増し、疾走して行く。オケは遅れじとアクセルを踏む。
「凄い……」美代子がため息をつく。
「そうですね……。本当に凄いです」春希も同調する。
「かずさも良いけど、オケとの息がぴったり合ってる。日本のオケの中では良い方だとは思っていたけれど、この組み合わせは良いわね。
どう、春希君、マエストロに嫉妬しない？」
雪菜は、半分、春希に振り向き、右目だけで見つめる。
「嫉妬……」春希は言い淀む。
演奏はクライマックスに向けて熱を増して行く。
第二主題がフルオケで鳴らされ、ピアノは喜びに溢れて舞い踊る。
かずさは、全ての音を明確に弾いて行く。一瞬たりとも何となく弾き流したりしない。指は鍵盤を一つ一つ意志強く打ち込み、リズムはぶれることなく美しく刻まれていく。
そして、歓喜の中、フィナーレへ突入して行く。
�爐瓦瓩鵝帖帖∪禳抬�
「そうですね……。そう、かもしれません」
春希は、雪菜の目を見つめたまま、そう言った。
至福の中、集結部が堂々と鳴らされた。
全ての録音は何の問題もなく進み、順調に、素晴らしい演奏が素晴らしい音質で収録された。
「完璧ね」曜子は、コンソールに片肘を付き、ステージを見たまま言った。
「そう、ですね」雪菜も、前を向いたままだ。
「カップリング的には、問題ないでしょうか？」
春希は、努めて押さえて事務的に言った。
「別々に売りたい位ね。こんな豪華なカップリングが売れなくちゃ、クラシック演奏家なんてやってられないわ。売ってくれなきゃ、困るわよ、春希君」
「もちろんです」
「じゃあ、かずさの所に行きましょうか」
「先に行ってて、下さい」
雪菜は、背中を見せたまま言う。
「雪菜……」春希は、声をかける。
「なんでもないから。後から、すぐ、行くから」
「大丈夫、か……」
「うん、大丈夫、だから」
「分かった」
「じゃあ、美代ちゃんと降りてらっしゃい。春希君、行きましょう」
「はい」春希は後ろ髪を引かれながら、部屋を出た。
「そうですね。私と行きましょう」と、美代子は言った。
「すみません」
雪菜の声は湿っていた。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「雪菜、大丈夫でしょうか」
ゆっくり曜子と移動しながら、春希は言った。
「もちろん、大丈夫じゃないわよ〜。あんな幸せそうな色惚けた演奏されて、あなたへの想いを存分に歌われたら、やってられないわよ」
「…………」
「分からなかった？」
「はい。……いいえ、分かってました」
「さすがに分かるわよね。ラフマニノフと全然アプローチが違うもの」
「はい」
「気にしなくて良いわ。今日の録音に立ち会うと決めた日から、雪菜には覚悟はできていたはずよ。
ホント、ややこしい娘ね。かずさの録音が成功することを、私達と同じ位心から望みながら、いざ、かずさの成功とあなたへの想いを目の前にしたら、嫉妬が自分を燃やし尽くそうとした。
その姿をあなた達に見られたくないのよ。
仕方ないわね、こればっかりは。
誰かが、その時、泣かなければ、あなた達の関係は維持されないのだから」
「俺達が日本で活動を続ける限り、雪菜には辛いをさせてしまう。……本当にそれで良いんでしょうか」
曜子は立ち止まった。
「それは、あの娘が決めること。それに、今の発言、ずるいわ」
「何が、ですか」春希は、視線を逸らした。
「あなた、雪菜のこと、まだ気持ちの整理が付いてないんでしょ」
「そんなことはありません」春希の声が上擦る。
「そうかしら。今、自分は決定せずに、雪菜の気持ちを理由にして、あの娘から逃げようとしたじゃないの」
「…………」
「見え見えよ。春希君」曜子は、春希を見据える。
「今日の演奏を聴けば分かるように、かずさはそれなりに前進している。
でも、あなたは、雪菜とのことにしても、お母さんとのことにしても、立ち止まっているんじゃないの？」
「……そうかもしれません」
「それじゃ駄目なのは分かっているのでしょう？」
「……はい」
「じゃ、なすべきことをなさい」
「…………」�爐笋辰僂蝓△海凌佑鷲櫃き�
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「母さん、遅かったじゃないか。鳴瀬さんも、オケの人達もあんたを待ってる」
ロビー前で曜子を待っていたかずさは、笑いながら言った。頬が高揚している。
「私を？」
「そうだよ。社長として、ちゃんと挨拶してくれないと困る」
「はいはい」
「はーるき♡」かずさは、主人を見つけた犬のように近よった。
「かずさ」春希も笑顔で迎えた。
「やってやったぞ」
「良かったよ」
「それだけか？」
「凄かった」
「それで？」
「俺が今までに聴いたどの演奏も、お前の演奏の前では色褪せてしまった」
「当たり前だ」
かずさは、微笑みを湛えて、春希を見つめた。
「思いっ切り、惚れ直したよ」
春希は、かずさの右手を優しく握った。
「おまけに、マエストロに嫉妬した」
「は、恥ずかしいこと、言うなよ……。ばか」
かずさは、少し頬を染めた。
「ここでお姫様抱っこでも出来れば、最高なんだが」
「い、いいよ、恥ずかしいじゃないか……。
えっと、……雪菜は？」
「少し、遅れて降りて来ると言った」
「そうか」かずさは、素に戻って言った。
「雪菜は、分かってくれてる」
春希は、思ってもいないことを言った。
「そうだな」�爐修Α∋廚い燭き�
かずさは、口籠った。
マエストロ・鳴瀬氏と帝都フィルは、恐らく歴史に残るであろう名演・名録音を一気に録り終えた高揚を露わにして、二人の名ピアニストを拍手で迎えた。
「マエストロ、そして、帝都フィルの皆様、本日は娘、冬馬かずさの初めてのコンチェルト録音におきまして、素晴らしい演奏をしていただき、本当にありがとうございました。母親として、また、当社の代表として感謝申し上げます」
曜子は軽く頭を下げた。
マエストロとオケは、拍手で応える。
「今日の演奏は、二曲とも、過去の名演に劣らぬ内容だったと思います。
いえ、過去の全ての演奏を凌駕してしまった、と言って過言ではありません。
これは、マエストロと帝都フィルの皆様のお力の賜物と思っております。
娘も、皆様のおかげで、素晴らしい演奏を収録出来ました。彼女のキャリアの中で、何時迄も輝き続ける名演となるでしょう。ありがとうございました。
まだまだ、協奏曲の名曲がございます。今後とも、冬馬かずさとの競演を宜しくお願い致します」
再び、拍手。かずさも、ニコニコと喜んでいる。
「最後になりますが、私ごとで恐縮ですが、私が27歳の時に録音したショパンのソナタ第二番と第三番のDSDリマスター版が発売されました。私、過去の演奏には全く興味が無いのですが、好評なようでして、重版に次ぐ重版を重ねております」
�犹筺�買いました！�瓩箸寮爾�出た。
「ありがとうございます」
この時点では、みんな、まだニコニコしていた。
冬馬曜子と言えば、必ず引き合いに出される名演中の名演だ。同曲の名演リストの中にも必ず入る。ジャケットに使われた、当時の美しい曜子の横顔のアップ写真も伝説に一役買っている。
「この後、私の代表作と言われる盤が全部で十枚ほど、DSDリマスターで再発されます。その中にはクラウディオがBPhを振ったラフ二も含まれているのですが、どうも、発売日が、タイミングの悪いことに、本日の録音の発売日に被ってしまったようでして……」
�爐呂呂廊瓩半�さな笑いが少しおこったが、急激に冷めた雰囲気が立ちこめる。
あの名演のリマスター版が、同じ発売日？
「本当に、当社のマネージャーが、気が利かなくて……、すみません」
曜子は、春希を横目で睨むと、口の端を上げた。
疑惑ありげに、かずさが春希を見つめるが、春希は、今初めて聴いた話だ。
曜子の録音の管理をしているのは美代子だ。春希は美代子の姿を探したが、彼女と雪菜は、まだ、調整室から帰って来ていない。
�爐筺△笋蕕譴拭�わざと被せたな……。それも、俺に教えないとは……��
「私の過去の演奏など、それ程売れるとも思いませんが、今回の私の過去の録音のリマスターに関して、ナイツ・レコードさんは並々ならぬ熱の入れようでして。販促にもかなり力を入れるとのことです。
折角の名演・名盤も、売れなければ、そのようには認知されません」
もう、誰も笑う者はなかった。
「本日の録音の販売枚数が、私の過去の盤を上回ることを、心から祈っております」
曜子は、不敵な笑みを湛えて、軽く礼をした。
かずさは、何処まで行っても唯我独尊の母親を、怒りに震えて見つめていた。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
その日の夕方、かずさと、マエストロ鳴瀬氏を初め、帝都フィル・メンバー、ナイツ・レコードのエンジニア、販売担当による打ち上げが開催された。少し酔いの回ったコンサート・マスターから、打倒・冬馬曜子が宣言され、怒号を伴い口々に叫ばれるとともに、北原マネージャーがつるし上げにあったことは言うまでもない。
雪菜は、あの後、姿を見せなかった。きっと、美代子が付き添って帰ったに違いない。
言い訳に終始する春希の心の中には、それが深い心配事として漂っていた。
目次 ／ 前回 ／ 続き
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
二大コンチェルト……、ラフマニノフの協奏曲第二番、チャイコフスキーの協奏曲第一番の録音の当日。
朝食を終えた後で、曜子は二人に言った。
「今年うちが出すCDの中では、一番大仕掛けで、一番お金のかかる録音になる訳だから、社長としては、見届けさせてもらうわ」
「もちろんです」春希は、曜子を迎えに来た美代子にコーヒーを渡しながら言った。
「雪菜も、来る予定です」
「あの子も来るの？」
「うん」かずさは、薄茶色の砂糖水を飲みながら言う。
「雪菜がいて大丈夫なの？」
「あたしは、あいつの録音に立ち会ってるのに、あいつがあたしの録音に立ち会えないのは、おかしい」
「あなたは、雪菜の作曲者兼チーフ・プロデューサーでしょう。でも、雪菜はあなたの録音に関係ないじゃない」
「関係、なくはない……。ともかく、あいつに聴いてもらいたいし、あいつも聴きたいと言ってる」
「良いけど。社運が傾くような演奏しないでよ」
「それは気にしなくて良い。
それよりも、母さんは、娘が自分を超えて行く瞬間を目の当たりにして、体調悪くしたりすんなよ」
「それだけ軽口が叩けるんなら、期待して聴かせてもらうわ」
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
録音会場は、帝都オペラシティ。
「当社のクラシック部門は、他社に比べて進んでいるとは確かに言えません。クラシックのハイレゾナンス録音と配給に関してもです。
ですが、希代のアーティスト・冬馬かずささんのCDを弊社が担当する以上は、必ず最高の録音を行ってみせますので、お任せ下さい」
ナイツ・レコードの営業本部長は、そう曜子に挨拶した。
「他にも結構、ナイツのお偉いさんが来てますよ」
美代子が、小声で説明する。
「うわ、ホント」雪菜が言った。
「事前に聞いてないなあ……。どうする、かずさ」
「別に関係ないよ」かずさは、言った。
「ただし、ホール内で立ち会う気なら、あくび一つ、咳一つするなと言っておけ。したら必ず蹴り殺す」
春希は、ナイツ・レコード側に、お偉いさん方のホール内での録音立ち会いを遠慮してもらうよう、要請した。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
予定された時間がやって来た。
マイクのセッティングが終わり、打楽器が置かれる。
従来の録音方法と異なるため、ミキサーその他、機材は持ち込まれ、客席にある。雑音排除のため、レコーディングスタッフを残して、ホールの中は演奏中立ち入り禁止にした。
次々と楽団員が入ってきた。かずさと、マエストロも配置に付く。
まず、チェックのため、第一楽章の展開部まで、演奏した。
その後、モニターして音質とバランスの最終チェック。
いよいよ、収録本番に移る。
「行って来るよ」さっぱりとした青いノースリーヴのワンピースに身を包んだかずさが、ステージに向かう。
「いってらっしゃい。上の調整室でモニターを聴いてるわ」曜子が言う。
「かずさ、今日は聴いてても良いかな」春希が確認する。
「ああ。今日は、ちまちま録音したりしない。全楽章、一回で終わらせる。コンサート聴いているつもりで、聴いてたら良い」
「かずさ、頑張って」雪菜が言う。
「うん……。雪菜、あの……」
「何……」
「…………」かずさは、雪菜の両手を軽く握る。
「どうしたの？」
「今から、あたしはラフマニノフを、弾く」
「うん……」
「録音すると決めてから、ずっと思っていたのだけれど」
「何、かな」雪菜は小首を傾げる。
「あたしは、このラフマニノフを、お前に捧げる」
「えっ」
「お前のことを想って弾く」
「そんな……、本当に？」
「ああ」
「光栄だよ。凄く嬉しい」
「でも、ひょっとしたら、お前を悲しませるかもしれない」
「何故？」
「聴けば、たぶん分かる。でも、あたしがどれ程お前のことを想っているかも、分かってもらえると信じている。
というか、お前が分かってくれなければ、この録音は失敗だ」
「そんな怖いこと言わないでよ」
「心配するな。あたしは、そこにいるピアニストの名盤を過去のものにしてしまうような演奏を、必ずする。
だから、どんな風に想っても、最後まで聴いててくれ」
「……分かったよ」
「春希。雪菜と、母さんを頼む」
「ああ」
「じゃ、行ってくるよ」
かずさは、ステージに向かう。
「冬馬かずささん、入られます」とスタッフの声が聞こえた。
続いて「マエストロ、入られます」の声とともに指揮者・鳴瀬望が入る。
「えらく、勢い込んでたけど、大丈夫かしら。自信満々の時程、空回りしそうで心配だわ」と曜子は言った。
恐らく、二年半前の凱旋公演の初日の演奏を思い出しているのだろう。
「今回に関しては、心配要りません」
「それじゃあ、お手並み拝見しましょうか」
曜子を先頭に、春希、雪菜、美代子は調整室に向かう。
「どんなラフマニノフになるか、楽しみだわ」
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
セルゲイ・ラフマニノフ、ピアノ協奏曲第二番。
難曲中の難曲として知られ、極めて高度な演奏技巧が要求される。
全曲初演は、彼が28歳の、1901年10月27日。ショパンのピアノ協奏曲第一番、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番と並び、最も人気のあるピアノ協奏曲の一つ。
ショパンの第一番と決定的に違うのは、オーケストラはピアノの添え物ではなく、互いに立場を入れ替えつつ、主題部と展開部を発展させて行くと言う点だ。
だから、オーケストラとの呼吸も非常に重要になる。
1897年、ラフマニノフが並々ならぬ情熱と労力を注いだ交響曲第一番の初演は、記録的な大失敗に終わった。彼は大きな精神的打撃を受け、極度の鬱に陥り、作曲は疎か演奏もままならなくなる。
だが、1899年、ロンドン・フィルハーモニック協会の招きでイギリスに渡った彼は、ピアノ協奏曲の作曲依頼を受ける。強度の精神衰弱に襲われながら、催眠療法により自信を回復して書き進めた結果、1901年に完成させた。
そのメランコリックな曲調、華やかなピアノ、重厚なオーケストレーションは、初演から大成功を収め、ハリウッドでは、映画音楽として何度も取り上げられた。当時の映画音楽のあり方も変えてしまった、と言われている。
なお、同時期に作られた名曲を見ると、1894年にブルックナーが交響曲第九番を三楽章まで完成させて死去し、1896年にシュトラウスが交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を、1900年にプッチーニが歌劇「トスカ」を、1902年にマーラーが交響曲第５番を、1903年にシェーンべルグが交響詩「ペアレスとメリザンド」を完成させている。
つまり、後期ロマン派の最後に属し、数年も経れば近・現代音楽の無調世界に突入する、そういう時代の音楽だ。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
第一楽章 Moderato ハ短調 二分の二拍子 自由なソナタ形式
�猴�鬱な、暗闇の世界に、粉雪が降っている
少しずつ、少しずつ、私を埋めて行く
寒いよ、歩き出せないよ
誰か、助けてよ
何も聴こえない、沈黙な世界
でも、小さな声で、私を呼ぶ声が聞こえた
何度も、繰り返し、私を呼ぶ
呼応して、私の心臓の鼓動が、耐えきれない想いが、微かに小さく鳴った
粉雪の中から、その鼓動は、ゆっくりと徐々に大きくなって行く��
「ツィマーマンより、遅い……」曜子が心配げに言う。
かずさの大きな手は、「始まりの鐘」の和音、十の鍵盤を、かなりゆっくりと、しっかりと重く、同時に鳴らした。
�犖歹阿蝋發泙蝓�光は訪れる
大きな音を立てて、扉は開かれた！
でも、そこは、猛吹雪の雪原
轟々と鳴り響く暴風の歌
私を打ちのめす、雪つぶて
でも、良い
私は外の世界に出たのだから
誰にも聴こえなくても、私は大声で歌う��
そして、ドアをバン！と外へ開くように、第一主題に移る。
「かなり重い……。でも、良い……」雪菜が呟いた。
「良いわ……。第一主題の裏のピアノのアルペジオは、結構大事なパートなのに、左手に気を取られて、右手が何となくの人が多いのよね。
あの子、ちゃんと歌えてる」
�犁╂瓩和紊錣蝓�寒さは和らぎ、吹雪は止む
私は自由に歌を歌える
明るい春の歌も歌える
春風が心地よく、私にまとわりつく��
第一主題がピアノに移ると、ピアノは少しテンポを上げ、クレッシェンドでフォルテシモまで盛り上がって行く。
そして、テンポを元に戻し、ヴィオラに導かれて第二主題に移る。第二主題は深い憂いを湛えた思い切りメランコリックなメロディで、ピアノが歌う。
「うん、良いわ。第二主題を上手く歌えたわね。第一楽章の一番大事な所は、やっぱり第二主題のピアノ・ソロよ。かずさはしっかり歌ってる」
�犹笋蓮⊇佞北�かな恋を、晩夏に心地良い二人のまどろみを知った
大好きな人の声を
でも、また、秋がくる
そして、再び、雪が降る��
展開部へ向かうファンファーレが鳴り響く。
展開部は、短いながら、息吐く暇もないジェットコースター。ピアノとオケは掛け合いを繰り返す。かずさとオケは、容赦なくお互いに切り付け、そして、共に歌う。
そして、再現部に雪崩れ込んで行く。より重厚に、情熱的に第一主題が奏される。だが、提示部とは異なり、ピアノはオブリガードを伴ってより激情的に、オケが奏でる重厚な第一主題に対して抗おうとし、最後は一人になる。
�狎磴蓮�何故、私に降り続くの？
何故、私から離れていかないの？
何故、私を抱きしめて離さないの？
何故、私の想いを隠そうとするの？��
�狎禳據帖帖⊃匹い茘�
「かずさ？」雪菜は、かずさの声を聴いた気がした。
続いて、美しいホルンが第二主題を奏でるが、今度は、それが変奏されて、再び重い雲が立ちこめる。
ピアノは諦念したような美しいフレーズを奏でる。しかし……。
�爐泙拭∋笋鰐埒畧磴寮禪兇砲い�
轟々と鳴り響く暴風の歌
私を打ちのめす、雪つぶて
でも、私は、倒れたりしない
どんなに私を打ちのめそうとも
どんなに私を凍えさせようとしても
私の心は、静かに、熱く、あの恋を忘れないから��
ピアノは、決意したかのように、オケを従え、クレッシェンドしながらエンディングに突入して行く。正確かつ攻撃的に、意志強く突っ走る。
第一楽章が、終わった。
「どうですか」
ディレクターがオケに尋ねる。
かずさは、鳴瀬氏と、意見交換している。
二人は、少しだけ言葉を交わした後、ディレクターに対して、頷いた。
「問題ないですね。了解しました。第一楽章は録音終了です。少し休憩しますか。……はい、了解です。二十分、休憩ですね」
かずさは、調整室を見上げた。
春希は、遠くにいるかずさに対して、頷いて応えた。
かずさも、それが見えたのか、ピアノに向かって座り直す。
目を閉じて、精神統一しているようだ。
曜子は……、黙っている。
「曜子さん……、如何でしょうか？」
春希は思わず声をかけた。
「黙ってて」曜子は、少しピリピリしていた。
「……はい」
「録り直すところは何処もないでしょうよ。そりゃ……」
雪菜が、曜子の横に立ち、肩を抱いた。
美代子は、ハラハラした顔をして三人を見ていた。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
第二楽章 Adagio sostenuto ホ長調 序奏つきの複合三部形式
「第二楽章は、四分の四拍子で始まり、二分の三拍子と四分の四拍子を行ったり来たり……。
上手くやれば、深遠な森の中を揺蕩うような、少し不安で幻想的な世界を作れるけど、下手すれば安酒を飲んだ酔っぱらいの千鳥足になる。
あなたは、どっちかな、かずさ」
曜子は、誰に問うでもなく、独り言ちた。
……オケは全員席に着き、かずさは、丁寧に座り直す。
寒く、深い夜の帳が落ちるように、暗い弦楽合奏が奏でられる。
そして、夢の世界に……。
�猴�鬱な、暗闇の世界に、粉雪が降っている。
ここが何処か、分からない
側にいるのは、粉雪だけ
私は、ゆっくりと彷徨う
森を抜け、廃墟で遊び、川の畔で佇む
誰もいない
でも、あなたが側にいる
一番深い所に
だから、私は一人じゃない
それに、粉雪が着いて来るから
私を優しく抱くように
私を優しく傷つけるように��
「夜の妖精……」
「廃墟の幽霊……」
雪菜と曜子は、小さく呟いた。
「第二楽章は、アルペジオにアクセントをつけちゃダメなのよね。何処で変ったかが分かるようじゃダメ。
それでいて、主題はちゃんと歌わなきゃならないから、厄介な曲だわ」
そして、ピアノのカデンツァへ。
�猜汗磴蓮�何時も私を凍えさせる
でも、それは憎しみではないと分かっている
粉雪は、私を包んで、側にいたいだけ
私とずっと遊んでいたいだけ��
�爐佑─∧�かる？
私は温かいでしょ
あなたの全てを奪ってしまう程に、熱いでしょ
ごめんね
お互いに全く違うのに
裏切り合って、傷つけ合って
それでも、お前と側にいる��
「……よく帰って来たわね」
曜子は、ぽつりと言った。
カデンツァの終わりから第一主題に帰るところ、かずさは、全休止するのかと思うくらい、間を開けてから、ゆっくりと帰って来た。
そして、オケは、より幻想的に、感情を押さえて歌う。
�爐修靴董∋笋呂泙拭¬襪涼罅∧汗磴吠�かれてる……��
最後にピアノは、本当にゆっくりと、一人着地した。
オケは、余韻を楽しむように、黙り続けた。
マエストロは頷き、かずさは、ピアノから手を離す。
「…………」ディレクターは、何も言わない。
優しいため息の合奏が、暖かくホールを包む。
かずさと指揮者は、お互いに頷いただけだ。
「了解しました。第二楽章は録音終了です。少し休憩しますか？」
かずさは、上を見上げ、そして、春希はまた見えるように頷く。
……「ふん」曜子は鼻を鳴らした。
「どう、ですか」春希は再度小声で尋ねた。
「聴きたい？」
「できれば」
「あなたが今、頷いた通りの出来よ。
完璧だわ。全体の管理と細部への拘りを、いとも簡単にやり通した。
それでも、ここまでやるとは驚いた……。
前からリズム感が良いとは思っていたけれど、あの子のリズム感は天性のものね。誰かさんがロックなんかやらせなかったら、意識してコントロールできるようになったかどうか、分からないけど」
曜子は少し険しい目つきで言った。
そして、春希は気づく。
横に立つ、雪菜の肩が震えていたことを。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
第三楽章 Allegro scherzando ハ短調〜ハ長調
思春期の恋愛の駆け引きのような、甘いオケのイントロに誘われて、ピアノが走る。スケルツォのような、勢いのある第一主題。恐ろしい程の速弾きで疾走してく。
束の間の逡巡の後に、第一主題とは真逆の、ゆったりとした美しい旋律の第二主題へ……。まずオケが歌い、ピアノが受け継いて、歌を発展させる。
�犹笋呂發Α�帰れない
今では幸福と言える、あの一人の世界には
ここで、生きて行く
分かる？
それは決意……、じゃない
お前の仕掛けた、蜂蜜のような罠……
どうしても愛してしまう絶望……��
そして、展開部へ。第一主題、第二主題が変奏される。
ピアノは、オケをリードして進んで行く。ピアノがオケを歌わせる。
�犹笋�何処からやってきたのかは、分からない
でも、私が何処に向かっているのかは、分かる
お前もそうだろう？
でも、もう、何も考えなくて良い
私達は、出会うべくして出会った
運命なんて、知らない
でも、私達は、出会ったんだ
分かる？
この出会いの
甘美と苦渋が
解放と束縛が
喜悦と苦痛が
信頼と疑惑が
希望と後悔が
友情と裏切りが
愛してしまうという、絶望が……
例え罠だとしても、落ちていく甘い絶望が��
「雪菜に捧げるって、そういう意味か。あからさまだわ」
曜子は、側に立つ、雪菜を見る。
雪菜は、目を見開きながら、震えながら、聴いていた。
だが、大きく「ふうー」とため息を付くと、目を細め、肩の力を抜いた。
「曜子さん……、かずさは、開き直った、んですか？」
「そうね。私達の想いが、本当に届いたみたいよ」
「そうですね……」
「あの子はもう、あなたから逃げない。逆に、これから大変よ。かずさは、あなたを離してくれないわよ」
「ふふっ」雪菜は冷たく笑った。
「望む所、です」
ピアノは、派手で難易度の高いカデンツァに雪崩れ込んで行く。
完璧にコントロールされた両手の指が、確実に、強烈な存在感で、鍵盤を打ち込んで行く。
�犹笋蓮△海海砲い�
でも、気をつけろ
私の熱い想いは、お前を溶かしてしまうから��
オケは全力で第二主題を鳴り響かせる。ピアノは華麗なオブリガードで飾り付ける。
春希はここに来て、緊張を解放して、音を浴びた。
�爐茲Δ笋�、ここまできたな、かずさ。
日本に帰って来た選択が、本当に正しかったか、未だに分からないけれど、お前は、雪菜に再会して、みんなに再会して、吹っ切れたんだな。
俺も、開き直らないとな……��
ピアノはエンディングに向かって疾走して行く。オケが速度を増して、追いかける。
集結部へ雪崩れ込んで行く。
ラフマニノフが集結部に使う常套句は、ちょっと余裕を持って鳴らされた。
……マエストロはタクトを下ろし、かずさはピアノから手を離す。
暫くの間の後、プロデューサーが「如何ですか」と尋ねた。
無論、問題があるという者はいない。
かずさは、すっと立ち上がり、オケにお辞儀した。
マエストロはかずさに近づき、握手する。ある者は楽器を置いて拍手し、ある者は足を鳴らして、かずさを讃えた。ブラボー、と叫ぶ者もいた。録音に対するオケの印象は極上のようだ。
「ラフマニノフは終了です。昼食休憩に入りましょうか」
かずさは、調整室を見上げて、モジモジしたかと思うと、照れくさそうにアッカンベーした。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「春希くん、知ってたら教えてほしいのだけど。かずさは、他の人の演奏を、誰か、聴いてた？」
「名演と呼ばれるものは、一通り聴いています。アシュケナージ＋ハイティンク、ツィマーマン＋小澤、ワイセンベルク＋カラヤン、ジルベルシュテイン＋アバド……、どれも良く聴いていました。
嫌われたのはグリモー＋アシュケナージですね……。こんな揺れ揺れでピンボケのラフマニノフは認めない、と言って、ゴミ箱に直行でした」
「あの子らしいわ……。グリモーは美人だけど、それだけだものね」
「でも、今回の録音が決まってから聴いていたのは、もっぱら二枚です。一枚は、ラフマニノフ本人とストコフスキー＋フィラデルフィア管」
「1929年の自作自演版？ あんな音の悪いＳＰ盤起しの演奏を」
「かずさは、ラフマニノフ自身のピアノの、次の展開に移る際の、淀みないきっぱりとした決意が好きだと言ってました。意図が明確に理解できると」
「確かに。テンポが自在に変るんだけど、前の展開を引きずらず、もったいぶらず、場面展開がパンパン、と変るのよね。モーツァルト的な潔い哀愁を感じると言うのかな」
「そして、もう一枚は、冬馬曜子＋アバド＋ベルリン・フィル」
「私の……」
曜子のキャリアに燦然と輝く、名演中の名演だ。
「ラフマニノフ版の対局にある、曜子さんのロマンティシズム溢れる演奏が大好きだと……。華麗な装飾音の中に作者が忍ばせたフレーズを汲み取り、意図を浮かび上がらせ、細部まで歌わせる繊細さと再現力は、他の追随を許さないと」
「あの子……」
「その両極端な演奏を同時に実現した上で、オーケストラの力を借りて、第二番が持っている、望郷のメランコリックなイメージではなく、運命に抗い、新天地で羽ばたく、力強いロマンティシズムを構築したいと言ってました。
そして、聴いてもらう人が正確に聴いてくれるように、ピアノの音に拘ると」
雪菜は、静かに語る春希を見て、歯噛みした。
そして、「春希くん、クラシックについて分からないって、言ってたの、嘘だったんだね」と、努めて明るく言った。
「雪菜、俺は、クラシックについては、未だに殆ど分からないよ。マネージャーとして、かずさに何度恥をかかせたか分からない……」
春希は苦笑する。
「でも、冬馬かずさがどういうピアノを弾きたいと思っているかは、世界で一番理解しているつもりだ」
「……言ってくれたわね」曜子が春希を睨んだ。
「え、あの、ごめんなさい……」
「ごめんで済むか」
そういって、曜子は春希の頬を力なく叩く。
殆ど、触るかのように。
「曜子さん……」雪菜が言う。
「何よ……」
「わたしより先に叩いたらダメです。わたしだって、叩きたかったのに……」
「うるさい……。くそ、悔しいわ」
「そうですね……」
「雪菜……」「曜子さん……」
二人は抱き合って泣く。
……だが、次第に笑い声になっていく。
春希には、何が何だか分からない。
「あ〜あ。ホントに腹立つわね。でも、やっぱり嬉しさが勝つ。
認めてあげるわ。このラフマニノフに限っては、冬馬曜子以上だと……」
「えっ」
「曜子さん以上かどうかまでは分からないけれど、凄過ぎるよ……。同じくらい凄い。わたしも何枚か聴いたけど、贔屓なしで一番良い。
ホント、酷く抉られて、そして、熱く癒される。
腹が立つけど、喝采するしかないよ……。凄いわ、さすが、わたしの……」
「直接言ってやってくれ。あいつ、絶対に喜ぶよ」
「…………」
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曜子は、目を細めて、冷たく、「春希君、そういうことは、雪菜のやり方に任せなさい。言いたいことと、言いたくないことがあるんだから」と言った。
「……ごめんなさい」
「さて、それじゃ、たった今、世紀の名演をやり終えた女を冷やかしに行きましょうか」
曜子は、そう言うと、出口に向かった。
春希は、この一件について、かずさには黙っておこうと思った。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
かずさと、その他四人は、かずさの楽屋で春希の持参した弁当を食べた。
「それで、その……、ラフマニノフはどうだった？」と、かずさは曜子に聴いた。
「最初にしちゃ、上出来だったんじゃない。後はジャケ写ね」
「ジャケ写なんかで評価が変るかよ！」
「変るわよ〜。ちゃんと演奏と奏者のイメージが合わないと、戸惑って評価できなくなるじゃない。
折角、冬馬曜子を超えるラフマニノフを弾いたんだから、ちゃんとした評価をもらわないとね」
「えっ、母さん……、ホントに？」
「さっきのドヤ顔はどうしたの？ 十分、自覚あったんでしょ？」
「それはそうだけど……。そんな風に言ってもらえるなんて……」
「娘の演奏、貶めてどうするのよ。本当に良かったわよ」
「ありがとう、母さん。
それで、えと、雪菜は、どう、だった？」
「良かったわ」雪菜は、努めて明るく言った。
「本当か？」
「えっとね」
「あいたっ」
雪菜は席を立つと、かずさの頭に軽く手刀を落とした。
「こいつめ。やりやがったな。本当に、メチャメチャ感動したよ。こんなに凄い演奏を捧げてくれて、ありがとう」
「雪菜ぁ……」
「あーあ、また遠くに行っちゃった気がするよ」
雪菜は座り直し、微笑んだ。
「ありがとう、雪菜」
「こちらこそ、だよ」
「午後のチャイコフスキーも気を抜かずに全力で取り組みなさい。カップリング曲でコケたら、目も当てられないから」
「分かってるよ」
「このCDは売れるわよ。だから、売れるように、しっかりしたパッケージングを考えましょう」
「ジャケ写は、練習の最終日に、演奏風景の撮影を終えていまして、その写真から、今、デザイナーが選定中です」春希は言いながら、iPadに保存されてい写真を示す。
曜子はスクロールしながら、「こんなの、ダメダメ。全く色気がないじゃない。せめてグリモーよりは美人に写ってるのにしてほしいわ」と言った。
「あんなナルシスティクなジャケ写はごめんだ」
「何言ってるの。春希君、この盤って、CDだけだったかしら」
「最近、中高年層におけるアナログ媒体の再人気が凄いので、LPの販売も視野に入ってますが……」
「LPで出すのが前提なら、余計よ。写真が大きくなるから、凝ったジャケットにしないとね。
そうねえ……。第二楽章が、お化けでもでそうな雰囲気だったから、溺死するオフィーリアみたいなのはどう？
ワンピースが水で透けて、レースのエロい下着が見えるみたいなのが良いわ」
「ははは」かずさは、冷めた笑い声を出す。「ふざけるな」
「じゃあ、雪原で行き倒れている感じとかは？
雪の白さと黒髪の対比とかでキレイだと思うんだけど」
曜子は悪ノリを止めない。
「それ、良いかも」と、雪菜は同調する。
「何処で撮るんだよ。今夏だぞ」
「じゃあ、降雪機でも借りましょうか」
「曜子さん、もうあまり時間がなくてですね……」
「それと、若いうちは、適度なお色気サービスも必要よ。雪菜の一枚目みたいに、中に何枚かピンナップ風の大判写真入れちゃったら」
「あのな、あたしは脱がないぞ」
「お前、論点はそこか？」
雪菜のファーストに対する対抗意識か……。
「えっ、いや、と、とにかく、絶対に脱がないぞ。お、お色気とかないんだからなっ」
�爐修Δ�……。そんなに脱ぎたいのか……。困ったな��
「ふう」春希はため息を付く。
「では、僕の方から、提案があります」
「春希。お前、まともな提案なんだろうな」
「着物を着て、ピアノを弾く姿はどうだ。黒を主体にした着物と、白を主体にした着物で、凄く和風を意識した感じにしたらどうかな」
「良いわね！」曜子は賛同する。
「Japanese Beautyか」
「……勝手にしろ」かずさも肯定するが、はたと気づいたように、「ただし、赤い着物だけは絶対に止めてくれよ」と言った。
「お菊人形……」雪菜が呟く。
「う、うるさい！」
「マエストロ鳴瀬に帯解かれて、畳に転がされているショットは？」と曜子は言った。
「ないない……」
「まあ、それは良いか。じゃあ、春希君。マエストロとのショットも欲しいから、彼の日程を押さえるのと、雪菜、あなたも一緒に写っちゃいなさい」
「わたしも、ですか」
「あなた達二人の着物姿、見ておきたいから」曜子は、静かに言った。
�犹�々そういうこというの、反則だよな�瓩函△�ずさは思った。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番は1875年10月25日、アメリカのボストンで初演され、大成功を収めた。当時、彼は三十五歳。モスクワ音楽院教授の職にあり、既に作曲家として相当に知られていた。
ロシア的で色彩豊かなオーケストレーションと独奏ピアノの華やかさで、彼の出世作といえる。最もポピュラーなピアノ協奏曲の一つであり、ヴァン・クライバーンが弾いた同曲は、ビルボードのポップアルバムチャートで一位、それも七週連続を獲得した唯一のクラシック作品である。
同年代の名曲といえば、1874年にワーグナーが「神々の黄昏」を、同年ムソルグスキーが組曲「展覧会の絵」を、1976年にブラームスが「交響曲第一番」を完成させている。
ステージに向かうかずさを見送り、四人は調整室に上がる。
かずさは、今度はなんだか、春希に何か言いたそうだったが、もじもじして埒が開かなかった。
……「春希君は、この曲を好きかな？」曜子は訊く。
「正直、申し上げると、取っ付きにくいですね」
「どういうところが？」
「第一楽章ですけど、有名な冒頭の部分と第一主題が、その後全く出て来ないので、途中から違う曲を聴いている気がして、困惑するんです」
「正解。第一主題の再現を待ってると、第二主題と第三主題による展開部が退屈に感じて、もや〜っとするのよね。
だから、聴き方としては、第一主題からピアノ・ソロに移るでしょ、そこで小カデンツァを挟んで第一主題が再現されたら、第一楽章が終わった。第二主題以降は次の曲、くらいに思って聴けば良いのよ。そうすると、ロシア民謡の踊りみたいな第二主題と、子守唄みたいな第三主題による展開部を楽しめると思うわ。
それから、第二主題以降はあまり一体感が無くて、オケが提示する主題をピアノが展開する形が主になるから、ピアノの華麗な演奏を中心に聴けば違和感が少ないと思うわ」
「なる程……。そう思えば、第二楽章、第三楽章もおまけじゃなくて、違和感無く聴けそうですね」
「それそれ。私の趣味から言うと、第一楽章より、第二楽章、第三楽章の方が良い曲なのよね」
「そうなんですか」
「ちゃんと聴いたこと無いでしょう？」
「はい……。曜子さんの演奏した盤が無いので」
春希は、冬馬かずさの熱烈なファンであるのと同時に、冬馬曜子の熱烈なファンだった。
「何故、無いんですか？」
「だって、私の人生に、こんなに楽しい掛け合いは無かったもの」
「え……」
「さっき、かずさ、あなたの前でもじもじしてたでしょう」
「え、ええ」
「きっと、チャイコンはあなたに捧げる、と言いたかったのよ」
「えっ」雪菜が声を出して曜子を見た。
「だって、ラフマニノフを雪菜に捧げると言ったのよ。カップリング曲にも思い入れをしてない訳ないじゃない？」
「そんな雰囲気は全くなかったのですが……」
「聴いててごらんなさい。直ぐに分かるわ」
「分かり、ました」
「それとね、春希君。あなた、クラシックに関する基礎知識とか、音楽全般の基礎知識が欲しいなら、私が講義してあげても良いわよ。
雪菜にしたのと同じカリキュラムなら」
「それは、嬉しいです」これは本当にありがたい。
「そう？じゃあ、一週間に二回位、午前中にでも、時間とりましょうか」
「ありがとうございます」
「ただし、私と二人で過ごす時間と同じだけ、あなたのお母さんと過ごす時間を作ること」
「えっ……」
春希は、予想もしていなかったことを言われた。
「春希君、あなた、私の言ったこと無視して、全然、お母さんと連絡とって無いでしょう？」
「…………」
「全く……。あなたの、お母さんに対する感情は本当に捻れてるわね」
雪菜も、振り返って、春希を見た。自分もそう思う、と言わんばかりに。
「お母さんに連絡とって、会いに行くこと。私があなたに教えてあげるのは、それが条件よ。これが終わったら、かずさと一緒に行ってらっしゃい」
「いえ……。これは僕の問題です。僕だけで行きます」
「ふーん、そうかな？」
雪菜が、舞台を見下ろしながら言った。
「雪菜……」春希は情けない声を出した。
「さて、そろそろ、録音が始まりそうよ」
曜子は、話題を打ち切った。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
第一楽章 Allegro non troppo e molto maestoso - Allegro con spirito、変ロ長調。
マエストロがタクトを振り下ろすと、ホルンが力強く鳴り響く。
強烈なオーケストラヒットに続いて、壮大なスケールの、例のテーマが流れ出す。
ピアノは、オケに負けじと強く跳ねる。
そして、最初の見せ場のソロ。かずさは、ゆっくり大らかに弾く。
「珍しい……。あの子、笑ってる」
第一主題が帰った後は、雰囲気は一転。ロシア民謡のような、せわしなく細かい第二主題へ。そして、打って変わったように、美しい第三主題がピアノによって奏でられ、展開部に入って行く。
協奏曲とは銘打てど、ピアノ・ソロの部分が多く、難易度は高い。
だが、かずさは、臆せず、楽しそうに弾いている。
全く乱れなく、みじんの不安も感じない。オケとの息もぴったりだ。
最後の、再現部の長大なカデンツァも、甘いロマンティシズムを湛えながら、余裕で弾き切った。
「よし。良くやった」曜子は、素直に誉める。
かずさは、今回は、調整室を見上げない。相当、余裕を感じる。
「今まで聴いたCDと全く違った印象です」
春希は楽しそうに言った。
「初めて、良いなあ、と思いました」
「うふん。そうでしょう、そうでしょう」
�爐泙襪如⇒漆�後の、あなた達の痴話げんかそのものでしょ�瓩藩忙劼聾世い燭�て仕方がなかったが、雪菜の手前、さすがにそれは口に出さなかった。
「休みなしで、次の楽章に行きそうですよ」
雪菜は、振り返りもせず、淡々と言った。
…………。
第二楽章 Andantino semplice - Prestissimo - Quasi Andante、変ニ長調→ヘ長調→変ニ長調。
弦楽器のピチカートに乗って現れる、牧歌的なメロディがフルート、ピアノ、オーボエに引き継がれていく。展開部では、ピアノが高速で踊り狂う。
その後、主題が戻り静かな雰囲気になって終わる。
「はん」曜子は、コンソールに肘を付いたまま言った。
「まるで好きな男と踊るかのように楽しげに弾いたわね」
…………。
第三楽章 Allegro con fuoco、変ロ短調→変ロ長調。
突然、ティンパニが一撃を加え、スラブ舞曲のような第一主題を、ピアノが華麗に歌う。続いて、弦楽器による家謡風の美しい第二主題が奏された後、オケとピアノによる第一主題を変奏した掛け合いが始まる。
ピアノは速度を増し、疾走して行く。オケは遅れじとアクセルを踏む。
「凄い……」美代子がため息をつく。
「そうですね……。本当に凄いです」春希も同調する。
「かずさも良いけど、オケとの息がぴったり合ってる。日本のオケの中では良い方だとは思っていたけれど、この組み合わせは良いわね。
どう、春希君、マエストロに嫉妬しない？」
雪菜は、半分、春希に振り向き、右目だけで見つめる。
「嫉妬……」春希は言い淀む。
演奏はクライマックスに向けて熱を増して行く。
第二主題がフルオケで鳴らされ、ピアノは喜びに溢れて舞い踊る。
かずさは、全ての音を明確に弾いて行く。一瞬たりとも何となく弾き流したりしない。指は鍵盤を一つ一つ意志強く打ち込み、リズムはぶれることなく美しく刻まれていく。
そして、歓喜の中、フィナーレへ突入して行く。
�爐瓦瓩鵝帖帖∪禳抬�
「そうですね……。そう、かもしれません」
春希は、雪菜の目を見つめたまま、そう言った。
至福の中、集結部が堂々と鳴らされた。
全ての録音は何の問題もなく進み、順調に、素晴らしい演奏が素晴らしい音質で収録された。
「完璧ね」曜子は、コンソールに片肘を付き、ステージを見たまま言った。
「そう、ですね」雪菜も、前を向いたままだ。
「カップリング的には、問題ないでしょうか？」
春希は、努めて押さえて事務的に言った。
「別々に売りたい位ね。こんな豪華なカップリングが売れなくちゃ、クラシック演奏家なんてやってられないわ。売ってくれなきゃ、困るわよ、春希君」
「もちろんです」
「じゃあ、かずさの所に行きましょうか」
「先に行ってて、下さい」
雪菜は、背中を見せたまま言う。
「雪菜……」春希は、声をかける。
「なんでもないから。後から、すぐ、行くから」
「大丈夫、か……」
「うん、大丈夫、だから」
「分かった」
「じゃあ、美代ちゃんと降りてらっしゃい。春希君、行きましょう」
「はい」春希は後ろ髪を引かれながら、部屋を出た。
「そうですね。私と行きましょう」と、美代子は言った。
「すみません」
雪菜の声は湿っていた。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「雪菜、大丈夫でしょうか」
ゆっくり曜子と移動しながら、春希は言った。
「もちろん、大丈夫じゃないわよ〜。あんな幸せそうな色惚けた演奏されて、あなたへの想いを存分に歌われたら、やってられないわよ」
「…………」
「分からなかった？」
「はい。……いいえ、分かってました」
「さすがに分かるわよね。ラフマニノフと全然アプローチが違うもの」
「はい」
「気にしなくて良いわ。今日の録音に立ち会うと決めた日から、雪菜には覚悟はできていたはずよ。
ホント、ややこしい娘ね。かずさの録音が成功することを、私達と同じ位心から望みながら、いざ、かずさの成功とあなたへの想いを目の前にしたら、嫉妬が自分を燃やし尽くそうとした。
その姿をあなた達に見られたくないのよ。
仕方ないわね、こればっかりは。
誰かが、その時、泣かなければ、あなた達の関係は維持されないのだから」
「俺達が日本で活動を続ける限り、雪菜には辛いをさせてしまう。……本当にそれで良いんでしょうか」
曜子は立ち止まった。
「それは、あの娘が決めること。それに、今の発言、ずるいわ」
「何が、ですか」春希は、視線を逸らした。
「あなた、雪菜のこと、まだ気持ちの整理が付いてないんでしょ」
「そんなことはありません」春希の声が上擦る。
「そうかしら。今、自分は決定せずに、雪菜の気持ちを理由にして、あの娘から逃げようとしたじゃないの」
「…………」
「見え見えよ。春希君」曜子は、春希を見据える。
「今日の演奏を聴けば分かるように、かずさはそれなりに前進している。
でも、あなたは、雪菜とのことにしても、お母さんとのことにしても、立ち止まっているんじゃないの？」
「……そうかもしれません」
「それじゃ駄目なのは分かっているのでしょう？」
「……はい」
「じゃ、なすべきことをなさい」
「…………」�爐笋辰僂蝓△海凌佑鷲櫃き�
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
「母さん、遅かったじゃないか。鳴瀬さんも、オケの人達もあんたを待ってる」
ロビー前で曜子を待っていたかずさは、笑いながら言った。頬が高揚している。
「私を？」
「そうだよ。社長として、ちゃんと挨拶してくれないと困る」
「はいはい」
「はーるき♡」かずさは、主人を見つけた犬のように近よった。
「かずさ」春希も笑顔で迎えた。
「やってやったぞ」
「良かったよ」
「それだけか？」
「凄かった」
「それで？」
「俺が今までに聴いたどの演奏も、お前の演奏の前では色褪せてしまった」
「当たり前だ」
かずさは、微笑みを湛えて、春希を見つめた。
「思いっ切り、惚れ直したよ」
春希は、かずさの右手を優しく握った。
「おまけに、マエストロに嫉妬した」
「は、恥ずかしいこと、言うなよ……。ばか」
かずさは、少し頬を染めた。
「ここでお姫様抱っこでも出来れば、最高なんだが」
「い、いいよ、恥ずかしいじゃないか……。
えっと、……雪菜は？」
「少し、遅れて降りて来ると言った」
「そうか」かずさは、素に戻って言った。
「雪菜は、分かってくれてる」
春希は、思ってもいないことを言った。
「そうだな」�爐修Α∋廚い燭き�
かずさは、口籠った。
マエストロ・鳴瀬氏と帝都フィルは、恐らく歴史に残るであろう名演・名録音を一気に録り終えた高揚を露わにして、二人の名ピアニストを拍手で迎えた。
「マエストロ、そして、帝都フィルの皆様、本日は娘、冬馬かずさの初めてのコンチェルト録音におきまして、素晴らしい演奏をしていただき、本当にありがとうございました。母親として、また、当社の代表として感謝申し上げます」
曜子は軽く頭を下げた。
マエストロとオケは、拍手で応える。
「今日の演奏は、二曲とも、過去の名演に劣らぬ内容だったと思います。
いえ、過去の全ての演奏を凌駕してしまった、と言って過言ではありません。
これは、マエストロと帝都フィルの皆様のお力の賜物と思っております。
娘も、皆様のおかげで、素晴らしい演奏を収録出来ました。彼女のキャリアの中で、何時迄も輝き続ける名演となるでしょう。ありがとうございました。
まだまだ、協奏曲の名曲がございます。今後とも、冬馬かずさとの競演を宜しくお願い致します」
再び、拍手。かずさも、ニコニコと喜んでいる。
「最後になりますが、私ごとで恐縮ですが、私が27歳の時に録音したショパンのソナタ第二番と第三番のDSDリマスター版が発売されました。私、過去の演奏には全く興味が無いのですが、好評なようでして、重版に次ぐ重版を重ねております」
�犹筺�買いました！�瓩箸寮爾�出た。
「ありがとうございます」
この時点では、みんな、まだニコニコしていた。
冬馬曜子と言えば、必ず引き合いに出される名演中の名演だ。同曲の名演リストの中にも必ず入る。ジャケットに使われた、当時の美しい曜子の横顔のアップ写真も伝説に一役買っている。
「この後、私の代表作と言われる盤が全部で十枚ほど、DSDリマスターで再発されます。その中にはクラウディオがBPhを振ったラフ二も含まれているのですが、どうも、発売日が、タイミングの悪いことに、本日の録音の発売日に被ってしまったようでして……」
�爐呂呂廊瓩半�さな笑いが少しおこったが、急激に冷めた雰囲気が立ちこめる。
あの名演のリマスター版が、同じ発売日？
「本当に、当社のマネージャーが、気が利かなくて……、すみません」
曜子は、春希を横目で睨むと、口の端を上げた。
疑惑ありげに、かずさが春希を見つめるが、春希は、今初めて聴いた話だ。
曜子の録音の管理をしているのは美代子だ。春希は美代子の姿を探したが、彼女と雪菜は、まだ、調整室から帰って来ていない。
�爐筺△笋蕕譴拭�わざと被せたな……。それも、俺に教えないとは……��
「私の過去の演奏など、それ程売れるとも思いませんが、今回の私の過去の録音のリマスターに関して、ナイツ・レコードさんは並々ならぬ熱の入れようでして。販促にもかなり力を入れるとのことです。
折角の名演・名盤も、売れなければ、そのようには認知されません」
もう、誰も笑う者はなかった。
「本日の録音の販売枚数が、私の過去の盤を上回ることを、心から祈っております」
曜子は、不敵な笑みを湛えて、軽く礼をした。
かずさは、何処まで行っても唯我独尊の母親を、怒りに震えて見つめていた。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
その日の夕方、かずさと、マエストロ鳴瀬氏を初め、帝都フィル・メンバー、ナイツ・レコードのエンジニア、販売担当による打ち上げが開催された。少し酔いの回ったコンサート・マスターから、打倒・冬馬曜子が宣言され、怒号を伴い口々に叫ばれるとともに、北原マネージャーがつるし上げにあったことは言うまでもない。
雪菜は、あの後、姿を見せなかった。きっと、美代子が付き添って帰ったに違いない。
言い訳に終始する春希の心の中には、それが深い心配事として漂っていた。
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tune様、何時もありがとうございます。
かなり趣味が入ってしまいました。…でも、whitealbim2を青春バンドものストーリーと思っている身としては、雪菜の録音であれだけテキストを費やしたのに、愛するかずさの話でぼや〜と流すことができず…、藻掻き苦しみました。
立ち位置の話、上手く整理していただき、本当にありがとうございます。とても嬉しかったです。
ちなみに、ラフマニノフの第２番については、ジルベルシュテイン×アバド盤がおすすめです。
前回から更新に時間がかかりましたが、それだけの内容でしたね。特にクラッシック音楽の事についてここまで細く描写したのは他のSSはおろか原作(アニメも含め)にも無いですね。原作はクラッシック音楽の細かい事は話の中心ではないからかもしれませんが。話の内容としては今現在における三人のそれぞれの立ち位置が表されている感じがしました。かずさはいつか冬馬曜子を追い越すであろう演奏をし、雪菜はかずさとの絆を取り戻すと同時に春希とかずさの絆の強さの現実を思い知る事にもなりました。そして春希はかずさと雪菜に置いてきぼりにされているのを曜子さんに見抜かれていました。ここから次回誰が物語の中心になるのか楽しみですね。